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【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

復元された三重櫓は、中に入ることができます。
江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

諸行無常、静かに合掌。

片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)

【宮城県柴田町】船岡城には樅ノ木が残っていた

宮城県柴田町の船岡城に行ってきました。
2015年には三の丸と樅の木デッキにしか行けなかったのですが、今回は二の丸と本丸にもしっかり足を踏み入れることができました。

かつての大手門付近には、現在は地域学習施設や歴史博物館「しばたの郷土館」が建っています。

郷土館の常設展示では、旧石器時代から近世までの歴史や古民具が展示されています。特に充実しているのは、頼朝の奥州征伐との関わりや、寛文伊達騒動についてです。

船岡城は急峻な山に築かれています。麓から急勾配を登ると、まず三の丸に出ます。

三の丸には冠木門らしきものが建てられていますが、うーん、これ、どうなんでしょうね。ちょっと中途半端かなあ。

三の丸の案内パネルに船岡城の概要が記されています。

考えてみれば、船岡城が江戸時代の一国一城令にも関わらず存続していたのは、そこそこ不思議ではあります。仙台藩は他にも白石城とか例外的に城を構えていたりするのが、なかなか興味深いところです。「城」と呼ばずに「要害」と呼べば問題ないってことなのかなあ?

三の丸と二の丸の間は、現在では駐車場として整備されているほか、観光物産交流館「さくらの里」が営業しています。

地元の野菜など名産品が売っている他、食堂もあります。ナスがとても安くて魅力的だったのですが、持って帰るのが大変そうなので断念して、ソフトクリームをいただいてきました。

で、三の丸から本丸までは、かなりきつい坂になっています。足で登るのは大変なのですが、ありがたいことにスロープカーが用意されてます。

スロープカー、本来は15分間隔で営業しているようなのですが、私が訪れたときには他に観光客もなく、いきなり一人だけで乗せてくれました。眼下にいろいとりどりの花が咲き誇り、とても楽しい行程です。桜の季節は、とても賑わいそうです。

本丸には、寛文伊達騒動の中心人物の供養塔があります。

しかしこの寛文伊達騒動、博物館で各種資料を読むだけでは、経過自体は分かる気がするけれども、事件の核心はまったく見えてこないんですね。

いやほんと、どうして伊達藩が取りつぶしにならなかったのか、不思議で仕方がないところです。

本丸には、巨大な観音像も鎮座しております。

人はどうして巨大観音を作りたがるんでしょうかね? かつては中に入って展望することができたらしいのですが、東日本大震災の影響で、現在は立ち入り禁止となっております。

観音様に頼らなくとも、本丸からの眺めはとても素晴らしいです。東を見やると、はるか彼方に太平洋が見えます。

南北から山が迫ってボトルネックの地形になっていることが分かります。福島から仙台に抜けるためにはどうしても船岡を通過しなければならず、交通・軍事の要衝でした。城を作るには絶好のポイントです。
現在は季節を感じる花々で城全体が彩られていて、血生臭い歴史を感じさせるものは微塵も残っておりません。

城の北側、三の丸とは別の尾根筋には、「樅の木は残った展望デッキ」があります。

寛文伊達騒動を題材に取った小説、山本周五郎「樅ノ木は残った」を記念する碑と、樅の木が鎮座しております。

うーん、説明を読んでも、やはり何が問題なのかピンと来ないぞ。ちゃんと小説を読まなきゃだめそうですね。

展望デッキからは、白石川沿いに立ち並ぶ桜並木を見下ろすことができます。千本桜、春はさぞかし壮観なことでしょう。桜の季節に訪れたいけど、きっと凄い人出なんだろうなあ。
(2015年5/31、2018年8月訪問)

【宮城県塩竈市】塩竈神社と日本三大奇の御釜

塩竈神社と、その末社の御釜神社に参拝してきました。
塩竈神社の鳥居から本殿まで、200段超の階段が続いております。麓から見上げたらすごい高さです。ひえ~っと思いましたが、実は一段一段の段差がそれほどでもないので、思っていたよりは楽に登れました。

この鳥居からの階段、戊辰戦争で榎本武揚と共に函館に向かうフランス軍事顧問官ブリュネが、塩竈寄港時に美しい水彩画として描きとめていて、そのときからほとんど景観が変わっておらず、なかなか感慨深いものがあります。

塩竈神社の鳥居には、誇らしげに「陸奥国一宮」の額が掲げられています。たいへん由緒ある神社です。

敷地もたいへん広大です。
案内板を見ると、志波彦神社や御釜神社の境内も描き込まれています。

由緒書きによれば、塩竈神社の祭神は、盬土老翁神(しおつちおぢのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)の三柱です。

タケミカヅチとフツヌシは、日本神話では天孫降臨のときに大活躍する戦の神としてよく知られている二柱です。タケミカヅチは常陸一宮の鹿島神宮、フツヌシは下総一宮の香取神宮に鎮座しております。
この戦の神が蝦夷討伐の最前線に呼び出されていること自体が、興味をかき立てます。そもそもおそらく、かつて日本に文字もなかった頃、ヤマト勢力の最前線は下総の香取神宮と常陸の鹿島神宮ラインにあっただろうと想像します。そこから前線が塩竈の地まで押し上がり、タケミカヅチとフツヌシが招請されたのだろうなあと。
かつてこの地で繰り広げられていただろうヤマト勢力の蝦夷との争いを、祭神に感じます。

が、現在はそんな物騒なことは微塵も感じさせず、境内には静寂な空間が広がっています。

本殿は極めて珍しい作りになっていて、拝殿が二棟、本殿が三棟となっています。タケミカヅチとフツヌシの本殿がひとつの拝殿にまとまっています。写真で言うと、左がタケミカヅチとフツヌシの拝殿で、右側が盬土老翁神の拝殿になっています。

ということで、三回お賽銭を投げてきました。

境内には、「塩竈神社博物館」もあります。この博物館の展示が、ちょっと想像と違っていて、なかなかおもしろかったです。

まず期待通りだったのは、歴代支配者による安堵書状が数多く保存されていたところです。奥州鎮守府将軍となった北畠顕家の書状など、感慨深いものがあります。
予想外だったのは、まず仙台藩歴代藩主が奉納した見事な刀剣の数々です。それから、林子平関連の史料もまとまっていて、おもしろかったです。そして二階が自然史博物館になっていて、古代の製塩や漁業に関する展示が充実してたいたのが意表を突かれて、とてもおもしろかったです。

さて、参道を逆にたどると、神社が建つ台地の先端部分が勝画楼という施設になっています。案内パネルによると、ここは歴代仙台藩主が塩竈神社に参拝する際に身を清めた場所のようです。

幽美な雰囲気を漂わせる場所で、奥に入ってみたかったのですが、残念ながら立ち入り禁止になっておりました。

勝画楼から100メートルほどのところに、御釜神社があります。塩竈神社の末社となっています。

由緒書きによると、日本での製塩起源の地ということのようです。重要な場所です。

境内には「日本三大奇」の一つとされる御釜があります。とても不思議で霊験あらたかな御釜らしいのですが、ふらっと来て見られるものではなかったようで、残念ながらこの日は外から拝むだけでした。また来よう。

御釜神社から道路を挟んで向かい側には、「はれま」というオシャレな街角古民家カフェがあります。

とても雰囲気のいい古民家カフェでした。塩竈ジェラート三点盛りとコーヒーのセットをいただきました。その名の通り、ほのかに上品な塩味が利いた甘さが引き立つジェラートで、おいしくいただきました。
(2018年8月訪問)

【宮城県仙台市】仙台城は仙台市博物館から歩いて登るのがお好み

仙台城に再び訪問しました。
やはり仙台城と言えば、伊達政宗の騎馬像がシンボルですね。かっこいい。

が、残念ながら当時の建物はことごとく消失しております。曲輪や石垣の跡を見て、当時の様子を想像するしかありません。

仙台城の鳥瞰図。

縄張は極めて広大で、一般に観光客が仙台城と認識しているのは、かつての本丸の一部に過ぎません。実際は、その何倍もの規模を誇っておりました。

個人的には、三之丸(現在は仙台市博物館がある)から本丸に登っていく坂道が、とても風情があって好きです。仙台市博物館に行く観光客が少ないのは、とても勿体ないと思っています。二の丸の方は東北大学のキャンパスとして整備されていて、当時を偲ぶためのヒントも少なくなっていますね。

仙台城の案内パネル。

建物等が「全滅に帰した」ことについて、「心無き俗吏」という言い回し等に無念さが滲み出ております。

かつて本丸に建っていた建物も、いまは礎石跡だけが整備されているいる状態です。

入場無料の学習施設では、大広間がCGで復原されていて、見応えがあります。

本丸をパノラマで見るの図。

極めて広大な曲輪です。当時の権勢が偲ばれます。

そして仙台城と言えば、天守閣がない代わりに、見事な懸造が威容を誇っていたことが有名ですが。

現在は、案内パネルが立っているだけです。懸造の復原は、さすがに大変なのかな。

かつて懸造があったであろう本丸東側から、眼下に広がる仙台平野。

広瀬川の作る蛇行と断崖絶壁が、雄大な景観を作っています。懸造から眺め下ろすのは、気分がいいんだろうなあ。

仙台城本丸の北側には、立派な石垣が聳えています。仙台市博物館から坂道を歩いて登っていくと、死角から急にこの石垣が現われて、興奮します。

かっこいいです。当時は土塀も張り巡らされていて、さぞかし立派な構えだったんだろうなあ。
ただしこの石垣は第三期のもので、伊達政宗の時代に作った石垣は奥に埋もれています。

観光客がまったくいなくなって閑散とする西側にも、石垣があります。

虎口の形状がしっかり残っていて、見応えがあります。が、西ノ門付近は立ち入り禁止になっております。

さて、2015年に訪問したときには仙台市博物館が改修中で見学できなかったのですが、2018年にはしっかり見学してきました。

常設展示では、やはり伊達政宗関連の展示が充実しています。天正遣欧少年使節団の遺物なども、ここでしか見られないものです。
他、寛文の伊達騒動の史料とか、幕末戊申戦争時の仙台藩の動向なども興味深く見ました。どれも充実しているのですが、近代以降の展示が手薄だったのには、少々食い足りない感じもします。

博物館の裏には伊達政宗の胸像もあります。

太平洋戦争のために金属を供出しなければならず、体の部分が失われてしまっています。仙台城本丸の騎馬像は、遠くて顔の表情などが分かりませんが、こちらは間近で見ることができますね。

それからまた、博物館の裏には阿部次郎の石碑があります。

山形県出身の阿部次郎は、東北帝国大学の教授となり、大正期に人格主義を唱道します。「人格」概念を研究する私としても無視できない重要人物です。
碑の右手から延びる道は、逍遙のために設けられた「哲学の道」ということです。

そんなわけで、本丸跡に建つ青葉城本丸会館の料理屋で名物のハラコ飯を美味しくいただき、仙台城を後にするのでありました。
(2015年9月、2018年8月訪問)

【宮城県多賀城市】末の松山と沖の石で歌枕とは何かを思う

宮城県多賀城市にある高名な歌枕、末の松山と沖の石に行ってきました。

末の松山は、百人一首に採用された清原元輔の和歌、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)で知られています。

実際に行ってみると、小高い丘の上に松の木があり、石碑や案内板があるだけです。特に絶景というわけではありません。

和歌が掘られた石碑。
末の松山が近年になって注目されたのは、2011年に発生した東日本大震災に伴う大津波に関してです。末の松山は、古今和歌集に「君をおきて あだし心をわがもたば すゑの松山浪もこえなむ」と詠まれています。意味は「あなたをさしおいて私が浮気したら、末の松山を波が越えてしまうでしょう。つまり私が浮気することは絶対にありません」という意味で、末の松山を浪が越えることは「絶対にありえない」ことの喩えとなっています。この「浪が越えることが絶対にありえない」ということが、重要だというわけです。
古今和歌集が成立した905年は、東北地方を大津波が襲った貞観地震(869年)から36年後のことです。和歌に言われる「浪」とは、ただの波ではなく地震に伴って発生した津波であって、貞観地震で発生した大津波の記憶が生々しい時期に歌が詠まれただろうと思われるわけです。研究者のシミュレーションでは、貞観地震の津波によって、末の松山は海の中の孤島のようになっていただろうと考えられています。「末の松山浪こさじ」は、単なる歌のための比喩ではなく、現地の人々が津波の記憶を伝えるための言葉だったかもしれないわけです。
2011年の東日本大震災の津波も、この「末の松山」を越えなかったそうです。

松尾芭蕉が訪れたことで、末の松山の歌枕としての価値は、さらに上がります。ただ、末の松山を詠んだ歌人で、実際に末の松山を訪れた人はほとんどいないそうです。遠くにあって想像するものであって、実際に訪れるところではなかったようですね。まあ、末の松山に限らず、歌枕とはそういうものではあります。

何も知らずに行くと、末の松山はただの小高い丘に過ぎません。日本の歴史を踏まえて訪れると、感動をひとしおということなんでしょう。まあ、歌枕に限らず、歴史を知らないと旅はあまり楽しくならないとは思いますが。

末の松山の近くには、もうひとつ歌枕として高名な「沖の石」があります。

沖の石は、「わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし」という歌で高名です。意味は「私の袖は引き潮の時でさえ海中に沈んで見えない沖の石のようで、他人には分からないだろうけれど涙に濡れて乾く時間すらありません」という感じです。
実際に見てみると、これを和歌にある「沖の石」と見るのには無理があるなあ。そもそも石が並んでいるのは池の中で、海ですらないですし。引き潮とか、ありえませんし。
古今和歌集で小野小町が詠んでいる「おきのゐて 身を焼くよりもかなしきは 宮こしまべの別れなりけり」という歌も、「おきのい」じゃなくて「おきのゐ」となっています。「石」は「いし」であって「ゐし」ではありませんから、「おきのゐ」と「沖の石」を一緒にするのは、どうなんだろう?
それに、そもそも現在の形になったのは、江戸時代に入ってから仙台藩が名所旧跡の整備をしたからのようで、平安の当時の面影はまったく残っていないはずです。
このあたり、沖の石を現在地に比定することは個人的には不可解なところですが、まあ歌枕とはそういうものかもしれないと思いつつ末の松山と沖の石を後にするのでした。
(2015年9月訪問)