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【要約と感想】丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』

【要約】紀元前5世紀にギリシア悲劇が大発展したのは、当時のギリシアの状況を反映しながらも、人間の姿を普遍的に描いたからです。紀元前5世紀のギリシアの歴史は、異国であるペルシアとの戦争から始まり、同民族の争いであるペロポネソス戦争で終わります。この間の情勢が、ギリシア悲劇に大きく反映しています。
たとえば前半では、ギリシアの優位性である自由・法・叡知・勇気が、バルバロイであるペルシアとの比較を通して称揚されます。しかし後半では、ギリシアの優位性であった自由や法や叡知に対する疑惑が次第に高まり、作品の中で相対化されます。ギリシア的価値が低落する過程で、法や理性では捉えきれない人間性の奥底にあるものが抉り出されていきます。ここにギリシア悲劇が普遍性を持つ契機があります。

【感想】さくっとギリシア悲劇の粗筋を理解したい人にはお勧めしない。全体像が簡単に分かるような書き方にはなっていない。逆に、原典を多少なりとも読んでいて、自分の解釈に多様性を持たせたい人にとっては有益な本かもしれない。そういう意味では、気軽な新書スタイルというよりは、研究書に近い感じで多少身構えて読む類の本かもしれない。
というのは、それぞれの作品には長い研究史の中で解釈が問題になっている章句があるわけだが、本書はその研究史的課題に対する筆者なりの解釈から切り込み、作品全体の意図を見定め、当時の状況の中に位置づけるというスタイルを採用しているのだ。素人にとってみれば研究史的課題なんかどうでもいいので、もっと手っ取り早く内容そのものを理解したいわけだが、そういう書き方にはなっていない。だから筆者の解釈を正当化するために外堀を埋める作業がだらだらと続き、同じことが何回も繰り返され、素人にとってみれば文体が冗長に感じることにもなる。とはいえ逆に言えば、長い研究史の中で焦点になっている章句の解釈に説得力を与えるためには、幾重にも取り巻かれた外堀を埋める作業が必須であって、研究者としては誠実な態度ではある。
そんなわけで、実際に原典を(ただし翻訳で)読んでいた『オイディプス王』や『アンティゴネー』や『バッカイ』に対する著者の解釈に対しては、目から鱗が落ちる感じがした。特にアンティゴネーが再び葬儀に戻ってくることに対する解釈には、なるほどと思った。オイディプスが「知」の観点から英雄である理由についても、神々の掌の上で踊っていることを承知しながら自らの行動を自らで律する意志に存していることなど、よく分かった気がする。素人に分かりやすく書くスタイルでは、このあたりはしっかり説明できない気がする。逆に、原典を読んでいない人に著者の意図がちゃんと伝わるかどうか、不安なところではある。実際、ちゃんと読んでいない『キュクロプス』と『オレステス』に関する記述では、私にはどこがどう凄いのかがいまいちピンときていない。すみません。

丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』中公新書、2008年

【要約と感想】西村賀子『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』

【要約】複雑な体系のギリシア神話をテーマごと(たとえば女神・オリンピック・怪物・星座など)にまとめてくれて、分かりやすくなっています。また単に神話の概要紹介だけでなく、その背景となる考古学的な知見やジェンダー論的な考察も加わって、ギリシア神話を多角的に理解することができます。

【感想】ギリシア神話が家父長的な体系を取る以前の大地母神の在り方について、とてもよく分かった。ゼウスを筆頭とする男性神たちの暴虐ぶりとヘラーの嫉妬の酷さに対して違和感を持っていたわけだけど、先史時代の母系制社会が家父長的な体系に組み替えられる経緯を踏まえれば合理的に理解できる気がする。悪女とされるクリュタイムネストラの扱いの変遷についても、家父長制の傾向が強まるに従って扱いが悪くなることについて、なるほどと思った。女性ならではの視点が私に取っては新鮮で、とてもおもしろく読んだ。単なる入門書ではなく、ある程度ギリシア神話を知っている人にとっても様々な発見をもたらしてくれる本であるように思う。

西村賀子『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』中公新書、2005年

【要約と感想】丹下和彦『食べるギリシア人―古典文学グルメ紀行』

【要約】ギリシア人の日常生活を理解するために、文学等に現われた「食」の在り方を眺めてみました。ホメロスが描く英雄叙事詩には驚くほど食の姿が現われず、特に魚に対しては極めて冷淡ですが、実際には当時の一般民衆は魚が大好きでした。特に鰻は絶品だったようです。酒を薄めて飲んだり、手掴みで食べたり、寝そべりながら宴会をする様子は、現在の我々の生活の在り方とはずいぶん異なっています。

【感想】エッセイのような文章で、気軽に読める。が、具体的な事例を詩や劇の中から博捜しており、とても勉強になる。
面白い研究には2種類あって、一つの事例分析に特化して最終的に物事の全体像を明らかにする「一点突破全面展開」のやり方と、この本のように「領域横断的」に幅広い史料から共通素材を取りだして物事を再構成するやり方がある。領域横断的にテーマを貫く作業はとてもおもしろく、自分でも真似してみたくなるわけだが(たとえば眼鏡っ娘研究はその類に当たる)、幅広い知識と深い教養が欠かせないことがよく分かる。研鑽を積まねばならない。
それはそうと、ウナギ食べたいなあ。

丹下和彦『食べるギリシア人―古典文学グルメ紀行』岩波新書、2012年

【要約と感想】桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』

【要約】紀元前8世紀から1200年もの間、ギリシア山間の片田舎オリュンピアで競技大会が開かれ続けました。おそらく当初は地方的な祭典に過ぎませんでしたが、次第に全ギリシアを巻き込む一大イベントとして発展します。もともとギリシアに根づいていた競争の文化(アゴン)が要因かもしれません。さらにヘレニズム時代からローマ時代にかけて、ギリシア文化を崇敬するマケドニア王やローマ皇帝の支援を得て、ギリシア地方を超えて国際イベント化します。
隆盛を極めたオリンピックも、西ローマ帝国滅亡の過程で、キリスト教の影響などもあり、西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られます。しかし18世紀のグランドツアー流行や19世紀の国民国家興隆に伴って西洋の起源としてのギリシア文化が見直され、オリュンピアの発掘調査が進行するとともに、近代オリンピックが復興します。
しかし近代オリンピックが目指すギリシア文化=アマチュア精神は後世になってから捏造されたものも多く、オリンピックがローマ期になってから拝金主義により衰退したという従来の見方は近代的なバイアスが色濃く反映している疑いがあります。

【感想】とてもおもしろく読んだ。古代オリンピックの歴史を通じて、ギリシアとローマの古典文化や当時の生活の具体的な有り様のみならず、ヨーロッパ近代が抱える認知の歪みまでも見透すような、一点突破全面展開のお手本のような歴史記述だと思った。ギリシア古典期→ヘレニズム→ローマ期の変遷過程についてはけっこう混乱することもあるのだが、オリンピックという具体例を通して見ると、とても理解しやすい。18世紀から19世紀にかけてローマ文化を貶めてギリシア文化を礼賛する傾向にあったのが、最近の研究の成果によって是正されつつあるという報告は、他の領域でも共通して見られる現象で、なかなか興味深い証言だ。
あと、マラソン競技の起源伝説が極めて怪しいという話は小耳に挟んではいたのだが、本書で学術的な根拠を仕入れたので、今後は積極的に発信していきたい。マラソン競技の起源を語る伝説は、デマですよ。

【今後の研究のための参照】

「古代オリンピックは、与えられたものとしてギリシア人が享受していた競技会ではなくて、人々の共同参加によって、分立する諸ポリスを統合する精神的支柱の役割を担うにいたった競技会であった。」15頁

この文章は「コミケ」にも当てはまる気がするね。コミケはいまや分立する諸ジャンルを統合する精神的支柱の役割を果たしているのだった。やはり周期的に発生する「場」というものは人間の団結にとってとても重要なのだろう。

桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』岩波新書、2004年

【要約と感想】高野義郎『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』

【要約】小アジア→バルカン半島→ペロポネソス半島→イタリア南部と主要なギリシアのポリスを巡りながら、碁盤目型都市構造や聖数としての10、あるいは時計回りの理由といった普遍的な文化史に思いを巡らせます。通奏低音的なモチーフとして、ギリシア神話では何かと悪者にされる女神ヘラーの復権を試みる一方で、哲学的にはソフィスト等の活動を無視して自然科学的精神の発達に着目して記述しています。

【感想】本書の基本構想は、ヘラーやアテナ、アルテミス等のギリシア神話の女神たちがもともとは土着の地母神であったという直感に基づいている。その直感を保証する文字史料はまったくないので、エビデンスは考古学的な知見に求めるしかない。筆者は、神殿の柱の数や部屋の構成比率にピュータゴラース学派の聖数10の起源を見出したり、女神たちの神殿がもともとは低湿地に位置していたことなどを根拠に、かつての地母神たちに思いを馳せる。客観的な根拠は確かに薄いのだろうけれども、その直感に何らかの可能性を認めることに対して吝かではない。ギリシア文化に魅せられて熱心に現地に通った人だけが感じとることができる何かが、客観的には素直に認めがたい仮説の説得力を増していたのではないかと思う。静かな語り口の奥底に熱い情熱を感じる一冊だった。

高野義郎『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』岩波新書、2002年