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【要約と感想】アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』

【収録論文】
(1)ヴェルジェーリオ(1370-1444)「学芸について」
(2)ブルーニ(1370-1444)「諸学問ならびに文学について」
(3)アルベルティ(1404-72)「家庭教育論」
(4)ピッコローミニ(1405-64)「子どもの教育について」

【要約】子どもたちが持つ本来の特性を見極めて、早期に善い習慣を身につけさせ、悪習を取り除き、自由諸学芸を学ばせましょう。歴史や修辞学、詩の古典などを幅広く学ばせ、特に雄弁術の修得を通じて徳を身につけさせましょう。教育は早く始めるに越したことはありません。体罰はだめです。

【感想】15世紀、イタリア・ルネサンスの教育論アンソロジーなわけだが、この周辺の事情は学部生向け教育学の教科書ではそうとう手薄い印象がある。私の基礎教養が欠けているのも学部の概論でしっかり学んでいないせいだ(ということにしておこう)。
 一般論としては、ペトラルカ以来のイタリア・ルネサンスによってギリシア・ローマの古典が暗黒の中世から甦り、人文主義(ヒューマニズム)が勃興・充実・発展して、現代のリベラル・アーツ(教養主義)にまで繋がることになっている。確かに本書に収められた諸論考はギリシア・ローマの古典からの引用に満ちている。特にキケロ、プルタルコス、クインティリアヌスからの引用は飽き飽きとするくらい大量だ。というか、教育に関する考え方そのものはクインティリアヌスからほとんど進歩していないようにすら見える。古代とルネサンスの距離は、論旨だけに注目すれば、極めて近い。つまりキリスト教による影響は目につかない。
 しかし一方、ルネサンス期教育論と近代的教育論との距離は、極めて遠いように思う。ルネサンスの教育論からは、ちっとも近代的な臭いがしない。体罰禁止という主張そのものには近代的な臭いを嗅ぎ取ることもできようが、禁止の根拠はまったく近代的ではない。ルネサンス期教育論と近代的教育論が似ていないと思うおそらく最も大きな原因は「雄弁術」の位置づけだろう。ルネサンス期ヒューマニストたちが雄弁術を最大限に称揚するのは、彼らの教育論の土台がクインティリアヌスにあるのだからまったく不思議ではないというか、当たり前ではある。しかし一方彼らが拝み奉る雄弁術なるものは、近代的教育論ではほぼ完全に抹殺されている。ルネサンス期人文主義を引き継いだとされる現代リベラル・アーツでも、雄弁術そのもののトレーニングなどしない。
 近代的な教育においては、任意のテーマについて雄弁に語るより、真実を見極めること(およびその手続き)の方が決定的に重要だ。もちろんそれはガリレオ、コペルニクス、ニュートン等による自然科学の仕事がベーコン、デカルト、カント等によって帰納的・論理的・理性的・科学的な思考法に定式化されて以降のことだ。現代のリベラル・アーツも、雄弁的な素養を身につけることよりも、論理的・理性的・科学的・批判的な思考を育むことを目指している。そういう近代的な観点からすると、自然科学革命以前のイタリア・ルネサンス期の教育論がやたらめったら雄弁術の重要性を前面に打ち出してくるのは、時代背景を踏まえれば理屈では分かるとしても、少なくともその雄弁術への情熱はどう頑張っても共有できない。近現代においては、雄弁術の教育的意義は地に落ちている(まあ福沢諭吉が「演説」の重要性を説いていたことは思い出しておいても損ではないか)。
 そして個人的な研究上の関心に焦点を絞ると、教育基本法第一条でいう「人格の完成」という旧制高等学校的観念が雄弁術とどういう関係にあるかが問題となる。言い換えれば、雄弁術の伝統がキケロ的古代からイタリア・ルネサンスを経て近代以降にどう引き継がれているか。あるいは仮説として、たとえば近代的合理主義の浄化作用によって「人格の完成」という古代的・ルネサンス的観念から雄弁術の伝統が漂白され、背景と文脈を失った単なる観念あるいは理念としてより純化した、と見なすべきか。ともかく、雄弁術がリアルに政治的・法的・文化的意味を担っていた時代(たとえばキケロ的古代)であれば具体的にイメージできただろう「人格の完成」というものは、近代合理主義を経て高度に抽象化してしまった結果、現代では内容を失ってただのお題目にしか聞こえない状況になっている。かつて「教養」と呼ばれていた何かが説得力を失っているのもそのせいかもしれない。
 ひるがえって。本書収録の諸論文は、科学革命以前(というか前夜)の、雄弁術がまだ大きな権威と説得力を維持していた段階における、具体的な「人格の完成」を当然の前提とするような教育論たちだ。現代的な「人格の完成」概念に至る道筋のヒントが何かないかと思って本書を手に取ったわけだが、結果として欲しかったもの(自分のストーリーに都合の良い言質)は手に入らなかった。というか、ますます混迷の度を深め、軽い眩暈に襲われているのであった。

【個人的な研究のための備忘録】個性
 欲しかったものの一つは「個性」という概念(の萌芽)だったが、「かけがえのない個人」というものを指し示すような言葉は皆無だった。モンテーニュの段階(16世紀後半のフランス)では明瞭に見いだせる「かけがえのない私」という観念は、15世紀イタリア・ルネサンスには見いだせない。むしろ14世紀ペトラルカのほうが近代的自我を彷彿とさせるくらいだ。まあ、「ルネサンス期にはかけがえのない私という個性観念は一般論としては成熟しなかった」と、しばらくはみなしておいていいのだろう。
 一方、「様々な特性を持った個体がある」という個性観念は極めて重要な論点として前面に打ち出されている。それは古代のクインティリアヌスにも明瞭に見られる考え方で、その論理をそのままそっくり引き継いだルネサンス期教育論が同じような見解を示しているのは当然と言えば当然ではある。まあ、まずは「様々な特性」という意味での個性観念がやたらめったら表明されていることは事実として押さえておく。(とはいえそれは西洋に特徴的な現象でもなく、東洋でも伊藤仁斎などが「性」概念を論究する際に盛んに主張していたことも忘れてはならない)。だから問題は、ここからどうやって近代的な「かけがえのない私」という個性観念に繋がるか、あるいは繋がらないかだ。具体的にはモンテーニュとの関係がポイントになるか。

「各人は生まれたときからその固有の才能をたいせつにしなければなりません。(中略)生来、生まれついているものがなんであるかを熱心に窮めることがすべての人にもっとも重要なこととなります。」(V.20頁)
「ある者にとっては、親たちの期待そのもの、あるいは幼児期からの習慣が障害となります。子どものころから慣れ親しんだことはおとなになってもたやすくおこないます。そして、そのゆえにこそ生み育ててくれた親たちの技術や職業を子どもはみずから選ぶのです。われわれの教育という仕事のもう一つの障害は、生まれた土地の流儀です。われわれは、そこで生活する人びとが承認し、おこなうことを純金の財宝でもあるかのように尊重するのです。そこで、人びとはその固有の人生の方向を選択することが、非常にむずかしくなっています。」(V.37-38頁)
「ところで、才能が多様な性質をもっていることは事実です。ある者は自分の思想を論証する論点と証明を、よういになにごとのなかにでも見いだします。ある者は、それとは反対に、そのようなことには時間をかけなければなりませんが、しかし判断においてはより深くかつすぐれております。(中略)また、ある者は才能にはめぐまれていながら、ことばがさわやかでないということもあります。(中略)ついで、抜群の記憶力をもった人びとがおります。」(V.53頁)
「思弁的で実務的な二重の才能にめぐまれている者は、いずれの方向に自分がより適しているかを各自が判断することによって、のぞましいとおもわれる学問研究に専念すべきです。ついで、才能のおとっている者、つまり法律用語でいう<土地につながれた者>は、普通にはなにごとにおいてもうまくいかないようにおもわれておりますが、しかしなにか一つのことで成功することを示しております。そして場合によってはかなりの力を発揮するものです。したがって当然のことではありますが、このような人びとは、彼らにもっともふさわしいある一つの教育に専念すべきです。」(V.54頁)
すべての学習者に画一的規則をもうけることはのぞましくないし、また各自が自分の能力の状態ならびにその程度を判断すべきであることをわたしはつけくわえたいとおもいます。」(V.57頁)

「父親は子どもたちに適したことをやらせて欲しいものです。「お前の性質や才能がお前をひき寄せるところに、熱心に従い、はげみなさい」と、キケロに答えたアポロンの神託をお聞きなさい」(A.101頁)
「彼等によって、息子たちがどんな修行や徳に向いているかということを知ることは、それほど困難なことではないでしょう。」(A.102頁)
「日々、子どもたちにどんな習慣が生じるか、どんな欲望が持続するか、彼らはどんなことにしばしば関心を示しているか、何に一番熱心なのか、そして、どんな悪い欲望にとらわれやすいかを、父親は注意深く観察して欲しいと思います。そうすれば、子どもたちの、多くの明瞭な特徴をひき出し、彼らを完全に認識することができるでしょう。」(A.103頁)
「子どもが生来の傾向を何がしか示しはじめる最初の日から、彼らがどんな性向を持っているかということにあなたは気がつくでしょう。」(A.104頁)
「父親は多くの場合、子どもがそれぞれ何にむいているか、かなりよく気がつくものです。」(A.105頁)
「私たちの子どもたちの漠然とした隠れた傾向に注意を払って認めた後で、天性にしたがって彼らがひかれていた傾向に反した、新しい他の道へ彼らを矯正し、導くことが、私たちにとって、非常に困難でほとんど不可能なことではないと思うのですか?」(A.122頁)
「多血質の人は憂うつ質のひとよりももちろん恋をしやすく、胆汁質の人は怒りっぽいということでもわかるように、本来、多かれ少なかれ人間の欲望には何らかの刺激が自然に付与されているということを、おそらく私は告白しなければならないでしょう。」(A.124頁)

天性は教育がなければ盲目であるように、教育は天性がなければ不具であります。両者とも訓練をしなければあまり役に立ちません。」(P.139頁)

【個人的な研究のための備忘録】習慣
 というわけで具体的な教育方法としては、特に幼少期は子どもの「個性」を見極めたうえで、悪い習慣を抑えて良い習慣を身につけさせることがポイントとなる。

「したがって、悪い習慣は大変ふさわしく、良く作られた天性をことごとく堕落させ、汚すと言うことができましょう。時を得た良い習慣は、理性的でない欲望や不備な理性をことごとく克服し、改めます。」(A.125頁)

 このあたりの理屈や筆運びはただちにジョン・ロックの教育論を想起させるところだ。自然科学革命を経た近代合理主義であっても、「習慣」という観念や教育上の意義について変更された気配は感じない。このあたりに「人格の完成」観念の連続性を考えるヒントがあったりするか。

【個人的な研究のための備忘録】体罰
 ちなみに体罰は徹底的に非難される。このルネサンスの伝統はエラスムスにまで引き継がれる。

殴打を用いるのではなく注意するべきです。たとえ、弟子を殴るのは許されることで、クリシップスがそれを非難しなかったとは言っても、そしてまた、「成人したアキレスが故郷の山で歌った時、彼はなお鞭をおそれていた」というユウェナリスの言葉がしばしば用いられても、私にとっては、クィンティリアヌスとプルタルコスの方がずっと重要であります。彼らによれば、子どもたちは、なぐったり、鞭をあてたりするのではなく、勧告や討論により、善い生活をするように導かなければなりません。殴打は奴隷にはよくても、自由人には適しません。」(P.141頁)
殴打からは憎悪が生まれ、おとなになっても残ります。学ぶ者にとっては教師に対する憎しみ以上に有害なものはありません。」(P.142頁)

 ただし、古代のクインティリアヌスが体罰を徹底的に非難しており、それを無批判に引き継いだルネサンス期教育論が体罰を否定するのも当然というところではある。ルネサンス期の具体的な状況から帰納的に体罰否定の論理が編み出されているわけではない印象だ。

【個人的な研究のための備忘録】自由諸学芸
 教育内容としては、もちろん自由諸学芸(人文主義)が全面的に推奨される。

「手職であれ商売であれ、あるいは財産の管理であれ、なりわいのもろもろのわざに専念している人びとは、自由学芸に没頭しながらもそれをいやしいなりわいにかえてしまっている人びとと同様に、実際にはすぐれた諸習慣とはまったく反対の事柄に専念しているのです。」(V.25頁)
「卑俗な諸技術がその目的としてかせぎを快楽とを目ざすように、徳と栄光とが自由諸学芸の目的となります。」(V.34頁)

 解説では以下のようになっている。

「これはヒューマニストたちの教育論の中心的テーマである。古典的人間教養研究Studia humanitatisは、完全で統合的な人間の形成をめざし、また人間を自由人とすることをめざす。Leonardo Bruniはhominem perficiunt(人間を完成する)という表現をしている。
 この定義については、セネカ、『書簡集』(Epistola 88, 2)参照。かれによれば「なぜ自由諸学芸とよばれるかといえば、それらが自由な人間にふさわしいものだからだ」。(Quare liberalia studia dicta sint, Vides: Quia honine libero digna sunt.)とされている。
 ヒューマニストたちが、自由諸学芸の教育的価値を重視していたことが注目されなければならない。それは、自由なる人間に装飾的なものとしてにつかわしいから、自由で人間的な学芸であるのではない。それが人間を人間たらしめ(古典的人間教養研究とよばれるのは人間を完成するからだ。Humanitatis studia nuncupantur quod hominem periciant.)、人間を形成し、光へみちびく古典文学lettereだからである。奴隷の状態から自由へといざなうのは古典文学研究によってである(人間を自由にするから、それゆえに自由なのである。idcirco est liberalis, quod liberos homines facit.)。」

 しかし率直に言って、現代的な感覚から言えば、「教養」なるものは単に「装飾的なもの」に過ぎず、それによって「人間を人間たらしめる」ようなものではない。おそらく、我々現代人には既に失われた何らかの前提を設定しなければ、自由諸学芸は「人間を完成する」ものにはならない。しかしその前提は、キケロを読んでもクインティリアヌスを読んでも、もちろんルネサンス期教育論にも見出すことはできない。その前提とは、たとえば奴隷の存在のようなものだ。ルネサンス期教育論は、学問を日常生活で役に立たせることを自由人に相応しくないことだと見なしている。日常生活に役に立たないことこそ人間を人間(自由人)たらしめる。そしてその具体的な内容は、政治や裁判の場で発揮される「雄弁」だ。政治や裁判の場で雄弁を発揮することだけが自由人(完成した人間)に相応しいと言われても、現代人にはもはや何のことやらサッパリだ。だから、現代においてリベラル・アーツなるものに権威と説得力を持たせようと思ったら、古代とルネサンスの遺産に頼るだけではうまくいかない。そんなわけで、古代とルネサンスで言われている「人間」とは、「奴隷」というものの存在を前提とすることで初めて理解できる概念だということを忘れてはいけないだろう。

【個人的な研究のための備忘録】大人と子どもの区別
 大人の嗜みとしては許されるが子どもからは遠ざけておくべきもの、という観念をいくつか見ることができた。

「舞踏や愛欲をテーマにした演劇から子どもを遠ざけておくことはのぞましいことです。」(V.28頁)
「子どもの時期には、特にブドー酒について子どもが節制するようにとわたくしは申しあげたいとおもいます。」(V.29頁)
「酒飲の傾向のある子どもほど不愉快なものはありません。」(P.147頁)

 淫猥な演劇やアルコールは子どもに相応しくないと見なされていて、「教育的配慮」の存在を確認できる。アリエスによればアンシャン・レジーム期にはなかった心性のはずだ。というわけで、アリエスが間違っていると見なすか、フランスがイタリアよりも2世紀ばかり田舎だと考えるか、というところだ。

【個人的な研究のための備忘録】歴史的背景
 解説の記述について考えてみたい。

「人間の個性ならびに能力の発達をうながす条件は、中世的秩序の崩壊にともなう不安定の意識の高まりにくわうるに都市生活そのものによっても準備されることになる。」(200頁)
「都市の独自の発展に由来する地方主義regionalismの伝統と意識は今日でも顕著にみられる。イタリア人としての民族的自覚よりもさきにナポリ人でありフィレンツェ人であるとする郷土意識は、都市的伝統にもとづくものだ。これは諸都市の独自性を前提とする意識であり、また都市内部においてはそれをささえ構成する市民たちの個性が尊重された。したがって文化的諸成果も市民による個性的能力のあかしとなるものであった。」(201-202頁)
「いじょうにみたようにルネサンス期イタリア都市はそこに展開される諸現実をその所与性、一面性においてうけいれるのでなく、むしろ現実との格闘をとおしてそれをつくりかえ、選択し、展望をきりひらくように、市民たちにせまったのである。そのような環境のもとで、市民たちはその運命にかかわる自己決定や独立独歩の精神を容赦なくせまられることとなり、それを主体的につちかわざるをえなかった。そしてその反映と興亡がそこで生活する市民たちの努力と資質にかかわる都市において、市民たちの多様な個性と諸能力が社会的に重視され、またその発達を可能とするような土壌の準備がなされたことはけだしとうぜんというべきであろう。」(202頁)
「ルネッサンス期も後半にいたるとペダントリーと古代作家の模倣の現象があらわれる。しかし、これはヒューマニズムの思想からすればあくまでも派生的現象であって、けっしてその本質ではない。その理想に個性的で創造的な、しかも実践的な人間の形成がかかげられるいじょう、模倣や衒学は自己撞着であり、その否定こそヒューマニズムのもとめてきたものだったからである。つまり、キケロを読むのは外面的にキケロに似ることのためではなく、自分自身のなかにキケロいじょうの個性と可能性とを発見することをめざしたからであった。」(205頁)

 都市国家形成を重要な契機と見る視点は教科書的な記述としては問題がないのだろうが、気になるのは古代との直接的な連続性である。たとえばピレンヌテーゼによれば西ヨーロッパがローマ文化を喪失したのは7世紀中盤のイスラムによる地中海封鎖によるが、イタリア半島だけはビザンツ帝国との繋がりを保ちながらローマ文化を一定程度保存できている。また12世紀シチリア王国がイスラムやビザンツとの交流の中で文化的に栄えていたこともよく知られている。だとしたら、イタリア・ルネサンスに見られる人文主義的伝統は、解説が言うような都市国家形成と市民階級の勃興を待つまでもなく、直接的にローマ帝国からの連続性を保っていたと考えることも可能だ。
 あるいは、人文主義が中世のスコラ学とも近代のサイエンスとも異なるユニークな教育論を持っていたことにも留意したほうがいいのだろう。たとえば日本で言う本居宣長の国学のようなものだと理解したらどうなるだろうか。本居宣長は市井の活動の中から中世の漢学とも近代の洋学とも異なる別のストーリを打ち立てた。一定の平和と安定と経済的余裕という前提の下、郷土的意識という土台に立ち、学問に対する熱意と情熱が既存の制度の外にユニークな学統を打ち立てた。そういう観点から言ってしまうと、人文主義と翻訳調で呼ぶより、イタリアで「ローマ学」が流行したと考える方が個人的には落ち着いたりする。

「これ[中世スコラ学]にたいして、ひとしく古代の著作をとりあげ過去にモデルをもとめながらも、非歴史的態度におちいることなくまさに歴史を動かす主体としての自覚から未来へ目をむけたのがヒューマニストたちである。この歴史における主人公としての意識から、古典研究は人間形成、つまり教育の問題としてとらえられることになった。」(204頁)
「基本テーマはあくまで人間形成の問題であり、とくに重要なのは教育における人間の多面的把握の必要の強調とその視点である。教育における人間の本来的自然の重要性が強調され、そこから出発して具体的な個々の子どもの個性と人間としての可能性との調和的均衡的な発達の人間形成にしめる役割がくりかえしのべられている。」(205頁)

 私の読解では、ルネサンス期教育論から「歴史における主人公の意識」を読み取ることはできない。確かに「具体的な個々の子供の個性」に対する関心は極めて高いのであるが、それが「教育における人間の多面的把握」かと言われると首を傾げざるを得ない。そう見えてしまうのは、私の勉強不足が原因なのかどうか。

アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』前之園幸一郎・田辺敬子訳、明治図書世界教育学選集81、1975年

【要約と感想】アルベルト・レーブレ『教育学の歴史』

【要約】ドイツの教員養成課程で教育史の基礎知識を身につけるための教科書です。単に人名を並べて個々の思想を解説するのではなく、背景にある精神文化生活についての深い洞察を土台として、一貫した観点から教育思想の展開を叙述します。
 古代ギリシア・ローマから始まり、中世とルネサンス・宗教改革を経て、バロックと啓蒙思想あたりまでは西ヨーロッパ全体の教育思想の展開を見ていきます。一転して18世紀古典主義・理想主義から産業化を経て20世紀に至るところでは、ドイツ語圏の教育思想に記述の焦点が当たり、イギリスやフランスはほとんど参照しません。

【感想】やはり定期的に教科書的な通史のようなものは読んでおいた方がいい。モノグラフは確かに個々の観念の解像度を格段に上げてくれるが、個人的な興味関心の全体像を俯瞰しながら個々の観念の位置を調節するためには解像度が低くとも教科書的な通史が大きな役割を果たす。
 もちろん個別的な思想に関してもとても勉強になった。特に汎愛派がコテンパンに批判されているところは「へぇ~」連発だった。さすがドイツ人がドイツ人向けに書いている教科書だけあって、日本人が記述する西洋教育史ではここまでこき下ろすことは難しそうだ。

【個人的な研究のための備忘録】古代の個性と人格
 個人的にとてもありがたかったのは、著者が「個人性と普遍性」について満遍なく配慮して記述を進めてくれた点だ。というか、本書が書かれた時期にはまさにそれこそが教育学(および人文科学全体)が解明すべき論点として共通の理解となっていたはずだ。しかし現在では多様化した論点が多方面に拡散して、もはや「個人性と普遍性」という観点から問題が立てられることがない。まあ、私が古い論点にこだわって研究をしているということなのだが、しかしこれが本質を捉えていると信じて研鑽を続けるしかない。というわけで、「個性」という概念に注目してサンプリングをしていく。

「アテネにおいては紀元前約400年頃にはじめて、高等教育理念が既存の義務教育では満足がいかないほどに発展し、その後特に紀元前四世紀に入って二方向に分かれて展開していく。すなわち、一方は(ソフィスト達の)実際生活上で用いる修辞学(詭弁術)の方向であり、他方は(ソクラテスープラトンーアリストテレスの所謂アカデメイア学派の)哲学的、学問的方向である。」32-33頁
「この合理主義者たちは自らを、それらを教える義務を果たす者とはみなしていなかった。彼らは七科(三形式科目:文法、弁論術、修辞学と四内容科目:算術、幾何学、天文学、音楽)を教えたが、これらの諸科目は西洋の近世にまで及んで一般高等教育の骨格となり、初等教育と職業教育の中間に位置して、普通高等学校の特別な基本教科目となった。」35頁

 まずソフィストを起源とする修辞学の伝統が近世にまで及ぶ射程を持つことが、しっかり教科書的な記述になっていることを確認しておきたい。「人間の尊厳」という観念の考古学を深めようという場合、古代の修辞学や雄弁術は常に参照の対象となる。

「しかし、その際に十分注意すべき点は、ここで言うところの「人間的なもの」とは未だ今日言うところの個性の意味ではなく、「型」[ここに原文傍点]としての、換言すると、国家共同体の構成員、都市国家の市民を意味しているという点である。/特に古代ギリシア初期において、個人はまだ共同体の生活秩序に強固に組み込まれていた。」22頁
「ソクラテスはこの道徳的・自主的人格を全ての共同生活の核心と見なして、人間が第一義的には国家市民ではなくて、人間である、ということを強調した。」39頁
プラトン「このようにして、彼の国家は成文化された法律によるのではなく、修練に基づいた教育を根拠にした理想国家を意味している。しかもその教育のうちでも哲学こそが最高の教育力であり、プラトンにとって哲学研究とは、いわば仮象を超克して万物の原像を観照するための極めて人間的な努力に他ならない。」43頁
アリストテレス「そして人間にとって自己自身に関する継続的な仕事、すなわち人格形成[原文傍点]が彼にとってもまた重要な課題であったことは言うまでもない。」46頁
「そもそも国家の存在意義は、万人が個性の伸長や完成を目指すと共に狭義の道徳的共同生活の実現を可能にすることにある。このような観点からすると、個性の完成と家庭生活は国家にとっての必要不可欠な基礎となる。」47頁
「後期ギリシア文化期の特徴は、ソクラテス、プラトンに端を発し、アリストテレスにおいてさらに顕著となった超国家的、普遍的人間の出現にあった。今や誰もが自覚的な「世界市民」であり、もはや単に一ポリスの市民ではない。この時期には文明と都市文化が見事に開花し、人類の概念や独自な個性の分野が自然発生的集団(家族、種族、民族)以上に高く評価されるようになった。」50頁
「しかし、同時に集団作業や世界市民的考え方と共に個性的、人格的なものに対する特別な関心、すなわち、顕著な個人主義もまた成長してきた。」51頁

 「個性」という言葉が連発されて、とても気になる。というのは、プラトンやアリストテレス自身は「個性」という概念をストレートには表現していないように思うからだ(だから著者の過剰な投影の疑いもある)。たとえばプラトンが探究する「善のイデア」の前では人間個人の差異そのものが最初から問題にならない。そもそもイデアとは個物の差異性を捨象する普遍性そのものだ。また一方プラトンとは逆に個物の唯一性に着目したアリストテレスも、エネルゲイアとかエンテレケイアとかエイドスなどという考え方に見られる通り、普遍性を看過しているわけではない。アリストテレスの詩論や雄弁論(同じものはテオプラストスの性格論に見られる)に確認できる個々人の差異的な性格描写についても、それぞれの個人の「かけがえなさ」にはまったく配慮しておらず、一般的な性格描写として理解できるものだ。そういう観点から、本書が古代ギリシア思想を評して「人格形成」とか「個性の完成」と呼ぶものがいったい何なのかは、鵜吞みにしないで突き放して考えておく必要がある。

キケロ「そのような両者の統一的総合形態の内に彼が追求したものは最高の人間性であった。その意味でキケロこそが、その後2000年に亘って重要な教育理想として尊重された人文主義的な教育理念を最初に明確に理解し根拠づけた人物と言える。(中略)キケロの求めた理想は全人(ganz Mensch)教育に他ならず、彼にとって全人とは真の政治的・国家的思考に養われ、包括的な専門的知識に精通して、内的文化や哲学的教養も豊かでなければならなかった。」60頁

 確かにキケロの後の世への影響は絶大だ。特にルネサンス期の「人間の尊厳」にダイレクトに結びつく雄弁術の伝統を考える上で無視するわけにいかない。しかしおそらく忘れてはならないのは、ポジとしてのカエサルに対してネガとしてキケロがいる、という全体理解だろう。キケロだけ取り出して云々し始めると、おそらく何か大事なものを取りこぼすことになるような気がするのだ。ともかく、キケロについてはアウグスティヌスからルネサンス期に至る評価を念頭に入れて位置付けていくしかないわけだが、「個性」という概念が明確になったと見なすこともできない。キケロに個性概念を見出すのは後知恵による過剰な投影ということになるだろうし、それでも一方で重層的な個性概念の基底的な層の一つであることも確かなのだろう。端的な評価が難しい。

【個人的な研究のための備忘録】中世の有機体とルネサンスおよび宗教改革の個性
 本書の中世理解は、完全にゲルマン民族中心主義的である。その偏りはベルギーの歴史家ピレンヌによって完膚なきまでに批判されており、それを著者も多少は気にしているのか、少々奥歯にものが挟まったような表現も見当たる。とはいえ中世理解は本書において致命的な論点ではなく、もちろん主たる問題はルネサンスと宗教改革の評価と位置づけにある。本書は、中世の有機体的世界観の下では「個性」という考え方がまったく見られなかったが、ルネサンスと宗教改革によって浮上したと明確に評価している。教科書的にはそれで問題ない。

「それと同時に中世というこの時期――この時期の個々の変化や特徴も決して無視されてならないことは言うまでもないが――を支配する統一体も形成されて行く。すでにこの中世期にロマン主義が早くも大規模な「有機体」について言及しているが、事実あらゆる領域で大規模な統一的生活秩序が明らかになってくる。すべての現象が巨大な全体的統一体に組み込まれてくる。」73頁
「またそのような力は人間を決して画一化することはないが、しかしまた個々人の個性を主張することもない。換言すると、そのような統制的に働く力は決して個性的なものではなく定型なのである。個性的なものはこの中世的生活形態においてはまだ言わば自己覚醒までに至っていないそれは後のルネサンスに入って初めて生じてくるのである。」74頁
「もちろん、学問の独立の意義は、人間が自己と世界に対して獲得する新しい位置を認識するときに初めてより深い意味で理解される。すなわち、今や単に理性の自律のみならず、個人の自我の自律を求める努力が目覚めてくる。中世期の強力な[宗教的]絆からの解放を求めた人間は、今や最も深い意味で自己への回帰を願望し、全く新しい方法で自己自身と世界を見出した。彼は自己をまさしく自我として、個性として発見し、今や初めて世界をも真に認識するようになる。」94頁
「しかし、既にこの個性の視点は中世期に際立って存在していたことも明らかなことである。主として規格品の作成の場合ではあったが、それでも独自の作品が誕生し、けっして個性的特徴を欠いていなかった。だが今や人間は個性ある存在の新しい立場を獲得した。個性的であることとは、もはや単なる客観的事実ではなく、喜びに満ち溢れた内的体験であり本来の生活理想である。中世期には個人は服装、生活態度、生活様式、心術などにおいて、自己の所属する集団と違ったり目立ったりすることを躊躇し、自らの社会階層に強固に組み込まれていたが、ルネサンス期に入ると、人間はまさしく個性としての承認と名誉を求めた。」94-95頁
「宗教改革は既に概略したように生活全体の大規模な変化との密接な関連性において考察しなければならないことが判明する。事実、今や宗教改革を通して宗教の領域に生じた個性のより深い自主独立への自覚はさらに一般的傾向となり、伝統の呪縛や中世の強固な秩序からの解放に向けての奮闘努力が出現してきた。」107頁

 本書は「個性」の目覚めに関して、なんとなくルネサンスよりも宗教改革の方を高く評価しているわけだが、それはドイツ人の偏った見方だと考えていいところかどうか。あるいはルネサンスは焦点がぼやけているが、宗教改革は論点が明確になっているということだろうか。

【個人的な研究のための備忘録】バロック・啓蒙期の普遍性志向
 そして17世紀に入ると、個性的なものに対して普遍的なものの見方が優勢になったという記述が見える。もちろん教科書的にはそうなるだろう。

「今や自律的思考や探求の原理が活発に活動し始める。この原理は既にルネサンス期に根づいていたが、具体的、個人的なものへの関心が強烈であったために妨害されていた。十五、十六世紀には思考は伝統の外的権威から解放されていたが、十七世紀になって初めて世界の普遍的法則性が本質的なものとして把握された。教会や国家の領域においてまた今や学問の領域においても、個性的なものは後退し、普遍的なものが前面に現れてきた。」144頁
啓蒙期「もちろん、この時期を(ヨエルに従えば)「個人的」と呼ぶことはできない。なぜなら合理主義とは個々人における一回性や演繹不可能性に注目するのではなく、万人に共通する法則性に注目するものだからである。合理主義とはまさしく個人を「個体」として評価するが、「個人格」としては評価しない。しかし、合理主義の関心はもっぱら人間にあり、しかも種としての人間個々人のあるべき典型に向けられており、そうして合理主義はまさしく合理的手法で自らの自律性の根拠づけを試み、理性の名において人間に自由と尊厳を約束する。」181-182頁

 ただし問題になるのは、デカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツを本当に「個性より普遍」を志向した思想家と理解していいのか、というところだ。確かに科学的な考え方(特に空間の無機質的同質性)を踏まえると、普遍的なものの見方が優勢に見える。しかし例えばデカルトの「我思うゆえに我在り」という著しく個人的な主観から始まる哲学は、もちろん最後には人間理性の平等性に行きついて個人性というよりは普遍性を土台とする考え方に落ち着くのだが、丁寧に見ていくと単純な普遍主義と見なすことには躊躇したくなる。ここには後の「個性」概念に繋がるような何かしらの種が撒かれていないか。丁寧に考えていきたいところではある。
 そしてこの時代は、ドイツ人といえどもロックとルソーを無視して議論を進めるわけにはいかない。

ジョン・ロック「そして子どもにとって生き生きしていることと同様に、個性的であることもまた高く価値づけられる。(中略)この個性教育論が取り上げられたのは、ロックが家庭教師による教育を好んだためでもある。」196-197頁
ルソー「「自然教育」は、また教育目標に関して、なによりもまず普遍的な人間性を優先してあらゆる特殊な観点、すなわちすべての政治、社会、職業などの上位に根本的に位置づけられている。この普遍的な人間性に対する視野のために特殊的な観点を排除したことはルソーの革命的な業績であり、この業績こそが啓蒙主義を超克し、啓蒙主義の実用的、市民的有用性を目指す考えを遥かに乗り越えていることの証に他ならない。そしてこの普遍的人間教育の思想はその後、ゲーテの時代になって初めて完全な成果を見ることになる。」210頁

 本書では、ルソーはロマン主義の先輩のような位置づけを与えられている。まあ、教科書的にはそれでまったく問題ないだろう。ただ、ルソーには汲めども尽きぬ紛れが多すぎて、丁寧に考え始めると手に負えなくなってくる。

【個人的な研究のための備忘録】古典主義・理想主義の個性
 そして18世紀に入ると、本書は怒涛のドイツ人思想家ラッシュになる。もはやイギリス人やフランス人思想家には目もくれない。そして実際、確かにこの時代のドイツ人教育学者が果たした役割は極めて大きい。そして本書がドイツ人によって書かれたこともあるのだろうか、ここからの記述は私の知らないことが多く(いや単に私の勉強不足のせいか)、とても勉強になった。
 まず「疾風怒濤」については、もちろん日本人による西洋教育史概説でも無視されるわけではないが、本書の記述はやたらと躍動していた印象だ。ここで「個性」という言葉が連発される。

「この若者たちが埋もれていた非合理性を発見することによって、彼らはまたルネサンスが既に持っていた個性への眼差しを再び獲得した。(中略)――啓蒙主義からは本気にされなかった――民衆詩、民衆歌、神話、童話は、今や自然のままの真の芸術として見いだされ、民族の個性を特徴づける表現として称賛された。というのも「個性」は単に個人の個性であるだけでなく、また集団の個性としても評価されるからである。」239-240頁
「したがって今や真実な人間性の要請として浮かび上がってきたことは、他方ではけっして思考する理性や抽象的な道徳律だけを認めるのではなく、その自分の存在全体を尊重することであった。これによって啓蒙主義が布告された人間の尊厳と個性の自律という理念は進化するのである。」240頁
「同様にこの古典主義の時期は自由と法則の総合、すなわち人間の個性的なものと超個性的なものとの総合を目指している。(中略)その際『理念』は歴史的特殊を超えた理性的普遍性としてではなく、特殊なものにおける普遍性として理解されている。」243-244頁
「この運動は、文学や哲学にとってと同様にまた教育思想にとっても大きな意味を持っていた。すでにあげた一般的特徴からも認識できるのは、人格教育こそがこの運動な主要関心事の一つであったということである。この運動がその有機的世界像から本来の意味で初めて「形成」(Bildung)の概念を想像しドイツ語で普及させた。」247頁

 注目したいのは、ここからいきなり「民族の個性」についての記述が登場するところだ。実際、フランス革命以降にドイツ・ナショナリズムが激しく燃え上がることは世界史の一般常識ではあるが、この点が「個性」や「人格」概念の展開を考える上でも極めて重要だという印象を改めて深めた。「人間の個性」という概念の浮上は、おそらく「民族の個性」という概念の浮上と並行している。あるいは「国家主権」という概念の浮上と「人格」という概念の浮上も。疾風怒濤の探究を進めなければと思った次第。

「ジャン・パウルはヘルダー以上に教育目標の個性化をおこなった。彼の確信していたところによると、各人は誕生から定められた個性的理想像を持っており、教育はこの「価値ある人間」を自由にすること以外に何らの関係も有しない。」262頁
「ジャン・パウルの教育理論を特徴づけていた個性の原理は、ヴィルヘルム・フンボルトでは、なお一層際立たせられる。」263頁

 不勉強にも名前しか知らない教育学者だが、ここまで評価されていたら読むしかない。

「すでに『独語録』では、シュライエルマッハーはまさしく教育(Bildung)の問題を、特に自己教育の問題を追及している。その際、特に強調しているのは、個性を目指した人間教育であり、「誰もが独自の方法で人間であることを表現すべきである」としていることである。」285頁
「教育の全体目標は次のような両極的対極の中で把握される。教育は一面において人間を純粋に個人的生活圏内から導き出して、客観的全体性に能力を与えることができるように教え導くべきである。シュライエルマッハーが極端に言っているように、すなわち人間を学問、国家、教会、共同体に「引き渡す」べきである。他方、教育は人間を未発達で何物にも染まらない個人から彼本来の個性的人格をつくり出し、すなわち個性を形成すべきである。この二つの課題は種々の矛盾を孕みながらも、すべて対立しているにもかかわらず、二つの異なる大きな教育的課題の二面にすぢないのであり、それらはじょじょにさらに次第に遠ざかるに過ぎない。両者とも他方を抑圧してはならず、もしそうすれば、自ら被害を受けることになるであろう。なぜならはっきりした個性だけが完全な意味で生活全体に奉仕することができるからである。」290-291頁

 シュライエルマッハーは明治期日本教育界でも頻繁に言及される学者だ。日本の教育学への影響を考える上でもしっかりやっておかなければという認識を新たにした。勉強すればするほど勉強すべきことが増えていく。

アルベルト・レーブレ、広岡義之・津田徹訳『教育学の歴史』青土社、2015年

【要約と感想】リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒』

【要約】ヨーロッパの中世は暗黒時代などではありません。カトリック教会が科学を弾圧したというのは皮相的な見方で、近代の科学的思考を準備したのは信仰と理性を調和させようとした神学的営為です。
 12世紀にアリストテレスの思想が再発見されたのは偶然ではありません。ヨーロッパの知的水準がアリストテレス思想を受容する用意が調ったのが12世紀ということです。中世のアウグスティヌス、アベラール、カタリ派異端、トマス・アクィナス、オッカム、エックハルトなどが、それぞれ固有の課題を持ってアリストテレス思想を受容したり対峙したりしながら、西洋中世は一貫して信仰と理性を協調させるべく科学的・合理的な思考様式を鍛え上げていきます。
 しかし近代の入口で、資本主義的価値観を正当化しようとしたトマス・ホッブズのような人物がトマス・アクィナスと共にアリストテレスを葬り去ることによって、中世の知的営為が忘却され、理性と信仰が分離し、西洋中世は暗黒時代と見なされるようになります。しかしいま再び、理性と信仰の統合について創造的な仕事が求められています。

【感想】章ごとに主人公が交替していくが、どの章も活き活きと個性が描かれた主人公と非凡なライバルとの対決が非常にエキサイティングで、おもしろく読んだ。それぞれの章(時代)に固有の課題が簡潔かつ明確に示されつつも、最初に提示されたモティーフが最後までブレない一貫して筋の通ったストーリーで、最後まで飽きずに読みとおせる。言ってみれば「ジョジョの奇妙な冒険」の第一部から第八部までのおもしろさに通じるような、この種の本としては異例のエンターテイメント性を備えているのではないか。(だから逆に言えば、純粋な学術的にはそういう部分をさっ引いて判断しなければならない)。

 ドミニコ会とフランシスコ会の違いとその間の確執については、とても勉強になった。それぞれの会派については摘まみ食いしていてなんとなくイメージはしていたのだが、そのライバル関係について時代背景も含めて具体的に記述している文章は実は初めて読んだ。勉強になった。

 ただし専門的に気になるのは、エピクロス派の扱いだ。本書は後の近代科学に連なる思想の源泉を全てアリストテレス(およびそれに対する反応)に帰しているが、私としてはエピクロス派の唯物論と社会契約論の思想の方が遙かに近代的な発想に類似しているように思っている。実際にルネサンス期にはエピクロス派のルクレーティウスの本がよく読まれている。アリストテレスやトマス・アクィナスを葬ったとされているトマス・ホッブズの社会契約論は、エピクロス派の思想に影響されているかもしれない。エピクロスやルクレーティウスに言及しないで科学的思考の展開を説明しきるのは、少々乱暴のような気はする。
 まあ本書は明らかに、現代の新自由主義的思想が公共性の基盤を掘り崩している危機的な現状を、近代の自由主義的思想(ホッブズが代表)が公共性の基盤(トマス・アクィナスが代表)を掘り崩した過去になぞらえ、読者に警告を発することを隠れテーマとしているので、エピクロス派を無視するのも勉強不足ではなく意図的な戦略なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】集合的人格と個性と三位一体
 一人一人の人格を超えて集団があたかも一つの人格を構成するような集合的人格(エヴァンゲリオンの人類補完計画のような)について言及し、さらにそこから「個性」が剔出される過程を描いていて、私のライフワークにダイレクトに関わる話をしていたので、サンプリングしておく。

「ここに至って、中世ルネサンスの思想家たちが普遍論争にあれほど熱中した理由が明らかになってくる。中世以前のキリスト教徒は自身を一つの人種――単なる生物学的な種ではない道徳的な種――のメンバーとみなすよう、教えこまれていた。この種はその霊においても運命においても完全に一体化しているので、彼らの始原の父母であるアダムとイヴが犯した罪を一人一人の人間が直接負っている。「真実在」の普遍たる人間という観念は、一人一人の人間の違いは本質的でも重要でもなく、場合によっては救済の障害にさえなることを、暗に意味していた(中略)。ヨーロッパの伝統的な社会体制も、個人を軽視する傾向を助長した。なぜなら、ある人物の個性など、彼または彼女が農民や聖職者や貴族等の社会階層のいずれに属しているかということに比べれば、取るに足りないことだったからだ。ところが、いまや、古代のプラトン主義の氷が溶け始めたのだ。大多数の人々は依然として、いかなる世襲グループに属しているかによって限界づけられていたとしても、一部の人々は従来の枠組みから脱け出そうとしていた。放浪する学者やトルバドゥール、貿易業者や十字軍兵士、巡歴説教師や地方から都市に移住する人々――これらすべての人々が、新しい意識を育みつつあったのだ。そう、いかなる階層に属していようと、重要なのは自分の個性なのだという意識を。」205-206頁

 そしてこの記述からすぐさま「三位一体」の話に繋がっていく。

「キリスト教の神はただ一つのペルソナではなく、父と子と聖霊という三つのペルソナを有しているが、中世ルネサンスの人々はその三つのペルソナすべてに熱烈な関心を寄せていた。創造主としての神はあまりに神秘的で想像を絶していたとしても、十二世紀のキリスト教徒は父なる神に正義を期待した。彼らは子なる神を愛し、あたかも彼らが磔刑に処せられたばかりであるかのように、彼のために悲しんだ。そして、すでに始まっている偉大な復活を象徴する聖霊、すなわち慰め主に彼らの望みを託したのだ。」207頁

 非常に興味深い。ただし、三位一体の思想が「個性」という観念の源であるとまでは言っていない。坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』は三位一体の思想に対する神学的な深まり(4~6世紀)が「個」の誕生にとって決定的に重要だったと説いているのだが、本書ではむしろ十二世紀の社会的・経済的変動を重要な背景と考えているようだ。その意味では阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』が個性誕生の瞬間を13世紀に見ている見解に近いのかもしれない(ちなみに阿部もキリスト教の三位一体が個の思想誕生にとって重要な背景だと示している)。
 このあたり、本書の論理展開は残念ながらあまり明快ではない。アベラールにとって三位一体思想がどういう意味を持っていたかは詳細に追究されるものの、西洋の「個性」という観念とどう絡むかについてはそれほど深掘りしてくれていないのだった。まあ、それが中心的なテーマというわけではないので、ないものねだりではある。

【個人的な研究のための備忘録】光
 キリスト教における「光」についての言及が気になった。というのは、コメニウスの教育思想の理解に関わってくるからだ。

「ベーコンをはじめとするフランシスコ会士にとって、超自然と自然とを結ぶ架け橋、宗教的経験の領域と科学的実験の世界とを結ぶ架け橋は「光」だった。(中略)「あらゆる哲学の精華」たる数学という鍵によって鍵を開かれる宝の箱は――のちに光学と呼ばれるようになるが――ベーコンの時代には「遠近法」と呼ばれていた光の科学だったのだ。」325-326頁
「ドミニコ会から見てもっと重大な問題点は、フランシスコ会士による光の霊化がはなはだしく時代に逆行していることだった。この点でフランシスコ会はアリストテレスから大きく後退していた。アリストテレスは光をある種の実体の特性とみなすにとどまり、純粋な形相とか霊とはみなしていなかった。ましてや光を、光ほど霊的でない自然の事物を動かす力とはみなしていなかった。アルベルトゥスとその若き盟友のトマス・アクィナスの見るところでは、光を普遍的な原因とみなす理論は――しょせん実験や観察によって立証できない神秘主義的な信念に過ぎないがゆえに――科学的営為を個々の原因を探求するものから、超自然的な相互関係を試作するものへと変容させてしまった。彼らはまた、人間の知解は神の「証明」によってもたらされるという説にも同意せず、それはむしろ、創造者が人間に天賦の能力として授けた理性によってもたらされると主張した。ロジャー・ベーコンらフランシスコ会士に属する教師たちは、アリストテレスの著作を講義し、アリストテレスの用語によって彼らの理論を構築した。けれども、彼らがよって立つ基盤は新プラトン主義的な神秘主義であり、それは物質と霊という時代遅れの区別を復活させた。」328-329頁

 コメニウスの活躍した時代はこの記述から400年ばかり遅れることになるが、ロジャー・ベーコン(およびフランシスコ会士)の言う「光」の論理は即座にコメニウスを想起させる。あるいは、コメニウスが関わっていたとされる薔薇十字会は、フランシスコ会士ロジャー・ベーコンの「錬金術」と「占星術」から影響を受けていることも分かっている。コメニウスはヤン・フスの系列に連なる神学者としてプロテスタントに位置付けられているが、実はその神学がフランシスコ会士のような修道思想(あるいはさらに東方キリスト教)に由来する何かだったりする可能性はあったりしないか。

【個人的な研究のための備忘録】ヨーロッパ中心主義
 自文化中心主義とトマス・ホッブズの位置づけには、なるほどと思ってしまった。ホッブズを読む時には、この観点を忘れないようにしたい。

「自文化中心主義者というものはそのタイプを問わず、おのれが属している文明は、その一部たりとも「ほかの文明」の思想の産物ではなく、完全に独力で創造されたと信じたがるものだ。アリストテレス革命を歴史から抹殺することは、西欧文明がより進んだイスラーム文明から非常に大きな恩恵を受けたという事実を隠しおおす役に立つ。だが、過去を抹殺することは、そのほかにもさまざまな形で、ヨーロッパの新しい時代のリーダーたちを利していたのだ。アリストテレス主義的キリスト教は、カトリック教会の権力を粉砕し、教会による教育資源の独占を終わらせたいと願うものたちすべてにとって――すなわち、国民国家の世俗統治者や、改革派教会の指導者や、新興の実業家階層や、科学を重視する知識階級にとって――大きな障害だった。だが――ここが当惑を禁じえないところなのだが――これらのエリートたちが排除しようとしていたのは、カトリック教会の政治的・組織的権威そのものではなく、カトリック教会が自然法や「正義の戦争」という類の概念を用いて繰り返し人々に教えこみ、押しつけようとしてきた道徳的な束縛だったのだ。」478-479

 この記述は、明らかに現代の状況とシンクロしている。16世紀にはナショナリストと自由主義者が結託して教会の排除に動いたが、現代ではネオ・ナショナリストと新自由主義者が結託してリベラルの排除に動いている。おそらく私の深読みではなく、著者がだれにでも分かるようなアナロジーとして強調して書いている。まあ、そういう政治的意図を抜きにしても、西欧の歴史(あるいは日本の歴史も)を正確に理解する上で「自文化中心主義」のバイアスをかいくぐる技術が重要であることは間違いないだろう。

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』ちくま学芸文庫、2018年<2008年

【要約と感想】ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』

【要約】精神科医としての臨床の経験を踏まえると、「個性」などというものは存在しません。ただの幻想です。「人格」も、単に存在が仮定されているものに過ぎません。その代わりに決定的に重要なのは人間関係であり、それを規定する場としての文化です。人間関係の在り方によって、つまり場面が異なれば、人の行動や思考は変わります。精神科医として大事なことは、「人格」や「個性」を所与の前提とせず、クライアントの人間関係の有り様を浮かび上がらせることです。そして精神病を生み出す「社会」の有り様の改善へ足を踏み出すことです。

【感想】人格や個性など仮説に過ぎないという1930年代アメリカの意見というと、もう即座にG.H.ミードを思い出して、何らかの関係があるのかと最後まで読んだが、本書にはミードの「ミ」の字も出てこない(シカゴ学派や社会心理学との関連については言及がある)。しかし専門論文を当たったら、やはり関係があった。後藤将之「George H. Mead のコミュニケーション論について」によれば、サリヴァンは1920年代に「Sapir を介して Mead の仕事を知った」とされ、ミードの論理をさらに先鋭化したということになっていた。そうだろうそうだろう、ガッテンである。
 そしてミードの社会心理学の議論はおそらく1920年代アメリカの高度消費社会を背景として成り立っていたのだろうが、精神科医のサリバンはもっと先鋭的に高度消費社会の被害者たち(特にスキゾフレニア=統合失調症)を目の当たりにしていたはずで、「人格や個性なんて者は仮説に過ぎない」という確信はそうとう強かったのではないかと推察する。

【今後の研究のための備忘録】個性
 編訳者の前書きで、まず全体をこう俯瞰している。

「――「個性とは幻想である」とサリヴァンが言ったとき、それはあまりにラディカルな危険思想として受け取られた。しかしまずそれは端的に、独立ないし自立した人間というのが机上論に過ぎないことの指摘であった。個人ごとの差異を、彼はまったく決定的であるとか、特別視するべきものとは考えない。人間は互いに相違点よりも共通点をずっと多く持っていると信じて「人間集団に対しての精神医学psychiary of people」を唱えたのだった。」10頁

 この「ラディカルな危険思想として受け取られた」というのは、誰にどの程度そうだったのかは気になる。というのは、既に社会心理学者のG.H.ミードが同じようなことを言っていて、シカゴ学派の間ではそこそこ受け容れられていたように思えるからだ。そしてまた精神医学の分野であっても、フロイトやユングに連なる人たちが衝撃を以て迎えるとも考えにくい。
 ともかく、「個性とは幻想である」というテーゼが、思想全体を貫く決定的な軸であることは間違いない。以下はサリヴァン本人の言で、1944年の「「個性」という幻想」からの引用。

「不安の舞台となるのは、「自己self」と呼ばれる人格の一部分です。」102頁
「ここでは「人格の一部分」としたが、「人格」がそもそも仮説であるので、ここで述べているのは仮説内仮説に過ぎないと留意しておくこと。」114頁
「そして人格の作用もまた――一対一ないし多対多の関係を通じてのみ観察されます――目を瞠るばかりであって、そして人間的です。人格は、多数の人々そして文化からなる世界と深く絡み合った生命のコンタクトから生まれるものです。ですからその領野においては、人間が単純素朴であるとか、事物の中心にいて、個々独立していて、単位的であるなどと考えるのはまったく愚かしいことであります。」105頁
人格それ自体は単独で取り出すことが不可能です。」106頁
「それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも唯一無二でもないと明らかになるはずです。私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。」107頁
「「個性とは幻想である」と私が言うのは、そう考えることが実際の対人関係に手を入れることをずっと簡単にしてくれるという意味においてです。これ以外の仮定に基づいた操作をするのでは、理論的にも相当な無理が生じます。別の言い方をすれば、議論の出発点としてどこが一般に都合がいいか、ということを私は言っているのです。」110頁
「私自身についていえば、一人ひとりに備わった特別な個性なるものを仮定する必要はなさそうだと、ここのところ少しずつ考えるようになってきました。」110頁
人間が個々独立した個体であるというのは可能性の一つに過ぎないわけです。そして私が言っているのは、その考え方が果たして役に立っていますか、ということです。」113頁
「あなたが自分の人格を皮膚で覆われた骨格とその付属器に限定したいのならそれで構いません。どういう参照のシステムなら数多の学術用語だとか概念だとか複雑性を片付けられるか、そしてシンプルな操作によってそれと同等の結果を得られるかについて、私はそれと違う提案をします。しかしこのような考え方は、今の教育システムからどうやら相当の反発を受けるようですね。」113頁

 言っていることは明快だ。が、それがオリジナリティに溢れるかというと、21世紀の現在では「ですよね」としか言いようがないありきたりの言辞に見える。現在の生物学の知見を踏まえれば、群体であれ、共生であれ、DNAであれ、一人の人間を単位として絶対視することに有効性はまるでない。だから、このサリヴァンの見解が、1944年の時点で、G.H.ミードの社会心理学とどういうふうに響き合い、どの程度ラディカルなものと見なされていたのか、ということが関心の対象となる。

 さて、他の論文からも「人格」の用例サンプルを得られる。

人格personalityとはまず第一に、ヒトという可塑的動物に被せられた、文化なるものの産物である。西欧文明といえども不均一であって、その内側に多くの下位文化をもっている。下位文化の間では矛盾や対立のあることが珍しくない。そのなかにある個々の人格とはどういっても<様々な対人関係を取りまとめる比較的に持続性のシステム>以上のものではないだろう。いずれは満足とか安全保障の感覚に回収されていくものだ。人格が成長していく途上には障害物とか、余計な口出しばかりであるから、そのせいで前進と後退を繰り返し、そのうちに落ちぶれていく。それでいながら自己意識self-consciousnessは人格のことを独立独歩で、一定不変で、無矛盾なシステムとして認識する。自分で自分について語るときはとてもシンプルで、今日の記憶と機能の行動が違っていても気にはならない。だからこそ逆に、言行不一致を他人から指摘されると人間はまったく落ち着かなくなって、自尊感情が傷つくことを恐れて「何か」しなければいけない気分になる。」146頁

 上は「プロパガンダと検閲」と題された論文からの引用だ。「人格の一貫性」について正面から説こうという趣旨ではなく、人に影響力を行使するにはどうしたらいいかという関心から書かれていて、そして「人格の不一致」こそが相手をぐらつかせると言っているわけだ。まあ、「ダブスタ」を衝いたら「はい論破」と言えるのは、こういう理屈が背後にあるわけだ。しかしそもそも「人格の一貫性」そのものが成立しないのであれば、「ダブスタ」をいくら衝かれても、痛くも痒くもない。場面によって人格が切り替わるのは、当たり前のことなのだ。

「精神科医がクライアントについて一切合切を知ろうとすることはない。人格なるものは定義不能であり、たえず動きながらあると知っているからである。」247頁

 上は「緊張―対人関係と国際関係」にある一文だ。臨床の場面で「人格」概念が役に立たないと言っている。実際、そうなのだろう。ただし、具体的な人間関係が成立する場面において,「人格」という概念の実質的な意味内容である「人間の尊厳」という観念は、決定的に重要な役割を果たす可能性はある。

【今後の研究のための備忘録】人格と国家
 そして興味深いことに、人格と主権国家の相似性を指摘する一文がある。

「国家はその周囲に他国のあることを前提としていると同時に、他国から独立して機能するための組織を備えるものである。この二点によって国家が他の集合体と決定的に区別されるとしたギュルヴィッチの議論は、まさに正鵠を得ている。国際的運動の核となるような組織は他にあるにしても、しかし主権を与えられている点で国家はやはり特殊である。
 無数の準・国家的な運動が収束するところに国家が成り立ち、そして主権の行使という独特のプロセスによって結束されている。これは内的ないし相互的な作用が人格のもとに統合されていることと並行しているように思われる。国家のもつ主権とは、個々の人間に受け継がれてきた方式が、歴史を通じて具体的な形をとるに至ったものであると私は考えている。」278-279頁

 国家と人格に相似性を認める議論は、もちろんプラトン以降2400年の伝統を持っている。近代の主権国家誕生以降も、ドイツ国家学や国家有機体論でお馴染みだ。この一精神科医の発言が、はたして精神科医としての臨床の経験から出てきたものか、それとも逆に20世紀半ばにはまだ影響力を持っていた国家有機体論に影響されたものなのか、興味は尽きないところだ。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹訳、講談社学術文庫、2022年

【要約と感想】D・エラスムス『エラスムス教育論』

【要約】人間は他の動物と違って生まれつき教育されることに向いている生き物なので、早くから教育を行っても大丈夫です。というか若ければ若いほど柔軟かつ従順に物事を吸収するので、幼少期から教育を施すべきです。しかし現在の学校で広く行われているような教育方法、特に体罰は最悪です。子どもたちの個性を踏まえ、遊びのエッセンスを取り入れて、快活で若々しい教師が楽しく教えれば、子どもたちは自然に教師を敬愛し、学問を尊び、ぐんぐん才能が伸びていきます。

【知りたいことで書いてあったこと】
 以下、解説に書いてあったことの引用だが、ほぼほぼ西洋教育史の教科書にも書かれているような通説からはみ出すような記述は見あたらない。ということで、依拠するにしても反論するにしても、「通説はこうなっている」というときに安心して話せるものだ。

「印刷事業の商業化の波に乗って、エラスムスの著作は瞬時にして欧州全域に広がって行ったのであった。なかでも、エラスムスの教育的著作は”子供を教育する”という親の教育熱に支えられて欧州全域に広がった。」206頁
「当時の欧州社会に見られた子供に対する親の教育熱は、地域的なことを言うならば、まずイタリアからはじまり、それから他の欧州各国へと拡がって行った。この教育熱という現象は、経済的な活動と密接な関係があった。」208頁
「”専門的な高等教育を受けて社会で成功しようとするならば、その人間は基礎的・準備的な知識やラテン語を子供の頃から充分に習得していなければならない”ということをこの時代の市民たちは感じはじめるようになっていたのである。」210頁
「”完全なるものに向けて完成に到る”という高揚した精神を持つ人間観がギリシアからもたらされて、人間の尊厳や人間中心主義の思想がイタリアにおいて生まれることになった。(中略)人間主義の思想は人間が完全体へと到るための教育論であると言えるかも知れない」210-211頁
「エラスムスの生きた時代よりも以前の中世社会では、学習者は社会の中で必要とされる実際的な知識や技能を学校では習得していなかった。中世社会においては、一般民衆の子弟は、学校という形態をとる教育を受けずに、徒弟などの見習い奉公のなかで日常の仕事を通して実際的な知識や技能を習得していたのであった。ところが、エラスムスの生きた時代である一五・六世紀やそれ以後の時代においては、民衆の子弟の学びの形態と学びの内容が徐々に変わって来た。裕福な市民層の中に、自分たちの子供を学校に入学させ、そこで知識や技能を学ばせようとする人々が出て来たのであった。この時代は、学校が裕福な市民層の子弟を吸収することによって発展して来た時代であった。」244頁

 しかしさらなる問題は、どうして15~16世紀にこういう経済的な地殻変動がヨーロッパに発生したかというところだ。当然、ビザンツ帝国の崩壊とオスマントルコの圧迫による商圏の変更(特にヴェネツィアとフィレンツェの対抗関係)に加え、新大陸の発見と開発などが背景として想定される。だとすると、裕福な市民層が必要としたのはエラスムス流のユマニスム的教養(特にラテン語)なんかではなく、もっと実際的な経済活動に役立つ地理学や天文学や商習慣も含む民法の知識だったはずだ。実際、17世紀末には、ジョン・ロックあたりはラテン語の重要性を認めないようになっている。このあたりのズレをどう理解するところか。

【感想】内容としては、ユマニスト(人文主義者)としての面目躍如たる、堂々とした児童教育論だ。体罰を完全否定し、外から知識を注入するのではなく、子どもが本来持っている素質と個性を尊重し、内側から理性を発達させるために、穏健で教養豊かな大人が環境を整える。近代的な教育論の祖型がほぼ固まっているように見える一方で、しかし科学的に自然を分析しようとする姿勢や態度はまったく見られない。自然科学の成果が教育に影響を及ぼすのはまだまだ先のことになる。そういう意味でも、あまりにも典型的に「人文学的」な内容だと言えるかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】遊び
 エラスムスが16世紀の段階で既に遊びの教育的効能を説いて、苦しい勉強に対置していることは覚えておきたい。

「子供は勉学の辛苦よりもむしろ遊戯のなかで学ぶのです。」8-9頁

 この視点は、この後もロックやルソーに引き継がれていくことになるだろう。

【今後の研究のための備忘録】植物に喩える
 子どもの成長を植物に喩えることは、教育関連の話ではよく現れる。いちばん有名なのはフレーベルということになるだろうか。この点に関して、エラスムスもご多分に漏れない。

「農民は、木が固まって堅くなるまでじっと待つだけで、木の野生の本性があらわになる前のまだ柔らかい若木の時にすぐに接ぎ木を行うことを学んではいないのでしょうか。木が曲がったままで育たないように、また他のどのような欠点をも負わないように、農民は注意深く見守るものです。」15頁

【今後の研究のための備忘録】教育的人間と理性、教授
 人間を他の動物と区別するものが「理性」だということは、ギリシアやローマの古代から言われ続けており、エラスムスも引き継いでいる。しかし、「教授」が理性を補うものだという発想は古代に広く見られるわけではないと思う。
 「理性」というものが全ての人間に平等に備わっており、それを発達させるのが教育だという考え方は、ソクラテス以来広く見られる考え方だ。それに対し、外から知識を付け加えることは、ソクラテス的に言えばソフィスト的な行為であって、教育の本質に関わるものではない。しかしエラスムスは、外側から知識を与える行為を積極的に肯定する。本書ではその行為を「教授」と呼んでいる。原文ではinstitutだろうか。
 そして教育学的に重要なのは、この「教授」という概念が、「理性」なる概念とは別の形で、人間を他の動物から切り分ける極めて重要な要素となっていることだ。エラスムスの言によれば、動物には多くの英知(原文ではintelectだろうか)を持っているが、教授は受け付けない。実は人間を他の動物から引き離して卓越させているものは、「理性」よりも「教授」のほうなのかもしれない。

「確かに、獣という被造物は彼等に特有の機能を保持する手段を、全てのものの母である自然から与えられています。ところが、神様の摂理におきましては、全ての被造物の中で人間にだけに理性の力が授けられており、そして足りない部分を補うために教授というものが人間にはあるのです。」15頁
「人間は教授に向いた精神を与えられているのです。教えられることがあれば、人間は全ての他の被造物のなかのうちで唯一の存在となるものなのです。動物は教えることにはあまり適してはいないのですが、それでも動物はより多くの生まれながらの英知を持っています。(中略)入念にそして良い時期に教え込むことが行われなければ、人間は無用の被造物になってしまうのではないでしょうか。」16-17頁
「人間性をつくるのは理性です。欲情が全ての振舞を支配しているところでは、理性の位置は適切な場所にはないのです。」23頁

【今後の研究のための備忘録】親の義務
 エラスムスが体罰を完全否定し、子どもの素質や個性を重んじたことを以て、wikipediaは「人類の歴史上最初の、最もはっきりとした子供の人権宣言」としており、確かにそう言えなくもないとは思いつつ、しかしやはり現代の「子どもの人権」とは言っていることはかなり異なる。特に「親」の位置と役割が異なっている。現代的な理解では、子どもの権利を保障するのは第一義的には保護者であり、二義的に社会や国家である。しかしエラスムスにおいては、親が義務を負っているのはあくまでも国家や教会に対してであり、子どもに対してではない。それを踏まえると、「子供の人権宣言」というwikipediaの主張は、やや言い過ぎの感は否めない。

「人は父親であることを欲していますが、それには義務に忠実な父親にならなければなりません。子供を持つということは、その人自身のためにではなく国のためにであり、またキリスト教的に言うならば、その人自身のためにではなく神のためにであるのです。」27頁

【今後の研究のための備忘録】教育可能性と個性
 エラスムスが子どもの教育可能性について、(1)素質(2)学習(3)練習という3つの要素に分析しているのは、教育原理的には注目しておきたいところだ。

「人間の至福への一般的な原理は主として三つの事柄として知られているのですが、それは素質、学習、練習です。善きことに対して教化され得るものとか、善きことに対しての植え付けられた内奥にある傾向のことを素質という名で呼んでいます。警告とか教訓とかで知られていることの教授のことを学習という名で呼んでいます。素質によって植え付けられた習慣の熟練であり、また教授から引き出されたものを練習と呼んでいます。」37頁

 とはいえ、「練習」が具体的に何を指しているかは、この日本語からはよく分からない。訳の問題かどうか。
 また、人間には本質的に教授を受け容れる素質が備わっていると考えるところから、エラスムスは早期教育を厭わない姿勢を繰り返し強調する。

「学識ある方々の考えにおきましては、七歳以前の年齢の子供に学習を行わせないと考える人に対しては正統なる拒絶を致します。」55頁
「クリュシピュースは、人生の最初の三年間は養育者に授けられている、と言っております。この期間は、教育におきましては、殊に振舞や喋り方におきましては、何もしないのではない、と言うのです。というよりも、この期間に、養育者や親によって優しい方法で良習や文学への準備を子供はさせられるべきである、と言うのです。」55-56頁

 そして教育学的に注目したいのは、子どもの個性についてかなり具体的に目を向けているところだ。

「人間の自然にはそれぞれの人に独自の特性があります。例えば、ある者は数学の学習に、別のある者は神学の学習に、また他の者は修辞学や作詩法の学習に、また別の他の者たちは軍務に生まれ付きのものを示しております。大いなる力によってそれらの研究へと各人は駆り立てられており、それ故に何者も人をそれらの研究から遠ざけることは出来ないのです。嫌いな学問に精神を傾けることに更に熱を入れさせて突き進ませても、ますます激しくその学問を嫌いにさせるばかりなのです。」48頁
「ある特定の学問において、例えば音楽とか算術とか地誌とかにおいて、幼い子供たちのなかで特異な性向を自発的に現わす子供がおります。」91頁

  ここからは、いわゆる「ギフテッド」という現象についても観察している様子が伺える。しかし本書全体からは、エラスムスが「普遍的な人間性=理性」と「個別の性向=特性・素質」の関係をどう捉えているかは伺うことができない。このあたりは、内側から理性を発達させる「教育」と、外側から素質に従って与える「教授」との違いに繋がってくるのかどうかが知りたいところではあるのだが。

 また一方、児童理解にかかわって「人相学」について言及しているところもいちおうメモしておく。

「”容貌とか身体の形や状態とかによって才能を推測するということは絶対に偽りである”とは私は思いません。確かに、偉大な哲学者・アリストテレスは『人相学について』という書物を公にすることをためらいはしませんでしたし、その研究は無教養なことでもないし、不十分なものでもありません。」49頁

【今後の研究のための備忘録】愛情の大切さ
 しかしなんといっても本書の一番の見所は、体罰などに典型的に現れる「恐怖」によって子どもを支配することを徹底的に戒め、「愛情」によって子どもたちを惹きつけるべきだと、繰り返し主張しているところだ。

「最初の世話は愛情なのです。それは、恐怖を用いずに、自ずと生ずる敬意によって次第に子供を引き付けていくことであるのです。そして、このことは恐怖よりも有効性を持っております。
 それ故に、子供のことにはしっかりとした十分な警戒がなされるべきです。まだ四歳になったばかりの子供がすぐに読み書きに関する学校に送り込まれるということがあるのですが、そこの場所においては無知で、粗野で、ごく僅かの思慮の徳しか有していない教師によって管理が行われているのです。」67頁
「彼等はただ単に自分の楽しみのためだけに鞭打つのですし、確かに彼等の本性は残酷なものであり、また他人の拷問から快楽を得ているのです。このような種類の人間は、屠殺者とか死刑執行者に適しているのですが、子供の形成者には相応しくありません。」71頁

  もう500年も前に明確に述べられていることなのに、21世紀にもなって体罰を肯定する人間がいるのは悲しいことだ。
 また、子どもたちに愛される教師の条件も、なかなか含蓄に富んでいる。

「子供たちに愛されるためには、教師はある程度は再び子供になるべきです。それにも拘わらず、老人や殆ど老人と言ってもよい者に子供たちを委ねて、読み書きの初歩を習熟させることは良いことではありません。」87頁
「もしも有益な教え方を彼等に明示しましても、彼等は、彼等自身もこの方法によって教えられて来たのだと応答するでしょうし、また彼等自身の子供時代に生じたことよりも今の子供たちの方がより良い状態にあるということを許し難いものだと考えるのです。」101頁

 未だにチョーク&トークの手法にこだわってICTの活用を否定するような人たちがいるが、まあ500年前から教師(というか大人)の傾向が変わっていないということではある。

【今後の研究のための備忘録】ペルソナの用例
 また「ペルソナ」の用例が2つあったので、引用しておく。

「子供が嫌がるような人ではなく、またどのようなペルソナをも受け容れることを厭わないような若々しい年代の人を私は選びます。」88頁
「教師の役割は、この種の想念を幾つもの方法によって子供から取り除くことですし、また勉学に遊び戯れのペルソナを取り入れることなのです。」102頁

 通常であれば「人格」と翻訳されるような言葉なのだが、おそらく翻訳者も「人格」と翻訳したのでは意味が通らないと判断したのでカタカナのまま「ペルソナ」と表記したのだろう。この「ペルソナ」というラテン語は、おそらく英語のpersonalityと同じものだと考えるのでは、文脈全体を理解することはできない。エラスムスの16世紀前半まで生き残っていた意味を復元する必要があり、そしてその意味はおそらくカトリックの教義「三位一体論」で用いられるペルソナ概念とも響き合ってくることを予想する。

【今後の研究のための備忘録】服装
 現代の学校において、校則などで学生の服装を規制するときに、「服の乱れは心の乱れ」などと説き伏せることがある。同じようなことが既に16世紀前半エラスムスによって記されていることは記憶しておいていいのかもしれない。

「身体を包む衣服というものはある意味での身体である、とも言えるからなのです。つまり、身体を包む衣服というものは、その人間の精神の外観がどのようなものであるのかを暗に示しているのです。」160頁

 ただしエラスムスは、時代や地域によって服装の基準が大きく異なり、一意的に決めつけていいものではないことについてはしっかり留保している。
 また、子どもの飲酒について当時どう考えられていたかが伺える記述もあったので、メモしておく。

「ブドウ酒とか、麦酒(ブドウ酒と同じ位に酔うのですが)とかは、子供の健康を損ねるし、もちろん子供の品性をも損ねることになります。」169頁

【今後の研究のための備忘録】親の影響
 16世紀には親の影響がそんなに深刻に考えられていなかったことが伺える記述がある。

「私は、今は、全てに卓越する神に次いで敬意を当然に表すべき御両親のことについては話をしておりません。教師のように特別に強いものではないにせよ、人間の精神を形づくるには、御両親の影響がある程度はあります。」179頁

 御両親の影響が「ある程度は」あるというような言い方は、現代ではものすごい違和感がある。おそらく、決定的にあると理解しているはずだ。逆に言えば、16世紀には子育てに親が関与できる割合が、現代と比較して極めて少なかっただろうことを示唆している。日本でも西洋でも、子育ては親だけに押しつけられるのではなく、大人全体で担うべきものだったのだ。

【今後の研究のための備忘録】トルコ
 教育学とは直接の関係はないが、歴史的な証言なのでメモしておく。1530年に出版された本に残された記述だ。

「トルコ人が私たちの支配者になるかも知れないのですが」179頁

 まさにオスマン帝国スレイマン1世による第一次ウィーン包囲が1529年で、おそらくヨーロッパ中が恐慌に陥っているさなかに書かれたのだろう。エラスムスがオスマン帝国をどう理解していたのかつぶさには分からないのだが、個人的な印象では、平凡なカトリック信者の感覚を超えるようなものはないように思う。だとすると、滅びたビザンツの正教にも冷淡だったと理解しておいてもいいのかどうか。

『エラスムス教育論』中城進訳、二瓶社、1994年