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【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』

【要約】本書は幾何学的な手続きで記されていますが、人間の知性を改善して神とシンクロする至福に到達するためには、これが最善の方法です。
 自己原因である神(つまり自然)は唯一存在する実体として無限の属性で構成されていますが、人間に知覚できるのは精神と延長だけで、神の様態である一切の個物は神の本性の法則に従って必然的に変状を蒙った結果の表現です。
 人間の精神と身体はある一つの様態を精神・延長両側面から表現したもので、精神は身体の観念です。人間の認識には3つの様式があります。(1)表象(2)理性(3)直観。(1)表象は感覚的経験から生じますが、認知の歪みの原因となり、自由意志も錯覚です。真理は真理であるというだけで真理と分かるので、概念的・推理的認識の(2)は確実ですが、神の認識に到達できるのは(3)だけです。
 人間の根本的感情は3つだけです。(1)欲望(2)喜び(3)悲しみ。この3つから人間の感情一切を説明し尽くせますが、根源にあるのは「わたしがわたしでありたい」という自己の存在を維持しようとする傾向性(コナトゥス)であり、その傾向を実現しようとする欲望は人間の本質そのものであり、その必然的な本性に従うことが人間の自由です。
 人間の自由とは、外部から感情を刺激する受動性に隷属せず、能動的な感情に基づいた理性の指図と自己の本性のみによって判断し行動することであって、それが徳です。世界を知れば知るほど、理性と自己の本性に対する理解が高まり、行動の自由が増し、神の認識に近づきます。徳によって報酬が与えられるのではなく、徳のあること自体が至福そのものです。

【感想】西洋哲学史における「人格」ないし「個性」概念の発生地点に立ち会うことを目指して古典を読み進め、古代から中世、ルネサンスを経て近代の入り口に差し掛かり、ここまでにも近代的自我の萌芽らしきものは様々確認できてはいるものの、ここに来てようやく近代性の閾値を越えた感じがする。スピノザはコナトゥスという概念を通じて「わたしがわたしでありたい」という近代的自我の在り様をそうとう剔抉してきたような印象だ。単に「わたし」という自己意識の在り様であれば、たとえばルネサンス期ペトラルカに明瞭に見られるし、あるいは古代アウグスティヌスにまで遡っていいかもしれない。また、様々な特性を持った人がいるという程度の「個性」の表現は、古代からルネサンス期まで満遍なく見つけることができる。しかし「わたしがわたしでありたい」あるいは「わたしはわたしでしかありえない」という再帰的な自我の在り方は、まずモンテーニュに文学的な表現を得て、次いでスピノザに哲学的な表現を得た、ということでいいかもしれない。ちなみにベーコンやデカルトには「わたし」意識は強烈に見られても、「わたしがわたしでありたい」という再帰的な欲望はない。
 となると、モンテーニュやスピノザに至って初めて再帰的な自我の表現が見られることの意味や背景を考えなければならない。大航海時代とか宗教改革とか重要な観点はいろいろあるが、哲学史的には、どうだろう、「懐疑論」への対決というのは一つの契機になるだろうか。懐疑論を「人間には思考の足掛かりなどない」という考え方だと捉えるとして、これを雑に一蹴する(ある特定の思考の足掛かりを示す)のはそんなに難しくないけれども、懐疑論の主張を正面から丁寧に捉えた上で乗り越えていこうと努力したとき、生産的な表現に至るかもしれない。たとえばスピノザは「真理は真理それ自体で真理を表現する」と再帰的な認識論を打ち出して懐疑論を乗り越えているわけだが、それは「私は私それ自身で私を表現する」という再帰的自我論まで紙一重だ。一方モンテーニュはもともと古代懐疑論を信奉していたように見えるが、ひょっとしたらそれを乗り越える過程で「わたしがわたしでありたい」という再帰的な思考(あるいは情念)の「足掛かり」を捉え、文学的な表現に鍛え上げたのではないか。そして仮にそうだとすると、実は懐疑論など一顧だにせず「真実が真実にしか見えない」という認識で突っ走ったガリレオやデカルトの自然科学革命が、やはりそうとう重要な役割を果たしているのかもしれない。人間が頭の中で何を考えようと、懐疑しようと、あるいは考えてはいけないと他人に強制しようと、それでも地球は回っているのである。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティ
 「流れる川は同じ川か?」というアイデンティティ(同一性)に関わる問題に対して、スピノザは明快に「同じ川だ」と言い切る。

「【第2部公理3補助定理4】もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。」
「【補助定理7】もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限の仕方で変化することを容易に理解するであろう。」

 そして同一性の考えを突き詰めていくと、世界は一つの個体だという結論に至る。というか、スピノザの人間(あるいはすべての個物)は、鴨長明にかかれば「かつ消えかつ結ぶ、淀みに浮かぶうたかた」のようなものではある。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 スピノザは子どもについて積極的に語ることはない。否定的な文脈で比喩として登場するだけだ。

「【第2部定理49備考】もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死する人間を何とみるべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。」
「【第3部定理32備考】というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。」
「【第5部定理6備考】幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐れまないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐れむだろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。」

 子どもは愚者や狂人と同じカテゴリーだ。まあ、こういう子ども観はスピノザに限った話ではなく、近代初期までのヨーロッパに共通して広くみられる。というか、ルソーが異常だっただけか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 積極的に子ども観が示されないので、教育の話も積極的に展開されることはない。しかしごく一部に教育の話が現れるので、サンプリングしておく。

「【第3部定理55備考】こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。」
「【第三部「諸感情の定義」27】それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞賛し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって瀆神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。」

 この場合の教育とは、何かしらの知識を与えるinstructionではなく、ましてや内面から可能性を引き出すeducationでもなく、習慣形成のためのtrainingのようなものだし、そもそもスピノザの思想体系に内在的に関わる話でもない。
 しかし一方、以下に引用した文章では、スピノザの認識論に関わるものとして教育を語っている。

「実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるように努める。」

 しかし、目指すべき教育の具体的なプログラムは示されない。スピノザが目指す「知性改善」は本書に示された理路に基づいて各自が認識を改めていくことでしか進まないのであって、何らかのカリキュラムを備えた学校で一定期間過ごせば身につく類のものでもない。となると、スピノザの「知性改善」を実現するためには、いわばプラトンの言う「魂の向け変え」のような契機が必要になるのではないか。
 ということを考えると、最終定理(第5部定理42)で示される「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。」なるテーゼは、プラトン『国家』で示された問いに対するスピノザの回答だ、という理解でいいか。魂の向け変えが人々を徳に導き、それがそのまま至福への唯一の道となる。

「【第4部「付録」第9項】ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の伎倆と才能を証明することができる。」 

 ということで最終的には人々に対する教育へと足を踏み出すことになるのだった。世界を変えるためには、やはり教育に頼るしかないのだ。注目すべきなのは、ここでスピノザが示している教育の内容が「各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやる」となっていることだろう。この場合、はたして教育内容は「理性」に従って同一メニューになるのか、それとも各人のコナトゥスに応じて個別最適なメニューが用意されるべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】欲望
 デカルトは『情念論』で積極的に欲望を肯定したが、スピノザも「欲望」をコナトゥス概念を通じて「人間の本質」だと見なしている。

「【第4部定理18備考】これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私にひきつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。」
「【第4部定理38】人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。」

 こういう表現が見られるようになると、しみじみと「近代だな」という印象を強める。古代や中世には見られない展開だ。それは以下にサンプリングした知識観と響き合っているかもしれない。

「【第5部定理24】我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)」

 西洋哲学史ではソクラテスの「無知の知」から始まって、キリスト教の反知性主義を経て、ルネサンス期になってもペトラルカやエラスムスなど「無知」を称揚する言説に事欠かない。モンテーニュだって自分が無知であると繰り返し韜晦しているし、あのデカルトもなかなか謙虚な姿勢を示している。しかしスピノザにはそんな身振りは一切見られない。認識すればするほど、知識は増えれば増えるほど良いのだ。これは自然科学的(スピノザにおいては幾何学的)な知識観に基づいた身振りと考えていいか。ちなみに人間の認識が有限であることは、もともと織り込み済みだ。

【個人的な研究のための備忘録】国家論
 スピノザの国家論については別の著作『神学・政治論』で本格的に展開されるが、本書にも考え方の概要が示されている。

「【第4部定理37備考2】それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。(中略)そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。(中略)以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。」

 ポイントは、まず「自然権」を「断念」するとは書いてあるが「放棄」や「譲渡」とは書いていないところだろう。国家成立後も、国民は自然権を保持している。
 そして続いて「正義」を「外面的概念」と断言していることから、いわゆる「自然法」をまったく認めていないらしいところも注目だ。スピノザにとっては神(自然)の法則こそが唯一の規範なわけだが、自然の必然的な成り行きとは異なる「人間のルールとしての自然法」の客観的存在は認めないということでいいか。

【個人的な研究のための備忘録】死
 「死」に関するおもしろい文章があったのでサンプリングしておく。

「【第4部定理39備考】身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解している(中略)人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。」

 「死」というものを考える上でもなかなか示唆深い文章だが、「わたしがわたしである」という事態を考える上でも、この説明に付された事例も含めて、興味深い。「わたしがわたし」でなくなってしまうことは、スピノザにとってはただちに「死」を意味するのである。
 ところでこの一文は、ただちにローマ帝政期のストア派哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。」を思い出す。スピノザの思想がストア派と親和性が高い証拠の一つとしていいか。

スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(上)』岩波文庫、1951年
スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(下)』岩波文庫、1951年

【要約と感想】スピノザ『知性改善論』

【要約】スピノザの主著『エチカ』の序論として方法論ないし認識論を述べた著作のように読めますが、未完です。
 快楽、財産、名誉を得ても幸福になれません。真実最高の幸福とは、精神が全自然(つまり神)とシンクロすることです。そのためにやるべきことはたくさんありますが、最優先で行うべきなのは、知性の改善です。
 知覚様式には4種類あります。(1)言語と文字(2)経験(3)推論(4)直観。(1)はいい加減だし、(2)は偶然だし、(3)は確実ですが完全性には及ばないので、(4)が目指すべき認識です。(1)(2)(3)の様式は使わず、人間の「生得の力」を使って認識の手続きを進めましょう。真理は、真理であるというただそれだけで、それが真理であると分かります。真の観念の本性によって明らかになった規範に従って精神を導くのが正しい「方法」です。探究を始めるためには足掛かりが必要なので、何らかの「真の観念」から探究を始めますが、神から始めるのがいちばんクールなので、なるべく早く神に到達しましょう。
 さっそく「真の観念」を明確に理解するため、虚構された知覚、虚偽の知覚、疑わしい知覚の発生メカニズムを明らかにして斥けます。続いて「定義」というものは、単なる固有な特性の列挙ではなく、「本質」でなければなりません。この定義から生得の力を使って認識の手続きを進めれば、確固・永遠なる事物の認識にたどりつきます。しかし個物はだめです。そして「生得の力」の条件を提示したところで、未完。

【感想】何の予備知識もなしに読んだら途方に暮れるだけだろう。一つ一つの用語が日常的な意味からかけ離れている。入門本を3冊ほど読んでおいてよかった。たとえば本書の「観念」という言葉は、まずリンゴとか犬のような具体物を思い浮かべてしまうと躓きやすくて、「三角形」とか「円」のような幾何学図形をイメージすると多少は分かりやすくなるように思う。また「確固・永遠なる事物」とは幾何学的な真理だと考えるとよいか。
 とはいえ、本書の認識論で決定的なカギを握る「生得の力」について、8個の特徴を列挙したところで未完となってしまっており、痒いところに手が届いていない感じは否めない。

 またスピノザは「与えられた真の観念」から規範に従って探究の手続きを進めよと言う。確かに何もないところから探究は始められないので、思考の足掛かりとして何かしら任意の「真の観念」が与えられなければいけないのだが、それは何でも構わないというような書きっぷりが不思議だ。たとえば理論上は「めがね」から始めても真理に到達できることになる(うまくいくことはまれにしか起こらないらしいが、可能性はゼロじゃない)。
 しかし思い返してみれば、プラトンが『国家』などに記した「哲学的対話法」で突き詰めていたのは、この「足掛かり」を見つける原理ではなかったのか(そして善のイデアにたどりつく)。デカルトにしても、思考の「足掛かり」の確信を得るためにノイブルクの炉部屋で瞑想にふけったのではなかったか。しかしそこでスピノザは「足掛かりはなんでも構わない」という身振りを示すわけだ。なんでも構わないのは、もちろん自然のすべてが神の様態だから、ということになるのだろう。
 この「思考の足掛かり」に関わる議論に関しては、個人的には「特異点」という用語でいろいろ考えていて、一家言(?)あったりする。(→【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』)。スピノザの「なんでも構わない」という身振りは、おそらく「大いなる一」のバリエーションだろう。というのは、あらゆるものが神の様態という設定が背景にあって、初めて足掛かりはなんでも構わないという身振りが可能になるからだ。

 また一読して気がつくのは、明らかにデカルトを意識した書きっぷりだ。冒頭の過剰な自分語りとか、最終的な目的にたどりつく前に暫定的な生活規則を立てるところなどはデカルト『方法序説』そのままだし、知識の四様式にも影響が見られる。「或る懐疑論者」(39頁)とか「精神を全く欠く自動機械」(40頁)という書きっぷりなど、対抗意識が強烈に出ていたような印象だ。もちろん一番重要な比較の論点は、デカルトが「懐疑」を根本的な方法として定立させたのに対し、スピノザが「肯定」を方法として打ち出したところだろう。デカルトが外堀を埋めるような論の運びをするのに対し、スピノザは虎口から本丸まで一直線に攻め込むような論の運びを見せる。一見同じようなことを言っているところでも、中身がそうとう異なるのはなかなかおもしろい。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 思いがけず、「教育」についての言及があった。

「なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。」18頁

 自ら発見した探究の道筋を人々に会得させようという狙いがあるのだろうか。しかし児童教育学の優先順位はまったく下の方なので、未完の本書では展開されることがなかったのであった。何らかのカリキュラム論も残っていたらおもしろかったのにな(ちなみにデカルトにはある)。

■スピノザ/畠中尚志訳『知性改善論』岩波文庫、1968年<1931年

【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』

【要約】あらゆる現象は、条件によって顕れ方が異なります。だから物事の本質が何なのかに対しては確かなことを言うことはできません。「判断保留」をして、探究を続けましょう。そしてその姿勢こそが心に平静をもたらし、人々を幸せにします。これが、ストア派やエピクロス派と並び立つヘレニズム哲学の第三の潮流、古代懐疑主義の主張です。

【感想】退屈な本である。序章がやたら威勢がよかったから期待を持ってしまったけれども、完全に肩すかしだった。この退屈さは英米系の分析哲学に共通する緊張感の欠如と冗長性が原因だろう。徹底的に論述する価値や意味を見いだせないものを徹底的に論述しているので、退屈なのだ。1頁で言えることを100頁も書いている。本書は自ら「哲学の入門」を謳っているけれども、まったく哲学入門には相応しくない。「哲学」の概念が英米系に特有の偏りを示していて、普遍的ではない。最大限に好意的に解釈して、「英米系分析哲学の入門書」ということなら、そう主張しても許されるかもしれない。まあ「英米系分析哲学の退屈さに耐える訓練入門」としては最適だろう。オチがメタ構造的なギャグ(しかもそんなにデキがよくない)で終わってたしなあ。

さて、人間が物事を認識するには必ず「特異点」を必要とする。そんなことはプラトンもアリストテレスも気づいているし、ソクラテスも「無知の知」という形で表現している。ストア派、エピクロス派、古代懐疑主義の違いとは、その「特異点」の設定の仕方の相違に結局は収斂する。ストア派は「大いなる一」を特異点に設定した。それは後々キリスト教の「神」とも響き合うような説得力ある特異点に成長していくことになる。エピクロス派は「小さなる一」を特異点にした。デモクリトスに由来する、いわゆる原子論である。この発想は近代になって自然科学の作法や民主主義の理論的支柱である社会契約論として花開くことになるだろう。そして古代懐疑主義は、特異点を「無限遠の彼方」に設定した。いつまで経っても辿り着かない人間認識の臨界に特異点を設定することで、我々のあらゆる認識が常に暫定的な中間地点であるという物語を描いた。近代哲学の華であるカントの理性批判やフッサール現象学とも響き合うエキサイティングな物語ではある。
要するにストア派・エピクロス派・古代懐疑主義の3つは、「特異点」というものの設定において究極と思われる3類型を論理形式的に代表するものであり、だからこそそれぞれそれなりの説得力を持つし、信者もつく。(いちおう論理的には古代懐疑主義の反対である「最近接」に特異点を設定するという立場もあり、それは古代であればアリスティッポスのような形を取りつつ、近代ではホッブズ以降に経験主義という形で精緻化されていくことになるだろう)。まあ、それだけのことだ。本書は、序章でやたらと古代懐疑主義の再発見の意義を強調しているけれど、そんなに凄いことを言っているようには読めなかった。

逆に言うと、本書が浮き彫りにしているのは、むしろ古代懐疑主義がストア派やエピクロス派と同じ土俵に立っている、ということだ。ストア派がアパテイアと呼び、エピクロス派がアタラクシアと呼ぶものを、やはりまた古代懐疑主義も追究している。そういう意味で古代哲学は共通して、「哲学」と言うより「幸福論」と呼ぶ方が相応しい。古代懐疑主義は、ストア派やエピクロス派との距離より、近代懐疑主義との距離の方がはるかに遠い考え方に見えるのだった。

J.アナス・J.バーンズ/金山弥平訳『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』岩波文庫、2015年

【要約と感想】諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』

【要約】1970年頃から、子どもたちは決定的に変質しました。教育が行き詰っているのは教師や学校が悪いのではなく、変質した子どもに対応できないのが原因です。
変化の本質は、「近代化」が思わぬ形で達成されてしまったことです。我々教師は子どもたちに近代的自我を持たせることを夢見てきましたが、高度消費社会の到来は予想外の形で子どもたちに「かけがえのない個」をもたらしました。そして確固たる指針を失って個人的な利害にしか関心を持たない教師たちが、その傾向に拍車をかけています。産業社会における近代化に特化してきた学校は、このような形で近代化を達成した子どもたちに対して、もはや無力です。
著者は1960年代には集団主義的な学級経営によって、管理や受験に対抗し、人間形成に関する成果を上げてきましたが、70年以降の変質した子どもに対しては、もうお手上げです。

【感想】近代の断末魔だなあ。いやはや。
ちなみに私は1972年生まれで、高校に入るのが1987年ということで、まさに著者の言う得体のしれないオレ様化した子どもたちのド真ん中に位置するのであった。でも、著者の言っていることはよく分かる。なぜなら、私も本質的には近代主義者だからだ。教育の本質が「自由を強制するというアポリア」であることを自覚する、近代主義者だからだ。教育の本質が「公共性」にあることを信じる、近代主義者だからだ。
しかし著者と違うだろうところは、私(あるいは私と同世代)の場合、もはや近代を続行しなくても問題ないかもしれないと考え始めているところにある。たとえば東浩紀が言う「動物化」とかテクノロジーとは、個々の近代的自我に依拠しなくても近代的システムが成立してしまうという事態を言い表している。東の議論を徹底すると、近代的自我を持てない個体には、もはや持ってもらわなくても結構ということになる。勝手に単なる消費的主体として豚のように楽しく生きていただければいいのである。
とはいえ私個人は、教育学徒だけあって、そこまで割り切れないものを抱え込みながら近代と対峙しなければならない。著者が「近代の終わり」を明確に見据えながらも、それでもアポリアの渦中でもがき続けるのは、「それが教師だからだ」としか言いようのない情念が関わってくるように思うわけだ。そういう情念の在り処も窺わせてくれる、なかなか面白い本ではあった。

【備忘録】
近代の終わりに関する議論がとても多い。そしてそれが高度経済成長と関わって70年前後に転換点があるという指摘は、私個人の関心にも示唆を与えてくれる。言質を取っておきたい。まあ、宮台真司が言っていることとほぼ被っているんだけれども、教育関連の文章に明確な影響があることは、確認しておいてたぶん損はない。

【近代の達成と終わり】
「私は高度消費社会と大衆民主主義とを二つながら備えているこの国が新しい「時代」に入りつつあると考えているが、それは「近代」が達成されたと同義である。」(18頁)
「教師が教え、生徒が学ぶという教育の方が危うくなり、生徒の個別的な学びを教師が支援するという怪しげな「個性重視」なるものに文部省は流れつつある。これは「個性」や「個人」にもともと実体的な価値があるということを前提としなければ成り立たない。近代公教育は市民の卵としての無数の「私」を育成するところに、その原基がある。
(中略)もともと、人間は「私」の局面において「外部」を学べるものである、近代の夢は十全な「私」が成熟して「この私」(自立した近代市民)になるということになっていた。
(中略)おそらく、個体の成長のしかるべき時期に「外部」が適切に提示されなかったこと、システム的な「外部」である学校が有効に機能していないこと、高度消費社会からの眼差しが個体に強い「主体」の意識を与えていることが、この国において子どもたちが「私」と「この私」制を簒奪する形で「自己確立」を成し遂げた理由であろう。かくして、日本の普通教育は「時代」に合わなくなってきたのである。
子どもたちの変容に適合すべく、「個性重視」のソフトな教育や学校が耳ざわりよく語られる。たぶん楽天主義者は「近代」そのものの確実性や普遍性に寄りかかっている。これらの問題はことによると「近代」そのものの宿痾かもしれないのにである。」(51-52頁)
「時代の子としての高校生たちは七〇年以降の高度成長経済の進行のなかで、内部に社会性を持った個人としての硬質さをどんどん欠いていったように、私には見えました。」(245頁)

高校生の変質を「70年」という具体的な年代を出して、資本主義の変質という下部構造から理論化してくれているのは、私個人の理屈にとってはとても都合がいい。

また、時代がどうかというよりも、近代教育に本質的なアポリアに対する意識がとても高いところは実に興味深い。この原理を自覚していない人は、世の中にとても多い。

【近代教育の本質的なアポリア】
「教育は子どもに文化伝達をしながら、将来主体的人格として「自立」することを期待している。」(23頁)
「冷静に考えればわかるように、生徒は学校では明らかに「文化伝達の対象」であるが、「主体的な人格」は学校を出てからそうなるべく想定されていることであり、そこに時間差があるといってよかろう。また、すでに「主体的な人格」になった者が「文化伝達の対象」であるはずがない。」(24頁)
「とりわけ、教師の側が「主体的人格としての子ども」の側面を重視することは、教師の個々の知性や人格によって生徒たちに「価値」を教え込もう、教え込めるという思い上がりと錯覚を生じさせる。」(29頁)
「学校では何ごとか意味のあることをなそうとすると、必ず「近代」になってしまう。」(165頁)
「近代公教育の学校は、「未開」である子どもを啓蒙して、近代社会の市民・生活者たるべく育て上げることを目的としている。」(166頁)
「親は子どもが言うことを聞くように育てながら、いずれ言うことを聞かなくなるように育てなければならない。」(231頁)

ちなみに諏訪は「教育活動(生徒にとっては学習活動)においては「文化を伝達する」プロセスと、「生徒が自立へ向かう」プロセスが同時的に進行している。どちらか一方だけがなされているわけではない。」(25頁)というが、これがまさしくヘルバルト(教育学の父)が言った「教授(instruction)があって教育(education)があり、教育があって教授がある」という洞察であることは自覚されているだろうか?

そして近代教育のアポリアの焦点となるのは、近代的自我を支える「特異点」である。この特異点への言及も、興味深いところではある。諏訪は絶対的に「外」や「上」など外部からもたらされると決めつけているが、実はそれこそが諏訪の論理構成全体の鍵を握っている。諏訪のこの認識と論理が正しいかどうかが、彼の教育論を批判する上での決定的な要点となる。逆にいえば、この急所を認識しないで批判しているとしたら、ほぼ間違いなく的外れということだ。

【特異点】
「「神を畏れなくなった」ということは、「個」が自立したのである。正確には、「個」が自立したと錯覚しはじめたのであり、「個」が現実において生活している「共同社会」を対象化しはじめたのである。(中略)要するに、高度消費社会と大衆民主主義社会と情報化社会が「新しい個」を分泌しはじめたのである。」(113頁)
「私たちは「個」が自立するためには「外」なる「上」なる「普遍」が必要であることを知らなかったのである。」(115頁)
「「個」が主体となるためには、一度「個」を超える超越系に征服されなければならない。そのためには、個体が本源的に持っている自己中心性が完全に「外」から「上」から否定される契機が必要である。」(202頁)

個人的には、「特異点」は「特異点」でありさえすればいいので、論理的にはそれが必ず「外」や「上」からもたらされる必要はないと思える。まあ、「特異点」は外や上から与えるのが一番「らくちん」なのではあるだろうが。しかし、「内」や「下」から特異点が立ち現れる可能性は、模索してもいい。

そして著者は、近代が終わって教育がどうなるかという予見も示している。

「前期近代型の公教育システムはそこからはみだし、落ちこぼれる生徒を作り、それは個人の責任ではなくシステムに問題があるとされているが、後期近代型の個性尊重システムは、個人の逸脱を許さないものになろう。つまり、これこそ超「近代」の理念に沿った「構築」なのである。」(167頁)
「いま文部省が押し進めている教師の意識改革は、本来教育的意味合いを持っていた「近代前期」的な要素を洗練させて「近代後期」的なものにすることである。」(167-168頁)

なかなか鋭い指摘だと思う。1998年段階でこれをしっかり予見できていたことに驚くが、まあ、宮台も言っていたことではあった。ともかく、いわゆるインクルーシブ教育等は、この方向(個人の逸脱を許さない)での構想ではあるだろう。あるいは苫野一徳が目指すのも、この近代後期的な構築ではある。いちおう、それが悪いと言いたいのではない。私個人としても、「事ここに至れば、選択肢はそれしかないだろうなあ」というところではある。

ところで、「見る/見られる」の非対称性というメガネ論的にも興味深い文章も記録しておきたい。

「日本は近代になって一度だけ「見られる」側から、「見る」側にまわろうとして致命的な大失敗をした。」(206頁)

なるほど。これはメガネ弁証法に対しても示唆を与えてくれる観点だ。勉強になった。

諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』洋泉社、1998年

【要約と感想】諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』

【要約】学校には市民社会の論理は通用しないし、適用するべきではありません。が、学校に市民社会の論理が侵入して、大人の指導を受けるべき未熟な子どもたちが自分も大人と対等な「近代的個人=オレ様」だと誤認し、教師の指導を受け容れないのが、いじめ発生の原因です。マスコミや行政も教師の力を削ぐ愚かな行為に荷担しており、如何ともしがたい状況に陥っています。ほんものの近代的主体を形成する上では、いじめは不可抗力です。

【感想】これほど「近代の論理」をストレートに打ち出してくる人は、いやあ、貴重だなあと思う。右派とかリベラルとか、この人に訳の分からないレッテルを貼る人も多いようだけど、彼はカント的な意味での「近代主義者」以外の何者でもない。本書でも教員採用試験に出てくるようなカントの近代主義的見解を繰り返し述べているに過ぎず、そういう意味では実は教育学的に新しいことは何も言っていないのだった。たとえば、次に引用するのは北海道・札幌市が2016年に実際に教員採用試験に出した問題だが、仮にカントを知らなくても、本書の主張を援用すれば解けるのだった。

ドイツの哲学者であるカント(Immanuel Kant 1724~1804)は、「子どもには自分に( 1 )が加えられるのは、やがて自分固有の自由の行使がうまく行えるようにという配慮によるものであること、自分が( 2 )されるのは、それによってやがて将来自由でいられるように、すなわち他人の配慮に頼らなくてもすむように、という考え方によるものであることが、示されなければならない。」と述べた。

問1 空欄1、空欄2に当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア. 1―手心 2―放任
イ. 1―手心 2―教化
ウ. 1―手心 2―支援
エ. 1―拘束 2―放任
オ. 1―拘束 2―教化

答えは、もちろん「オ」だ。近代主義者なら、間違えるわけがない。未熟な子どもに「手心」を加えたり「放任」したりするのは、責任感ある大人の態度ではない。子どもが将来市民として自立するためには、大人が適切な拘束と教化を与えなければならないに決まっているのだった。
もちろんこれは私個人の意見ではない。カントを代表とする近代主義の見解だ。そして本書の立場も、完全にこの枠内にある。

ところでしかし、現代において、この近代主義を貫徹することは可能だろうか? われわれは、近代教育に「自由を強制する」というアポリアが如何ともしがたく貼り付いていることを自覚している。たとえば本書が批判する宮台真司が試みたのは、「自由を強制する」ためにどうしても必要な「特異点」の所在を明らかにすることであった(具体的にはたとえば日本人にとっての天皇などの議論)。しかし諏訪は、「自由を強制する」というアポリアを自覚しつつも、特異点の存在を原理的に認めず、居直る。

「これからも教師も生徒も親も苦労していくしかないのだ。私たちは近代というパンドラの箱をすでに開けてしまったのである。」(229頁)

しかし現代の潮流は、諏訪の思いとは逆に、「強制なしで自由になる」ことを夢想している。テクノロジーの発展によって、パンドラの箱を閉じられるのだと考えている。このあたりは東浩紀などが盛んに主張しているところだ。あるいは苫野一徳も、近代の終りを明確に意識しつつ、予定調和的に「自由を強制する」という近代教育のアポリアを乗り越えようと試みている。果たして、近代教育のアポリアは現代テクノロジーによって乗り越えることが可能なのか、どうか。つくづく、教育とは因果な仕事だなと思う。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書には近代主義的立場と、「近代の終わり」に対する諦めが、そこらじゅうで表明されている。いくつかメモしておきたい。
まず、近代が終わっているという認識をところどころで確認できる。

「学校はもともと近代の器である。近代の器が揺らぎ始めたのである。ただ私の経験から言わせてもらえば、学校は近代を確立した六〇年代からすでに揺らぎ始めていた。おそらく、教育不全・学校不全は近代の宿命なのであろう。」(20頁)

「社会に適応した人間になるのが近代(前期)型の人間であるとすれば、七五年あたりから後期近代(超資本主義)に入り、自己に適応した社会を求める人間像が登場してきたのではなかろうか。」(30頁)

「「行政のちから」「教員のちから」で学校が動かされるのが、明治からの近代前期の流れである。一方、「民間のちから」「子どものちから」は、まさに成熟した近代後期のものである。」(73頁)

まあ、このような「近代の終り」に対する認識は、特にオリジナルな考えではなく、世界中の社会学者が口を揃えて指摘しているところだ。諏訪にオリジナルなのは、これを自分の経験(学校教育や生徒の具体的な変質)と接続させて論じるところだろう。

「子どもが学校へ入ってくる時、すでに家庭における第一次教育は終了し、地域や情報産業や経済システム等における第二次教育も終了している。もうすでに立派は個性を身につけている。まだ一人前の近代的人間(近代的個人)になっているわけではないが、本人の自覚は一人前だったりする。」(61頁)

「もう三〇年以上も経って、時代や子ども・若者たちの目鼻立ちがくっきりしてきたから、いじめを除いてすべてが子ども(生徒)たちの近代社会からの逃避を意味していることが透けて見えてきた。近代的人間になることを嫌がっている。」(113頁)

まあ、このあたりの認識も、佐藤学が「学びからの逃走」と言っている事態と本質的には変わらない気もするが。とはいえ「近代的人間になることを嫌がっている」という指摘には、諏訪の経験的な実感が伴っており、拝聴するに値する。
そしてその現実に対して示される対処法は、まさに近代主義だ。

「学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向うような教育(指導)をしているところだ。」(121頁)

「子ども(生徒)を近代的市民にするためには、ある種の自由や権利の制限はやむをえない。」(211頁)

「彼らにとって近代的個人とは「自らそう思っている人」のことである。「ただの自分」のことである。なるべき理想のあり方ではない。そして、現実には共同体的な贈与関係の中に心地よく漂っている。結局、生徒たちがモデルとすべき(してしまっている)親やまわりのおとなや教師たちが、脆弱な近代的個人になっていたからなのであろう。
私は教育がめざすべき近代的な個人(主体)を社会的なもの、ないしは、「公」的な要素に重点をおいて考えている。つまり、一人ひとりの内的な意識(「内的な自己」)よりも、その社会的な現れ(「社会的な個人」)のほうが重要だと思っている。」(80頁)
「近代的個人とはこの「内的な自己」と「社会的な個人」とを併せ持っていることを自覚している人間のあり方なのであろう。」(270頁)

これは上述したカントの近代主義そっくりそのままの再現だ。あるいはヘーゲルの言う「即自(内的な自己)」と「対自(社会的な個人)」を止揚して「即且対自」に至る弁証法運動を信奉していることの表明でもある。とにかく近代どっぷりの理屈である。近代が夢想した「未熟な子ども/人格の完成した大人」の二分法の形式的な適用である。
そんな諏訪の近代的個人に対する見解は、まさに教科書通りである。(それが悪いというわけではない、というか現憲法下では極めて真っ当な見解だ)。

「近代的個人とは何か? 社会に参画しながら社会を相対化するちからを持ち、近代的生活様式に馴染んだ、自立した合理(理性)的な人間とでも想定できようか。(中略)
近代信仰とは、近代社会を信じることよりは近代の理念を信じることであり、それは人間の個人の価値を信じることである。」(90頁)

そしてそれを踏まえた上で、近代特有の人間関係(つまり市民社会)に対するシビアな認識が示される。これが彼の言う「いじめの原因」だ。

「個と個の争いは近代(的)になって発生したのである。いじめの根源もここにある。」(36頁)

そうなのだ。「万人の万人に対する闘争(リヴァイアサン)」は「近代」だからこそ発生するのだ。共同体主義では、「個」と「個」の争いが起こるわけがない。だから、「近代的な個」を認めるのであれば、論理必然的に「個と個の闘争」も認めざるを得なくなる。だから諏訪は、「個として成長するために、いじめは必要だ」と言い切れるのだ。すべて近代主義の枠内の論理だ。あるいは「いじめは成長する上で糧となる」という認識は、「自然権」から「自然法」へと至る近代的な理性を信頼するという点で、まさにホッブズ的であるとも言える。

しかしそんな諏訪でも最後にやはり「特異点」を設定するしかなかったのは、近代主義のどうしようもない限界が示されていて、極めて興味深い。そしてそれは誰もが逃れられない原理的なアポリアであって、諏訪の個人的資質のせいではない。どれだけ「完全で無矛盾」な世界を夢想しても、あるいは体系が完全で無矛盾であればあるほど、「特異点」が浮かび上がってこざるを得ないのであった。

「自己が変革され、人間性が高まるためには、「人格の完成」のような倫理的な絶対目標が必要である。」(280頁)

まあ、このように「特異点」として「人格の完成」を設定するのは、現憲法下においては、極めて真っ当なセンスだ。この諦めは、私の感覚に極めて近い。だから諏訪の論理は、個人的にはかなりスッと中に入りこんでくるのだった。近代主義者の悲哀と覚悟を感じざるを得ないのであった。

諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』中公新書ラクレ、2013年