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【茨城県常陸太田市】太田城で、関東七名城全制覇

 常陸太田市にある太田城に行ってきました。これで「関東七名城」を全て制覇したことになります。

 とはいえ、太田城の遺構は破壊されてほとんど残っておらず、現在、本丸は小学校となっております。

 校門から覗くと、石碑が見えます。通りかかった学校の先生に声を掛けると「気の済むまでどうぞ」ということだったので、気の済むまで見学することにしました。

 石碑には「舞鶴城址」とあります。太田城の愛称が舞鶴城だったのですね。

 石碑の裏には、太田城の由緒が記されています。源平合戦の頃から関ヶ原の合戦まで、波瀾万丈の城であったことが分かります。

 本丸跡は学校敷地として整備されていて、城の遺構のようなものを確認することはできません。ただ、かなりまとまった広さの平地が広がっており、かなり大規模な城であったことが想像できます。

 坂を下りて台地の中腹から学校を見上げると、かなりの比高差が確認できます。

 関東の城なので石垣はもちろん確認できないのですが、この造成ぶりを見るだけでも、土の城として相当の規模を誇っていただろうことが推測されます。

 Googleマップの航空写真で見ても、かなり大規模で堅固な城であっただろうことが分かります。

 上の地図に赤線を引っぱったラインは断崖となっているところです。太田城は西も東も断崖で囲まれた要害であったことが分かります。通常は舌状台地の先端に本丸を築くことが多いように思うのですが、太田城は台地の中程に本丸を構えています。西と東は断崖となっているので、南からの攻撃に備えた作りになっている感じです。

 本丸の南側を守る二の丸は、現在は若宮八幡宮になっています。

 南と西が断崖となっている、守りの要衝です。本丸(現在は小学校)との間には、人の手が入っているであろう堀切っぽい痕跡に道路が通っています。

 八幡宮なので、戦いの神が祀られているわけですね。

 由緒書にも太田城二の丸であったことが記されています。

 南側には階段があり、坂の下に降りてみます。これだけでも相当の比高差で、土塁が残っていたらかなりの迫力だっただろうことが想像されます。

 ところで、太田城本丸(小学校)から北に500mほどのところ、Googleマップに「金砂山城跡」の印がありましたので、「?」と思いながら寄ってみました。

 現在は小さな祠が残っているだけで、城についての説明板も何もありません。祠には「金砂神社」という名前がついておりますが、特に由緒書きもないので、どういう神様が祀られているかはよく分かりません。

 というか、いわゆる金砂合戦等で著名な金砂山城は、太田城からはずいぶん北にある西金砂神社だと認識していたので、ここにある「金砂神社」が「金砂山城跡」とされるのには、ちょっと腑に落ちないところがあります。Googleマップには嘘が多いのではありますが、この金砂山城がどういう根拠に基づいているのか、気になるところです。

 近くの郷土資料館は月曜日で閉まっていたので、もう一度訪問して事情を確認しようと思い、太田城を後にするのでした。
(2019年2月訪問)

【茨城県大子町】袋田の滝に行ったら、ぜひ月居城にも登りたい

 茨城県の「袋田の滝」に行き、ついでに月居城に登ってきました。

 まず月居城を目指します。というのは、袋田の滝から月居城へは急激な上り坂で、行くのがとても大変だからです。月居城から滝へは下り道が多く、らくちんなのです。
 で、袋田の駅から、月居城の登山道入口までタクシーで向かいます。1,500円くらいかな。登山道入口は旧道にあって、旧道入口に「通行止め」と書かれた車止めがあったのですが、タクシーの運転手は気にせずに車止めの脇をすり抜けて旧道をがりがり登り、登山道入口まで連れて行ってくれました。

 登山道入口まで車で来られると、かなり楽です。行程をGoogleマップで確認すると上図のような感じで、駅で配布していたハイキングマップでは下図のような感じです。地図下部の「月居山登山口」までタクシーで、その先の緑色の部分が今回の徒歩行程部分です。

 登山口から緩やかな道を北東方面に登ると、まず「月居峠のたたかい」があった場所に出ます。

 水戸天狗党はここで敗れて西へ向かったということか。月居峠の戦いの様子は、こちらの記事「天狗党西上大子で戦う」に詳しいですね。
 現在の峠には、当時を偲ぶよすがは何も残っておりません。

 峠を越えると少し広い場所に出て、月居観音堂が見えます。ここから道が四方向に分かれ、袋田の滝に繋がる道と月居城に向かう道がありますが、まずは城に向かいます。

 三叉路には城の説明板が立っております。

 うっすらと雪の残る道を上ると、崖が迫ってきます。足だけで登ることはできず、ロープを頼りに登っていくこととなります。足を踏み外すと、えらいことになります。鎧を着たまま、どうやって登ったんだ?

 厳しい斜面をなんとか登りきると、本丸に出ます。

 山頂には月居城の由緒を示したモニュメントが建っています。佐竹氏の部下が治めていた城でしたが、佐竹氏の秋田転封に従って廃城となった模様です。
 曲輪の跡は比較的良好に残っているように見えました。

 上の写真は、二の丸から本丸を見た図です。本丸が少し高く造成されているのが分かります。周囲は絶壁となっていて、そうとう守りは固かったように思います。

 さて、城跡を満喫したら、もと来た絶壁を恐る恐る降りて、袋田の滝に向かいます。途中で「月居観音堂」に登ります。

 階段等が朽ち果てておりますが、眺めは良好です。絶景。
 ここから袋田の滝への道が、けっこうな急峻です。下りが多いのですが、勾配が急なので、翌日は筋肉痛になりました。袋田の滝から月居城に向かうのは、登りばかりで、かなり大変だと思います。

 途中で「生瀬の滝」に向かう分かれ道があります。せっかくなので寄っていきましょう。

 まるで蜀の桟道のようです。

 遠くに「生瀬の滝」が見えます。秋はとても良さそうですね。

 袋田の滝に向かう道の途中で、大岸壁が目に入ります。袋田の滝の対面側にある石壁です。袋田の滝からは見えない景色で、このハイキングコースを通る人だけが堪能することができます。いやあ、すごい景色なのですが、写真だと凄さが分からないなあ。あの絶壁具合は、なかなか他で見ることはできない気がします。

 しばらく行くと、袋田の滝を上から眺め下ろす場所に出ます。こちらも写真では凄さが伝わりにくいのですが、たいへん良い景色です。

 天狗岩等の景勝地も抜け、袋田の滝の麓まで来ました。この時点で既に他に類のない景色となっておりますが、まだまだ序の口です。

 トンネルを通ってエレベーターで昇って観瀑台に出ると、まさにセンス・オブ・ワンダー。絶景が広がります。いやあ、すごい。このパノラマ感は、写真だと絶対に伝わりませんね。日本には他で見られない、ここだけの特別な光景です。

 袋田の滝はテレビの映像などでも何度も見ていて「こんなもんだろう」と先入観がありましたが、ぜんぜん違います。これは生で見てみないと分からない凄さですね。圧倒的です。

 さて、袋田から電車でひとつ北の駅が常陸大子ですが、改札から出て右手に銅像が建っています。根本正という人の銅像です。

 地元の人でもどんな人か認識していなかったのですが、明治教育史を専門的にやっていると、ちょくちょく出くわす人です。国会議員となって教育法制に尽力した人で、未成年者飲酒禁止法や未成年者喫煙禁止法の成立に貢献しています。明治初期は、子どももけっこう平気で酒を飲んだり煙草を吸ったりしていたのですが、この人の活躍で法的に禁止されるようになったんですね。他にも国語改革など、教育関係の国会議論ではよく顔を出します。

 地元では、「水郡線開通の功労者」として顕彰されているんですね。

 そんなわけで自然の美と人間の仕事を堪能して、常陸大子をあとにするのでした。紅葉の綺麗な季節にまた来たいですね。
(2019年2月訪問)

【千葉県印西市】小林城と巴御前の墓(伝)

千葉県印西市の小林城と巴御前の墓(伝)に行ってきました。

小林城は南北朝初期に作られ、戦国時代に大規模な改修が行なわれ、秀吉の小田原征伐で滅びたもののようです。もちろん戦国期には北条家に従っていたのでしょうけれども、関東戦国史ファンとしては南北朝初期にどのように情勢に絡んでいたのかが気になるところです。
城の由緒は小林市NPO法人の記事「小林城について」に詳しいです。先土器時代からの遺物が発掘されたとのことで、古来から人が住みやすい場所だったんでしょうね。美濃や常滑の焼き物が出土しているところからも、そこそこ有力な武将が治めていただろうことが推測されます。

が、城山を道路が掘削してしまっていて、当時の面影は全然のこっておりません。

上の写真は城山を東から見たところで、ド真ん中を道路が突っ切っておりますが、本来ならここはお城の山があったところです。いやあ、もったいない。
道路面の崖には「登らないで」という看板が立っていて、山の中に入ることはできません。

城山の西側に回ってみると、なんとなく人の手が入った跡は確認できますが、いつ手が入ったものかは定かではないですね。こちらからも山に入ることはできません。鬱蒼とした藪となっております。

城山の南斜面は墓地になっております。南側は昔からの道になっていて、当時の地形は残されているように思います。舌状台地の端に城が築かれており、けっこうな比高差があることも分かります。

真西から城山を見晴らすと、上のような感じ。なかなかいいロケーションに築かれているように見えます。

城山の北西に公園があって、そこに「小林城跡」の標柱が建てられています。が、ここが小林城の何だったのかは、まったく分かりません。城山の方が城の本体だって案内板くらい建ててもいいんじゃないかなあと思ったり。

さて、小林城跡から西に2kmほど行くと、「巴塚」があります。治承寿永の乱で、木曽義仲の愛妾だった巴御前のお墓だという言い伝えがあるところです。

本当に小さな塚と石碑が残されているだけですけれども。

しかし巴御前の墓と呼ばれているものは全国にいくつも残されています。滋賀、富山、長野、新潟、栃木、神奈川などの他、千葉県内でも佐原にもあったりします。全国的に巴御前人気があったことがうかがえますね。
まあ、小林市の墓が本物かどうかを疑ってかかるのは、野暮というものかもしれません。

(2019年2月訪問)

【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

 白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

 三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

 大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
 本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

 築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

 復元された三重櫓は、中に入ることができます。
 江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

 暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

 二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

 二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

 二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

 廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

 駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

 案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

 諸行無常、静かに合掌。

 片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
 幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

 幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

 墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

 こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
 ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

 諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)

【宮城県柴田町】船岡城には樅ノ木が残っていた

 宮城県柴田町の船岡城に行ってきました。
 2015年には三の丸と樅の木デッキにしか行けなかったのですが、今回は二の丸と本丸にもしっかり足を踏み入れることができました。

 かつての大手門付近には、現在は地域学習施設や歴史博物館「しばたの郷土館」が建っています。

 郷土館の常設展示では、旧石器時代から近世までの歴史や古民具が展示されています。特に充実しているのは、頼朝の奥州征伐との関わりや、寛文伊達騒動についてです。

 船岡城は急峻な山に築かれています。麓から急勾配を登ると、まず三の丸に出ます。

 三の丸には冠木門らしきものが建てられていますが、うーん、これ、どうなんでしょうね。ちょっと中途半端かなあ。

 三の丸の案内パネルに船岡城の概要が記されています。

 考えてみれば、船岡城が江戸時代の一国一城令にも関わらず存続していたのは、そこそこ不思議ではあります。仙台藩は他にも白石城とか例外的に城を構えていたりするのが、なかなか興味深いところです。「城」と呼ばずに「要害」と呼べば問題ないってことなのかなあ?

 三の丸と二の丸の間は、現在では駐車場として整備されているほか、観光物産交流館「さくらの里」が営業しています。

 地元の野菜など名産品が売っている他、食堂もあります。ナスがとても安くて魅力的だったのですが、持って帰るのが大変そうなので断念して、ソフトクリームをいただいてきました。

 で、三の丸から本丸までは、かなりきつい坂になっています。足で登るのは大変なのですが、ありがたいことにスロープカーが用意されてます。

 スロープカー、本来は15分間隔で営業しているようなのですが、私が訪れたときには他に観光客もなく、いきなり一人だけで乗せてくれました。眼下にいろいとりどりの花が咲き誇り、とても楽しい行程です。桜の季節は、とても賑わいそうです。

 本丸には、寛文伊達騒動の中心人物の供養塔があります。

 しかしこの寛文伊達騒動、博物館で各種資料を読むだけでは、経過自体は分かる気がするけれども、事件の核心はまったく見えてこないんですね。

 いやほんと、どうして伊達藩が取りつぶしにならなかったのか、不思議で仕方がないところです。

 本丸には、巨大な観音像も鎮座しております。

 人はどうして巨大観音を作りたがるんでしょうかね? かつては中に入って展望することができたらしいのですが、東日本大震災の影響で、現在は立ち入り禁止となっております。

 観音様に頼らなくとも、本丸からの眺めはとても素晴らしいです。東を見やると、はるか彼方に太平洋が見えます。

 南北から山が迫ってボトルネックの地形になっていることが分かります。福島から仙台に抜けるためにはどうしても船岡を通過しなければならず、交通・軍事の要衝でした。城を作るには絶好のポイントです。
 現在は季節を感じる花々で城全体が彩られていて、血生臭い歴史を感じさせるものは微塵も残っておりません。

 城の北側、三の丸とは別の尾根筋には、「樅の木は残った展望デッキ」があります。

 寛文伊達騒動を題材に取った小説、山本周五郎「樅ノ木は残った」を記念する碑と、樅の木が鎮座しております。

 うーん、説明を読んでも、やはり何が問題なのかピンと来ないぞ。ちゃんと小説を読まなきゃだめそうですね。

 展望デッキからは、白石川沿いに立ち並ぶ桜並木を見下ろすことができます。千本桜、春はさぞかし壮観なことでしょう。桜の季節に訪れたいけど、きっと凄い人出なんだろうなあ。
(2015年5/31、2018年8月訪問)