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【要約と感想】吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』

【要約】紀元前70年、共和政ローマ末期にシチリア総督となって強大な権力を握ったウェレスは、暴虐の限りを尽くして現地人から搾取を繰り返しましたが、最終的には正義の訴追人キケロに悪事のすべてを暴かれ、政治の表舞台から姿を消します。
が、しかし、その裁判記録を現代的な観点からよくよく精査してみると、キケロも単純に正義を体現しているわけではなく、政治的経済的な利害関係の中にいることも分かります。単純に勧善懲悪として理解するのは、危険かもしれません。
実際に行なわれた裁判の具体的過程を通じて、共和政末期ローマの権力構造や世界観が浮き彫りにされます。

【感想】ケース・スタディを徹底することによって時代と地域の性質を包括的に明らかにする上に、普遍的な人間と国家のあり方までも考えさせるという、一点突破全面展開のお手本のような良書だと思う。現在のわれわれの常識からは、古代に「主権」というものがなく権力の極が複数存在することについて理解が及びにくいわけだが、本書は具体的に古代権力のあり方について分からせてくれる。そしてその作業は同時に、近代的な「主権国家」の有り様そのものを相対化させる視点も浮かび上がらせる。おもしろかった。

またキケロの胡散臭さもよく分かる。彼は莫大な資産を持つ「名望家層」を代弁して「寡頭制」を支持する立場にあった。共和制末期ローマの価値観として、キケロの立場は代表的なものだったようには思われる。が、もちろん民主制の現代的価値観からは、直ちに首肯できるものではない。個人的には、むしろキケロが口汚く罵るグラックス兄弟やカエサルなど民衆派のほうに親近感を覚える。『老年について』や『キケロー書簡集』にも、キケロが民主主義的な立場に対して真っ向から反対する意見を散見することができる。『キケロー書簡集』等には「よき人々」という言葉が盛んに用いられているが、これは道徳的に優れた人々という意味ではなく、資産を持った金持ち連中のことと理解しなければならないだろう。彼の政治観・正義観・道徳観は、「寡頭制」を支持する立場という前提から理解される必要がある。
とすれば、本書で扱われたウェレス裁判も、同様に「寡頭制」を支持する立場から行なわれたものと理解する必要があるし、本書もそう仄めかしている。ウェレスの行なった数々の野蛮な行為が仮に事実であったとしても、ひょっとしたらそれらは「寡頭制」が説得力を失って「名望家層」が没落する過程で必然的に発生する運命にあった不幸な出来事であり、単にキケロが保守的な価値観で以て断罪しただけのことかもしれないわけだ。後にキケロがカエサル等民衆派を立場の違いというだけで口汚く罵っているのを見ると、このウェレス裁判の内容も素直に聞くわけにはいかないように思えてくる。さらには後にキケロのライバルとなるカティリーナの弾劾に対しても。

まあ、いずれにせよ、権力というものがいかに恐ろしいか、思いを新たにする。権力者の指先一つで、われわれの生活は一瞬で台無しにされてしまうのだ。税金を食い物にして恥じない権力者がデカい顔をしているのは、2000年前も今も変わりがない。

吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』岩波新書、1997年

【要約と感想】高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統―』

【要約】キケロを知ることは、ヨーロッパ文化の基底を知ることです。明治以来の日本の知的枠組では、ヨーロッパを国ごとに分割して理解しているため、歪みと偏りが酷く、統一的にヨーロッパを理解することができません。特にラテン文化に対する無理解が酷すぎるのですが、今こそギリシャ中心主義史観から脱却してキケロ等ローマ文化を評価し直し、西欧文化を土台から理解しましょう。
ちなみにプラトン(ギリシャ文化)とキケロ(ローマ文化)を比較したとき、顕著な違いは、(1)普遍主義と文化主義(2)個人中心思考と国家中心思考(3)理論志向と実際志向に見出せるでしょう。

【感想】キケロの生涯と人となりをさくっとインプットしようと思って手に取ったけれども、まったくそんな趣旨の本ではなかった。が、それ故におもしろく読んだ。

本書を読む前に岩波文庫で読めるキケロを3冊(『老年について』『友情について』『キケロー書簡集』)読んで、キケロの人となりについては極めて悪印象を持っていたわけだが、本書を読んでもその悪印象は弱まらなかった。というかむしろ、ペトラルカやモムゼンなど先哲たちも私と同じような感想を抱いていたことを確認できて、意を強くしたくらいだった。まあ、キケロの手紙をちゃんと読めば、誰でも同じ感想を抱くはずだと思ってしまうんだけれど。

とはいえ、心情的な悪印象は別にして、キケロが歴史的文化的に極めて重要な位置を占めることについては認識を改めた。古代末期から中世初期にかけて大きな影響力を持ったことや、ルネサンス期の広範囲にわたる影響については勉強になった。また、ヨーロッパでギリシア古典が実際に読まれるようになったのが250年ほど前のことに過ぎないことについては『グランドツアー』等で読んで知っていたつもりではあったけれども、イタリア・ラテンとの絡みで比較すると、また新たな角度から光が当たる。ヨーロッパの歴史と文化を理解するうえでイタリア・ラテンの評価が極めて不当になされているという筆者の歎きは、なるほど、よく分かった。(まあ、とはいえ、だとしたらビザンツはどうなるの?とか、イスラムの扱いはどうするの?とか、話は広がっていってしまうけれど。)

本書が出てから約20年、その間に岩波からキケロー選集が刊行され、代表作が文庫でも読めるようになり、塩野七生の流行もあったりして、ラテン文化への不当な扱いは改まったのか、どうか。

高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統―』岩波新書、1999年

【要約と感想】『キケロー書簡集』

【要約】ローマ時代の文人政治家キケローが遺した書簡のうち、重要と思われるものを抜粋しています。キケロー39歳から63歳で暗殺されるまでの書簡が収録されており、ローマでのキャリア絶頂期→政敵に追放される不遇期→再びローマに戻って復活→やりたくなかった辺境の仕事で活躍→カエサルの台頭によって失脚→カエサルに赦されて復帰→哲学的な著作に邁進→愛娘の死→カエサル暗殺後の内乱勃発に伴いアントーニウス弾劾→暗殺、といった具合の波瀾万丈の人生が伺えます。手紙にはポンペーイウスやカエサル、アントーニウスやオクターウィアーヌスといった大物が登場し、当時のローマ帝国が陥った逼迫した情勢の一端を窺い知ることができます。

【感想】キケローの人となりは、まあ率直に言って、手紙を読むかぎり、尊敬に値しない。自己賛美が激しすぎるのと、二枚舌が眼について、見てらんない。節操がない。まあ当時のローマ帝国内の生き馬の目を抜くような権力闘争の渦中にあってはもちろん情状酌量の余地は極めて広いのだけれども、それでも一方で立派な綺麗事を述べている人物が、もう一方で自分の言っていることをまるで実践していないわけだから、読者が白けてしまうのもまた当然だろう。小カトーのように信念に殉じることができずに権力闘争に明け暮れ保身に走るのだったら、綺麗事なんか並べず、マキアベッリみたいに開き直ってくれた方が、ナンボかマシだと思う。いやほんと、口は達者だがやることはチンケな、いちばん厭なタイプの人間に見えてしまう。残された手紙を読むかぎりでは。
ちなみにキケローの人格が褒められたものでないことについては、古代末期最大の神学者との呼び声が高いアウグスティヌスも指摘しているし、17世紀の人文主義者モンテーニュもエピクロスとセネカと比較しながら小物っぷりにあきれている。

「この人の心のほうはそれほどでもないが、その人の言語はほとんどすべての人が感嘆している。」アウグスティヌス『告白』第3巻第4章7
「キケロについては、彼が心のうちに、学問以外に大してすぐれたものをもっていなかったという一般の意見に、私は賛成する。(中略)正直なところ、惰弱と野心的な虚栄を多分にもっていた。」モンテーニュ『エセー』第2巻第10章。
「雄弁の父であるキケロに死の蔑視について語らせ、セネカにも同じことを語らせてみるがよい。前者の言葉は力なくだらけているし、自分でも決心のできないことを読者に決心させようとしていることがわかるだろうから。彼が読者に少しも勇気を与えないのは彼に勇気がないからである。」モンテーニュ『エセー』第2巻第31章

ほかにもモンテーニュ『エセー』はキケロに対する悪口で満たされている。本当に心から軽蔑しているようだ。まあ、その気持ちはよく分かる。
まあ、私の印象に残るキケローの人となりは脇に置いておいて、客観的に見たとき、極めて重要な歴史的証言が並び、かつ人生の教訓に満ちているのは間違いない。歴史的には、ローマの共和制が崩壊して帝政に遷り変わっていく過程が非常によく分かる内容になっている。この変化の過程でもキケローは相変わらず保守的な考えにしがみついて、カエサルのビジョンをまったく理解していないように見える。貧富の差が激しい格差社会において底辺の人々が抱く不満について、何も理解していないように見える。小さな規模の国家では上手く回っていた法律や道徳律が、グローバル社会では上手く機能しないということを何も分かっていないように見える。時代の転換点では、こういう保守的な人間が結局は社会を崩壊に導くということが見える。そしてその人間と社会の本質は、二千年の時を超えた現在でも変わっていないように見えてしまうことが、なかなかに恐ろしい。そういう意味では、キケローを読み返す価値は充分にあると思ってしまったのだった。

あと、心では嫌いな相手に対しても礼儀正しい文章を書きたいとき、本書はお手本として極めて役に立つ。実際に使える言い回しが満載だ。使おう。

『キケロー書簡集』高橋宏幸訳、岩波文庫、2006年

【要約と感想】キケロー『友情について』

【要約】友情は、お金や権力や名誉などよりも遙かに素晴らしいものです。なぜならお金や権力や名誉等は別の何かの役に立つことで初めて意味を持つものですが、友情はそれだけで意味のあるものだからです。
しかし徳と愛に基づいた友情でなければ、結ぶ意味はありません。利益や打算に基づいた友情は、必ず破綻します。友達だからといって、なんでも相手の要求を聞けばいいというものではありません。くだらない人間とは友情を結ばないようにしましょう。

【感想】実践的に言えば、「ともだち100人できるかな?」なんて言っている人に読ませるべき本ではある。100人も必要ないことが、よくわかる。

学術的には、アリストテレスの友情論(友愛=フィリア)との比較が課題になるようだ。細かい点で相違があるのは確かだが、友情の本質が「非功利性」にあると見ている点では、相通じるものがある。

とはいえ、『キケロー書簡集』を読むと、本人の言っていることとやっていることがまったく連動しておらず、本書の内容が所詮は綺麗事の言葉に過ぎないことが伺える。残念なことだ。

キケロー『友情について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年

【要約と感想】オウィディウス『変身物語』

【要約】ギリシア神話の天地創造や神々の戦いからトロイア戦争に至る様々なエピソードとローマ市建設からカエサルに至るローマ神話を、変身というモチーフで貫いた作品です。

【感想】まず圧倒的な構成力と人物描写の妙が印象に残る。アポロドーロス『ギリシア神話』のように単に参考書的に事実を羅列したのではなく、考え抜かれた構成と彩り溢れるキャラクター描写とで、ぐいぐいと読ませる。ペルセウスとかオルペウスとかエコーとナルキッソスとか魔女メデイアとかダイダロスとイカロスとか、アポロドーロスではほとんど内容が分からなかったエピソードが、本作ではしっかり肉付けがされていて、キャラクターの心情に寄り添いながら読むことができる。ギリシア神話に手っ取り早く触れたいという向きには打って付けの作品だと思う。というか世間一般に流布しているギリシア神話は、アポロドーロスではなく、本作が参照されているのだろう。

採用されるエピソードは、実らない恋愛と不倫による破滅が目立つ。妹と兄、娘と父の実らない恋とか、嫉妬や勘違いや神々の一方的な私怨やストーカー行為によって人生を破滅に追いやられる人々が印象に残る。北斗の拳ばりの派手なチャンバラも2個所ほどあったけれども、全体的には恋愛中心の甘ったるい構成になっている。

全体の構成は見事としかいいようがない。それぞれのエピソードが入れ子構造になったり相互に結びついたりして、全体で一枚の織物のようにできあがっている。圧倒的な構想力がないと、複雑かつ大量なギリシア神話エピソードを有機的に集成することは不可能だろう。最終章でピュタゴラスの輪廻転生説を持ち出して恒常性と変化との関係を説き、「変身」を論理的に総括するところなど、まあ、見事だ。感服つかまつる。

【恒常性と変化に関するピュタゴラスの教説】
「この世界に、恒常的なものはないのだ。万物は流転し、万象は、移り変わるようにできている。『時』さえも、たえず動きながら過ぎてゆく。それは、河の流れと同じだ。河も、あわただしい時間も、とどまることはできぬ。波は、波に追いたてられる。同じ波が、押しやられながら進みつつ、先行する波を押しやるように、時間も、追われながら、同時に追ってゆく。こうして、それは、つねに新しい。以前にあったものは捨て去られ、いまだなかったものがあらわれるからだ。そして、この運動の全体が、あらためてくり返される。」下p.308

「われわれ自身のからだも、つねに休みなく変化している。昨日のわれわれ、今日のわれわれは、明日のわれわれではないのだ。かつては、われわれは、いわば単なる胚種でしかなく、やがて人間になるのだという希望の萌芽として、母親の胎内に宿っていた。」下p.310

「要するに、天空と、その下にあるものはみな、姿を変えてゆく。大地も、そこにあるすべてのものもだ。この世界の一部であるわれわれも、その例にもれない。それというのは、われわれは単に肉体であるだけでなく、飛びまわる霊魂でもあり、野獣のなかに住むことも、家畜の胸へはいりこむこともできるからだ。だから、それら動物たちのからだが安全無事で、敬意をもって遇せられるようにしてやろうではないか。そこには、われわれの親兄弟や、あるいは、ほかの何かのきずなによってわれわれと結ばれた者たちの、それとも、すくなくともわれわれと同じ人間の、霊魂が宿ったかもしれないのだ。」p.322

変化について論理的に突き詰めた結果、最終的には仏教のような論理になっているのが興味深い。

オウィディウス『変身物語(上)』中村善也訳、岩波文庫、1984年
オウィディウス『変身物語(下)』中村善也訳、岩波文庫、1984年