「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】瀬谷幸男・狩野晃一編訳『シチリア派恋愛抒情詩選』

【要約】13世紀初頭、シチリアの王宮で、俗語を用いて恋愛を歌った詩作が流行します。12世紀南仏トルバドゥールの影響を受けつつ、13世紀後半トスカーナ清新体派、さらにダンテ、ペトラルカ等に引き継がれていきます。
 詩の内容は、「愛しすぎて死んじゃう」という感じです。

【感想】内容は、ほぼ、ない。極めて抽象的で、「愛しすぎて死んじゃう」以上のことは言っていない(しかし、それは極めて現代的な見方に過ぎず、13世紀には最新の感覚だった)。言葉はとても雅びで、美しい。中二病的なラブレターに引用すると、効果がありそうだ。
 引用される古典で目につくのは「トリスタンとイゾルデ」の伝説で、それに絡んでアーサー王伝説への言及が散見される。ギリシア、ローマの古典は完全無視というところが、後のルネサンスの空気とは根本的に異なっている。

【研究のための備忘録】俗語
 で、問題は、内容ではなく形式だ。当時の国際標準語であるラテン語ではなく、俗語(シチリア語)で表現されていることが重要になる。中世からルネサンス、あるいは近代への変化を考察する材料の一つとして、13世紀シチリアというビザンツ帝国やイスラム帝国の影響を色濃く受けた時代と地域の特性を踏まえつつ、14世紀イタリア・ルネサンス(ダンテやペトラルカ)への影響をどう評価するのか、具体的に考える必要がある。

「ラテン語に固執して俗語を軽蔑し続けるローマ教皇庁に逆らい、中世では公式文章は教会の公用語のラテン語で書かれる慣わしに反して、シチリア王国の憲法たる「メルフィ憲章」を誰でも理解できる俗語で書かせたフェデリコ帝に準って、この流派の詩人らはラテン語に対する揺籃期のイタリア語の文章語としての俗語の優位性を導き出したのである。」255頁

 本書では、この分野の研究の常識なのか、ダンテとの関係は強調するものの、ルネサンスという概念との関係には触れない。個人的にはかなり気になるところだ、というかそういう関心から本書を手に取った。12世紀ルネサンスによって、古代地中海文明に関する知識をヨーロッパは手に入れているはずだ。しかし本書所収の詩には、ギリシア・ローマ文明の面影はない。
 また俗語に関して言えば、フェデリコ帝の宮廷で俗語を使用していたとしても、恋愛詩に俗語を使うのはそういう政治的な意図に出ていたのか、あるいは南仏やドイツの抒情詩と同じ流れを汲むのか。12世紀南仏トルバドゥールが使用したオック語は北イタリアまで広がっていたし、12世紀後半ドイツのミンネゼンガー、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデも中高ドイツ語を使用している。俗語を用いて詩作するのは、シチリア特有の現象ではない。さらに言えば、本書がイタリア語でフェデリコ帝と呼んでいる人物は、神聖ローマ皇帝(ドイツ語)のフリードリヒ二世であって、そしてフリードリヒ二世(1194年~1250年)とヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170年~1230年)に直接の接触があるわけだから、ドイツのミンネゼンガーの影響を受けていたと考えることも可能ではないか。さらに言えば、シチリアはイスラム文化の影響を極めて色濃く受けているわけだが、そもそも南仏トルバドゥールの起源がイスラム文化だという話もある。フェデリコ帝=フリードリヒ2世はアラビア語もよくしたと言われているので、宮廷でラテン語を使わないことにそもそも違和感はなかったりする。疑問は尽きないが、門外漢としては口をつぐんでいるのが賢明な段階である。

瀬谷幸男・狩野晃一編訳『シチリア派恋愛抒情詩選―中世イタリア詞華集』論創社、2015年

【要約と感想】R.W.B.ルイス『ダンテ』

【要約】初期ルネサンス期イタリアの詩人ダンテの伝記で、主著『神曲』の概要も紹介します。

【感想】「ルネサンス」という概念について思案するための材料を得ることを期待して手に取ったけれども、そういう期待に直接応えるような本ではなく、堅実にダンテの生涯と著書の概要をまとめた本だった。それはそれで勉強になったからいいのだけれど。
 まあ改めて、フィレンツェという街が13世紀後半あたりから何かおかしなことになっていることは理解した。トスカーナ方言という「俗語」で文学を著すこと、そしてそういう著書が印刷術発明前にも関わらず速やかに流布すること。他の地域では不可能だったことが、どうしてフィレンツェ(あるいはトスカーナ)で可能だったのか。いわゆる12世紀ルネサンス(特にイスラムと融合したシチリア周辺の文化)との関係はどうだったのか。そのあたりの事情に対する具体的な理解が、いわゆる「ルネサンス」という概念を掴む(あるいは却下する)には不可欠のようだ。

R.W.B.ルイス『ペンギン評伝双書 ダンテ』三好みゆき訳、岩波書店、2005年

【要約と感想】阿刀田高『やさしいダンテ<神曲>』

【要約】700年前のヨーロッパ文学古典中の古典であるダンテ『神曲』のおいしいところだけを抽出し、日本人にも分かりやすくアレンジしました。ダンテは、美少女ベアトリーチェの加護の下、案内役の詩人ウェルギリウスに伴われて、地獄→煉獄→天国と辿り、歴史的偉人や同時代イタリアの人々が死後どうなったか、神の裁きを目の当たりにします。が、まあ、現代日本人には、当時のキリスト教の価値観には納得いかないところが多いですな。

【感想】まあ、手っ取り早く分かった気にはなれるのかな。

【要検討事項】ルネサンス
 ルネサンスについて言及している文章。

「まことに、まことにルネッサンスはダンテから始まりペトラルカ(1304-1374)やボッカッチョ(1313-1375)に受けつがれてイタリアで顕著となり、ヨーロッパに広がっていったのである。」24頁

 歴史家ではない著者に言っても仕方ないのだが、こういうルネサンス観に対して、20世紀後半には専門家たちが違和感が表明している。さしあたって著者の言葉は、陋巷に広がる一般的なルネサンス理解の典型としてサンプリングしておくのがよいのだろう。

【研究のための備忘録】子ども観
 子ども観について、気になる言葉をサンプリングしておく。

「清純さは子どもの中にしか見当たらなくなりました。」268頁

 キリスト教の原罪観からすれば、子どもであろうとも清純さのかけらもない。アウグスティヌスもそう言明している。子どものことを清純だと認識するようになったのは、思想史的には、ルソーあたり、啓蒙思想から近代に入りかけの頃のはずだ。ダンテが本当に言っているとしたら、けっこうな問題だ。原典で確認する必要がある。

「洗礼のないままでは無垢な幼子もここには入れません。」283頁

 これがキリスト教の原罪観である。しかし洗礼を受ければ大丈夫だというのは、アウグスティヌスのころにはなかった考え方ではある。このあたりの幼児洗礼の変遷については研究書があったように記憶しているが、内容を忘れたので再確認である。

阿刀田高『やさしいダンテ<神曲>』角川文庫、2011年<2008年

【要約と感想】M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』

【要約】ホメロスが描いた『イリアス』『オデュッセイア』の形式と内容からは、トロイア戦争が本当にあったかどうかを確認することはできませんが、成立当時の社会状況一般を理解するための情報を取り出すことは可能です。さらに最新の文化人類学や社会学の知見(モースやマリノフスキー)を援用すると、紀元前10世紀のギリシアにはまだ国家(一元的で継続的な権力構造)と呼べるものは萌芽すらなく、家父長を中心とした拡大家族が婚姻と「贈与」を通じて結びついた世界が広がっていたことが分かります。ホメロスが歴史の真実を語っていると主張している人たちは、バカです。

【感想】ヨーロッパで「ホメロスは虚構だ」と主張するのは、日本で「日本書紀は虚構だ」と主張するのと同じく、踏んではいけない虎の尻尾のようなものなのだろう、著者の言い訳と苛立ちが一番の読みどころだ。

【研究のための備忘録】命の危険を顧みずに武具を剥ぐ行為
 『イリアス』を読んでいて「バカだなあ」と思うことはたくさんあるのだが、中でも倒した相手の武具を剥がしている最中に槍で刺されて命を落とす阿呆が極めて多いことには誰でも気がつくだろう。どうしてこんなにアホなのか、本書に説明がある。

「ところが戦利品は、必要な時にはいつでも見せびらかすことのできる永遠の証拠である。もっと未開の民族の間では犠牲者の首がその名誉ある役割を果たしたが、ホメロスのギリシアでは武具が首にとって代わった。英雄たちがくり返し、大きな危険が身に迫っているときにすら、戦闘を中断して殺した敵の武具を剥ぎとろうとするのはそのためである。戦闘それ自体から見るとそんな行動は愚の骨頂であり、遠征全体を危機に陥れかねなかった。しかしながら、名誉なき勝利が受け入れがたいのであれば、そもそも戦闘の終結を最終目標と見なすことが間違いなのである。公式の勝利宣言なしに名誉はありえなかったし、戦利品という証拠なしに世間の評判となることもありえなかったのである。」227頁

 ということで、まあ事情は分からなくもないけれど、それで死んじゃうのはやっぱりアホだよなあ。

【研究のための備忘録】戦利品としての女
 で、『イリアス』を読んでいてさらにアホだなと思うのは、女性をモノとして扱って一向に恥じるところがないところなわけだが、それもこれも「女が賞品」という文化が徹底しているからなのだった。

「若く美しい女奴隷の方が年老いた女よりも名誉ある賞品であり、そしてそれが全てだった。」230頁

 逆に、女を賞品として見なくなるようになるのはどのタイミングで、どういう背景があるのかは気になるところだ。本書では明らかにしてくれない。
 で、おそらくそういう文化とも深く関連するだろうが、いま我々がイメージする「家族」というものが存在しなかったことについて言及している。

「ギリシア語には、「帰って家族と一緒に暮らしたい」というような意味での、小家族に当たる言葉が存在しなかった。」245頁

 こういう純然たる家父長制を背景に、「女が賞品」という文化が根付いていたのだろう。小家族の制度が確立すると、こういう野蛮な考え方は通用しなくなるだろう。

【研究のための備忘録】ヘラの位置づけ
 ゼウスの正妻であるヘラについて、気になる記述があった。

「彼女(アテナ:引用者)は処女神であった。彼女はゼウスの頭から跳び出したのだから、女から生まれたのですらなかった――これは女性全体への侮辱であり、ヘラはこのことについて決して夫であるゼウスを赦さなかった。ヘラこそ最も女らしい女であって、オデュッセウスの時代から神々の黄昏に至るまで、ギリシア人はこの女神を少々畏れはしたが全然好きになれなかった。」251頁

 たしかに現代的観点からすればヘラを好きになる人は多くないだろう。が、文化人類学的な観点からの知見では、もともとギリシア地域に根付いていたのは大地母神信仰であって、後に征服者が殺到して以降にゼウスを首班に頂く現在の神話体系ができたという。そしてヘラは、大地母神信仰を代表する神格だったらしい。だとすれば、家父長的ギリシア人たちにヘラが嫌われているとすれば、野蛮な征服活動によって家父長制が成立する以前の大地母神信仰を想起させるからではないのか。あるいは、ヘラに嫌な性格を押しつけていったのは、家父長制にとって都合が悪い存在や価値だったからではないのか。本書のここの記述については、50年前という時代的な制約があるのではあるが、疑義なしとはしない。

M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』下田立行訳、岩波文庫、1994年

【要約と感想】工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』

【要約】ブラック校則や不登校なんてものは表面上の問題に過ぎず、本質的には子どもたちに自己決定権が与えられていないことが問題です。教育にとっていちばん大切なのは「自律」した人間を育てることですが、それには「戦略」が大事です。表面的な問題を正義面して解決しようとせず、みんな違っていることを前提に、必ず合意できる本質を大切にし、そこから粘り強く対話を重ね、根気よく合意形成をしていけば、自ずと環境が整っていきます。そして教育の問題といわれているものは、子どもの問題ではなく、教師の問題であり、大人や社会の問題であることが見えてきます。

【感想】工藤校長が言っていることは他の本の内容とまったく一緒(そうじゃないと困る)なのだが、対談相手の鴻上尚史がさすがの切れ味で、教育哲学の本質的なところがより浮き彫りになっているように読んだ。どちらも宙に浮いた理想論ではなく、地に足の着いた実践を踏まえて語っているので、とても説得力がある。
 ただし同じように問題解決をしようと思ったら、組織をまとめあげる人間観察力とコミュニケーション力が必要なのは言うまでもなく、ブレない理念と信念に加え、本書で繰り返し強調されるように「戦略」を立案する知恵と経験が大切になってくる。この重層的な課題に「当事者意識」を以て臨むことは、極めて大変なことだ。しかしその困難に恐れず立ち向かっていく大人の姿を、子どもたちもしっかり見ているということだろう。説得力はそういうところから立ちあがってくる。私も一人の大人として、頑張ろうと思う。

【今後の研究のための備忘録】教育と宗教
 現代日本教育の問題を「宗教」と表現する発言が両者からあったので、サンプリングしておく。

鴻上「「どうしてツーブロックの髪型は校則違反なんですか?」と問う高校生に「そんなの高校生らしくないだろ!」と言い放つ先生とは、言葉は通じていません。会話になってないのです。それは宗教的言葉です。「どうして神はこれを禁じているのですか?」「それは神が禁じているからだ!」は、論理的な会話ではないはずです。ただ、宗教的信念の告白です。」pp.12-13

工藤「民主主義が成長している欧州と日本の学校教育を比較すると、日本は論理的に物事を進めるのが得意ではないように感じます(中略)。伝統的、かつ経験主義的で、情緒的であり、ある意味宗教的な感じがします。」pp.258-259

 ちなみに工藤の言葉の中に「岡本薫」という人物名が出てくるが、彼は著書の中で日本の教育を「教育教」と呼び、宗教になぞらえている(岡本『日本を滅ぼす教育談義』)。さらにちなみに、教育の弊害を宗教になぞらえるのは日本だけではない。オーストリア出身でラテンアメリカで活躍した思想家イヴァン・イリイチも、教育を宗教に喩えて批判している(イリイチ『脱学校の社会』)。
 で、教育を「宗教」になぞらえて何が言いたいかは、わからなくもない。だがしかし、教育の「教」が宗教の「教」でもあることはなかなか奥が深く、ここを侮っていると足を掬われるようにも思うのであった。教育というものを突きつめていくとどこかで必然的に「宗教」なる何かに変質する瞬間(個人的にはそれを「特異点」と呼んできている)があることについては、畏れを抱いておく必要があると思っている。

【今後の研究のための備忘録】エージェンシー
 「エージェンシー」という言葉に関して、世界中の教育界で流行しているが日本人には分かりにくい、という話題が出て来たので、サンプリングしておく。

工藤「いま、世界中の教育関係者の間では「エージェンシー」(agency)が大事だってことが言われています。文科省は「主体的に問題を解決する姿勢」と訳しているのですが、ちょっとわかりにくいですよね。
 先日、OECDの局長が来日した歳、対談させてもらう機会がありました。そのとき「麹町中の取り組みは当事者意識を育てることだ」と話したら、「それはエージェンシーですね」と返ってきたんです。つまり、エージェンシーは当事者意識を指すような言葉なんですね。なんでも他人事にしてはいけない、自分自身もまた社会を構成しているひとりなのだという考え方を育てるべきだという考え方です。」pp.96-97

 個人的には、従来personaliyという言葉で言いあらわされてきた対象(責任と主体性を持った人格)に関して、personalityという言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になり、そこにすぽっと当てはまったのがagency(当事者性・主体性)という言葉だと考えている。あるいは日本語においても、教育基本法の第一条で教育の目的は「人格の完成」と言っているが、いまや「人格」という言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になっている。そんなとき、「主体性」とか「当事者性」という言葉にしっくりきたりするわけだ。しかしもともとはpersonalityや「人格」という言葉で呼び習わされてきた何かであることは、忘れてはならないように思う。

工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』講談社現代新書、2021年