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【要約と感想】ジャック・アタリ『1492西欧文明の世界支配』

【要約】ヨーロッパとは、都合が悪い東洋的出自を忘却して1492年に捏造された、世界征服のための人工的概念です。

■確認したかったことで、期待通り本書に書いてあったこと=かつては中華帝国が世界の中心であって、ヨーロッパは貧弱で貧乏な辺境に過ぎなかった。1492年が逆転のタイミングとなった。

コロンブスの識字能力と、実際に読んだ本のタイトル(プトレマイオス「地理学」、マルコ・ポーロ「東方見聞録」など)。コロンブス以外の当時の人々も、すでに地球が丸いことを知っており、大西洋航路の可能性を理解していた。コロンブス以外の人々のほうがより正確に地球の大きさを把握しており、大西洋航路は現実的な問題として考慮された上で難しいと判断されていた。当時の航海による発見成果(たとえば喜望峰に至るまでのアフリカ大陸西海岸)の情報は、印刷術によって迅速かつ広範囲に周知されていた。

新大陸におけるスペイン人の蛮行、原住民の大量虐殺の具体的な過程。それに対するキリスト教聖職者たちの反応。

宗教改革における印刷術の重要性。ルター登場以前から印刷術の活用によって聖書が大量に出回っており、一般民衆が自ら聖書を読むという行為が可能になっていた。教会の権威が失われていく過程で、印刷術による大量の聖書の流布が大きな意味を持った。

■図らずも得た知識=1492年に世界初の地球儀を作成したマルティン・ベーハイムの具体的な履歴。ポルトガルによるアフリカ西海岸探検の具体的過程。1492年にスペインで実行されたユダヤ人追放の具体的過程と、その歴史的な影響。15世紀末の領邦君主たちの外交戦略の実相。

■要検討事項=ユダヤ人が迫害された結果、二枚舌的で曖昧な性格を帯びた「近代的知識人」が生まれたという見解。本当か? コロンブス=ユダヤ人説にも共感を示していたり、コロンブスの大西洋横断とスペインからのユダヤ人追放がリンクしていることを仄めかしたり、恣意性は感じる。
とはいえ、1492年のグラナダ陥落が、単にヨーロッパ圏からのイスラム追放だけを意味するのではなく、ヨーロッパの知識人にとってはユダヤ人問題も絡んできて、私が想像する以上に重要な事態として認識されていることは理解した。

【感想】「ヨーロッパの捏造」という観点は、様々な事象を考える上で、重要かつ有効。イスラムやユダヤ人を追放し、キリスト教が東方に由来するという事実を意図的に忘却することによって、純粋なヨーロッパという表象が可能となる。出自を意図的に隠蔽し、新世界で未来を簒奪することによって、自分自身の純潔な自画像を捏造する。今のアメリカもやっていることは同じ。あるいは中国も。日本も。つまりそれが「国家」というものが持つ現実の力であり、ナショナリズムのリアリティということ。

【眼鏡学のためのメモ】
「案外見逃されてきたことだが、もうひとつの大きな発明が読書と知識の進展をかなり促進する。<眼鏡>である。誰でもかなりの高齢まで書物を読める眼鏡のおかげで、知識のより大きな蓄積が可能になる。(…)他のいかなる行為よりも、これからは読書が時代の思想を激しく揺り動かすであろう。」(p.72)。

ジャック・アタリ/斎藤広信訳『1492 西欧文明の世界支配』ちくま学芸文庫、2009年<1992年

【要約と感想】フェリペ・フェルナンデス=アルメスト『1492コロンブス 逆転の世界史』

【要約】ダサダサだった辺境ヨーロッパは、1492年をきっかけに大逆転して、世界を制覇しました。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=コロンブスは無知で無謀だった。地球の大きさを完全に見誤っていた。コロンブス以外の知識人は地球が丸いことを知っていたし、コロンブスよりも正確に地球の大きさを把握していた。他の知識人は、地球が平らだと勘違いしてコロンブスを止めたのではなく、地球の正確な大きさを把握していたから止めた。コロンブスが読んでいた本は地理書の類ではなく、荒唐無稽な冒険活劇騎士道ものだった。コロンブスは香辛料を求めてインドに行こうとしたわけではなく、中国との交易ルートを開拓したかった。15世紀末の時点でヨーロッパは極めて貧しい世界の辺境であり、世界の中心は中国にあった。しかし1492年を境として、西洋と東洋の立場が逆転していく。

■図らずも新たに得た知識=15世紀末におけるロシアの領土拡大過程。イベリア半島におけるユダヤ人追放の過程とその影響。スペインによるカナリア諸島征服の思想と具体的展開。アフリカ大陸におけるイスラム教の拡大過程とキリスト教徒の拮抗。アステカ帝国とインカ帝国の崩壊の理由に関わる知見。

■要確認事項=ルネサンスの意義をほぼ全面的に否定する見解。宗教改革の意義を過小評価しつつ、一方でサヴォナローラのような神秘主義が西洋近代の個人主義の源泉になったという見解。

【感想】記述が戦術レベルの地政学的観点や自然環境決定論に偏りすぎている。いかがなものか。

フェリペ・フェルナンデス=アルメスト/関口篤訳『1492 コロンブス 逆転の世界史』青土社、2011年

【要約と感想】ミシェル・ルケーヌ『コロンブス 聖者か、破壊者か』

【要約】結局のところ、コロンブスが何者かは未だによくわかってないけど、航海の腕前が高かったのは間違いないんじゃないかな。

思ったこと=コロンブスそのものというよりも、コロンブスを可能にした条件とか背景というものに教育学的関心があるわけだけど。個人的な関心として把握したいのは、
(1)コロンブスの読み書き能力の程度。
(2)コロンブスが読み書き能力を習得した手段。
(3)コロンブスが読んだ本。特に印刷術によって流布していた本。
(4)コロンブスの宇宙論の程度。
(5)コロンブス以外の一般知識人が持っていた宇宙論の程度。
(6)コロンブスの業績と印刷術の関係。

個人的な印象として、コロンブスを可能にするための決定的な前提条件の一つは「印刷術の発明」だ。実際、印刷術はコロンブスが大西洋横断を思いつく約30年前に発明されている。タイミングが合いすぎる。コロンブスが「地球は丸い」と確信したのは、印刷術によって一般的に流布した書物から科学的な知識を得たからではないか。

そして、だとしたら、コロンブス以外の読書家も、必ず「地球が丸い」ことを知っていたはずだ。それにも関わらずコロンブスだけが西回り航路に出帆することを決意できたのは、実はコロンブスだけが正確な知識を持っていなかったからではないか。実際、コロンブスは地球の実際の大きさを完全に見誤っていて、自分が到達した土地をアジアへの入り口だと思い込んでいた。コロンブスよりも頭が良かった人々は、地球の大きさを正確に理解していて、西回りでアジアに到達するには自らの航海技術が未熟すぎることをも理解していただろう。コロンブスが幸運だったのは、遠すぎるヨーロッパとアジアの中間に、彼が想定していなかった地面が存在していたことだ。

この個人的な関心を確実な土台から考慮するために、上記(1)~(6)に関する基本的な情報が欲しいわけだが。本書はそれに完全に応えてくれたわけではないが、コロンブスを可能にした背景として印刷術が欠かせないという認識が識者の間で共通認識になっているらしいことは書かれていて、かなり安心感を与えてくれる。

いまのところの一番のミッシング・リンクは、コロンブスがどういう手段で以てラテン語も含むリテラシーを習得したかだなあ。

ミシェル・ルケーヌ/大貫良夫監修『コロンブス―聖者か、破壊者か』創元社、1992年

【要約と感想】ファン・ヘネップ『通過儀礼』

【要約】世界中の様々な民俗的儀礼には共通して「分離/過渡/統合」という過程があると主張した、文化人類学の古典。人間が人生の節目でステータスを変更する際(たとえば結婚、誕生、葬式など)、その「越境」を円滑に達成するためにこそ、「通過儀礼」というものが必要となる。過去のステータスから「分離」し、「過渡」的な段階を経て、新たなステータスへと「統合」される。過去のステータスからの分離は「死」によって象徴され、新たなステータスへの統合は「再生」によって象徴される。人生の行程で「死」と「再生」を繰り返すことで、人々はステータスを更新しながら成長する。

【この理論は眼鏡学に使える】
たとえば恋愛は、現代日本社会において通過儀礼の一種となっている。恋愛とは、恋人がいない状態から、通過儀礼という過渡期を経て、恋人がいる状態へと変化する、一連のステータス変更の手続きである。しかし問題は、恋愛の通過儀礼というものが、残念ながら自然に獲得することができないものという点にある。文化が異なれば恋愛儀礼の様式も異なるということは、人間の遺伝子には恋愛の作法を自然に獲得する機能が備わっていないことを意味する。人々は所属する文化から恋愛儀礼の在り方を学ばなくてはならない。そしてそれは、学校では教えてくれない。まさに共同体に身を置きながら「通過儀礼」として学び取るしかないのである。
こうした現代日本における通過儀礼の具体的な様式は、恋愛を扱う少女マンガに典型的に見ることができる。特に眼鏡っ娘マンガに、鮮明に見いだすことができる。たとえば、美容を気にして眼鏡を外すことは「死」であり、まやかしのモテ期に幻惑されることは「過渡」であり、再び眼鏡をかけて本当の私を取り戻すのは「再生」である。眼鏡の着脱という行為は、恋愛儀礼における「分離=死」と「統合=再生」の過程をビジュアル的にわかりやすく見せるための象徴的行為と言える。まさに眼鏡との分離、眼鏡との統合。スタート地点の眼鏡とゴール地点の眼鏡では、その間に過渡期としての恋愛儀礼が横たわっているために、象徴的な意味合いはまったく異なってくる。

少女マンガで恋愛が主なテーマとなり始めるのは、1970年前後である。現在では、少女マンガは恋愛を扱うものだという認識が一般的だが、1970年以前の少女マンガはほとんど恋愛を扱っていなかった。多くは家族の葛藤を扱ったものであった。
1970年前後の少女マンガで恋愛が浮上するのは示唆的だ。というのは、この時期は「恋愛結婚」の数が「お見合い結婚」の数を上回る時期でもあるからだ。お見合い結婚の場合、昔から伝えられてきた典型的な通過儀礼を経て婚姻が成立する。伝統的な通過儀礼に支えられていたからこそ、ステータスの変更に混乱が生じず、安定して婚姻を成立させることができたと言えるだろうか。しかしいっぽう恋愛結婚では、従来の通過儀礼は適用できない。しかし結婚というものがステータスの変更である以上、ヘネップ的に言うならば、なにかしらの通過儀礼が絶対に必要となる。こうして、「デート」とか「告白」等といった、新たな恋愛儀礼が発明されることとなる。この通過儀礼をきっちりと消化したものだけが、ステータス変更に成功する。逆に言えば、この新たな通過儀礼をクリアできない限り、ステータスの変更は極めて困難になる。かつてのお見合い結婚においては、通過儀礼は半強制的に押しつけられ、多くの人々は比較的潤滑にステータスを更新することができたと言える。しかし恋愛結婚が主流になってから、「告白」などの新たな恋愛儀礼の習得がシステム化されてこなかった(たとえば学校での習得ができない)ため、ステータスの更新に失敗する人が続出し、現在のように生涯未婚率が上昇したのではないか。(客観的な根拠はないまま言っている。)

というわけで、少女マンガ、特に眼鏡っ娘マンガに見る「通過儀礼」の在り方は、戦後日本の社会の変化を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれると言える。実際の少女マンガ作品には眼鏡を介したヘネップの言う「感染的儀礼」を示すエピソードも数多く見られる。今後の追求課題である。

ファン・ヘネップ/綾部恒雄・綾部裕子訳『通過儀礼』岩波文庫、2012年<1909年

【要約と感想】佐野賢治『ヒトから人へ』

【要約】人間が「大人になる」までの成長過程に関わるトピックを連ねた、民俗学のエッセイ集。高度経済成長の過程で急激に失われていった様々な日本の習俗を、柔らかい筆致で蘇らせ、読んでいて温かな気持ちになる本だ。

思ったこと=現在、「大人になる」ということの条件がとてもわかりにくくなっている。かつては「労働」や「結婚」という見えやすい物差しがあった。本書は、「一人前」という尺度で、かつての日本の習俗を描き出す。ひるがえって、現在において「大人になる」とはどういうことか、考えるきっかけを与えてくれる。

とはいえ、解決法は、失われたものを単に取り戻すということではないだろう。急激に変化した世界に対応した新しい「大人の条件」というものがあるはずで、かつての「大人」を復元すれば解決するという単純な話ではない。本書も単なるノスタルジーに陥っている記述が散見されて、少し気にはかかった。まあ、掲載紙とテーマと対象読者を考慮すれば、本書はそれでかまわないのだけれども。

佐野賢治『ヒトから人へ―“一人前”への民俗学』春風社、2011年