【要約と感想】キケロー『弁論家について』

【要約】弁論家とは、あらゆる知識を持ち、個別の事柄を普遍性に関連づけながら、ふさわしい言葉で語る者のことです。弁論術を構成する学術は現在ではバラバラに分割されていますが、本来は一つです。すなわち自由人に相応しい人間的教養が決定的に大事です。

【感想】日本においては、「演説」という言葉が明治時代に入ってから初めて翻訳語として登場した事実からも伺えるように、声によって物事を弁ずることの価値がさほど高くない。価値が高いのは、「書かれたもの」だ。だから江戸時代までは、話し言葉としての日本語を洗練させるのではなく、書き言葉としての漢文を洗練させることに意が注がれていた。現代においても、「弁舌」とか「演説」とか「講演」といったものに対する尊敬というものは、さほど高くないような気はする。今でも「書かれたもの」の優先順位が高いと思うのだ。(そういえば古代中国でも、諸子百家が蠢いていた春秋戦国時代あたりは弁舌の価値が極めて高かったように思う)
 そういう文化にどっぷり浸かった者の目から見ると、「弁論」について微に入り細をうがって展開する本書の内容は、あらゆる意味で遠い国の出来事のようにも感じるのではあった。

 ところで個人的に興味深いのは、ことあるごとに言及される「ギリシアとローマとの比較」だ。キケローが言うような、ギリシアが哲学的・思弁的(現実離れ)なのに対し、ローマは現実的・実践的という図式は、現代でもお馴染みのものではある。ただしキケローは一般的なそういう図式を踏まえつつも、ローマのほうが哲学的にも優れているという議論を巧妙に滑り込ませてくる。
 そして、本論のテーマである「弁論家」こそが、ローマが実践的でありつつも、同時にギリシアに負けないほどの奥深い哲学的文化を開花させていることの実例となっている。ローマにおける「愛国心」や「独自性」というものが、ギリシア文化との対比の過程から生じてくる例として、なかなか興味深い。日本の「愛国心」というものも中国文化との対比の過程から生じてきたわけだが(たとえば本居宣長は分かりやすい)、この心理的メカニズムは人類に普遍的だということかどうか。

 本書の議論を現代に敷衍するのなら、「評論家」とか「知識人」というものの有り様について考えさせる内容なのかもしれない。専門的な深い知識にも通暁しつつ、一方でそれを分かりやすく噛み砕いて格好良く表現し、一般大衆の心を動かすという点で。専門家ではなく「知識人=普遍的な人間的教養を備えた人格」が必要であることを主張する上では、本書は現代にも通じていると言えるのかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教育」に関する言及がたくさんあった。

「学芸の要諦はふさわしさであり、しかも、唯一これだけは学芸によって授けることのできないものだ」上巻82頁

 持って生まれた素質の重要性を踏まえ、教育の限界を示している言葉だ。今の言葉で言えば「センスは生れつき」ということになるか。

「語ろうとする者、あるいは書こうとする者は、子どもの頃に自由人にふさわしい教育と学問を施された者でありさえすればよく、さらに、情熱に燃え、天性の助けを得、一般的・包括的な主題に関する非限定的な問題の論争の修練を積み、誰よりも詞藻を凝らした著作家や弁論家を範に選んで知悉し模倣しさえすればよいのである。」下巻188-189頁

 教育について、大人になってからの専門学校(この場合は弁論家養成学校)は必要ないという議論だと理解するところか。キケローは繰り返して専門的な知識など必要なく、基礎的・普遍的な知恵さえ備えていれば立派な弁論家になれると論じる。専門家を育てるための学校を揶揄する。大人になってからは素質と実践と修練が大切で、誰かから知識を教えてもらえるなどということはないということだ。逆に、子どもの頃の基礎教育は「自由人にふさわしい」というところが重要なのだろう。

「およそ教養ある人が学ぶにふさわしく、また、国政で抜きん出ようと望む人が学ぶにふさわしい事柄の教育体系は一つであったのであり、その教育を施された者は、言葉を操る才知の力に恵まれており、さらに、天性に妨げられることなく弁論の道に邁進したかぎりにおいて、余人にまさる人になったのだと。」下巻199頁

 ここでいう「教育体系は一つ」というのは、もちろん188-189頁に記されている「自由人にふさわしい教育」を指す。専門分化した個別学科に価値は見いだされない。しかしやはり「天性」というものが考慮されているのは見逃せないところだ。

 プラトン『国家』に対する具体的な批判があるのも、記憶しておきたい。思弁的なギリシアと実践的なローマとの対比にも直接つながる論点である。

「プラトーンは、こうした正義や信義を言葉で表現しなければならないと考えて、ある種の斬新な国家像をその書で描き出してみせたが、正義について彼が語るべきと考えた事柄は、日常生活の習いや一般の国家の慣習とはあまりにもかけ離れたものなのである。」上巻137頁

 キケローがプラトンを低く評価するのに対して、ゴルギアスやプロディコスなどソフィストたちを比較的好意的に評価するのも、こういう観点からになる。

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニタス)について勉強して、キケロの重要性が想像以上に高かったことが分かってきた。特にルネサンス期人文主義は、中世スコラ学やアヴェロエス主義(唯物的なアリストテレス主義)と区別して、「雄弁術」とか「修辞学」の重要性を強調するのが大きな特徴だ。となると、本書は私が当初思っていた以上に遙かに重要な意味を持っていたことになる。侮ってはいけない。
 すると、ルネサンス期の重要な人文主義者たちが、たとえばペトラルカやエラスムスやトマス・モアといった人物が、大学に所属しなかったことの意味も逆照射できるかもしれない。大学とは細分化された個別学科(法学・医学・哲学・神学)を極めるところではあるが、それら個別の知識を普遍的なものに結びつけるのがいわゆる人文学の役割ということになり、その要が「雄弁術」にあることになる。どうやら「個別と普遍」の問題を常に視野に入れておかないと、ルネサンス期の全体像は見えてこないようだ。

キケロー・大西英文訳『弁論家について(上)』岩波文庫、2005年
キケロー・大西英文訳『弁論家について(下)』岩波文庫、2005年