【要約と感想】工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』

【要約】ブラック校則や不登校なんてものは表面上の問題に過ぎず、本質的には子どもたちに自己決定権が与えられていないことが問題です。教育にとっていちばん大切なのは「自律」した人間を育てることですが、それには「戦略」が大事です。表面的な問題を正義面して解決しようとせず、みんな違っていることを前提に、必ず合意できる本質を大切にし、そこから粘り強く対話を重ね、根気よく合意形成をしていけば、自ずと環境が整っていきます。そして教育の問題といわれているものは、子どもの問題ではなく、教師の問題であり、大人や社会の問題であることが見えてきます。

【感想】工藤校長が言っていることは他の本の内容とまったく一緒(そうじゃないと困る)なのだが、対談相手の鴻上尚史がさすがの切れ味で、教育哲学の本質的なところがより浮き彫りになっているように読んだ。どちらも宙に浮いた理想論ではなく、地に足の着いた実践を踏まえて語っているので、とても説得力がある。
 ただし同じように問題解決をしようと思ったら、組織をまとめあげる人間観察力とコミュニケーション力が必要なのは言うまでもなく、ブレない理念と信念に加え、本書で繰り返し強調されるように「戦略」を立案する知恵と経験が大切になってくる。この重層的な課題に「当事者意識」を以て臨むことは、極めて大変なことだ。しかしその困難に恐れず立ち向かっていく大人の姿を、子どもたちもしっかり見ているということだろう。説得力はそういうところから立ちあがってくる。私も一人の大人として、頑張ろうと思う。

【今後の研究のための備忘録】教育と宗教
 現代日本教育の問題を「宗教」と表現する発言が両者からあったので、サンプリングしておく。

鴻上「「どうしてツーブロックの髪型は校則違反なんですか?」と問う高校生に「そんなの高校生らしくないだろ!」と言い放つ先生とは、言葉は通じていません。会話になってないのです。それは宗教的言葉です。「どうして神はこれを禁じているのですか?」「それは神が禁じているからだ!」は、論理的な会話ではないはずです。ただ、宗教的信念の告白です。」pp.12-13

工藤「民主主義が成長している欧州と日本の学校教育を比較すると、日本は論理的に物事を進めるのが得意ではないように感じます(中略)。伝統的、かつ経験主義的で、情緒的であり、ある意味宗教的な感じがします。」pp.258-259

 ちなみに工藤の言葉の中に「岡本薫」という人物名が出てくるが、彼は著書の中で日本の教育を「教育教」と呼び、宗教になぞらえている(岡本『日本を滅ぼす教育談義』)。さらにちなみに、教育の弊害を宗教になぞらえるのは日本だけではない。オーストリア出身でラテンアメリカで活躍した思想家イヴァン・イリイチも、教育を宗教に喩えて批判している(イリイチ『脱学校の社会』)。
 で、教育を「宗教」になぞらえて何が言いたいかは、わからなくもない。だがしかし、教育の「教」が宗教の「教」でもあることはなかなか奥が深く、ここを侮っていると足を掬われるようにも思うのであった。教育というものを突きつめていくとどこかで必然的に「宗教」なる何かに変質する瞬間(個人的にはそれを「特異点」と呼んできている)があることについては、畏れを抱いておく必要があると思っている。

【今後の研究のための備忘録】エージェンシー
 「エージェンシー」という言葉に関して、世界中の教育界で流行しているが日本人には分かりにくい、という話題が出て来たので、サンプリングしておく。

工藤「いま、世界中の教育関係者の間では「エージェンシー」(agency)が大事だってことが言われています。文科省は「主体的に問題を解決する姿勢」と訳しているのですが、ちょっとわかりにくいですよね。
 先日、OECDの局長が来日した歳、対談させてもらう機会がありました。そのとき「麹町中の取り組みは当事者意識を育てることだ」と話したら、「それはエージェンシーですね」と返ってきたんです。つまり、エージェンシーは当事者意識を指すような言葉なんですね。なんでも他人事にしてはいけない、自分自身もまた社会を構成しているひとりなのだという考え方を育てるべきだという考え方です。」pp.96-97

 個人的には、従来personaliyという言葉で言いあらわされてきた対象(責任と主体性を持った人格)に関して、personalityという言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になり、そこにすぽっと当てはまったのがagency(当事者性・主体性)という言葉だと考えている。あるいは日本語においても、教育基本法の第一条で教育の目的は「人格の完成」と言っているが、いまや「人格」という言葉自体がボヤけて焦点を失いつつあるので、代わりとなる言葉が必要になっている。そんなとき、「主体性」とか「当事者性」という言葉にしっくりきたりするわけだ。しかしもともとはpersonalityや「人格」という言葉で呼び習わされてきた何かであることは、忘れてはならないように思う。

工藤勇一・鴻上尚史『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』講談社現代新書、2021年