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【要約と感想】アウグスティヌス『神の国』

【要約】「地の国」と「神の国」があります。アッシリアやローマなど人間が自分の知恵と才覚で治めていると思い込んでいるのが「地の国」で、一方、三位一体の神を信じて帰依する人々が集うのが「神の国」です。「地の国」は最後には滅び、「神の国」には真の浄福が訪れます。
 それを証明するために、間違った考えを持つ人々を次々と全方位に論破します。まずはローマ市民が信仰する多神教、続いてストア派やエピクロス派や新アカデミア派などの哲学者たち、さらに一番てごわい新プラトン主義、イエスをキリストと認めようとしないユダヤ教、そしてカトリックの教義に逆らう異端者たちをことごとく論破します。
 主な論点は、多神教の非合理性、ダエモン論、自由意志/因果論、天使論/悪の由来、幸福論、イエスの神性と受肉/三位一体の認否、旧約聖書の象徴的解釈、新約聖書のカトリック的解釈などなどです。

【感想】「地の国/神の国」と二項対立を設定し、あらゆるものや事象を二項対立の観点から迷いなくズバズバ切り分けることで、極めて分かりやすい論理構成になっている。何の迷いもなく確信を持って言い切ったら説得力が生じるという典型的な論理のように読んだ。
 ただし、ある論理が無謬であることをその論理の内部から証明することは論理的に不可能であり、したがって論理全体の整合性を内的に担保するためには必ず何らかの「特異点=物語」を必要とするし、無謬であることを証明するためには必ず「外部」を請求することとなる。本書は「特異点」を「聖書の無謬性」、「外部」を「復活の奇跡」として設定している。この2つの物語・設定に対して「ちゃんちゃらおかしい」と思う立場からは、本書全体が荒唐無稽なタワゴトにしか見えなくなる。実際、カトリック信者以外には、荒唐無稽だろう。たとえば仮に同じキリスト教徒であっても、プロテスタントから見たら、ちゃんちゃらおかしい(特に旧約聖書の象徴解釈)のではないだろうか。アウグスティヌスを扱った概説書をいくつか読んでみたが、この荒唐無稽な部分は、例外なく完全に無視されている。無視するしかないのも、分からないではない。しかしこの「バカバカしい子供じみた奇跡を信じる」という「特異点」がなければアウグスティヌスの思想体系そのものが成立しないことは、肝に銘じておかなければいけないと思う。その大事な要点に正面から突っ込まず、合理的に容認できるところだけ都合良く掬い取ってくるような研究というものは、あまり意味がないようにも思うのだ。(まあいちおう、17世紀の人文主義者モンテーニュがアウグスティヌスの語る奇跡を荒唐無稽に見えると断じた上で、しかしそれを単純に否定し去るのは人間の側の無知と傲慢に過ぎず、いったい誰がアウグスティヌスより鋭敏な精神を持っているかを考慮して軽はずみな真偽の判断は保留するべきだと言っていることにも触れておこう。『エセ―』第1巻第27章。)

 とはいえ、荒唐無稽だからといって読む価値がないかというと、即座にそう邪険にする必要もない。論理の整合性を保つために「特異点」を必要とするのは特に本書に限った話ではない。逆に「特異点」さえ客観的に特定して押さえておけば、あるいは特異点を特定するようなメタ的な視点を伴えば、本書の論理体系=世界観に呑み込まれることなく、楽しく読みこなすことができるというものだ。そう思って読めば、本書全体を貫く敬虔で誠実な姿勢は、たとえば実質的には著者が伝えたいだろう「霊」の概念を確かに漲らせていて圧倒的な迫力がある。すごい。本書全体に漲る「霊」の概念に対しては、個々のエピソードが荒唐無稽かどうかに関わらず、ある種の尊敬の念と畏怖の感情が湧いてくる。これがアウグスティヌス個人の「人格」の力というものだろう。「何を言っているかではなく、誰が言っているかが重要だ」ということをまざまざと見せつけるような本なのかもしれない。こんな凄い人が言っているのだから信じてもいいかな、と思わせるような。そしてそれは本書最大の特異点とも響き合う。「何を信じるかではなく、聖書が言うことを信じる」という。で、いったんこうなると、もはや外部が存在しない絶対無謬の無敵論理になって、二度と論破されなくなるわけだ。

 また一方たとえば、著者の知的な批判精神は形式的にであれ当時の哲学全般に対する確かで鋭い批判となっている。的確に相手の痛い要点を突いてくる哲学批判に対しては、謙虚に耳を傾ける価値がある。おもしろい。
 具体的には、キケローのストア派的な論理やエピクロスの快楽論、さらには新プラトン主義の論理をばったばったと斬りまくる。自由意志と運命論の関係、時間論等については、近代以降にカントがアウグスティヌスの立論をおさらいするような形で再論することになるだろう。さらに新アカデミア派の懐疑論に対する反駁は、あたかも近世デカルトの「我思うが故に我あり」を先取りしたような論理だ。というかデカルトのほうがアウグスティヌスをパクったのだろう。(※改めてデカルトを読んだところ、この見解の相似について当時の人々もすぐに気がついたようで、デカルト本人にも様々な照会があったようだが、どうもデカルト本人はアウグスティヌスの所論を本当に知らなかったようだ。パスカルも『幾何学的精神』で言及している。)
 哲学批判に当たっては、「神の国/地の国」の二項対立が極めて有効に働く。特に論理の焦点となるのは「幸福論」の位置付けに思える。ギリシア・ローマの諸哲学は、一方で理念として「神の国」を仰ぎながら、幸福論の次元においては「地の国」に足を着けたままでいる。だから著者は、その引き裂かれた矛盾を突いていくだけでよい。そういう意味ではむしろ唯物論(デモクリトスやエピクロス)に対する切れ味はかなり鈍い。無神論に対しては批判のとっかかりがまるでない、というところではある。著者もそれは十分に自覚しているようで、本書では意図的に無神論者を相手にしていないように見える。逆にいちばんカトリックの立場に近い新プラトン主義者を説き伏せることには、極めて多大なエネルギーを割いている。
 こういう著者にかかれば、ローマの多神教のバカバカしさは、本当にバカバカしく見えてくる。多神教をバカにする論理はそのままそっくり日本の八百万神にも当てはまってしまうのが悲しいところではあるのだった。

 しかしそうなると最大の問題になるのは、「神の国」と「地の国」を橋渡しする「中間=メディア」の扱いになる。もし仮に「神の国」と「地の国」が完全な二項対立で、お互いに重なるところがまったくないのであれば、お互いに干渉することが不可能なのだから、そもそも議論する意味が前提から崩れる。だから二項対立図式を維持したままで、それでも相互に干渉することを可能にするためには、「中間=メディア」が絶対に必要になる。哲学史的には、ソクラテスがこの中間物を「エロス」に比定した(饗宴)ことは有名で、プラトンや新プラトン主義もその考えを基本的に引き継ぐ(というか饗宴に描かれたソクラテスの考えはプラトンの創作である可能性が高い)。しかしアウグスティヌスは、これを徹底的に批判する。なぜなら、カトリックにとって「神の国」と「地の国」を繋ぐものが「イエス・キリストの受肉の奇跡」に他ならず、ここが信仰の最大の特異点だからだ。絶対に譲るわけにはいかない。だからアウグスティヌスは中間物としての「ダエモン」を徹底的に、完膚なきまでに批判する(ダエモンとは、ソクラテスが言うところのエロスにあたる)。現代の我々の目から見れば、なんでそんなに熱心にダエモンを批判しなければいけないのか、まったく理解しがたい。しかしカトリックにとっては、この論点こそが天王山なのだ。「受肉という奇跡」を受け容れられるかどうか(そしてそれはユダヤ教とキリスト教を鋭く峻別する決定的なポイントにもなる)。現代の我々はともすると一笑に付してしまう話ではあるのだが、先入観を排除してよくよく考えてみると、この「受肉」という概念は極めて奥が深い。カトリックの教義に帰依するかどうかは別として、一生懸命に向きあってみる価値はあるように思うのであった。

【今後の個人的な研究に関するメモ】
 さすがに「ペルソナ」や「三位一体」に関する言及が豊富な本だった。納得するかどうかはともかく、カトリックの公式見解として味わっておきたい。

「このばあい、神ご自身のペルソナが、もちろんご自身の実体によってではなく――神の実体は死すべき者の視覚にはつねに見られないままであり続ける――、創造者の下に服する被造物を媒体とする確実なしるしによって明らかとなったのであった。」10-15

「したがって、わたしたちが神について語るばあい、二つの、または三つの神々を語ることがわたしたちにはゆるされていないように、いま述べられたような仕方で、わたしたちは二つの、または三つの始原を語るわけではない。わたしたちもそれぞれについて、すなわち、御父について、御子について、聖霊について語るとき、それぞれが神であるということを認めているのであるけれども、だからといって、サベリウスの異端説のように、御父が御子と同じであり、聖霊が御父および御子と同じである、とはいわない。わたしたちは、御父は御子の父であり、御子は御父の子であり、聖霊は御父と御子の霊であるが御父でも御子でもない、というのである。」10-24

「それというのは、単純な善から生れたものはそれと同じように単純であり、それがそこから生れたところのものと同じであるからである。この両者を、わたしたちは父と子とよぶのであり、そしてこの両者は、その霊とともに一なる神である。この父と子の霊は、聖書において、その名のいわば固有の意味で聖霊とよばれる。」11-10
「それゆえ、本質的に、真に神的であるとところのものが単純であるといわれるのは、それらのものにおいて、性質と実体とが別のものではなく、またそれらのものが、それら自身以外のものにあずかることによって、神的であったり、賢明であったり、至福であったりするのでもないからである。なるほど、聖書において、知恵の霊は、それ自身のうちに多くのものをもつゆえに多といわれているが、しかし、聖霊は、それがもつところのものであるとともに、一なるものとして、そのもつところのものすべてである。すなわち、多くの知恵があるのではなく、一なる知恵があるのであって、そのうちに、可知的なものの、いわば無限のしかも知恵の霊にとっては有限な宝があり、そしてそれらの可知的なもののうちに、その知恵を通じてつくられた可視的で可変的であるもののすべての不可視的で不変的な観念があるのである。」10-11

「それゆえ、各々の被造物について、だれがそれをつくったか、なにによってつくったか、なにゆえつくったかと問われるとき、わたしがさきにあげた三つの答え、すなわち、「神が、みことばによって、善なるがゆえにつくった」という答えに立ち帰ってみるのに、神秘的な深い意味において、三位一体――父と子と聖霊――自体がわたしたちに暗示されているのか、それとも聖書のこの箇所において、そのように解することを妨げるなにかが起こるのか、それは簡単に論じ去れない問題であり、また一巻によってすべてをせつめいすることを要求されてはならない。」11-23

「わたしたちはこう信じ、こう確立し、こう忠実に述べ伝える。父はみことばをお生みになった。みことばというのは万物がそれによってつくられた知恵であり、独り子である。一なる父が一なる子を、永遠なる父が等しく永遠なる子を、最高の善なる父が善なる子を生みだされたのである。そして聖霊は、父の霊であると同時に子の霊であり、聖霊は父と子とも実体を同じくし、それに等しく永遠である。この全体は、それぞれの位格の特殊性のゆえに三位でありながら、分かたれない神性のゆえに一なる神であり、それと同じように分かたれない全能性のゆえに一なる全能なものである。しかしそれにもかかわらず、その一々についてたずねてみても、その各々が神であり、全能と答えられるのであり、他方、そのすべてについていっしょに考えてみると、三なる神があるとか、三なる全能なものがあるとは答えられはしないで、一なる全能な神があるとこたえられるのである。このばあい、三なるものにそれほどまでに分かたれない統一性があり、そしてこの統一性がそのように述べ伝えられることを要求したのである。さて、善なる父と子との聖霊は、父と子との両者に共通であるゆえに、父と子との両方の善性とよばれて正しいかどうか、わたしは軽率な判断を早急に下すことをさし控えるが、しかしそれにもかかわらず、聖霊は両者の聖性である――といっても両者の性質であるのではなく、聖霊もまた実体であり、三位一体における第三の位格である――となら、いうことをはばからないであろう。わたしがこのような考えを抱くようになるのは、おそらく、父も霊であり、子も霊であり、また父も聖であり、子も聖であるが、それにもかかわらず、第三の位格は、実体的なしかも両者と実体を同じくする聖霊として、本来の意味において聖霊とよばれるからであろう。」11-24

わたしたちは、わたしたち自身のうちに神の像を、すなわち、かの最高の三位一体の像を認める。その像は、神と等しくはなく、いや、神とははなはだしく異なり、遠くかけはなれ、神と等しく永遠ではなく、一言でいえば、神と実体をおなじくはしないけれども、それにもかかわらず、神によってつくられたもののうち、それよりも本性上、神に近いものはなにもないのである。そしてその像は、なおその上に、神に似てもっとも近くなるように、なおつくりかえられて完成されるべきである。すなわち、わたしたちは存在し、わたしたちが存在するということを知り、わたしたちがこの存在し、知るということを愛するのである。」11-26

 そして「人間の完成」に関して、有機体理論が随所に示されていることもメモしておきたい。そしてその論理自体は聖書そのものに示されていることも記憶しておきたい。

「一つのからだには多くの肢体があるが、すべての肢体が同じはたらきをしていないように、わたしたちも数多いが、キリストにおける一つのからだであって、おのおのはたがいに肢体であるからである。そしてわたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているのである」。これこそが、「数多いが、キリストにおける一つのからだ」であるキリスト者たちの犠牲なのである。」10-6←「ローマ人への手紙」12の3-6

「他方、他の者たちが「天に属する人」と名づけられるのは、かれらが恩寵をとおしてキリストの肢体となって、キリストがかれらと共に、あたかも頭と身体のごとくにひとつとなられるからである。」13-23、3-241

「だからして使徒パウロは、「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といっているのである。」17-5←「コリント人への第一の手紙」10-27

「というのは、正しい比によって調整された多様な音色の和合というものは、調和のとれた多様性のうちに共に融合されて、よく秩序づけられた国の一性を暗示しているからである。」17-14

「それからこの地上で四十日間弟子たちと共にすごされ、かれらの注視のうちに天にのぼられて、その十日後に約束しておられた聖霊をおくられたのであった。当時、信じていた者たちへの聖霊の到来についての最大の、そしてもっとも重要なしるしは、かれらのだれもがあらゆる民族の言語で語ったということである。そのようにして、カトリック教会の一性がすべての民のうちに存在するであろうこと、そして、そこからしてすべての言語で語るであろうこと表示しているのである。」18-49

「ここで、全き人とは何を意味するかをわたしたちは知るのである。すなわち、かしらと身体とが一つになり、そして、それらは然るべき時に完成されるであろう。肢体は日々にこの身体に加えられ、教会が建てられるのである。この教会については、「あなたがたはキリストのからだでり、ひとりびとりはその肢体である」といわれ、また、他の箇所では、「教会であるかれのからだのために」といわれ、さらに他の箇所では「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といわれている。そして、身体を建てることについて、ここではこういわれている。「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。それからわたしたちが引用したことばが加えられて、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致とかれを知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ちみちた年の大いさにまで至る」云々、といわれている。ここにいわれている大いさと身体について、いかに理解すべきであるか、かれは説明している。すなわち、「万事において成長し、かしらなるキリストに達するのである。かれによって全身が結ばれ、すべての節々の助けにより組み合わされ、それぞれの部分は分に応じてはたらき」といっているのである。
それゆえ、それぞれの部分に大いさがあるように、そのすべての部分から成る身体全体にも「キリストの満ちみちた年の大いさ」といわれている満ちみちた大いさがあるのである。この完成については、使徒はキリストについて述べた他の箇所でもいっている。「そして神はかれ(キリスト)を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。」22-18←「コリント人への第一の手紙」12-27、「コロサイ人への手紙」1-24、「コリント人への第一の手紙」10-17、「エペソ人への手紙」1-22、「詩編」112-1

「そこでは、劣った者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使たちをうらやむことはない。だれも受けなかったものを受けようとはおもわないが、すでに受けた人とはかたい絆で結ばれているのである。ちょうど、身体においても、指は目になろうとはのぞまないがごとくである。それぞれが全身の肢体において結ばれて、調和のある結び付きのうちに包含されているからである。したがって、人が他の人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上はのぞまないという賜物もまた受けているのである。」22-30

 まあ、エヴァンゲリオン「人類補完計画」とか、あるいは『地球幼年期の終わり』や『ブラッド・ミュージック』に描かれているように、個々人の境界線が融解して一つの有機体になったときが「人間の完成」というイメージである。この「完成」というイメージが、はたして教育基本法第一条の「人格の完成」にどこまで投映されているか。

 またあるいは、近代の民族国家(nation-state)は、国家を文字通り「身体」として表現してきた。特にドイツ国家学(あるいは官房学)は、国家を「君主を頭部、国民を肢体」というように、露骨に身体になぞらえて描写してきた。日本にはシュタイン等を介してもちこまれ、「国家有機体説」として影響力を持った。さてところが一方、本書では、アッシリアやローマなど「地の国」はそもそも「国家」としての体をなしておらず、それに対して本当に「国家」と呼ぶにふさわしいのは「神の国」だけだと言うのだが、その根拠こそがまさに上に引用した「キリストを頭部、教会を肢体」という有機体イメージであった。論理構成そのものは、近代の国家学とまったく変わりがない。さらにそこにアウグスティヌスが言う「神は命の命」などという言辞を組み合わせると、19世紀の「生命主義」の思想とも考え方がオーバーラップしてくる。そう考えていくと、民族国家(nation-state)の実質的な誕生は確かにフランス革命以後19世紀初頭あたりであるとしても、実は必要な素材は既にアウグスティヌスの段階で揃っていたようにも見えてきてしまうわけだ。ドイツ国家学者は、アウグスティヌスの論理そのものを換骨奪胎して、「神の国」の構成を「地の国」に当てはめた、ということかもしれない。あるいは中世においてはそれらの資源をカトリック教会が独占していたが、宗教改革以降に各種素材が俗世国家へと払下げされて馴致された、ということなのかもしれない。

 さて、そしておそらく著者自身が本当にいいたいことではないだろうけれども、するっと当時の教育の様子が分かるようなエピソードを書いているのもメモしておきたい。

「愚かさと無知そのものが小さからざる罰である。それを避けるために、子どもたちが苦痛にみちた罰によって技能や学問を学ぶことは当然であると考えられているほどである。それに付随する罰は苦痛にみちたものであるので、かれらによっては、しばしば学ぶことよりも、むしろ学ぶことをかれらに強制するところの罰を甘受したいと思うほどである。
もしも死を堪え忍ぶか、ふたたび幼児になるか、という選択に直面するなら、身震いして恐れ、死を選ばない者がだれかいるであろうか。じっさい、幼児は笑いと共にではなく涙と共にこの世の生をはじめるのであって、このことはある意味で、どんな悪に出会わねばならないかを無意識のうちに予告しているのである。」21-14、5-309

「じっさい、小さい子どもたちに、その愚かさを抑えるためにわたしたちが用いるさまざまな恐怖は何であろうか。教育、教師、棒、皮ひも、枝むち、その他すべての強制手段は、聖書が教えるように愛する子の横腹を打って、かれらが粗暴なまま成長するのを抑えるためであり、また、強情を張って教育をまったく受けつけない、あるいは、ほとんど受けつけない、といったことをなくすためである、
これらの罰はすべて、わたしたちがその悪を伴ってやって来た無知をとり除き、邪悪な欲望を抑制するためでなければ何であろうか。わたしたちは、想起するためには労苦をもってするが、忘れるためには労苦はなく、学ぶためには労苦をもってするが、無知でいるためには労苦はなく、活動的であるためには労苦をもってするが、怠惰でいるためには労苦はない、というのは、どういうことであろうか。ここからして、わたしたちの損なわれた自然本性が、いわば自分の重みにしたがって傾いて落ちていくのは何に向かっているのか、そして、そこから解放されるためにはどれほどの助けが必要であるか、が明らかとなるのではないであろうか。怠惰、無気力、怠慢、無関心、――これらはたしかに労苦を逃れようとする悪徳である。労苦は、わたしたちにとって有益であるときでさえ、それ自身は罰だからである。
しかし、年長者は、罰なしにみずから欲するところのことを少年に教えられないとしても――年長者が欲するところのことは少年の益になることはほとんどないのであるが――、それ以外にも、人類はどれほど多くの、そしてどれほどきびしい罰によって苦しまされていることであろうか。」22-22

 アウグスティヌスによって教育や学校とは、本質的に「罰」なのであった。おそらくその考え方は西洋中世を通じて変わらないのだろう。

アウグスティヌス『神の国(一)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(二)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(三)』服部英次郎訳、岩波書店、1983年
アウグスティヌス『神の国(四)』服部英次郎訳、岩波書店、1986年
アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎訳、岩波書店、1991年

【要約と感想】アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』

【要約】プロメーテウスは、天界から火を盗み出して人間に与えたため、ゼウスの怒りを買って岩山に磔にされてしまいました。そこにヘーラーの怒りを買って放浪していたイーオーがたまたま通りかかり、プロメーテウスから自分の運命を聞いて悲嘆に暮れますが、実は遙か未来のイーオーの子孫ヘーラクレースがプロメーテウスを救うことになります。ゼウスの息子ヘールメースがやってきてプロメーテウスに降伏と服従を勧告しますが、プロメーテウスはゼウスに対して悪態をつきながら断固拒否し、理不尽な巨大権力に屈することを肯んぜず、自ら進んで悲惨な境遇に身を任せることとなりました。

【感想】ギリシア悲劇は基本的に「二次創作」で、本編もいくつかの神話素材を繋ぎ合わせた上で、舞台映えする萌え要素を散りばめて出来上がっている。あるいは、「スーパーロボット大戦」と言ったほうが近いか。いちおう説明しておくと、「スーパーロボット大戦」とは、『ガンダム』や『マジンガーZ』など本来はまったく別物だったロボットアニメを統一した世界観の元に一つのパッケージにまとめあげて作品化したものだ。そしていわゆる「ギリシア神話」とは、各地にバラバラに伝えられていた神話・伝承を、統一した世界観の元に一つのパッケージへとまとめあげたものだ。もともと相互に矛盾するバラバラな伝承素材をムリヤリひとつにまとめるわけだから、あちらを立てればこちらが立たず、体系的には歪んだものになる。キャラもカブりまくる(同じような女神が何人いるんだよ!)。だが、それがいい。ギリシア悲劇にも、スーパーロボット大戦にも、いろいろな要素を巧みに組み合わせて、矛盾すら利用して、「そう来たか!」とニヤリとさせる知的な工夫とヒラメキに満ちている。
本作も、プロメーテウスとイーオーというバラバラに伝わる伝承を、ヘーラクレースという未来の焦点で以て繋ぎ合わせているところに「ニヤリ」とするべきなのだろう。(とういかまあ、イーオーの存在自体が後代の創作ではあるが)

また、舞台映えする萌え要素も気になる作品だ。まず岩山に縛り付けられるところが萌え。磔は、萌え。ガッツ星人に磔にされるウルトラセブンや、ヤプール星人に磔にされるウルトラ四兄弟を見れば明らかなように、磔は萌え。
またあるいは、神話では雌牛に姿を変えられたというイーオーが、本作では牛の角だけつけているのが萌え。人から角が生えているのは、プリンス・ハイネルを見れば即座に分かるように、萌え(バッファローマンは知らん)。作者が意図的にやっていても不思議ではない。

まあ表面的なモチーフは、理不尽な権力(僭主)の要求に屈しない自律的精神(アテナイ民主制)の称揚であって、ペリクレス時代を迎えるアテネに相応しいテーマではあるように思った。解説によれば本作の初演がB.C.462と推定されているが、それはまさに民主派のペリクレスが貴族派のキモンを陶片追放に追い込んだ年に当たる。大神ゼウスが成り上がりの僭主風情程度に描かれているのは、このあたりの事情が関係しているのかどうか。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』呉茂一訳、岩波文庫、1974年

【要約と感想】ルーカーヌス『内乱―パルサリア』

【要約】史実を元にした大河フィクションです。
ローマの運命を賭けて、カエサルとポンペイウスの二大巨頭が対決しました。エネルギッシュで狡猾で恐れを知らないカエサルを前に、かつての大英雄ポンペイウスは悲惨な最期を遂げ、ローマから自由が失われました。しかし外国と戦争して領土や宝物を獲得するならともかく、ローマ人同士で戦う内乱は、悲惨きわまりないものです。(著者非業の死により、未完)

【感想】どちらかというと、日本人は外国との戦争のほうを悲惨なものと認識し、日本人同士の殺し合いはエンターテイメントとして楽しんでいる感じがする。源平合戦とか戦国時代とか幕末維新とか。まあ保元平治の乱や真田父子の犬伏の別れのように、親兄弟が敵味方に分かれることは悲劇として描かれるとしても。どういうことか、少し気にかかるところではある。

文章は、なかなか激越で、おもしろく読んだ。カエサルとポンペイウスを対照的に取り扱うなど、人物を極端にキャラクター化している感じも興味深い。女性では、破廉恥で淫乱なクレオパトラと貞淑で甲斐甲斐しいコルネリアが対照的だ。
しかし読後にいちばん印象に残っているのは、カトーが砂漠を縦断するくだりだったりする。グロくて、悪趣味で、恐ろしい描写だった。

ルーカーヌス/大西英文訳『内乱―パルサリア』岩波文庫、2012年

【要約と感想】アリストパネース『女の議会』

【要約】男が政治をしている限り、アテナイに未来はありません。ということで、女が議会に潜入し、政権をのっとりました。
新しい世の中では、財産と女をすべて共有します。これで争いはなくなり、平和な世の中になります。下ネタ多数。

【感想】筋が通っていて、分かりやすく、面白かった。原文がおもしろかったのか、それとも翻訳のおかげなのかどうかは、分からないのだけれど。

圧倒的な量の下ネタの他に、主な見所は2点あったように思った。ひとつはジェンダー論、もう一つは原始共産主義的な主張だ。

ジェンダー論に関しては、女性が議会を占拠して政権をのっとるという構想そのものに、やはり興味が向く。こういう構想が著者独自のものなのか、あるいは当時ある程度一般的に広まっていたものか。まあ、現実には女性が政治から完全に排除されていたからこそ、こういう発想が「喜劇」として成立するのだろうけれども。
とはいえ、男性が攻撃的で無謀な戦争に突入するのに対し、女性が安定して保守的な平和を希求するという傾向が描かれていること自体が興味深い。こういう傾向に人類史的普遍性を認めるべきなのかどうかというところ。

もう一つの原始共産制に関して。権力を握った女たちが、平和を実現するために具体的に採用する政策が、富と性の平等な配分だ。富と性が平等に配分されることによって、窃盗や姦淫や訴訟の原因と需要そのものが撲滅されるというわけだ。
「そんなこと本当に可能なのか?」という疑問には当然作者も気づいている。というか、この夢想的なアイデアの実現可能性こそが喜劇の駆動力となっているわけだ。富の配分に関して抜け駆けやズルをしようとする男性の醜くも人間的な振る舞いや、性の配分に関わって女性の価値(特に年齢に関わる)の有無が露骨に描写されることになる。理想の制度と現実の生活の乖離が離れていれば離れているほど、喜劇の完成度が高まるというところではあろう。
ちなみにだが、本書において「奴隷」の存在は自明視されている。本書が扱う「富」とは、我々が安易にイメージする「金」にとどまるものではなく、主に「土地」と「人=奴隷」を構成要素とする「生産手段」であることは承知しておく必要があるだろう。
また、「富」と並んで「女性」をも共有の対象となっていることは、興味深いところではある。思い返してみれば、ホメロスの叙事詩に端的に見られるように、古代ギリシアでは「女性」こそが所有すべき第一の対象物であった。男たちは、金よりも土地よりも、女性を争奪するために命を賭けたのだった。本書はホメロスの時代からはるかに下っており、女性の地位はずいぶん変化しているだろうけれども、女性を「所有すべき対象」と見るという視点は明確に引き継がれている。「女性をモノとして扱う」という観念の源泉を考えるとき、本書は有力なサンプルのひとつになるだろうと思った次第。

※本書は旧字体活字で組まれており、慣れていないととても読みにくいだろうと思う。

アリストパネース/村川堅太郎訳『女の議会』岩波文庫、1954年

【要約と感想】ブルーナー『教育の過程』

【要約】ゆとり教育を終わらせましょう。子どもは想像以上に難しいことを理解することができます。学問の「本質的で単純な構造」を身につけることは、小さな子どもにも可能です。古臭い行動心理学や経験主義を信じて教育に限界があると考えるのはもう終わりにして、私が研究している最新の「認知心理学」の成果を踏まえて、教育を「現代化」しましょう。
 そのためには、子どもたちにただ外側から知識を注入するのではなく、学者がやるのと同じような過程を経て子どもたちが「本質的な構造」を自分の手で「発見」していくような教育課程を実現しなければなりません。その学習過程では、「分析的」な手続きで知識を獲得するのではなく、「直感的」に構造の本質を掴み取るような認知の働きが起こります。そういう教育でこそ、子どもたちは単に知識を身につけるだけでなく、学者と同じような「発見」への確信の態度を深めるなど、「学習のしかたを学習する」ことが期待できるのです。
 このような教育を実現するために、教師の役割はきわめて重要です。教師は教えるべき知識を完璧に身につけていなければなりません。教育課程とは子どもの学習を規制するためにあるのでもなく、教師の創造性を縛るためにあるのでもなく、教師自身の成長を促進するために存在するべきものです。
 まあ、こういう教育への変化は、アメリカがソ連に科学技術で追い抜かれたという安全保障上の危機感が原因でもあるんですけどね。ともかく、せっかくの良い機会でもあるので、アメリカの学校でやたらとフットボールの選手やチアリーダーなどがもてはやされるようなコミュ力重視の愚かな風潮はさっさと絶滅させて、もっと学問的な雰囲気が尊重されるように変えていきましょう。

【感想】教員採用試験に頻繁に登場するブルーナーの名言が登場する、教育学の古典的な作品だ。教員採用試験に出る名言とは、「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」というものだ。だがしかし、実はブルーナーはそんなことは言っていないのだった。教員採用試験の問題は、彼の言いたいことの一部を切り取っているに過ぎず、ブルーナーの意図の半分は削り取られてしまっている。本当の文章は以下のようになっている。

「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという仮説からはじめることにしよう。」42頁

 教員志望者から見るとほとんど同じように見えるかもしれないが、いやいや。正しい文章のなかにある「仮説」という言葉が、ブルーナーの学説全体にとって極めて重要な言葉なのだ。この言葉を省いてしまったら、彼の教育論の魅力は半減すると言ってもよいだろう。この大事な「仮説」という言葉を無視するような教員採用試験の問題は、実はブルーナー学説の本質を台無しにしているわけだ。
 どうして「仮説」という言葉が大事なのかというと、本書の最初から最後まで、一貫して「仮説を立てて検証する」という「学びの方法」そのものを身につけることが重要だと主張しているからだ。ブルーナーの主張では、教育とは単に既知の事実を与えるものであってはならない。子どもたちが学者と同じような「態度」を身につけることが決定的に重要だと言っているのだ。この知見を教員採用試験では「発見学習」と呼んでいるが、個人的には誤解を増幅させるような表現だと思う。というのは、単に「発見学習」と言うだけでは、「発見した<知識>が重要」だと勘違いする学生が続出するに決まっている。ブルーナーは「発見するための<過程>と<方法>そのものが重要」だと言いたいのであって、発見された結果としての「知識」は二次的な意義しかもたない。
 それはブルーナーが「分析」よりも「直感」を決定的に重要なものとして議論を展開しているところからも伺うことができる。ブルーナーが専門とする「認知科学」においては、個々のバラバラな分析的知識の蓄積はさほど重要ではなく、全体的な「構造」を一掴みに理解できるかどうかが問題となる。「分析的な<知識>」ではなく「直感的な<認知>」こそが本質的なテーマである。この「直感的な認知」を可能にするためにこそ、「仮説」を立てる力が必要となってくる。学生に大胆な「仮説」を立てるような学びを促すことで、学者のような「態度」や「学びのための学び」が身につくと考えているのだ。そして巧妙なことに、ブルーナーは彼自身の教育論(つまり本書)を、まず自分自身が直感的に大胆な「仮説」を立て、そして後に分析的に筋道立てて検証するという構成で組み立てる。この構成は、彼自身の「仮説を立てる」という教育論を仮説を立てて実証しようとしているわけで、いわばメタ的な構成になっているわけだ。だから、本書が魅力的だったり説得的であったとすれば、それは直ちに彼の教育理論が魅力的だったり説得的であったりすることを意味する。「仮説」という言葉は、本書全体の論理構成と彼自身の教育論をメタ的に結びつける特異点として作用するものなのだ。だからブルーナーのテーゼから「仮説」という言葉を排除したら、魅力が半減してしまうわけだ。
 いやあ、すごい構成だ。全世界的に大きな影響を与える本になるはずだ。感服つかまつった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 2017年に改訂された学習指導要領は、裏では「ブルーナー・リバイバル」という呼び声もあるとおり、陰に陽にブルーナーの影響を受けていることは疑い得ない。本書のはしばしに、最新学習指導要領の記述と響き合う記述を伺うことができる。

 いちばん響き合っているのは、学習指導要領が言うところの「見方・考え方」という言葉だろう。これはブルーナーが「構造」と「態度」という言葉で表現しているものに対応する。学習指導要領では、小学校から高校まですべての学年において教科の「見方」を身につけることを目指しているわけだが、これはブルーナーが「教科の構造」を極めて重視したことと響いている。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「ますます明確になってきた一つの点は、そのようなことがらにおける構造の重要性ということである。一度この構造の重要性ということが十分に受けいれられると、さらに程度をすすめて、もっともっと年の小さい子どもたちにさらに一そうこみ入った教科を教えることが可能になる。」日本版への序文iv頁

「数学であれ、歴史であれ、その教科の構造を強調すること――つまり、できるだけ迅速に、ある一つの学問のもっている基本的観念についての感覚を生徒に与えようというしかたで、それを強調すること」3頁

「教科の構造を把握するということは、その構造とほかの多くのことがらとが意味深い関係を持ちうるような方法で、教科の構造を理解することである。簡単にいえば、構造を学習するということは、どのようにものごとが関連しているかを学習することである。」9頁

「意図するところは。教育課程を計画する場合に、これまでにしばしば見落とされた、欠くべからざる一点を銘記すべきだということにある。その一点とは、すべての科学と数学の中核をなす基礎的観念や、人生や文学を形成する基礎的テーマは、強力であるが、同時に単純なものであるということである。」16頁

「要点をまとめてくりかえすと、この章のおもなテーマは、教科の課程は、その教科の構造をつくりあげている根底にある原理について得られるもっとも基本的な理解によって決定されなければならないということであった。」39-40頁

 要するに、細かい知識なんてものはいくらでもあとからついてくるから、教育で重要なのは教科の「普遍的な構造」を掴み取ること、ということだ。そのための「直感」である。ブルーナー以前の行動主義や経験主義では研究の対象にすらなっていなかった「直感」というものを、ブルーナーの専門である「認知科学」が捉えているという自信が裏付けとなっているだろう。そして認知科学は、21世紀に入って脳科学なども結びつき、急速な展開を遂げている。2017年の学習指導要領が60年近く前のブルーナー仮説と響き合うのは、「認知科学」という点で基本的な発想を同じくしているせいだろう。

 また、最新学習指導要領が言う「考え方」とは、もう少し丁寧に言えば「方法論の習得」を意味する。単に知識の量を増やすのではなく、未知の現象に触れたときにそれを適切に処理できる様々な考え方を身につけることが重要であり、そのために「方法論」を身につけるという観点だ。これはブルーナーが「態度」という言葉でしめしているものに当たる。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「それは、ある分野で基本的諸観念を習得するということは、ただ一般的原理を把握するというだけではなく、学習と研究のための態度、推量と予測を育ててゆく態度、自分自身で問題を解決する可能性に向かう態度などを発達させることと関係があるということである。ちょうど物理学者が、自然のもっている窮極の秩序と、その秩序は発見できるものであるという確信とに関して一定の態度をもっていると同じように、物理を勉強している若い生徒が、学習することがらを、自分が思考するときに役立つものにし、意味のあるものにするような方法で組織しようとするならば、物理学者のもっている態度をいくらかでもそのまま自分のものにする必要がある。そのような態度を教育するためには、たんに基本的観念を提示する以上のなにかが必要である。」25頁

「そのようなやり方に賛成している議論は、学習がその学問の最前線でしていることと、子どもがはじめてそれに近づくときにしているものの間には連続性があるという想定を前提にしているのである。」35頁

 つまり、学習した結果ではなく、学習の「過程」そのものが重要ということだ。まさに学習指導要領が言うところの「過程を重視した学び」である。
 ということで、ブルーナー理論と最新学習指導要領には極めて近いものがあるのだが、ただブルーナーから60年経っているにもかかわらず、内容がさほど進歩しているようにも見えないのは、多少心配ではある。むしろ学習指導要領のほうが後退しているのではないかとも思えるのは、ブルーナー自身は以下のように言明しているからだ。

「知識を伝達し、有能さで身をしめす模範になるためには、教師は教えることと学ぶことにおいて自由でなければならない。」117頁

 現行の文部行政は、むしろ教師を「教えることと学ぶことにおいて不自由」にしつつあるように見える。本当にブルーナーの理念を実現したいのであれば、学習指導要領の法的拘束力は弛めるべきだろう。学習指導要領の法的拘束力を保ったままで学習指導要領の理念が実現することは、おそらく、ない。

 それから、ブルーナーは大学スポーツが嫌いなんだろうな、という記述がたくさんあって、ちょっと微笑ましい。彼は本当は「大学はスポーツをやるところじゃない」と声を大にして言いたいんだろうけれども、紳士らしくオブラートに包んだ表現になっているのであった。

「わが国の文化的風土は、伝統的に知的価値を高く評価するという特徴をもってきていない。」95頁

「どのようにすればわが国の学校にもっとまじめな知的な格調を与えることができるかということに関して、また一方では体育や通俗性や社交生活と、他方では学問性をもちこむことのどちらに学校は重点をおくべきかに関して大いに議論されている。」97頁

 体育や通俗性や社交生活を排除したくてたまらないブルーナーであったが、彼の望みは60年経った今もさほど変わっていないのであった。いやはや。

 それから、本書の元になった「ウッズ・ホール会議」が、スプートニクショックをきっかけにしていることは教員採用試験にもよく出てくる。本書ではソ連との関係は婉曲的に表現されるだけではあるが、それでも危機感はよく表れていると思う。

「国家の安全に対する危機感から生まれた心配が一度におしよせたこともまた原因であったことは疑えない。」96頁

J.S.ブルーナー『教育の過程』鈴木祥蔵・佐藤三郎訳、岩波書店、1963年