「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】村井実『人間と教育の根源を問う』

【要約】「真理」というものをモノのように実在すると考えるところから、人間の認識は歪みます。「真理」とは単なることばです。そう考えるところから、ほんものの学問が始まります。そして「教育」とは、真理をモノのように「教える」ものではなく、子どもを善くしようとする働きのことです。そして「善さ」も何か実体があるモノではなく、たんなることばです。「善さ」はモノのようには見えないけれども、それに向かって生きようとする、そうした働きが子どもにはもともと備わっています。子どもが本来持っている「善さ」への働きを伸ばしていくのが教育です。

【感想】知識を植え付けるただの道具として教育を見る人々や世間に対する違和感が、著者の教育学研究の動因となっている。その違和感を丁寧に吟味していくと、教育観の相違の根源にある「子ども観」や「過程像」の相違に行き着く。著者は「善さ」という概念を導きとして、子ども観や過程像といったものの転回を目指すことになる。その成果は具体的には新しい教育史のスタイル等に現れることになる。

この独特な教育学体系樹立に向かう思考と吟味の道筋は、論理的に明快だし、手続きも着実だし、実存的にも共感できる。とても納得できるし、腑に落ちる。それはいい。

ただ、第二部以降で勢い余ってというか、自然科学の領域に手を突っ込んでいる部分には危険な臭いもする。宇宙生成論や進化論に言及している部分は、一歩間違うとトンデモ領域に踏み込んでしまうギリギリのところにいるように思う。第三部の原罪論も、キリスト教神学の分厚い歴史を思うと、普通は簡単に手を突っ込めない領域だ。怖い。

しかし、こういう大火傷必至の聖域に「善さ原理主義」という武器一つで果敢に突入していくところは、紙一重の魅力でもある。こういう前向きな教育学があることで、現代教育学はとても救われている気がする。

村井実『人間と教育の根源を問う』小学館、1994年

【要約と感想】村井実『道徳は教えられるか』

【要約】道徳は教えられるし、教えるべきです。ただしその場合の「教える」とは、もちろん戦前の修身教育のように単純に徳目を教え込むことではありません。諸々の徳目が引き出される根拠となる普遍的な道徳的大原則を理性的に探求するところに、目指すべき道徳教育の姿があります。あくまでも理性に訴えることが重要なのであって、日本人が陥りがちな情緒主義や鍛錬主義では、子どもたちの道徳性が育つ見込みはありません。

【感想】原著はちょうど50年前に出ているわけだけれども。「道徳の三重構造」と「目標像と過程像の峻別」という観点は、現在の道徳教育を判断する際にもかなり有効だと思う。まあ、未だに50年前の本が有効であるという情けなさは、感じざるをえない。学習指導要領改訂によって道徳は教科化され、文科省は一応は「考える道徳」というテーマを打ち出してはいるけれども。果たして道徳教育は善くなっているのか。本書の理性的な分析を踏まえて現在の道徳教育を眺めてみると、はなはだ心許ない。教育に携わる者として、己の力不足を恥じ入るのみである。

村井実『道徳は教えられるか』国土社、1990年<1967年

【要約と感想】村井実『人間の権利』

【要約】人間の権利とは、天から与えられた自然なものではなく、人々の訴えによって歴史的に作られてきた道徳的なものです。

【感想】天賦人権説を否定したところから、どのように新たに権利の体系を土台から構築していくかという課題に挑んだ、新書で扱うにしては意欲的な作品に見える。素朴に天賦人権説で話を進めようという人が現在もけっこういるけれども、18世紀ならともかく、21世紀の現在ではそこそこ無理筋だったりする。天賦でなくとも人権の意義を打ち出せるような論理が必要なわけだが、そういう意味では、50年以上前の本書にも大いに存在意義があると言えそうだ。人権というものが様々な人々の努力の積み重ねによって歴史的に構築されてきて、そして我々もそれを引き継いで、不断の努力によって引き継いでいこうという意志が必要となる。人権は天から与えられた「自然的」なものではなく、人間が作っていく「歴史的」なものだという認識と自覚を持たねば、民主主義は簡単に崩れる。

村井実『人間の権利―あすの生き方を思索する』講談社現代新書、1964年

【要約と感想】村井実『ソクラテスの思想と教育』

【要約】ソクラテスの思想と行動は、教育的な視座から見るのがもっともわかりやすい。

【感想】冒頭での著者の宣言に、感銘を受ける。「この「教育」的視点こそ、過去においてさまざまの研究者によってとられてきた「道徳」的、「政治」的、「哲学」的等の視点に比して、あるいは歴史的ソクラテス像を描き出すのに最もふさわしい中心視点であろうというのが私のひそかな確信なのである」(p.iv)。いやあ、よくぞ言ってくれました。私もまったく同じ考え。ソクラテスを統一的に構想しようとすると、教育者として描くことがもっとも相応しいと思う。まあ難しいのは、近代以降の「教育」という概念でもってしては、ソクラテスの思想と行動の全範囲をカバーした気にはなれないというところではあるけれども。もっと適切な言葉が欲しいところではあるけれど、やっぱりそれは今のところ「教育」と呼ぶのがもっとも適切なんだろう。

その教育的な視点は、ソクラテスとプラトンの考えを峻別する観点をもたらす。『国家』は全編が教育計画構想を示している著作なわけだけど、ここでプラトンが提示している教育計画は、ソクラテスの対話的教育からはるかに隔たっている。その要点のまとめが、とてもわかりやすい。個人的には、特に「エロス」や「魂」や「弁証法」といった概念がまるで異なっていることに薄々気がついていたつもりだったが、おかげで論点がかなり明確になった。ソクラテスを倫理的教育主義、プラトンを政治的教育主義と切り分ける観点は、とても参考になった。

倫理的な主体形成を主眼とするソクラテスと、知覚と認識の確実な根拠を追求するプラトンでは、立ち位置がかなり異なるわけだが、両者を総合的に把握する為には、はたしてイデア論がこれを統一する論理となり得るかどうかに関する洞察が鍵になるんだろうなあ。「善のイデア」に「エロス」を有機的に統合できるかどうかが試金石、というところか。たいへんだ。

村井実『ソクラテスの思想と教育』玉川大学出版部、1972年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】北畠知量『ソクラテス-魂の教育について』

【要約】ソクラテスの言う「魂の教育」とは、自分自身が抱える矛盾と葛藤を俯瞰的に見ることができる第三の自分に対して、ふさわしい行動を判断する根拠となる「規範知」を与えることです。

【感想】ズバズバと分析的に物事を切り分けていく態度に特徴がある。時には「大丈夫かな?」と思えるくらい、スパッと単純に割り切っている。本書の良さでもあり、怖さでもある。

まあ、だからこそ他の論者が「ああでもない、こうでもない」と思い悩んでいる論点に対して、容赦なく結論を下せるわけで。例えば、エロスとイロニーの関係を表裏一体だとする記述は、興味深い。ソクラテスの美少年愛に対して、他の論者は口を濁すか完全に無視することがあるが、本書では「本当は少年を愛してなんかいない」が「あたかも愛しているように振る舞う」というイロニーとして捉えている。さらにここがソクラテスとプラトンを大きく分ける要点であるとも見なしていて、プラトンの言うエロスは本来のイロニーと分離されてしまっているところがズレていると言う。

他にソクラテスとプラトンの違いは、ソクラテスが「徳の規範」を問題にしたのに対し、プラトンが「徳の概念」を問題にしてしまったところだと言う。となると、本書では明確に主張されてはいないが、もちろん「イデア論」はソクラテスからの大きな逸脱ということになる。

さらに本書が面白いのは、ソクラテスの「魂の教育」が抱える困難について率直にツッコミを入れているところだ。他の研究者は分かっていても指摘しないような、身もふたもない指摘を繰り返している。魂の教育は子供に対しては何の意味もないとか。結局は失敗だったとか。こういう明け透けな物言いの数々は、他の研究に代えがたいオリジナルな価値を持っている。ソクラテスの批判をしたくなったら、自分で言わず、もりもり本書を引用していきたい。

北畠知量『ソクラテス―魂の教育について』高文社出版社、2000年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」