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教育概論Ⅰ(保育)-12

▼短大保育科 7/6(木)

前回のおさらい

・自由の落とし穴。
・社会権としての教育。
・コンドルセ。ロバート・オーエン。

教育権の構造

・教育に関わる4つの立場「子供/親(保護者)/教師/国家」が、それぞれどのような「権利/義務」を持っているかを明らかにする。それぞれが教育で果たすべき役割が明確になる。

子供の学習権

・子供は学習権を持つ。教育を受ける権利がある。
・学習する権利が保障されなければ、自分にどのような自由や権利があるかすら分からなくなってしまう。
・この場合の教育とは、「自分自身になる」ための教育。人格の完成を目指す教育。普通教育。特定の知識や技術を身につける職業訓練ではない。

日本国憲法第26条-1

すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

親の教育義務

・親には、子供を教育する義務=子どもの権利を保障する義務がある。

日本国憲法第26条-2(前半)

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。

教育基本法第5条-1

国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

親の教育権

・子供を教育する第一の権利は、親にある。
・しかしその自由は無限に認められるのではなく、あくまでも「子供の学習権」を保障するために与えられているという責任が伴っている。
→親には「監護権」が与えられるが、それはあくまでも「子の利益」のためである。

民法第820条、822条

*民法第820条:親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
*民法第822条:親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。

教育基本法第10条-1

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

国家による親への支援

・どんな貧乏な親でも義務を果たすことができるよう、国家が支援する必要がある。義務教育。社会権としての教育。

日本国憲法第26条-2(後半)

義務教育は、これを無償とする。

教育基本法第5条3・4

3  国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

教育基本法第16条-4

国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

国家による教育介入の制限

・国家はあくまでも親に対する支援者であって、積極的に教育の内容へ介入することは期待されていない。自由権としての教育。

教育基本法第14条-2、第15条-2

*14条-2:法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
*15条-2:国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

教育基本法第16条-1

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

外的事項と内的事項

・国家は外的事項には積極的に関与すべきだが、内的事項に関与することは抑制的であるべき。
*外的事項:財政的措置=学校設立費・水光熱費・授業料・教科書代、法的措置=就学義務・学校制度・教員資格・機会均等、教育環境整備=教員配置・補助員配置・衛生的配慮
*内的事項:教育内容、教育課程、教育方法。

教師の教育権

・教師は、親でもないのに、どうして権力を持ち、どういう根拠で子供を指導することができるのか。
→医師は、親でもないのに、どうして権力を持つのか?
・営造物理論、特別権力関係論:学校は刑務所等と同じか?
・親の教育権の信託。PTA。

教職の専門性

・安心して権利を信託してもらうためには、教師は教育のプロフェッショナルでなければならない。
・教師はどのような点で教育のプロなのか?
(1)教える内容:教科、教育課程、学習指導要領
(2)教え方:教授法、教育理論
(3)子供の個性:心理学、教育相談
(4)集団:学級経営、特別活動、いじめ防止
(5)プロとしての自覚:教職基礎論

現代の問題

・親と子供。
・親と教師。モンスターペアレンツ。PTA問題。
・国家の関与。教科書検定問題等。

復習

・「社会権」とは何か、「自由権」との違いを踏まえて理解しよう。
・「義務教育」とは、誰の誰に対するどのような義務か、押さえておこう。

予習

・「新教育」について調べておこう。

 

【要約と感想】プラトン『テアイテトス』

【要約】産婆術を駆使して「知識」とは何かを吟味した結果、相対主義的な認識論を排除することに成功し、「知識とは何でないか」についてはある程度わかりましたが、「知識とは何か」についてはわかりませんでした。

【感想】本書の最大の見所の一つは、疑いなく「産婆術」に関する具体的な記述にある。プラトンの他の本は産婆術に関してあまり教えてくれないが、この本は産婆術の方法論についてかなり細かいところまでよく教えてくれる。よく読むと、俗に言われている産婆術とは随分異なった印象を持つだろう。というのは、よく言われるているような「真実を生み出す作用」については実際にはそれほど強調されておらず、むしろ「陣痛」を故意に引き起こすことと「生まれたものの正邪の吟味」のほうに重点が置かれて説明されているからだ。そして、ソクラテスが産婆術によって対話相手の陣痛を故意に発生させたとしても、そこから生み出されるものが無条件に「真実」だなどとは、実は全く主張されていない。むしろ産婆の役割とは、生み出されたものが真でなかった場合、どれだけ親が泣き叫んで子供を守ろうとしようが一切の情状酌量を加えずに無慈悲に廃棄することだと明確に述べているのである。俗流教科書的な解釈は、現代的な手心を加えている。

個人的に関心があるのは、後半で展開される「全体と全部の違い」に関する議論だ。本書は一般的にプラトンがイデア論を捨てる後期著作の入口に当たると言われているが、イデア論の代わりとなるであろう認識論が一定程度示されているように思える。後半で議論されているのは、明確な言葉では示されていないものの、「個物」と「普遍」の関係であるように思う。イデア論とは、ざっくり言えば「普遍」を「個物」のように把握する世界観なわけだが、本書ではその姿勢は背後に退いている。徹底的に「思いなし=ドクサ」のレベルの話に終始し、「真の知識=イデアを見る」という話には突入しない。「普遍」を捉えることこそが「真の知識」だという積極的な姿勢はもう見られない。むしろ後の新プラトン主義に引き継がれていくような、そもそも「個物」(あるいは「一」)を認識するとはどういうことかというような問題意識をしつこく掘り下げていく。あるいは「個物」を認識するということが「普遍」を認識することと両立しないという矛盾が前面に押し出されてくる。

「自己同一性=一とは何か?」という新プラトン主義的問題意識がそうとう明確に形をなしている点が、個人的には本書の見所であるように思う。

※9/22後記
2つのレベルの知識論が読み取れる。一つは「感覚」と「知識」を峻別する論理だ。感覚だけでは決して辿り着けないような「知識」が確実に存在することを示し、感覚を超越して論理的な吟味を経たもののみを「知識」と見なす立場だ。『国家』の線分の比喩で言えば、3番目の知識にあたる。
もう一つは、論理的な吟味によって辿り着ける知識と、それを超えていく知識の峻別だ。テアイテトスが示す幾何学的な知識は、論理的な吟味によって辿り着くことが可能な知識だ。ところがテアイテトスは「知識とは何か?」という問題に対しては、同様のアプローチでは到達不可能だと言う。結局、本編では「知識とは何か?」という問いに対する答えは出ない。どのように到達可能かは示されないまま終わる。おそらくそれは「直感」としか言えないような、『国家』の線分の比喩で言う4番目の真理であるところの、アプリオリな総合判断だ。
かつてプラトンは「想起説」なり「イデア論」なりで一定の答えを示したにも関わらず、本編では徹底的に禁欲する。アプリオリな総合判断には、決して論理的な手続きの羅列では到達できないことだけが明らかになる。

プラトン/田中美知太郎訳『テアイテトス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

教育概論Ⅰ(栄養)ー12

▼短大栄養科 7/4

前回のおさらい

・country、state、nation。国民国家。
・中世国家と近代国家の違い。

フランス革命と国民国家形成

・フランス革命の具体的展開。ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦乱へ。
・対仏大同盟v.s.ナポレオン。フランス大勝利。どうしてフランスは強かったのか?
・騎士+傭兵v.s.国民軍。国家総動員体制。
・名誉と金v.s.愛国心。「散兵戦術」のような戦い方。
・身分制v.s.自由と平等。ベートーベン交響曲第3番「英雄」。
・中世国家よりも国民国家のほうが強いことが誰の目にも明らか。国民国家の強さの源は?
・ナショナリズムとは何か? 「私は○○人であるという自覚」
・愛国心と同時に、自由と平等の根拠。
・ナショナリズムの輸出。ナポレオン戦争の終焉。
・教育によるナショナリズム創出。

国旗・国歌・国語・歴史・地理

・nationとstateを一致させるため、「教育」に期待がかかる。
・国旗:「旗」に期待される統一への働き。
・国歌:「歌」に期待される統一への働き。
・国語:「ことば」に期待される統一への働き。
・歴史:「物語」に期待される統一への働き。
・地理:「風景」に期待される統一への働き。

各国の国歌

・それぞれ国民統合の象徴であるが、同時に何かしらの問題を抱えているのはどういうことか?

フランスの国歌

・「ラ・マルセイエーズ」
・国民全員で祖国を守ったときの記憶。
・歌詞に対する疑問。

イングランドの国歌

・「God Save the Queen」
・英国王室の賛歌。
・6番の歌詞に対する疑問。

ドイツの国歌

・「ドイツ国民の歌」
・国家統合の象徴。
・1番と2番が封印。

スペインの国歌

・「国王行進曲」
・歌詞のない国歌。

国語による国民統合

・フランスの言語状況。フランス革命当時、フランス人が話していたのは何語か?
・「国語」と「方言」の違い。
・「方言札」による方言撲滅運動。
・『最後の授業』に見る、アルザス地方の言語。フランス語とドイツ語。
・東ティモール(2002年にインドネシアから独立)の言語政策。
・インドネシア語95%、テトゥン語40%、英語10%、ポルトガル語5%。何を「国語」に選んだか。
・日本の場合。森有礼「日本語廃止論」(1876年)

復習

・フランス革命を踏まえ、国民国家の形成について押さえておこう。
・国歌や国語が国民統合に果たす役割について押さえておこう。

予習

・「教育勅語」について調べよう。

【東京都北区】たわしの日

「たわしの日」というイベントに遊びに行ってきました。
家の近所に「亀の子束子」の本社があって、昨日と今日が「たわしの日」。初めて行ってみましたが、昔懐かしいチンドン屋さんも出ていて、想像以上にたくさんの人が集まっていました。

まずはタワシを売っている専門ショップ「亀の子束子西尾商店」に入ると、タワシのシャンデリアが目に飛び込んできますよ。ゴージャス・たわし。

店内には、各種用途に応じた様々なタワシが売っています。タワシたちにこんな可能性があったのかと、タワシに対する概念が変わります。我々はタワシの潜在能力を10%も引き出していないかもしれません。

それから、専門ショップの建物自体が、とてもいい雰囲気です。こんな感じの、大正モダンな洋風建築。亀の子たわしは今年で創業110周年とのことですが、この建物も110年前からあるのかな?(だとしたら明治40年になるけれど)

ショップの入り口も、とてもオシャレに飾られています。タワシで作った亀が、とてもかわいいです。

まつり会場では、たわし釣り・たわし剣玉・たわしお神籤・たわし作り体験・たわしで野菜洗い体験など、様々なアトラクションが展開されておりました。子供たちがおおはしゃぎ。

安定の顔出しパネルも置いてありました。

着物の女性の顔ハメはともかく、亀の顔になるのは、すごいなあ。

たわしオブジェも飾られていました。なかなか見応えがあります。まずはトレードマークの、かめ。

そして、たわしゾウ。

全身がタワシで構成されているとは思えない、素晴らしい完成度です。

タワシ釣りで、タワシを一つゲットできて、大満足。大賑わいの会場を後にしました。亀の子束子、来年は111周年記念です。亀の子束子のWEBサイトも、なかなかカッコいいですね。
(2017年7/2訪問)

【要約と感想】プラトン『メノン』

【要約】「徳」は、「知恵」と「無知」の中間にある「正しい思わく」からももたらされるらしい。「思わく」なら神の恵みによって備わるかもしれない。そして本書の見どころは、「想起説」と「仮設法」。

【感想】「徳とは何か?」とか「徳は教えられうるか?」というテーマについて扱っている。『プロタゴラス』を引き継いだテーマと言える。まあ、いつもどおり消化不良ではある。とはいえ、『プロタゴラス』よりは生産的な方向に話が進んでいるような気はする。『プロタゴラス』では、結局のところ「徳」と「知」の関係は明らかにならなかった。本書でも相変わらず「徳とは何か」は分からないが、「知」でもなければ「無知」でもない中間であるところの「思わく」からも立派な行為がもたらされるという結論は出た。そしてそれは「知」でない以上は教えることができないものであり、神によって偶然に恵まれるものだ。

その結論とは直接関係なく、本書の見どころは論理的な手続きについて語られた「仮設法」と「想起説」にあるように思う。「仮設法」とは、蓋然的な命題を仮設して、そこから演繹的推論を重ねて出た結論を吟味し、仮設が正しかったかどうか確認するという手続きだ。しかしその手続きを重ねた結果、「徳とは知である」と「徳とは知でない」という仮設命題の両方が正しいことになってしまった。つまり仮設法は真の知へと至る確実な道ではなく、あくまでも便宜的な手続きに過ぎず、それはアンチノミーに陥ることが示唆される。これを解消するためには、仮設命題そのものの吟味が必要だ。つまり「徳とは知である」と言ったとき、「徳とは何か」と「知とは何か」が分かってなければ、本当の探求は始まらないということだ。

しかしそこで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」(80e)という詭弁にぶつかる。「徳とは何か」とは「知とは何か」などということについて、そもそも人は知りようがないのではないか?という疑問だ。我々はあらかじめ「徳」というものを分かっていなければ、「徳」について語りようがない。逆に、我々が「徳」について現実になにかしら語っているということは、我々はすでに「徳」というものを知っているはずだ。しかし改めて「徳とは何か」と聞いてみると、誰もそれを説明することができない。ソクラテスが求めているのは、我々があたかもあらかじめ知っているかのように「徳」というものを語っているが、どうしてそれを説明することができないのにあらかじめ知っているかのように語ることが可能なのか、その根拠だ。それは分析的な知でもなければ、アポステリオリな総合の知でもない。アプリオリな総合判断の根拠だ。プラトンはそれに対して「想起説」で応えた。生まれる前から「知っている」のだ。アプリオリに知っているのだ。我々は、だからあたかもあらかじめ知っているかのように語れるのだ。だがその根拠を説明できないのは、忘れているからだ。「学ぶ」というのは、その根拠を思い出すことだ。このように想起説をもちだすことで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」という詭弁をくつがえすことができる。アプリオリな総合判断とは「既に知っているにもかかわらず、その根拠を探求しなければならない」というものだ。

が、残念ながら、本書はアプリオリな総合判断の根拠を探求することへ向かうことはなかった。その解答は、『国家』を待たなくてはならない。

*9/18後記
このアプリオリな総合判断の根拠への探求は、眼鏡っ娘学の根本をなす動機でもある。我々はあたかも最初から「眼鏡っ娘」を知っているかのように、何らかのキャラを見て「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」などと判断している。だが、その判断の根拠を問われてみると、実は明確な言葉で定義して答えることができないという、困った事態に直面させられる。「単に眼鏡をかけている女のことを眼鏡っ娘と呼んでいいのかどうか」と問われれば、そんなに単純なもんじゃないと思う。「じゃあ誰が眼鏡っ娘なんだ」と問われれば、答えに窮するしかない。「知っているけれど説明できない」としか言えない。我々は確かに「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」と判断できるが、その判断の根拠を示すことはできない。これが「アプリオリな総合判断」というやつだ。「眼鏡っ娘とはなんだ?」という問いへの追究は、結局は「アプリオリな総合判断はどうして成立するか?」という人間の知への究極の問いを追究する行為と言える。そしてそれは、『饗宴』なり『パイドロス』で示されるように、「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介することで成立するようなものなのだろう。

あるいは「萌え」という概念に一般化してもよい。我々は「萌え~」などと言えるが、どうして萌えるかの根拠や、そもそも「萌えとは何か」について答えることはできない。どれだけ分析しても、誰も納得しない。それはそもそも分析的な知ではないからだ。あるいはどれだけ萌えキャラをたくさん提示しても、誰も納得しない。それはアポステリオリな総合判断ではないからだ。それはアプリオリな総合判断であり、その根拠を提示しない限り人を納得させる回答とはならない。ソクラテスが「勇気」や「節制」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断に満足できなかったように、人々は「萌え」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断には満足しない。ではアプリオリな総合判断の根拠はいかに示されるのか。それはまさにソクラテス自身が示したように、もはや「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介する形でしか示唆することはできない。だから小野寺浩二は正しい。彼こそ現代のソクラテスだ。賢者とも言う。

プラトン/藤沢令夫訳『メノン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」