【要約と感想】江森一郎『「勉強」時代の幕あけ―子どもと教師の近世史』

【要約】能力主義的な価値観の下での「主体的な学習」は、江戸時代半ばから始まりました。
寺子屋の机の並べ方は現在の学校とは全く違って児童同士の対面型になっています。出版された女子往来物の数を考えれば女子の識字率は言われているよりも高いはずです。侍も農民も、18世紀半ばから能力主義的な考え方に傾いて主体的な「勉強」を奨励するようになりますが、19世紀に入ると「勉強」を外から押しつけるようになります。
18世紀半ばの「勉強」時代幕あけの直前、17世紀末の貝原益軒の教育思想と背景である朱子学の思想構造を検討すると、実は通説とは異なって、庶民まで含めて教育しようという論理や、ただの教え込みを否定して個性を尊重しながら「主体的な学習」を進めようとする意思を確認できます。もちろん体罰が教育効果を持たないことは、日本では江戸時代初期から既に認識されています。
能力重視の教育観は、熊本をはじめとする北九州では18世紀半ばから広がっていきましたが、保守的な加賀藩藩校では一部の人々が声高に主張するものの身分制の壁に阻まれて浸透していませんでした。しかし身分制度を破壊して能力主義へ転換することの必要性は、幕末維新の激動期を経て武士階級に広く共有され、世界史的に見て希有な廃藩置県の成功等に結びつきます。

【感想】30年前の本なので、具体的な記述に関して乗り越えられているところはもちろんあるのだけれど、問題関心という点で言えば古くなっていないというか、むしろ新しくなっている気もするのだった。というのは、本書の関心の中心は「主体的な学習」であり、「メリトクラシーの有効性」だからだ。
「主体的な学習」は、もちろん今時学習指導要領で最大のテーマとなっている。またメリトクラシーが機能しなくなっていることは、現在では佐藤学「学びからの逃走」などが指摘しているとおりだ。そしてメリトクラシーが現在機能しなくなっているということは、逆に「身分制」が復活してきていることを意味する。本書は「勉強時代の幕あけ」を扱ったわけだが、現代は逆に「勉強時代の幕おろし」の時代なのかもしれない。現代の教育的課題を理解するために、実は本書は最先端の知見を与えてくれるかもしれないのだ。いやはや。
それから、熊沢蕃山と貝原益軒の面白さについて改めて教えてもらったので(個性を尊重する教育を推進していたこととか)、個人的にも研究したいと思った。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書が言う「勉強時代の幕あけ」が18世紀半ばであることについて、私個人の知識と教養の範囲では同意するしかないが、その理由については見解を異にしているような気がする。本書では「朱子学」の「新民」思想の重要性を強調しているものの、私個人としてはむしろ社会経済史的条件(新田開発や商品作物の展開による生産力の向上による識字の有効性への認識)がはるかに重要であって、仮に朱子学の思想が影響を与えているとしても副次的なものだと思ってしまう。仮に為政者がどれだけ意識が高く庶民教育を推奨したとしても、庶民の側のインセンティブとモチベーションが伴わなければ実現するわけがない。それは現代でもまったく同じで、どれだけ文部科学省が笛を吹いても、日本国民は踊らない。朱子学の論理よりも、社会経済的条件のほうが本質的だと思うわけだ。まあこのあたりは地道に知見を貯えなければ本当のところは分からないので、勉強と研究を続けるのだけれども。

それから本質的なところではないけれど、「「教学」とは「学ぶことを教える」意味であると考えられ、学習法的教育観に立った上での「教える」ことを意味する言葉」pp.188-189とあるが、ちょっとどうなんだろう? 「教」や「学」という漢字の成り立ちから考えると、あり得ない見解のように思えるのだが。このあたりは乗り越えられているのだろうか?

江森一郎『「勉強」時代の幕あけ―子どもと教師の近世史』平凡社選書、1990年