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【要約と感想】アリストパネース『女の議会』

【要約】男が政治をしている限り、アテナイに未来はありません。ということで、女が議会に潜入し、政権をのっとりました。
新しい世の中では、財産と女をすべて共有します。これで争いはなくなり、平和な世の中になります。下ネタ多数。

【感想】筋が通っていて、分かりやすく、面白かった。原文がおもしろかったのか、それとも翻訳のおかげなのかどうかは、分からないのだけれど。

圧倒的な量の下ネタの他に、主な見所は2点あったように思った。ひとつはジェンダー論、もう一つは原始共産主義的な主張だ。

ジェンダー論に関しては、女性が議会を占拠して政権をのっとるという構想そのものに、やはり興味が向く。こういう構想が著者独自のものなのか、あるいは当時ある程度一般的に広まっていたものか。まあ、現実には女性が政治から完全に排除されていたからこそ、こういう発想が「喜劇」として成立するのだろうけれども。
とはいえ、男性が攻撃的で無謀な戦争に突入するのに対し、女性が安定して保守的な平和を希求するという傾向が描かれていること自体が興味深い。こういう傾向に人類史的普遍性を認めるべきなのかどうかというところ。

もう一つの原始共産制に関して。権力を握った女たちが、平和を実現するために具体的に採用する政策が、富と性の平等な配分だ。富と性が平等に配分されることによって、窃盗や姦淫や訴訟の原因と需要そのものが撲滅されるというわけだ。
「そんなこと本当に可能なのか?」という疑問には当然作者も気づいている。というか、この夢想的なアイデアの実現可能性こそが喜劇の駆動力となっているわけだ。富の配分に関して抜け駆けやズルをしようとする男性の醜くも人間的な振る舞いや、性の配分に関わって女性の価値(特に年齢に関わる)の有無が露骨に描写されることになる。理想の制度と現実の生活の乖離が離れていれば離れているほど、喜劇の完成度が高まるというところではあろう。
ちなみにだが、本書において「奴隷」の存在は自明視されている。本書が扱う「富」とは、我々が安易にイメージする「金」にとどまるものではなく、主に「土地」と「人=奴隷」を構成要素とする「生産手段」であることは承知しておく必要があるだろう。
また、「富」と並んで「女性」をも共有の対象となっていることは、興味深いところではある。思い返してみれば、ホメロスの叙事詩に端的に見られるように、古代ギリシアでは「女性」こそが所有すべき第一の対象物であった。男たちは、金よりも土地よりも、女性を争奪するために命を賭けたのだった。本書はホメロスの時代からはるかに下っており、女性の地位はずいぶん変化しているだろうけれども、女性を「所有すべき対象」と見るという視点は明確に引き継がれている。「女性をモノとして扱う」という観念の源泉を考えるとき、本書は有力なサンプルのひとつになるだろうと思った次第。

※本書は旧字体活字で組まれており、慣れていないととても読みにくいだろうと思う。

アリストパネース/村川堅太郎訳『女の議会』岩波文庫、1954年

【要約と感想】小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』

【要約】演劇とは時代の雰囲気を反映する総合芸術であって、観客の反応を抜きにして語ることはできません。ローマ喜劇とは、外来のギリシア演劇を受容して独自の展開を見せた総合的な芸術運動と把握して初めて理解できるものであって、単にテキストだけを解釈するのでは見失うものが多いでしょう。具体的には、たとえば「プロロゴス」の在り方を見ることによって、ローマ時代の芸術運動の一端を伺うことができます。そしてその時代に寄り添う芸術運動の在り方は、まさに日本の演劇運動を理解する上での参照軸となり得るものです。

【感想】事前に想像していた内容とかなり違っていたのだが、それもまたタイトル買いの醍醐味ではある。ローマ時代の特徴を理解しようと思って手に取ったものの、本書は歴史よりも「演劇」の在り方のほうに軸足を置いていた。史料に即してストイックに語るというより、現代日本の演劇の在り方や演劇運動の意義等と往還しながら、普遍的な芸術精神に訴えつつダイナミックに二千年以上前の演劇の真の姿を再構成しようとしているのだ。実際に演劇運動の渦中にいたであろう人だからこそ、歴史の論理ではなく演劇の論理からかつての在り方を再構成できると確信しているのであろう。素人目にもかなり大胆に見える仮説を、そうとう自信を持って展開している。そんなわけで、ナルホドと思う一方で、「でも仮説だよな・・」と思う私も同時にいる。
あるいは一般的に、情報の受け手の素養が時代の空気を決めるという観点から言えば、演劇に限らず、「表現」全般に敷衍できる話かもしれないとも思った。たとえば、ローマ時代の劇作家がプロロゴス(前置き)において状況をでっちあげて観客の同情を誘う在り方は、インターネット上でのテキストの流通に対しても一般的に見られる現象だ。twitter等で、自分の発言に注目を集めようとしてありもしない状況をでっちあげることは、もはや日常的な光景となっている。われわれは、情報の受け手と想像される得体の知れないものに対して必死になって状況を捏造し続ける「情報の発信者」なのであった。

小林標『ローマ喜劇―知られざる笑いの源泉』中公新書、2009年

【要約と感想】アリストパネース『蜂』

【要約】陪審制の裁判で他人に罰を与えることが快感になりすぎて狂ったように裁判に出席しようとする父親を、合理的な考えの若者がなんとか止めようとして、様々な工夫をしました。タイトルの「蜂」とは、被告を有罪にしなければ気が済まない人々を、誰彼かまわず指す蜂に喩えた皮肉です。

【感想】まあ、端的にいって、あまりおもしろくない。喜劇ということだけれども、くすりとも笑えない。それは作者のせいでも訳者のせいでもなく、作品と読者を隔てる時間のせいだろうとは思う。作品の背景となる習慣や固有名詞が体感的に分かっていれば、げらげら笑えたのかもしれない。アイスキュロスやエウリピデスの悲劇が時を超えてもやはり悲劇であるのに対して、アリストパネースの喜劇がまったく笑えないのは、少々興味深い現象ではある。
とはいえ、アリストパネースが描いたような、相手がどうあろうととにかく刺したくて仕方がない人間というものの性向は、現代のネット社会では日常的に確認できるものではある。2500年経っても人間がさほど進歩していないことはよく分かった。そういう普遍的な人間の愚かさを切り取ってみせるところに、アリストパネースの古典としての価値があるということか。

アリストパネース/高津春繁訳『蜂』岩波文庫、1955年