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【要約と感想】Andrew Pettegree『印刷という革命』

【要約】印刷術の発明によって、世界は決定的に変化した。特に、従来は見過ごされてきたアジビラのような細かい印刷物に着目すると、本質が見えてくる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=宗教改革に印刷術が深く関わっているという様々な具体例。たとえばヴェネチアにおけるサヴォナローラの成功も、印刷術の力に負っていた。ルターとカルヴァンは天才的な著述家でもあって、ヴィッテンブルクやジュネーヴの印刷業界は彼らの著作がもたらす経済的恩恵で栄えた。宗教改革の対立は、印刷術が可能にしたアジビラの大量印刷によって煽られていった。アジビラは印刷しやすいコンパクトな形態で作られ、各地方の印刷所でで簡単に複製して大量頒布することが可能だった。

最初期の印刷術は、経済的な軌道に乗るまでは大変で、数多くの倒産者が出た。印刷業者が期待していたほどの読者が存在しなかったため、学術出版ブームが一段落してからは、新規の読者層を開拓しなければならなかった。俗語で日常的に印刷物を読む人々が創出されなければ、印刷術は産業として成り立たなかった。これら印刷術の成功を土台から支えるような新しいリテラシーを持つ人々は、宗教改革の論争や、戦争に関するアジビラ、自然災害等のニュース速報、新大陸発見に関する報道、騎士道物語など手軽に触れられるファンタジーなどによって開拓されていった。

活字と並んで、図版の印刷技術も重要な要素だった。具体的には医学の分野における詳細な解剖図、本草学における精緻な説明図、天文学における視覚的な説得力、地理学における正確な地図等、木版印刷や銅版印刷による精密な図版印刷が可能となることによって、印刷物全体への信頼度や期待度が増す。

■図らずも得た知識=クリストファー・コロンブスの息子は、稀代の蔵書家だった。コロンブスは本を読んで西回り航路を思いついて財をなしたりしていて、そういう経験から息子も本の威力というものを実感していたのか、どうか。

愛国主義的なアジビラは、印刷術黎明期から数多く出現していた。宗教改革に関わる争いも、どうやら単純に宗教的情熱に関わっているというよりも、愛国主義的感情と密接に関連してくるらしい。ただ、ナショナリズムの発生と印刷術の関係については、著書は関心を持って記しているわけではない。

■要確認事項=「教育は十六世紀にもっとも急成長をとげた産業のひとつである。」(p.291)と書いてあるが、真に受けて良いのか。ともかく、教科書類の大量印刷、エラスムスの著書の大量出版を学生読者が支えていたことなどは、事実として参照できる。しかしエラスムスの教育論は、基本的には家庭教師向けの私教育について考えられたものであって、学校におけるマス教育を考慮したものではなかった。教育産業の拡大とは、単に、本の流通量の増大と関連して、民衆のリテラシー獲得への要求が高まり、私的な教育機関が自発的に増加したことを意味しているのか。あるいは国家や宗教機関による公教育の展開と結びついてくるのかで、話はまったく異なるわけだが。ともかく、一般民衆がどのようにリテラシーを獲得していたかは、まったくのブラックボックスのまま放置されている。

「ルネサンス」という言葉の内容は、どうなっているのか。本書は、単にギリシャ・ローマの文芸復興に関わる本だけではなく、印刷術の発明に伴って新しく出現した事態も同時に扱っている。たとえばアジビラの大量頒布とか、宗教改革の論争とか。これらもルネサンスという概念に含まれてくるのか。「ルネサンス」という言葉は、思想的な内実を伴わず、単に時間の幅を示しているだけなのか。

【感想】フランクフルトの書籍見本市は、ある意味、現在のコミックマーケットの姿を彷彿とさせて、とても興味深い。たとえばフランクフルト見本市での新刊売り上げがあまりにも突出しているので、著者や出版社も見本市に新刊を間に合わせようとして、実質的に見本市の開催日が締め切りを規定していたりとか。見本市に書籍商たちが隊列を組んで出動する様とか。

そして、人文学に対する風あたりが強いことを嘆く訳者あとがきが、切ない。本文自体も、人間の愚かな行為によって大量の書物が失われていく描写で終わっているし。TSUTAYA図書館に関わる愚行の数々とか、大量の貴重書を捨ててしまった図書館の話などを思い出すのであった。

アンドリュー・ペティグリー/桑木野幸司訳『印刷という革命-ルネサンスの本と日常生活』白水社、2015年<2010年

【要約と感想】Laura Lepri『書物の夢、印刷の旅』

【要約】ルネサンス期イタリア文化人たちの華麗な日常。黎明期の印刷出版の具体的なあり方。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ラテン語から俗語へと切り替わる際のダイナミックな動きと具体的な問題点。たとえばイタリアにも数々の方言があったわけだが、そこから標準語としてのイタリア語なるものがどのように立ち上がってきたか。イタリアの場合は、既にルネサンス期に意識的な俗語論というものが存在していた。しかし一方で、何を標準語とするかという合意は当然できていなかった。標準語が確立するためには、やはり意識的に俗語を彫琢した権威ある書物が印刷出版されて広く流通する必要がある。イタリア語の場合は、カスティリオーネ『宮廷人』がその役割を果たすようだ。さらに言えば、校正者の果たした役割が極めて大きかった事実が興味深い。印刷術の普及に伴って権威ある俗語が確立していく過程は、ナショナリズムの成立を考える上でも重要。

著者としての自意識の芽生え。海賊版や質の悪い印刷術によって自分の書いたテキストが改変・改悪されることへの嫌悪感がルネサンス期から表明されていた。写本であればおそらくこのような著者としての自意識が生まれることは考えにくい。近代的な自意識が誕生する過程を考えるときに、印刷術がどのようなインパクトを持ったかが具体的にわかる。

ポルノグラフィの影響。印刷術の黎明期から既にポルノまがいの印刷物が出回っていた。それがどの程度のインパクトを持っていたかは本書では分からないが、新しいメディアが普及一般化する際に必然的にポルノまがいの表現が伴うのではないかという疑いは持たせる。しかし特にピエトロ・アレティーノは興味深い人物だ。死因が「笑い死に」だし

【感想】黎明期の印刷術の様相を知ろうと思って読み始めたんだけど、学術的な本というよりも、ノンフィクション時代ものという感じだった。が、だからこそ面白く読めたかも。決定的かつ不可逆的に時代が遷移する境界線上で、それまでにはありえなかった新しい野望を抱いて蠢いていた人々を描くには、主観的な心情記述にも踏み込める本書のような形式のほうが相応しいかもしれない。さすがイタリア人、登場人物の言動と行動がみんないちいちオシャレだし。しかし冒頭に記された「日本の読者へ」という著者のメッセージが、いちばんオシャレだったかも。

ラウラ・レプリ/柱本元彦訳『書物の夢、印刷の旅 -ルネサンス期出版文化の富と虚栄』青土社、2014年

【要約と感想】Alessandro Marzo Magno『そのとき、本が生まれた』

【要約】ルネサンス期ヴェネツィアの印刷業界は、生産性が高いだけでなく、国際的だった。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=印刷術が発明されたのはドイツのマインツだが、印刷出版の中心地はルネサンス期のイタリア、特に貿易で栄えた国際的な都市ヴェネツィアだった。

教科書的にはイタリアのルネサンスはダンテやペトラルカ、ボッカチオ等14世紀から始まったように書かれることが多いが、彼らの本が実際に広い影響力を持ったのは印刷術によって大量に出版されて市場に出回ってからだった。

印刷術の黎明期から既に娯楽に特化した本がたくさん出版されており、売れっ子作家が登場したり、ポルノ小説も16世紀中に出版されて話題になるなどしていた。

■図らずも得た知識=ルネサンス期ヴェネツィア出版業界の実力は、特に際立った国際性にあった。アラビア語のコーラン、ヘブライ語のタルムード、アルメニア語、クロアチア語、ボスニア語の書籍等、輸出を見込んだ上での商業的な印刷業が成立していた。楽譜の印刷もヴェネツィアで始まっていた。

【感想】先にルネサンスの特別な意義を否定するような本を読んだから特に感じるんだろうけれども。ルネサンスを称揚するにしても否定するにしても、いずれにせよ単にヨーロッパを実体化するパフォーマンスに過ぎないな、と。現実の国際都市では、バルカン半島のギリシア正教会や、ユダヤ教や、さらにはオスマン・トルコのイスラム教までも含めて、市場経済の中で蠢いている。ヨーロッパの実体化は、これら異教的要素を全て切り捨てて、純粋なギリシア・ローマ文化(と近代が認定したもの)のみを吸い上げたところに成立するわけで。となれば、どこまで中世とかどこから近代とか議論するよりも前に、まずそもそも「ヨーロッパって何だ」ってところをしっかり反省した上で臨まないと、まともな話にならないと思った、改めて。

日本が近代化する過程では、西洋の純粋な上澄みだけ理想化して追い求めていれば用は足りたので、特に日本人がこんなことを意識する必要はなかったんだろうけれども。しかし他山の石。現代では、日本の歴史を語ろうとするとき、「日本って何だ」ってところは始めにしっかり考えておかないと、噛み合う話にはならない。

アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ/清水由貴子訳『そのとき、本が生まれた』柏書房、2013年

【要約と感想】ジャック・ル=ゴフ『時代区分は本当に必要か?』

【要約】ルネサンスは大したことがありません。中世のほうが凄いです。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=「ルネサンス」という言葉は19世紀以降に知識人の間で広がったもので、当時は使用されていなかった。ルネサンスを近代の始まりとするには、具体的な根拠が乏しすぎる。ルネサンスの特徴に属するとされてきた様々な要素は、実は中世から具体例を見ることができる。近代化に向かう決定的な変化は18世紀半ばに起こっている。

【感想】ルネサンスの意義を強調するような見解を相対化するのはいいとして。碩学に対して私が言うのもなんだけど、ヨーロッパ中心史観、もっと言えばフランス=パリ中心史観に由来して、イタリアへの対抗心というか嫉妬というか蔑視というかが透けて見えてしまう感じにさせる。ルネサンスの意義を低く見積もったときに損をするのはイタリアだけで、フランスにとっては痛くも痒くもないし。逆に18世紀半ばの意義を高く見積もったとき、クローズアップされるのはディドロとかダランベールとかが活躍したフランス=パリだし。近代化のメルクマールを中央集権国家への上昇としたら、そりゃイタリアはゴミで、フランス最高ってなっちゃう、ってだけだよなあ、と。

あと、ヨーロッパを実体化しすぎている感じも気になる。そもそも私個人としては、ルネサンスという概念自体がヨーロッパを実体化するための虚構の一種だと思っているわけだが。それを相対化するためにルネサンス概念を疑うのならわかるんだけど、本書はむしろヨーロッパの実体化を促進しようとしている印象。

前から気になっていたのは、ルネサンスと言ったときにダンテとかペトラルカが出てくること。印刷術発明以前に活躍した著作家がルネサンスの代表者として挙げられるのには、多少の違和感があった。本書は、ルネサンスを明確に大航海時代や宗教改革と結びついた概念として示していて、ダンテなりペトラルカなりはルネサンスではなく中世のほうに寄せている。こういう話なら、納得できる。

「時代区分」という歴史学の方法論に関する話は、専門家としては身につまされる。自分自身の問題として受け止めて、しっかり考えなくちゃいけない。

ジャック・ル=ゴフ/菅沼潤訳『時代区分は本当に必要か? 〔連続性と不連続性を再考する〕』藤原書店、2016年

【要約と感想】宮崎正勝『海図の世界史』

【要約】海を中心に視点を据えると、世界の見え方がまったく違ってくる。

■確認したかったことで、期待通り本書に書いてあったこと=コロンブス以前から、地球が丸いことは人々の間で常識になっていた。印刷術の発明によってプトレマイオスの『地理学』がブームとなって世間に大量に出回り、地球球体説は知識人の常識となった。しかし地球の大きさに関しては、大西洋の大きさを極めて小さく見積もる楽観的な態度が広く見られた。コロンブスが新大陸発見を認めずにアジア到達にこだわったのは、馬鹿だったというよりは、コロンブスがスペイン宮廷と交わした契約に関わって都合が悪くなってしまうため。

アメリカ大陸西海岸と東南アジアの連絡は、16世紀半ばにスペインが太平洋航路を開発することで可能となった。アメリカ大陸で産出された銀の多くは、太平洋を経由して東南アジアの香辛料市場に持ち込まれた。

イベリア半島優位で進められていたはずの海外航路開発は、17世紀にはオランダが主導権を握るようになった。その逆転の大きな理由は、イベリア半島国家が採用した国家主導の海外戦略が硬直していたのに対し、オランダの半官半民的な自由競争政策が勝っていたから。そして自由競争の優位性は、18世紀にイギリスが主導する公海の自由への主張によってさらに増大する。これは、港町が大量消費地を後背地に持つかどうかを重要視するようなアタリ等の見解とは大きく異なる。個人的には地政学的な見解よりは、本書のように自由主義の展開に即して説明するほうが納得しやすい。

■図らずも得た知識=マゼランは特に地球一周を志していたわけではなく、コロンブスと同じように西回りで香辛料市場にアクセスすることを目論んでいた。ヨーロッパから北米大陸を西に抜けてアジアの香辛料市場に到達しようとするチャレンジが数多く行われていた。ほか、地政学的な知識をたくさん得た。

■要確認事項=資本主義の成立は、カリブ海域におけるサトウキビ栽培のプランテーション化が契機となっているという見解。ヨーロッパの資本+アフリカの奴隷労働力+アメリカの広大な土地によって資本主義経済が成立したという。本当か? 新大陸への資本投下が市場規模を著しく拡大させたこと自体は間違いないだろうけれど。ただ、奴隷労働という非効率的な生産様式が残存しているところに本当に「資本主義の成立」の契機はあり得るか。資本主義の成立を語る上では、「労働力の自由売買」を不可欠な構成要素とする生産様式の組織化はしっかり議論されるべきではないか。「市場規模の量的拡大」と「資本主義の質的成立」を同じ事態と見なしてよいのか。

【感想】アメリカが関わった2つの太平洋戦争の意味。一度目は1898年にスペインを相手とした太平洋戦争で、このときフィリピンを獲得。二度目は1941年に日本を相手とした太平洋戦争で、このとき沖縄を獲得。この両者とも、中国という巨大市場の獲得を目指した長期的戦略の一環とすれば。2017年の北朝鮮に対しても、アメリカの基本的スタンスをこのマハン的な太平洋戦略の視点から考えていいのか、どうか。

宮崎正勝『海図の世界史―「海上の道」が歴史を変えた』新潮選書、2012年