「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】伊藤良高『増補版幼児教育行政学』

【要約】2006年の教育基本法改正以降、新自由主義的行政がさらに進行し、幼児教育を歪めています。幼児教育行政は、サービス消費の観点から営利追求を追認するのではなく、公共性の観点から子ども本位で構想するべきです。首長のリーダーシップの在り方にも注意が必要です。保育学の専門性を確立するために、関係者一同が協力していきましょう。

【感想】単なる事実の羅列に終始するのではなく、保育学確立を願う著者の志と理念を十分に感じられる、格調の高い本だった。2006年の教育基本法改正以来、幼児教育の分野も含めて、教育界では大激変が続いている。教育委員会の形も大きく変わった。そんな中、ただ世間の波に翻弄されるのではなく、自分の立ち位置を見定めるために、良い本だと思った。

伊藤良高『増補版幼児教育行政学』晃洋書房、2018年

【要約と感想】ミッチェル・レズニック『ライフロング・キンダーガーデン 創造力を育む4つの原則』

【要約】現在の教育は、創造力を潰しています。創造力を育むためには、小学校以降の教育も、幼稚園のようにあるべきです。外から何かを付け加えるのではなく、内側から伸びる環境を整えるのです。具体的には、4つのP(Projects・Passion・Peers・Play)が重要です。

【感想】元気が出る本だ。自分が子どもだったら、こういう実践に夢中になっていただろうな。
いやまあ、実際に夢中になっていた。思い出すのは、地元にあった「刈谷少年少女発明クラブ」という、トヨタ系企業が中心となって作っていた組織だ(いまも健在)。設計図さえしっかり書けば、木材からタミヤのギヤボックス、あるいはトランジスタなど電子部品まで無料で提供してくれて、作業用の道具や環境も整っているという、いま思えば非常に恵まれている場所だった(御多分に漏れず、当時はそのありがたさを十分に認識していなかったが)。私に創造力があるかどうかは分からないが、仮にあるとしたら、ここに通っていたことが大きな力になっているのかもしれない。

中学受験を突破するために幼い頃から学習塾に通っても、しょせんは「人に使われる人材」にしかなれないように思う。自分で未来を切り拓いていく力を伸ばすには、本書が示す「幼稚園のような場」がもっともっと必要だと思った。

【今後の研究のための備忘録】
教育を植物に喩える表現は、フレーベル以来の伝統だ。メモしておきたい。

「すべての子供たちは創造的になる能力を持って生まれていますが、彼らの創造力は、必ずしも勝手に発達するとは限りません。それは育まれ、励まされ、そして支援される必要があります。このプロセスは、植物がよく成長するように環境を作り上げて世話をしている、農家や庭師のような行為なのです。同じように、創造性がよりよく成長する学習環境を作り上げることは可能です。」50頁

ミッチェル・レズニック/酒匂寛訳『ライフロング・キンダーガーデン 創造力を育む4つの原則』日経BP社、2018年

【要約と感想】諏訪哲二『学校の「当たり前」をやめてはいけない!―現場から疑う教育改革』

【要約】学校の「当たり前」は、先人の知恵の積み重ねでできているので、思いつきで壊してしまうと大変なことになります。学校とは単なる人材養成の場ではなく、人格形成の場であることを忘れてはなりません。新自由主義の考えを元に教育改革を行なうと、酷いことになります。

【感想】いつもの諏訪節で、安心する。諏訪の言う「二元論」で物事を考えれば、まあ、こういう結論になるのは当たり前だろう。それ自体は特に悪いことではない。教育の本質が「自由でない者を強制的に自由にする」ということだと考えれば、諏訪の言いたいことはよく分かる。「人格の完成」の考究をライフワークとしているので、わかりみが激しい。臨教審以降の新自由主義的教育改革が近代教育の理念を根本から破壊してしまったことについては、おおむね同意だ。

またあるいは、「当たり前」というものが先人の知恵の積み重ねでできているという考え方は、バークやオルテガの系列に連なる穏当な保守主義と言える。「死者の立憲主義」を唱える中島岳志も思い浮かぶところだ。「理性」というものの限界をしっかり見定め、改革のための改革に冷や水を浴びせるのは、悪いことではない。

ただ問題は、世の中がそう簡単に「敵/味方」に分けられるか?ということだ。二元論というものは切れ味は鋭いのだが、鋭すぎて、切ってはいけないものまで切り分けてしまう。そういう危うさも併せ持つ本だったように思う。「人格の完成」と「当たり前=保守主義」という実はそう簡単には両立しないはずのものが現実的には両立してしまうように、現実というものはとても複雑だ。新自由主義というものも、論理的には結びつかないようなものと現実的には結びついている。そういう複雑で厄介な現実は、「二元論」からは見えてこない。

【要検討事項】
「自律」という言葉に対する理解(103頁)は、かなり歪んでいると思う。本来はカントの言う「自己立法能力」やルソーの言う「一般意志」という概念を土台にして考えるべき概念だろう。
また、「近代学校はイギリスの教会の日曜学校から始まった」(161頁)と言うが、そんな単純な話ではなかろう。イギリスならオーエンの名前を挙げる方がまだマシな気がする。

諏訪哲二『学校の「当たり前」をやめてはいけない!―現場から疑う教育改革』現代書館、2020年

【要約と感想】兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』

【要約】脳科学が明らかにした知見を踏まえて、哲学が積み重ねてきた洞察を振り返ってみると、「私が一続きの私」であることのほうがむしろ奇跡的な綱渡りをしていることが分かります。確固たる一続きの「私」が最初にあるのではなく、反復する状況が「私」を一続きにさせます。反復の恒常性が失われれば、「私」の恒常性と統一性は容易に失われます。

【感想】私の専門的な研究テーマは「人格とは何か?」なので、本書も専門的な関心から手に取ったのだった。私は「人文科学としての教育学」というアプローチで以て「人格」と対峙してきたので、「自然科学としての心理学」を標榜するアプローチには常々失望してきたものだった。そういう関心からすれば、人文科学と自然科学を絶望的に隔てる深い溝に架橋しようと果敢に試みる本書の内容は、たいへんエキサイティングだった。おもしろかった。なるほど、「再入力の渦」によって量が質に変わる=物理が精神に飛躍するのだとすれば、「人格」の本質が「再帰的」であることを踏まえれば、とても興味深い仮説なのだった。

そして「再入力の渦」によって量が質に変わることを認めると、それは一人の人間の内部だけで発生する事象ではなくなる。個々の人間ひとりひとりが再入力の渦を構成する要素だと考えれば、何万人かが集まった集団は、単なる量ではなく、「質」に変わっている。ちなみに心理学では、ヴントがそういうことを既に言っているはずだ。本書ではコンピュータに「心」が生まれる可能性についても少し触れられているが、それなら同じように人間の集団にも「心」が生まれるはずだ。そしてそれは果たしてルソーのいう「一般意志」と見なしてよいのかどうか。

【この本は眼鏡論にも使える】
眼鏡論に対しても様々なインスピレーションを与える本であった。もちろん「普遍論争」は、直接的に関わってくる。果たして「普遍としての眼鏡っ娘」が存在するのか、それとも個々のキャラクターに対して「眼鏡っ娘」というラベルがつけられただけなのか。中世の普遍論争が眼鏡論に対しても極めて有効であることが、改めて確認できる。
しかし本書の中でもっと深い味わいがあったのは、「受肉」という概念に対する掘り下げだった。

「私は私の体に否応なく受肉してしまうにもかかわらず、私と私の体の関係はいつもちぐはぐで、多くの場合はぴったりとは一致しません。そもそも私の体がオートポイエティックな自己産出的な機会的閉鎖系であるのに対して、「私」は対象や他者の表象の残照として受け身的に構成される何かもっとその存在自体が常に問われるような何事かだと考えるならば、当然それは自然に一致するわけはないはずなのですが、だからこそ、それぞれの私達がそれぞれに自分自身の身体とどういう関係を持つかを決め直すことができるポテンシャルもあるということになります。」
「受肉とはそもそも観念的なもの、あるいは概念的なものが物質性を帯びることだといえます。」190頁
「受肉とは普遍が実体化することであって、普遍を記号として指し示すことではないからです。キリストは神そのものであって、神を連想するために用いられる記号ではありません。(中略)そういう意味で、ボディビルダーの筋肉もまた、私の持っている一つの偶有的な性質なのではなくて、「私」という普遍がそこで実体化しているという意味で受肉なのです。」192-193頁

これはまさに眼鏡っ娘のことを過不足なく表現した文章だ。なかなか味わい深い。そのとおり。眼鏡っ娘とはメガネをかけた女性のことではない。「眼鏡っ娘」という概念を受肉した存在のことなのだ。

兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』講談社選書メチエ、2018年

【要約と感想】相馬伸一『ヨハネス・コメニウス―汎知学の光』

【要約】コメニウスは、従来は教授学者としての側面だけが強調されてきましたが、本書は多面的・多角的にコメニウスの思想を捉えることを目指しました。コメニウスは確かに当代一流の教授学者でもありましたが、同時に宗教改革者であり、政治活動家であり、哲学者であり、民族派であると同時に国際派でもありました。多様なコメニウスの姿を貫くキーワードは「光」です。

【感想】学生の頃から西洋教育史の通史的テキストはそこそこ読んできているのだが、どうもコメニウスの位置付けだけはいつもしっくりこなかった。ロックやルソーは、よく分かるのだ。背景として封建社会から市民社会への転換があり、それに伴って教育というものの役割や考え方が変わるのは当然だ。デューイなど新教育も、極めて分かりやすい。動機付けが明白なのだ。
しかし一方、コメニウスの教育史的位置づけは、まったく腑に落ちなかった。個人的には、これまで「教育印刷術」をキーワードとして理解してきたところだ。まず15世紀中葉の印刷術発明を受けて情報革命が進行し、エラスムスなど人文主義者の教育論が立ち上がる。16世紀には印刷されたテキストの流通を背景に学校教育が量的拡大を遂げる。この文脈に即せば、17世紀初頭のコメニウスによる「学校教育改革」は、一応の落ち着きどころを得る。伝統的な教育制度や教育方法(言葉や対話中心)が説得力を失い、新しいメディア(印刷術=本=教科書)に対応すべき新しい教育制度や教育方法が待望される。コメニウスの言う「教育印刷術」とは、印刷術によって教育への欲求が量的に拡大した状況に相応しい、時代に待ち望まれた思考と技術に思えたわけだ。

本書は、そういう私のコメニウス理解に対して、足払いを食らわせるような内容ではあった。知らないことだらけで、知識レベルでとても勉強になったことは間違いない。しかし、正直に言えば、知識を蓄えた一方で、コメニウスのことはますます分からなくなった。分かりにくいのも当然で、近代人とコメニウスでは「世界を理解するためのOS=思考の枠組み」そのものがまったく異なっていて、本当に何を考えているのか、想像力を働かせることが困難なのだ。本書で何度も繰り返し強調されるが、コメニウスの土台にある「類似」という思考法や言語間は、中世に特有のものだ。となれば、その教育観と言語観を踏まえて構想された「学校教育」は、近代のものであるわけはない。が、それにも関わらず、私の目から見れば、近代的な学校教育の萌芽にしか見えない。
コメニウスは近代なのか前近代なのか。思考の流れだけではなく、思考の枠組みそのものを脱構築しながら理解しなければならないので、疲れるし、よく分からないのであった。結果として極めて明瞭に分かったのは、コメニウスをそんなに簡単に割り切って扱ってはならない、ということだ。そして、難しいものは、難しいままで扱わなければならない。
とはいえ、現実の授業では15分程度で扱わなくてはならないのであった。やれやれだ。

【今後の研究のための備忘録】
教育のアポリアの本質に触れている記述には、引っかかった。

「神的暴力は宗教的な伝承には限られないとベンヤミンは言うが、その有力なモデルが千年王国論にあることは間違いない。だとすれば、コメニウスは、暴力を終結させるためとはいえ、究極の暴力としての神的暴力を是認したことになるのだろうか。」254-255頁

直接的には教育について言及したところではない。宗教的理想を実現するために暴力が許されるかどうか、という議論である。この問題は、教育という相では「自由の強制」という形をとる。子どもは子どものままでは自由にはなれない。大人になるためには、自由を強制されなければならない。教育とは、自由を強制する営みである。ひとりの人間に対する「強制による自由の実現」という構造を世界に敷衍すると、「暴力による平和の実現」ということになる。コメニウスの「千年王国論」は、図らずも、教育という営みが本来的に抱えている暴力性と同型というわけだ。本書では、教育という営みが本質的に抱える暴力性を、プラトン「国家」を踏まえた「魂の向け変え」として解説している(143-150頁)。
この問題に対する本書の回答も、興味深い。

「彼を千年王国論に駆り立てたのは、自らが生きる世界に対する当事者性だったはずである。」256頁

教育を実践する者は、「強制による自由の実現」というアポリアの前でも、立ち止まらない。なぜなら、「自らが生きる世界に対する当事者性」に突き動かされるからだ。その本来的な暴力性に耐えられる者か無頓着な者しか、教育には携われない。いちおう、「単に外部から知識を注入する」ことは、ここでは教育とは呼ばないし、呼ぶ価値もないわけではある。

相馬伸一『ヨハネス・コメニウス―汎知学の光』講談社選書メチエ、2017年