「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』

【要約】ソクラテス裁判は宗教裁判でした。それがこれまで分からなかったのは、ぜんぶキリスト教のせいです。

【感想】うーん。講談社現代新書は他の新書に比べてハズレ率が高い気がしているのだが。ソクラテスやプラトンの全体像を宗教の観点から捉えるという発想自体は、オルフェウス教の影響やアポロン信仰の点から考えても特に悪いというわけではないんだけれども。それはそれとして、本書はソクラテスの宗教について、なに一つ明らかにしていないと思うなあ。ソクラテスがシャーマンならシャーマンで別にかまわないわけだけれども、「ソクラテスの無限の欲望」と言い出されてしまうと、もはやポカーンとなるしかない。

保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』講談社現代新書、1993年

【要約と感想】稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』

【要約】ソクラテスの思想のエロスを代表するのが『饗宴』で、タナトスを代表するのが『パイドン』です。ソクラテスの生において、エロスとタナトスは一体となっています。エロスの延長線上、その頂点にタナトスがあります。ソクラテスの生は、その死によって完成されたのです。

【感想】個人的な感想では、常識的な意見が並べられてあって、特に驚くようなことはまったく書いてない。研究書というよりは、一般向けの啓蒙書のようだ。

が、産婆法の教育に関する記述は、ありがたい。「ソクラテスの産婆的対話法によって、人びとが内に宿しているものを分娩させ、自覚させるということは、いいかえればまた、彼らに真に自己の真面目を知らせるということにほかならないであろう。すなわちソクラテスの産婆的対話法は、要するに汝自身を知らせることをその究極の目標とするのである。」(110頁)と述べているわけだが。しかしおそらく、産婆法についてまとまった記述が唯一残されている『テアイテトス』をしっかり読んでも、こういう見解を引き出すことはできない。著者の産婆法に関する見解は、プラトンが自分で述べたテキストそのものから引き出せる事実を大幅に超過して、プラトン思想の全体構造から推量して構築されたものだ。

で、私も産婆法に関しては著者と同じように感じていたのだが、証拠となるテキストがプラトン自身にない以上、この意見を大きな声で言うことに躊躇していた。が、いまなら「稲富栄次郎氏もこう言っている」と胸を張って主張できる。ありがたい。しかしやはり、本物のプラトン研究者からは怒られそうな気もするのだった。

稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』福村出版、1973年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】内山勝利『対話という思想』

【要約】イデア論とか想起説とかいったものは、対話の流れの中から要請されるものであって、固定された学説=ドグマではありません。プラトンを理解するためには、確定された学説を見出そうとするのではなく、対話という形式自体がもつ意味について考る態度が必要です。

【感想】諸々の先行研究を読む前は、イデア論を相対化するという姿勢はとても自然に見えたわけだけど。しかし分厚い研究史を踏まえてみると、手を突っ込むと火傷必至の恐ろしい領域だと認識させられる。そんななかで、本書は対話という形式に着目することで、イデア論を相対化しようと試みている。その試みを説得力あるものに育てるためには、本当にたくさんの細かい手続きを踏まえなくてはならない。後期著作の位置づけや、「書かれたもの」に対するプラトンの評価など、厄介な問題が多い。たいへんだ。

とりあえず私としては、イデア論を相対化したほうが自分にとって都合がいいときには、本書の成果を援用することにしたい。ありがたや。

内山勝利『対話という思想―プラトンの方法叙説』岩波書店、2004年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】田中美知太郎『ロゴスとイデア』

【要約】「事物そのものに直接向かわずに言語のうちに事物を探求する」と言うことで、何をしようとしているのか。そしてイデアという現実離れした考え方が必要になるのは、どうしてか。これらは一見すると現実にまったく影響を与えない抽象的な考察に見えるが、実際にはこういった哲学的問題を根本から考えることが、強力な光の照射となって、暗がりに隠れて見えなかった現実を把握することが可能となる。

【感想】全体的な完成度の高さに、感服するしかない。戦時中にこれほど地に足の着いた体制批判が可能であったということにも、驚く。70年後のいま読んでも、決して古びていない。今でも古びない要因は、著者が流行の思想に乗って著述作業をしているのではなく、自らの根源的な問題関心に忠実に則り、さらにそのような個人的な問題関心を他者にわかりやすく伝えるために文体形式に意識的に工夫を加えているところにある。個人的な問題は時代を超えていつまでも現在の問題であり続け、他者に向けてわかりやすく語ろうとする試みは時代を超えて機能する。プラトン思想の外在的な解説ではなく、プラトンを噛み砕いて消化した上で、自分の言葉として語っている。それは「あとがき」で自ら「対話」と自称するだけの意識的な方法論を伴っている。

内容としても、いわゆるイデア論を徹底的に認識論の面から分析しているのが興味深い。最近のプラトン解説本は、イデア論に真正面から認識論で挑むのは分が悪いと認識されているのか、現象学的な手段を援用しながら価値論の方から迫ろうとするものを散見する。それはそれで意味のある仕事だし興味深く読めるわけだが。しかし本書のように何の衒いもなく真正面から認識論に突入していくのは、むしろ新しい。そして凄い。おそらく著者は、認識論を真正面から突破した上でなければ「善」について語る資格はそもそも得られないと考えているのではないか、という感じがする。

というわけで、これは哲学研究者の仕事ではなく、哲学者の仕事であるように思った。

【これは眼鏡論に使える】認識論の方向からイデア論を突き詰めることは、「眼鏡っ娘」とは何かを考える上でどうしても避けては通れない道である。我々はどうして「個々の眼鏡をかけた女性」を個別に認識するのではなく、抽象的に「眼鏡っ娘」と認識するのか。また、どうして眼鏡をかけている女性に対して「お前は眼鏡っ娘じゃない」と思ってしまう時があるのか。このような認識のプロセスを解き明かすうえで、イデア論に対する理解は決定的な霊感を与えてくれる。本書も、眼鏡論に大きな霊感を与えてくれる。

田中美知太郎『ロゴスとイデア』文春学藝ライブラリー、2014年<1947年
■オリジナル:田中美知太郎『ロゴスとイデア』岩波書店、1947年

【要約と感想】サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

【要約】総論賛成、各論是々非々。イギリス経験論から見ると、プラトン『国家』の論述運びはデタラメだらけではあるが、根源的な問いをどこまでも追求していこうとする粘り強い姿勢自体が素晴らしい。

【感想】イギリス経験論の立場からしてみれば、プラトンの論説は独りよがりな妄想に満ちている。認識論も、倫理説も、政治論も。認識論に関しては、プラトンが具体物と抽象概念を「繋ぐもの」に関心を寄せないところに、著者は激しい不満を見せている。倫理説に関しては、プラトンが「共感(イギリス的な伝統だな)」という概念を欠いていることに激しい不満を示す。政治論に関しては、民主主義を頭ごなしに否定する態度はもちろん、その原因となっている「個人に多様性を認めない」という姿勢に特に納得がいかないようだ。この批判は、イギリス経験論的な思考の流れからは当然の帰結のように思える。著者が判断を補強するために引用するもの、定番のカントではなく、ホッブズやヒュームやワーズワースからのが目立つのも興味深い。おおむね、「イギリス人がプラトンを読んだらこうなる」あるあるになっているように思った。

と、様々な不満をオブラートに包みもせずぶっちゃけてるとはいえ、著者は最も根底の部分でプラトンに敬意を表してもいる。著者とプラトンが、ほんものの探求とはなんらかの固定した知識を誰かから客体的に学び取るようなものではなく、みずから主体的・能動的に考える姿勢にあるという洞察を共有しているからだ。

笑ったのは、ある哲学者が行政組織から教育成果に関する質問を受けたときの答え。「哲学を教えるただ一つの方法は、二千年前にソクラテスによって発見されているし、自分はそれを捨てるつもりはない。ソクラテスが発見したのは、みずから考える活動。つまり、比較考量し、問いかけ、実践し、想像し、反応することが絶対に必要だということである。丸暗記することも、パワーポイントもこの過程の出発点以上のものではありえない」(229頁)。私もこう応えていきたい。

サイモン・ブラックバーン/木田元訳『名著誕生4 プラトンの『国家』』ポプラ社、2007年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」