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【栃木県大田原市】大田原城址は桜が綺麗

栃木県大田原市にある大田原城に行ってきました。こちらは桜の名所ということです。ちなみに6kmほど東にある黒羽城は紫陽花の名所です。

案内パネル等によると、城主の大田原氏は、もともと那須氏の部下でしたが、小田原征伐や関ヶ原の功績によって近世大名に成り上がったもののようです。特に関ヶ原の際の対上杉(会津)戦では、黒羽城の大関氏と共に最重要防衛ラインを担っています。

案内パネルは本丸の真下に設置されていますが、比高差がありすぎて、本丸の様子はまったく分かりません。なかなか巨大な城です。

下の写真は、二の丸と本丸を隔てる空堀です。現在は煉瓦の橋がかかっていますが、当時はもちろん木橋だったでしょう。

先に黒羽城の超巨大空堀を見てしまったので、その時点では「ふーん」という感じでしたが、改めて見てみればなかなか立派です。

二の丸から本丸に入る虎口には、当時は築地塀が張り巡らされ、冠木門が築かれていたようです。

下は土塁の上に登って本丸を見ているところです。

当時は城主の住居と政庁がありましたが、現在は市民の憩いの場として利用されています。

土塁の上には散歩道が整備されていて、犬の散歩をしている人などがいました。当時は築地塀が張り巡らされていたところですが、現在は桜の木で囲われています。春は、さぞ綺麗なことでしょう。

下は、北曲輪に降りて本丸を見上げている図です。

かなりの比高差で、迫力があります。この土木造成の跡は当時からまったく変わっていないだろうところで、なかなかの見応えです。

下は城の東側、蛇尾川と本丸の間の場所です。

現在は帯曲輪のようになっていますが、図面を見ると、当時は整備されていたなったかもしれません。

この城のおもしろいところは、蛇尾川の河川敷と一体になっているところです。

上の写真では、右にこんもり見える森が城です。今は埋め立てられてしまっていますが、川から城内に水堀が引き入れられていたので、水運も利用していたのではないでしょうか。

蛇尾川の河川敷から城を一望できますが、現在は樹木に囲まれて全体像がよく分かりません。当時は木々もなく、白い築地塀に囲まれた立派な御殿が聳え立っていたことでしょう。

大田原藩は一万二千石ということで小さめの藩ですが、城はかなり立派でした。奥州街道をすぐ西に抱えた交通の要衝で、人の往来も多く、蛇尾川の水運も利用でき、財政的には潤っていたのかもしれません。
すぐ東隣にある黒羽藩は一万八千石と大田原藩より大きいのですが、両藩のライバル関係がどのような感じだったのか、お互いに気にしていなかったのか。少し興味があるところです。
(2018年6/14訪問)

【栃木県大田原市】黒羽城址は紫陽花が綺麗

栃木県大田原市にある黒羽城に行ってきました。6kmほど西にある大田原城は桜の名所ですが、こちらは紫陽花の名所として知られています。

黒羽城は、地図で見る通り、西を那珂川、東を松葉川に挟まれた、天然の要害です。城を作るならここしかないだろうという恵まれた立地条件です。

とはいえ、奥州街道からは少し東に外れており、交通の要衝という感じではない気もしますが、経済圏の中心としてはどうだったのでしょうか。(那須盆地東端を走る関街道直下ではあります)。黒羽藩も一万八千石と、それほど大きな藩ではありません。水戸に繋がる那珂川水系の水運がどれくらい発達していたかが問題ですが、手っ取り早く分かる資料はなさそうですね。

城はかなり広大で、とても立派でした。一万八千石の城としては破格の大きさなように思います。関ヶ原合戦の際の対上杉防衛ラインとして重要視されたことは分かりますが、太平の世にあっては維持がかなり大変だったと思います。なにかしら儲かっていたのでしょうか。

案内パネル等によると、城主の大関氏は小田原征伐と関ヶ原合戦を巧妙に切り抜けて、かつての主である那須氏を追い落として近世大名に成り上がったもののようです。

さて、本丸はかなり広大です。

かつてはここに城主大関氏の居館がありました。案内パネルを見ると、こちらは一万八千石っぽい構えになっているような気はします。

本丸西側には櫓型の展望台あって、那須盆地を一望することができます。

木立に遮られて全貌が分かりにくいですが、那珂川からの比高差はかなりあって、城としては相当に防御力が高そうに思います。

そして黒羽城の一番の見所は、本丸と二の丸を隔てる空堀ではないかと思います。巨大です。さすがに水戸城ほどではありませんが、かなり巨大な空堀です。関東の土の城を代表する空堀の一つなのではないでしょうか。

現在は空堀の斜面にたくさんの紫陽花が植えられています。訪れたのは6月半ばで、ちらほら花が開いていました。見頃になると、ライトアップなどもあって、かなりの壮観となりそうです。

二の丸から三の丸へ向かう道も、なかなか味わい深い感じになっております。

三の丸には、馬に跨がる松尾芭蕉と弟子の曽良の像が建っていました。

案内石盤によれば、奥の細道紀行の途次、知人のいる黒羽に立ち寄ったようですね。

単に奥州街道を北上するだけなら大田原から白河に抜けて行ってしまうわけで、黒羽に寄るためには遠回りをしなければなりません。それを思えば、わざわざ芭蕉が遠回りしてまで黒羽に立ち寄ったことは、地元の人にとっては大きな誇りとなったのかもしれません。特に2005年に平成の大合併によって旧黒羽町が大田原市に編入された中、「黒羽」の名を冠する城址は今後も地域のアイデンティティを保つ上で重要な役割を果すのではないかと推察します。
(2018年6/14訪問)

【栃木県佐野市】佐野城に行くと、いつも若いカップルがいる

佐野城跡に行ってきました。JRと東武の佐野駅改札からいきなり徒歩10秒で三の丸に行けるという、たいへん立地条件のいい城です。

現在は公園として整備されています。が、大きな堀切の跡をしっかり見ることができます。
入口の案内パネルによると、関ヶ原後に唐沢山城を廃城にして、新たにこちらに築城したようですね。完全に山城の唐沢山城よりは、確かに平地が広がっている佐野城のほうが行政の中心としては都合が良さそうです。

南から北へ、三の丸・二の丸・本丸・北出丸と続く連郭式の城です。かなりの比高差があって、駅から続く跨線橋がそのまま三の丸の高さになっています。縄張図を見ると、外堀もたいへん立派です。近世城郭としてかなりの規模であったことが分かります。

見所は、やはり堀切です。こちらは二の丸と本丸を隔てる巨大堀切。

関東の「土の城」らしい佇まいが、見事です。
本丸の案内パネルによると、どうも石垣も残っていたようです。ただし保存のために埋め戻されていて、見学はできません。

石畳の様子も見たかったのう。

本丸と北出丸を隔てる堀切も、迫力があります。かなりの比高差があることが分かります。

北出丸の北は断崖絶壁になっていて、こちらから攻め上ることはほぼ不可能ではないかなと思います。絶好の要害に城を作ったなあ。

現在、本丸には東屋が、二の丸には文化施設が建っています。2019年に訪れたときには二の丸で、2012年に訪れたときには本丸で、高校生らしきカップルがいちゃついていたのでした。どうやらここは現在ではカップル憩いの場として定着しているようでありました。

佐野らーめんチャーシュー増し増しをいただいて、佐野を離脱するのでありました。
駅直結の「らーめんミニ博物館」には、佐野市内のラーメンが高クオリティの食品サンプルで展示されていて、一見の価値はあるかも知れません。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)

【栃木県佐野市】関東七名城の唐沢山城は、暑すぎて猫が伸びていた

唐沢山城に行ってきました。関東七名城の誉れも高く、2014年にはめでたく国指定史跡となりました。続百名城にも選出されています。

国指定史跡になる前、2012年にも一度訪れています。そのときはゴールデンウィークで、ツツジが見事に咲いていたのでした。

唐沢山城は、案内板によれば、藤原秀郷が築城したとのこと。

とはいえ、現在の見事な高石垣の姿は、戦国時代の佐野氏によって整備されたものでしょう。上杉謙信の猛攻を何度も耐えた城として知られています。関東戦国史を語る上で絶対に外せない城です。

縄張図を見るだけで、固い城だということが分かりますね。現地に行くとよく分かるのですが、平野の端にいきなり断崖絶壁が屹立しており、まさに天然の要害といった趣です。関東平野の北端に位置し、戦略上も極めて重要なところです。

さっそく虎口から城に入りましょう。駐車場からすぐ虎口が見えます。

実に見事な食い違い虎口です………ん? 虎口の脇になにやら白い物体が見えますが。

どうやら猫が二匹倒れていたようです。

生きてます。ただ伸びているだけでした。
この日の佐野は、気温38.7度を記録する大変な猛暑でありました。やる気が出ないのは分かります。しかし、どう見ても「警備警戒中」とは思えない、ダラけた姿です。

起きる気配のない猫を虎口に残し、東方向、本丸へと向かいます。現在は神社の参道として整備されています。途中で何か寝てますけどね。

西側から三の丸に入るところには、立派な堀切があります。「四つ目堀」と名前がついています。

三の丸と二の丸の南側には、神社に向かう参道が整備されています。当時は帯曲輪だったのかなあ。現在は「風鈴参道」ということで、たくさんの風鈴が並べられています。

気温は38度ですが、木陰で風鈴の音が鳴ると、なんとなく涼しく感じます。

この参詣道を進むと、直接本丸に行くことができます。やはり虎口から本丸に直通することは考えにくいので、戦国時代当時の道ではなく、後から整備されたのでしょう。
本丸には唐沢山神社が鎮座しております。

唐沢山神社の祭神は、藤原秀郷公です。佐野市には秀郷の墓もあるようです(未訪)。

本丸は中世山城らしく、こぢんまりとしています。なんとなく後詰めの城という趣ではあって、従来の居館は麓にあったような気もするところです。

神社の境内は、なかなか清廉な雰囲気が漂っております。

本丸境内でも風鈴が爽やかな音を奏でていました。

本丸の南西側には、たいへん立派な石垣が組まれています。

関東戦国期の城で、これほど立派な高石垣を見ることはほとんどありません。他には八王子城か金山城くらいでしょうか。

二の丸から西に本丸を見るの図。今は神社本殿への参道として整備されていますが、かつては虎口等が整備されていたのでしょうか。

二の丸から本丸の高石垣を臨む。

実に見事です。国指定史跡になるのも、頷けます。

虎口まで戻って、南側の天狗岩に登ります。

天狗岩からの眺望は、実に見事です。

唐沢山城が関東平野の北の端に位置していることが、よく分かります。何も遮るものがなく、遙か彼方まで見晴らすことができます。空気が澄んだ冬なら、新宿のビル群まで見えるようです。いやあ、絶景。

しかしそんな見事な眺望も、ニャンコどもにはまったく意味がないのでありました。人間が近寄っても、ぴくりともしません。だらしないなあ。

駐車場脇のレストハウスでソフトクリームをいただき、焼き付けるような日差しの中を下山するのでした。空気が澄んだ季節に、また来よう。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)

【栃木県足利市】足利織姫神社は恋人の聖地だが、足利城は山の奥

足利市の足利織姫神社に行ってきました。
織姫神社の背後に続く山道をさらに進むと足利城の跡に行けて、こちらは2012年5月に訪問しています。

さて、足利織姫神社は機神山の中腹にあります。

鳥居をくぐったら、階段が待ち受けています。

階段は229段あります。がんばりましょう。

階段の途中、ところどころに足利市の文化を示す様々な記念碑や銅像等が据えられています。足利氏の家系図には、歴代室町将軍や古河公方などのメジャー系列のほか、千葉県小弓を本拠地とした小弓公方=足利義明の系列もしっかり書き込まれていました。鑁阿寺に寄進した足利国朝が「喜連川公方」って書かれていて、興味をそそられます。「喜連川公方」ってメジャーな呼ばれ方なんでしょうか?

山腹にある梅の花は、見頃を迎えておりました。

織姫神社の御祭神は、天八千々姫命と天御鉾命の二柱。もともとは伊勢で機織りに関わる神様だったのが、いわゆる織姫と彦星に習合していった感じです。

階段を登りきると、目の前に本殿が現れます。本殿は鮮やかな朱色を基調としていて、なかなか見事です。階段を登りきったという達成感を増幅させてくれます。

振り返ると、足利の街と渡良瀬川を一望できます。229段上ってきた甲斐がある、清々しい眺めです。

ところで、2012年にも織姫神社に来ているのですが、その時とは境内の印象がかなり変わっています。というのは。

2012年にはこういう萌え幟がそこかしこに立っていたんですね。2008年に西又葵が描いたイラストで萌え米が話題になって以降、萌えキャラによる町おこしが盛んになっていた時期です。足利も萌えキャラで頑張っていたんですね。2018年訪問時には、神社境内からは萌え幟が消えてしまっていましたが、町中ではまだまだひめちゃんとたまちゃんは頑張っています。

境内には「恋人の聖地」の鐘が設置されています。七夕のロマンスにあやかるのと、機織りで縦糸と横糸が結び合わさるという連想から、足利織姫神社は恋愛パワースポットということになっています。
しかし2018年2月は、修復工事中で鐘そのものは取り外されていました。あらら。

さて、2018年は神社に参拝してすぐに帰りましたが、2012年はここからさらに山の奥へ、足利城を目指して踏み入ります。

織姫神社から北の山一帯は自然公園として整備されていて、ハイキングコースとしてとても人気があります。織姫神社を起点とするハイキングコースを、足利城を超えてさらに進むと名草巨石群というパワースポットがあって、そこを目指すハイカーが多いのですが、私は足利城まで。

地図で見るとこんな感じ。足利城は織姫神社のほぼ真北に位置しています。

で、ゴツゴツした岩が露出する山道を進んでいくと、おっさんの声が響き渡ってきました。

断崖絶壁の岩の上で叫ぶおっさん。まあ、眺めがとてもいいので、ヤッホーの一つでも叫びたくなる気持ちは分からないでもありません。
で、こういうふうに岩が露出しているので、足利城とか金山城とか唐沢山城とか、関東の城には珍しく石垣が組まれるのかなと思いました。

尾根の岩道をしばらく進むと、足利城跡に着きます。現在は神社になっています。

案内板。足利城は両害山城とも呼ばれているようですね。源平合戦と戦国時代に機能したお城のようです。足利氏の勃興についても完結にまとめられていて、分かりやすいです。

縄張の様子が分かる案内板。

案内板。

本丸は、神社として整備されています。曲輪として整備された様子は分かりますが、当時を偲ぶよすがはあまり残されていません。

足利城本丸跡から東方の足利市街を臨むの図。ここからの眺めを見る限りでは、ここに城を設置するのは地政学的に合理的な気はします。まあ、広域的な観点で見た場合、前橋や佐野ほどの地政学的重要性はないような気もしないではないですが、今と昔では川の流れや道筋が違っているから、一概には言えないんだよなあ。関東の戦国時代には、古河公方や上杉謙信等も絡んで、何度か争いに巻き込まれているようです。

そんなわけで、織姫神社の境内でいちゃいちゃするカップルを横目に見ながら、足利を後にするのでした。
(2018年2/26訪問)