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【要約と感想】サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

【要約】総論賛成、各論是々非々。イギリス経験論から見ると、プラトン『国家』の論述運びはデタラメだらけではあるが、根源的な問いをどこまでも追求していこうとする粘り強い姿勢自体が素晴らしい。

【感想】イギリス経験論の立場からしてみれば、プラトンの論説は独りよがりな妄想に満ちている。認識論も、倫理説も、政治論も。認識論に関しては、プラトンが具体物と抽象概念を「繋ぐもの」に関心を寄せないところに、著者は激しい不満を見せている。倫理説に関しては、プラトンが「共感(イギリス的な伝統だな)」という概念を欠いていることに激しい不満を示す。政治論に関しては、民主主義を頭ごなしに否定する態度はもちろん、その原因となっている「個人に多様性を認めない」という姿勢に特に納得がいかないようだ。この批判は、イギリス経験論的な思考の流れからは当然の帰結のように思える。著者が判断を補強するために引用するもの、定番のカントではなく、ホッブズやヒュームやワーズワースからのが目立つのも興味深い。おおむね、「イギリス人がプラトンを読んだらこうなる」あるあるになっているように思った。

と、様々な不満をオブラートに包みもせずぶっちゃけてるとはいえ、著者は最も根底の部分でプラトンに敬意を表してもいる。著者とプラトンが、ほんものの探求とはなんらかの固定した知識を誰かから客体的に学び取るようなものではなく、みずから主体的・能動的に考える姿勢にあるという洞察を共有しているからだ。

笑ったのは、ある哲学者が行政組織から教育成果に関する質問を受けたときの答え。「哲学を教えるただ一つの方法は、二千年前にソクラテスによって発見されているし、自分はそれを捨てるつもりはない。ソクラテスが発見したのは、みずから考える活動。つまり、比較考量し、問いかけ、実践し、想像し、反応することが絶対に必要だということである。丸暗記することも、パワーポイントもこの過程の出発点以上のものではありえない」(229頁)。私もこう応えていきたい。

サイモン・ブラックバーン/木田元訳『名著誕生4 プラトンの『国家』』ポプラ社、2007年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】斎藤忍随『プラトン』岩波新書

【要約】ソクラテス=プラトンの思想の根底にあるのは、アポロンの神話やデルポイ神殿に色濃く見られる「死の思想」です。人間は必ず死ぬという事実に直面したとき、プラトンの思想の本当の意味が見えてきます。

【感想】60頁くらいまで、プラトンやソクラテスの話題にならない。なかなか主人公が出てこないということで、どこの『ダンガードA』かと。

まあ、主人公たちが出てこないのは、一方で社会史的な背景をしっかり記述してあるということではある。ギリシアにおけるアポロン神の位置づけ、デルフォイ神殿の意味など、やたら勉強になった。そういう意味では、ある程度ソクラテスやプラトンについて知っている中級者向けの本と言える。イデア論に関してもさらっと触れられるだけではあるが、著者の立場が濃密に込められているようには読めた。

斎藤忍随『プラトン』岩波新書、1972年

【要約と感想】納富信留『プラトン 理想国の現在』

【要約】『ポリテイア』という本は、政治的に読まれるか、非政治的(倫理的)に読まれるか、意見が対立しています。そこで西洋と日本で『ポリテイア』という本がどのように受容されたかを調べました。日本ではプラトンの「イデア」から「理想」という言葉が生まれ、それが現実を支える大きな力となってきたことが分かりました。この「理想」という言葉のあり方を真剣に考えると、プラトン思想を現代で読む意義が改めて浮かび上がります。

【感想】とても面白く読んだ。まず、近代日本思想史に密接に絡んでくることをまったく想定していなかったが、その部分が予想外に面白く、勉強になった。「理想」という日本語の変遷について、本書はプラトン『ポリテイア』を軸に検討されているわけだが、改めて近代日本思想史全体の文脈の中で調べてみる価値があるなあと思った。

それから、『ポリテイア』を政治的に読むか、倫理的に読むかについて。個人的には圧倒的に「教育的」に読みたいわけだが。しかしそう主観的に結論を出すわけにはいかない、重厚な議論の積み重ねがある領域なんだなあと、改めて痛感する。「「ポリテイア」とは、言葉で可視化された「正しさ」そのもののモデルなのである。」(209頁)という結論に、もう、なるほどなあと。

気になるのは、宇宙=ポリス=個人の三層を貫く構造として「正しさ」を捉えるという論理が、明治中期から流行する国粋主義とソックリという点だ。三宅雪嶺や陸羯南は、宇宙=国家=個人を貫く理論を以て「ナショナリズム」を構築する。特に三宅雪嶺がどこから宇宙論的な霊感を得たか、かなり気になるところだ。プラトンの影響があるのか? 調べてみようと思った。

納富信留『プラトン 理想国の現在』慶應義塾大学出版会、2012年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】田中美知太郎『ソクラテス』

【要約】ソクラテスはどういう人物で、どうして処刑されねばならなかったのか。ソクラテスの思想だけの問題ではなく、時勢にも恵まれていなかった。

【感想】60年前の本ではあるけれど。教えられることが主に2点あった。

ひとつは、ソクラテスに関するクセノフォンとアリストパネスの証言を肯定的に受け止める態度。けっこう多くの研究者がクセノフォンを馬鹿にしたりアリストパネスを一笑に付したり、その証言をまともに取り上げないし、そうするのにも正当な理由はあるわけだけれど。本書はプラトンの証言を相対的に扱い、クセノフォンやアリストパネスを真剣に扱うことで、生産的な議論に結びついているように思った。感心した。

もう一つは、平等に史料に接する態度と密接に関わるわけだけど、若かりしソクラテスに関する推測。アリストテレス以降、ソクラテスが自然学を無視して倫理学に集中していることが定説となっているけれど。実はソクラテスの若い頃は、アリストパネスが描くように、実際に自然学に傾倒していたのではないか。確かにプラトンが出会ってからのソクラテスと、アリストパネスが知っているソクラテスとは、年齢がまったく違っており、関心領域がまるでズレていてもおかしくないわけで。老齢のソクラテスの姿勢を若年時にまで投影することは、確かに根拠がないよなあと。感心した。

*後記(2017.8.21):後に気づいたが、著者が示したこれらの見解は、バーネット・テイラー説を下敷きにしたもので、他にも教育哲学者には広く受け容れられている見解のように見える。例えば林竹二や村井実は、ここで見られるソクラテス像を示している。が、後の哲学畑の人々は、バーネット・テイラー説への距離感の故なのかどうか知らないが、こうした見解を表立って主張することは少ないような気がする。どうだろうか。

田中美知太郎『ソクラテス』岩波新書、1957年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】納富信留『ソフィストとは誰か?』

【要約】ソフィストは不当に低く評価されています。一つ目に、ソクラテス以前の知的営みを自然哲学の領域のみに限定する誤りにおいて。二つ目は、ソクラテスの活動した時代の具体的な知的状況を見誤ることにおいて。本書は、ソフィストの知的達成点を具体的に明らかにし、その作業を通じて「哲学者とは何か」を逆照射します。

【感想】ちくま学芸文庫版ではなく、オリジナルの人文書院版で読んだんだけど。表紙の絵が、例によって「アテネの学堂」なのはいいとして。トリミングが、人文書院版では多様な哲学者が含まれているのに、ちくま学芸文庫版はプラトンとアリストテレスをクローズアップしている。本書の趣旨からすると、人文書院版の表紙の方が相応しい気がするなあ。

で、本書の成果が正しければ、「「ソクラテスこそが哲学者であり、ソフィストと生涯対決した」というプラトン対話篇の図式は、プラトンが独自にとった戦略である可能性が高い。」(66頁)というように、なかなか凄いことを言える。「知」とか「無知」という焦点の概念に対しても重要な示唆を与える、大切な仕事のように思える。

あるいは、「哲学者がソフィストを問題にし、それをきびしく批判するのは、「哲学者」という生き方が真理の探究者として成立する契機を、「ソフィストではない」という仕方で追求したからである。」(290頁)という結論を、「否定の否定」と把握してよいか、どうか。

納富信留『ソフィストとは誰か?』人文書院、2006年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」