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【要約と感想】マルクス・アウレーリウス『自省録』

【要約】私が善き人間であろうとする時、他人の評価は全く関係ありませんし、意味がありません。過去を思い悩んだり、未来に希望をかけたりするのは意味がありませんので、現在与えられた環境と条件の下で精一杯できることをしましょう。宇宙の原理と一体化し、存在の本質を考えれば、やるべきことは自ずと見えてくるはずです。

【感想】文句のつけようのない名著で、長く読み継がれてきたことにも深く納得する。折に触れて読み返したい本だ。
 著者のマルクス・アウレーリウスは、2世紀後半にローマ帝国の皇帝を務めた人物だ。が、本人は皇帝ではなく、哲学者になりたかったようだ。
 本書には、高貴であろうと努力を重ねる魂のもがきが記録されている。地球の重力に肉体を引かれつつも、魂は自由を求めて宇宙を目指す。こういう人が実際にいたんだと思うだけで、私自身もちょっとは謙虚になれる。自分の生き方に対して具体的な人生訓になるかどうかは別として、あるいはこういう生き方や考え方に共感するかどうかも別として、こういう一本筋の通った人生というのがあり得るという「可能性」については、知っておいて損はない気がするのだった。

【個人的な研究のための備忘録】
 著者の思想の根幹はストア哲学で固められている。ストア哲学は、「一」という概念に対する強烈な信仰が土台にある。世界は一つであり、太陽の光は一つであり、普遍的な物質は一つであり、生命は一つであり、理性は一つである。あらゆるものを貫く「一」という見方・考え方こそが「神」という概念を構成する。

【「一」に対する信仰告白】

「自分固有の魂をすべて理性のあるものの魂から切りはなす者は社会から切断された肢のようなものだ、なぜならば魂は一つであるから。」第4巻29章

「宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの完成に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮べよ。」第4巻40章

「万物によって成立する一つの宇宙があり、万物の中に存在する一人の神があり、一つの物質、一つの法律、叡智を有するあらゆる動物に共通な〔一つの〕理性がある。また同胞であり、同じ理性を共有する動物の完成ということが一つならば、真理もまた一つなのである。」第7巻9章

「四肢と胴とが一つの体を形成する場合と同じ原理が理性的動物にもあてはまる、というのは彼らは各々別の個性を持っているが、協力すべくできているのである。君が自分に向かって「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」とたびたびいって見れば、この考えはもっと君にピンとくるであろう。」第7巻13章

「ひょっとしたら君は見たことがあるだろう、手、または足の切断されたのを、または首が切り取られて、残りの肢体から少し離れたところに横たわっているのを。起ってくる事柄をいやがったり、他の人たちから別になったり、非社会的な行動を取ったりする者は、それと同じようなことを自分にたいしてするわけである。君は自然による統一の外へ放り出されてしまったのだ。君は生まれつきその一部分だった。ところが現在は自分で自分を切り離してしまったのだ。ただしここで素晴しいことには、君は再び自分を全体の統一にもどすことが許されている。」第8巻34章

「理性のない動物の間には一つの生命が分配されている。理性的動物の間には一つの叡智ある魂が分け与えられている。それはちょうどすべて土からくるものにたいして一つの地があり、我々にものをみせてくれる光が一つであり、我々のようにすべて視覚と生命を持つものの呼吸する空気が一つであるのと同様である。」第9巻8章

「太陽の光は一つである。たとえそれが壁や山や、その他数知れぬものに分割されようとも。普遍的な物質は一つである。たとえそれがどれほど沢山の個体に分けられていようとも、生命のいぶきは一つである、たとえそれが数知れぬものの自然に分かれ、各個体固有の制約の下に分かれようとも。叡智ある魂は一つである。たとえそれが分かれているように見えても。以上いったものの中で(精神以外)の部分、たとえば息や物質のごときものは、感覚もなく、相互間の絆もないが、それでもなお知力および同じ中心に向かって牽引する重力によって結合されている。ところが精神は独特で、同類のものへ向かい、これと結びつく。そして社会連帯の感情はとだえることがないのである。」第12巻30章

 この「一つ」への希求は、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」やA.C.クラーク『地球幼年期の終わり』等にも見ることができるユートピア(あるいはある種のディストピア)だ。この強烈な「一」への信仰と希求を押さえると、ストア哲学の全体像を掴みやすいような気がする。
 このような「一つ」への信仰を土台とする世界観は、デモクリトスに始まる「原子論」とは対極にある。原子論は世界を「バラバラの要素」の集まりだと考える。だとしたら、世界をどのように作るかも自由に見えてくる。しかし世界がもともと「一つ」であるならば、人間が自分の思うように世界を作ってはいけないし、作れるはずもない。世界を「一つ」と見るか「バラバラ」と見るかで、自然観も社会観も宗教観も完全に変わってくる。ストア的世界観は保守的(社会有機体説)に流れやすいし、デモクリトス的世界観は革命的(社会契約説)に流れやすいだろう。

 そしてこのような「一つ」に対する信仰は、空間だけでなく時間に対しても適用される。いわゆるアイデンティティ概念に言及した記述も非常に多い。鴨長明『方丈記』と同じく、儚く移り変わるものを「河」に喩えて説明しているのも印象的だ。

【アイデンティティに関わる記述】

「時というものはいわばすべて生起するものより成る河であり奔流である。あるものの姿が見えるかと思うとたちまち運び去られ、他のものが通って行くかと思うとそれもまた持ち去られてしまう。」第4巻43章

「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」第5巻23章

「ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来ったものも部分的にはもう消え失せてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく、流転と変化が世界をたえず更新する。この流れの中にあって、我々の傍を走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍を飛んで過ぎて行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう視界の外へ行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは我々が各瞬間にしていることだが――昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。」第6巻15章

「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。その上そこでは万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致しているものはない。また地球全体は一点にすぎない。」第8巻21章

つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。しからばその目的はなんであるべきか、ということを付け加えなくては以上いったことは足りない。というのは、大衆がなんらかの意味で善しと見なすものについての世論は必ずしも一致せず、その中にあるもの、すなわち公益に関するものについてのみ一致するようであるが、我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。」第11巻21章

 しかし仮に河が常に移り変わるものであったとしても、やはり依然として「河は同じ河」であり続ける。河が同じ河であり続けるように一人の人間が同じ人間であり続けるためには、移り変わるものにこだわってはいけない。たとえば肉体や経済状況のようにめまぐるしく変動するものは、人間存在にとって本質的なものではない。そんな些末なことに囚われるのは、人生全体にとって無駄なことだ。同じ人間であるために決定的に重要なのは、著者によれば「人生目的」の定め方ということになる。この「人生目的」を定める時に、「一」という概念が本質を見定める指針となる。「一」に適っているのが正しい目的で、そうでなければ一時的で些末な衝動に過ぎないということになる。ここはなかなかアクロバティックな論理展開に思えるが、だからこそ逆に言えばストア派の自然観と倫理観を繋ぐ重要な「飛躍=信仰」でもあるのだろう。
▼参考:アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

 他、本筋とはあまり関係ないところで、おもしろい証言もたくさん手に入る。たとえば当時の「子ども」と「学校」にまつわる証言は興味深い。

【学校に関すること】

「曾祖父からは、公立学校にかよわずにすんだこと、自宅で良い教師についたこと、このようなことにこそ大いに金を使うべきであることを知ったこと。」第1巻4章

「しかしこれは皮肉や叱責の調子ではなく愛情をもって、心の底に怨恨をいだかずにやらなくてはいけない。そして学校の先生のような態度ではなく、そこにいる第三者に尊敬されるためでもなく、たとえ周囲に他の人たちがいようとも、まったく彼一人にたいして話すがよい。」

【子どもに関すること】

「腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲ばり、暴君。」第4巻28章

「また我々は互いに咬みあう子犬や、笑ったかと思うともう泣く喧嘩好きの子供と選ぶところはない。」第5巻33章

子供の喧嘩と遊び、また死体を担う小さな魂」第9巻24章

「活動の停止、衝動や主観の休止ならびにその死ともいうべきもの――以上は悪いことではない。今度は人生の各段階に目を転じて見よ、たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。ここになにか恐ろしいものがあるだろうか。」第9巻21章

 まず興味深いのは、当時の「学校」や「学校の先生」がくだらないものと認識されていることだ。学校や先生に関わらなくて幸せであったと著者は主張している。学校に対するこのような意見は21世紀に入っても見られるところだが、学校や先生は2000年ずっと変わらないということか。
 また本書では、子どもは一貫してくだらないものとして認識されている。理性を最大限に尊ぶ著者からしてみると、理性に欠ける子どもは尊重するに値しないものとなる。このような姿勢は少し後のアウグスティヌスにも同様に見られることになるだろう。西洋思想が子どもをくだらないものと認識する姿勢は、キリスト教の「原罪」に由来するというよりは、ギリシア・ローマの「理性尊重」の姿勢に由来するもののような印象がある。
 また発達段階に対する著者の証言は記憶しておきたい。著者は人間の一生を「幼年→少年→青年→老年」の4段階として認識している。この認識は著者独特のものではなく、ギリシア・ローマを通じて一般的だったと考えていいように思える。そして、その段階の変化を「それぞれ一つの死」だと表現していることから分かるように、それぞれの発達段階をまったく別のものだと認識している様子がうかがえる。この姿勢も、少し後のアウグスティヌスに色濃く見られる考え方だ。子どもを取るに足らないものとして認識する姿勢の背景にある、当時の常識ということだろう。

 また認識論の点では、カントの理性批判を彷彿とさせる描写がそこかしこにあった。カントの考え方は急に登場したのではなく、ストア哲学的な背景と土台があって生まれてきたということなのだろう。

「したがって人間の構成素質の中で第一の特徴は社会性である。第二は肉体的欲情にたいする抵抗力である。というのは、理性的知性的な動きには独特な能力があって、周囲のものから自分を孤立させ、感覚や本能の動きに決して負けないのである。なぜならば後者は双方とも動物的である。ところが叡智の動きは優越を欲し、これらのものに克服されるのを肯んじない。これは当然のことである。なぜならばその性質として叡智は全て他のものを利用するようにできているからである。」第7巻55章

「事物は(我々の魂の)戸の外に立っていて、自分自身の中にとじこもり、自己についてはなにも知らず、なにも伝えない。では彼らについて伝えるものはなにか。指導理性である。」第9巻15章

「「自分とはなにか。」理性のことだ。「しかし私は理性ではない。」それならそれでいい、だが少なくとも理性が自分で自分を苦しめることのないようにせよ。君のほかの部分が具合悪くなった場合には、その部分自体に自己についての意見をいだかしめればいいのだ。」第8巻40章

 カントの倫理的な態度は、著者の倫理的な姿勢とそうとうに共振しているように思った。ストア派はなかなか侮れないなと、改めて認識しなおした次第である。

マルクス・アウレーリウス/神谷恵美子訳『自省録』岩波文庫、2007年<1956年

【要約と感想】田中龍山『ソクラテスのダイモニオンについて―神霊に憑かれた哲学者』

【要約】ソクラテスの姿そのものではなく、後世どのようにソクラテスが語られたかに焦点を当てながら、ダイモニオンとロゴスの関係を考察します。表面的にはダイモニオン(神霊的)とロゴス(理性・論理)は両立しないように見えるし、ローマ時代にもそのような疑問は呈されていましたが、ソクラテスの生に即して考えれば問題なく両立します。

【感想】ダイモニオン、おもしろいよね。ダイモニオンのおかげで、ソクラテスが単なる理屈っぽいオヤジにならず、とてもチャーミングに見えるのであった。
まあ個人的にはダイモニオンの声は聞こえないけれども、でもそれに似たような感覚はあるような気がする。何か言われた時に、なんとなく筋が通っているように見えながら、「ピンとこない」とか「腑に落ちない」とか「居心地が悪い」とか「モヤモヤする」とか「喉に引っかかる」とか「奥歯に挟まった感じ」とか「肌に合わない」とか感じる時はある。そういう時はよくよく原理原則に立ち戻って考えてみれば、やはり何か間違っていることが多いような気がする。
あと、ダイモニオンが「中間」というところが、昔から気になっている。神様と人間を「繋ぐもの」ということで、まさに「メディア」としての役割を果たしている。本文中にも一個所だけ「排中律」という言葉が出て来たけれども、個人的にはこの「排中律」のおかげでいろいろなものがおかしくなっているような気がしている。「中間=メディア=繋ぐもの」が復権することで、世の中や人生が豊かになるような感じがするわけだ。(たとえばカントが理性と悟性を繋ぐものとして「判断力=美学」を重視したように。)

【今後の個人的な研究のための備忘録】
東洋の教育でも、「占い」は極めて大きなポジションを占めている。儒教では「天」の教えに従うことが道徳的な理想であり、「天」の意向は「易=占い」によって知られるものだ。教育の「教」や学問の「学」という漢字は「占い」をする姿を原像としている。教育や学問は「天」の教えを理解するために身に付けるべきものであり、だから「易=占い」は必須知識となっていた。一方、占いに通じていた孔子が「怪力乱神を語らず」としたことも想起される。孔子においても「天の教え」はロゴスと両立しているように見える。
この東西の符号の一致をどう考えるか。

田中龍山『ソクラテスのダイモニオンについて―神霊に憑かれた哲学者』晃洋書房、2019年

【要約と感想】吉川浩満・山本貴光『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。―古代ローマの大賢人の教え』

【要約】ストア派の哲学者エピクテトスの教えについて単純な根本原理を理解してトレーニングを重ねれば、現代社会における問題もすっきりと解決します。ポイントは「権外/権内」を切り分け、自分の力ではどうにもできないことについてはあれこれ考えずに素直に受け容れ、自分にできることをしっかりとやりきることです。

【感想】まあ、もりもりと問題解決をして、強く生きていこうというときには、とても役に立つ実践的な教えでしょう。私も日々の生活の中で活用していきたいと思います。
ただし人間とは弱いもので、合理的に問題解決に向かうよりは、単に共感してもらいたい時もあるものです。「なんで私が打ち首に?」と聴いた人は、合理的な答えが聞きたかったのではなく、「かわいそうだね」と共感してほしかったのだと思いますよ?
そんなわけで、「権外/権内」の切り分けだけでなく、「そもそも問題解決すべきものか/共感して終わりでいいものか」の切り分けもしていいように思います。そして「共感して終わりでいい」ものに対しては、ストア派的にやるとむしろ変なことになると思います。

吉川浩満・山本貴光『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。―古代ローマの大賢人の教え』筑摩書房、2020年

【要約と感想】藤田大雪『ソクラテスに聞いてみた―人生を自分のものにするための5つの対話』

【要約】ソクラテスが現代日本にやってきて、迷える若者と対話し、魂の世話をすることの大切さを思い起こさせます。友達、恋愛、仕事、お金、結婚の5つが主なテーマになっています。

【感想】現代日本に生きる迷える若者に対する指針としては、とてもいい本だと思った。生きる上で何が大切なのかが、簡潔に、ストンと胸に落ちてくるような、分かりやすい記述になっている。生きるのが辛い若者には、本書を読ませてみるといいのかもしれない。

ただし、ソクラテスの描写に関しては、まったく感心しなかった。本書に登場する人物は、ソクラテスではない。たとえば冒頭の「友達」に関する議論は、完全にアリストテレスだ。ソクラテスだったら逆立ちしても絶対に言わなさそうなことを平気で言っている。百歩譲ったとしても、そこにいるのは中期プラトン以降のソクラテスだ。私の好きな前期のソクラテスの姿は、本書には描かれていない。まあ著者と私のソクラテス観の違いに過ぎないところではあるのだろうが、主観的にガッカリするのは仕方がないと思う。
また、アリストテレスが現代日本に転生する本(高橋健太郎『振り向けばアリストテレス』)が良くデキすぎていたせいもあるのだろうが、それと比較してしまうと、SFとしての完成度の違いがありすぎる。まあ、SFとして読むもんじゃないと言われればそうなんですけれども、あのソクラテスがわざわざ現代日本に転生してくるからには、それなりの理由が当然あるものだと思うし、ソクラテスの本質に根ざした謎解きがあるだろうと期待してしまうものだ。
ま、ソクラテスに対して思い入れがない人にとってはどうでもいいことではある。

【個人的な研究のための備忘録】
「恋」と「愛」の違いについては、いろいろな人がいろいろなことを言っているし、個人的にも関心がある。本書はこのテーマに真正面から取り組んでいる。

「恋と愛のちがいは、キミも認めてくれたように、『恋は状態であり、愛は行為である』という点にあると、ぼくは考える。だからこそ、きっと世の人びとは、恋する人をうらやみこそすれ決して賞讃することはないが、一方で慈愛に満ちた人に対しては、賞讃と尊敬を惜しみなく捧げるものなのだろう。」212頁

なるほど、一つの知見ではある。が、もっと掘り下げてもいいような気もする。
私の考えでは、恋は自分自身の感情に関わる言葉だが、愛は他者の存在(存在という言葉の最も純粋な意味における存在)に関わる言葉だ。「好きだけど愛していない」ということも可能だし、「好きじゃないけど愛している」ということも可能なのだ。

藤田大雪『ソクラテスに聞いてみた―人生を自分のものにするための5つの対話』日本実業出版社、2016年

【要約と感想】キケロー『弁論家について』

【要約】弁論家とは、あらゆる知識を持ち、個別の事柄を普遍性に関連づけながら、ふさわしい言葉で語る者のことです。弁論術を構成する学術は現在ではバラバラに分割されていますが、本来は一つです。すなわち自由人に相応しい人間的教養が決定的に大事です。

【感想】日本においては、「演説」という言葉が明治時代に入ってから初めて翻訳語として登場した事実からも伺えるように、声によって物事を弁ずることの価値がさほど高くない。価値が高いのは、「書かれたもの」だ。だから江戸時代までは、話し言葉としての日本語を洗練させるのではなく、書き言葉としての漢文を洗練させることに意が注がれていた。現代においても、「弁舌」とか「演説」とか「講演」といったものに対する尊敬というものは、さほど高くないような気はする。今でも「書かれたもの」の優先順位が高いと思うのだ。(そういえば古代中国でも、諸子百家が蠢いていた春秋戦国時代あたりは弁舌の価値が極めて高かったように思う)
 そういう文化にどっぷり浸かった者の目から見ると、「弁論」について微に入り細をうがって展開する本書の内容は、あらゆる意味で遠い国の出来事のようにも感じるのではあった。

 ところで個人的に興味深いのは、ことあるごとに言及される「ギリシアとローマとの比較」だ。キケローが言うような、ギリシアが哲学的・思弁的(現実離れ)なのに対し、ローマは現実的・実践的という図式は、現代でもお馴染みのものではある。ただしキケローは一般的なそういう図式を踏まえつつも、ローマのほうが哲学的にも優れているという議論を巧妙に滑り込ませてくる。
 そして、本論のテーマである「弁論家」こそが、ローマが実践的でありつつも、同時にギリシアに負けないほどの奥深い哲学的文化を開花させていることの実例となっている。ローマにおける「愛国心」や「独自性」というものが、ギリシア文化との対比の過程から生じてくる例として、なかなか興味深い。日本の「愛国心」というものも中国文化との対比の過程から生じてきたわけだが(たとえば本居宣長は分かりやすい)、この心理的メカニズムは人類に普遍的だということかどうか。

 本書の議論を現代に敷衍するのなら、「評論家」とか「知識人」というものの有り様について考えさせる内容なのかもしれない。専門的な深い知識にも通暁しつつ、一方でそれを分かりやすく噛み砕いて格好良く表現し、一般大衆の心を動かすという点で。専門家ではなく「知識人=普遍的な人間的教養を備えた人格」が必要であることを主張する上では、本書は現代にも通じていると言えるのかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教育」に関する言及がたくさんあった。

「学芸の要諦はふさわしさであり、しかも、唯一これだけは学芸によって授けることのできないものだ」上巻82頁

 持って生まれた素質の重要性を踏まえ、教育の限界を示している言葉だ。今の言葉で言えば「センスは生れつき」ということになるか。

「語ろうとする者、あるいは書こうとする者は、子どもの頃に自由人にふさわしい教育と学問を施された者でありさえすればよく、さらに、情熱に燃え、天性の助けを得、一般的・包括的な主題に関する非限定的な問題の論争の修練を積み、誰よりも詞藻を凝らした著作家や弁論家を範に選んで知悉し模倣しさえすればよいのである。」下巻188-189頁

 教育について、大人になってからの専門学校(この場合は弁論家養成学校)は必要ないという議論だと理解するところか。キケローは繰り返して専門的な知識など必要なく、基礎的・普遍的な知恵さえ備えていれば立派な弁論家になれると論じる。専門家を育てるための学校を揶揄する。大人になってからは素質と実践と修練が大切で、誰かから知識を教えてもらえるなどということはないということだ。逆に、子どもの頃の基礎教育は「自由人にふさわしい」というところが重要なのだろう。

「およそ教養ある人が学ぶにふさわしく、また、国政で抜きん出ようと望む人が学ぶにふさわしい事柄の教育体系は一つであったのであり、その教育を施された者は、言葉を操る才知の力に恵まれており、さらに、天性に妨げられることなく弁論の道に邁進したかぎりにおいて、余人にまさる人になったのだと。」下巻199頁

 ここでいう「教育体系は一つ」というのは、もちろん188-189頁に記されている「自由人にふさわしい教育」を指す。専門分化した個別学科に価値は見いだされない。しかしやはり「天性」というものが考慮されているのは見逃せないところだ。

 プラトン『国家』に対する具体的な批判があるのも、記憶しておきたい。思弁的なギリシアと実践的なローマとの対比にも直接つながる論点である。

「プラトーンは、こうした正義や信義を言葉で表現しなければならないと考えて、ある種の斬新な国家像をその書で描き出してみせたが、正義について彼が語るべきと考えた事柄は、日常生活の習いや一般の国家の慣習とはあまりにもかけ離れたものなのである。」上巻137頁

 キケローがプラトンを低く評価するのに対して、ゴルギアスやプロディコスなどソフィストたちを比較的好意的に評価するのも、こういう観点からになる。

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニタス)について勉強して、キケロの重要性が想像以上に高かったことが分かってきた。特にルネサンス期人文主義は、中世スコラ学やアヴェロエス主義(唯物的なアリストテレス主義)と区別して、「雄弁術」とか「修辞学」の重要性を強調するのが大きな特徴だ。となると、本書は私が当初思っていた以上に遙かに重要な意味を持っていたことになる。侮ってはいけない。
 すると、ルネサンス期の重要な人文主義者たちが、たとえばペトラルカやエラスムスやトマス・モアといった人物が、大学に所属しなかったことの意味も逆照射できるかもしれない。大学とは細分化された個別学科(法学・医学・哲学・神学)を極めるところではあるが、それら個別の知識を普遍的なものに結びつけるのがいわゆる人文学の役割ということになり、その要が「雄弁術」にあることになる。どうやら「個別と普遍」の問題を常に視野に入れておかないと、ルネサンス期の全体像は見えてこないようだ。

キケロー・大西英文訳『弁論家について(上)』岩波文庫、2005年
キケロー・大西英文訳『弁論家について(下)』岩波文庫、2005年