【要約と感想】苫野一徳『学問としての教育学』

【要約】これまで教育学は学問として舐められてきましたが、終わりにしましょう。現象学を土台として原理を確立し、現実の教育実践の役に立つ成果を挙げることで、教育学は学問として成立します。

【感想】まあ、タイトルからしてドン・キホーテ的な蛮勇だと思ったが、誰かがドン・キホーテ的な蛮勇を振るわなければ、時代は前に進まないのだった。その意気や良し。おもしろく読んだ。この流れに棹さすことについては吝かではない。ただ専門家としてはマニアックなところも気になってしまうので、以下、ごくごく些細な違和感についてメモしておく。

 思い起こすのは、私の学生時代には既に「学問としての教育学」が木っ端微塵に粉砕されていたことだ。私が東大教育学部に進学した1993年、学部主催で行われたシンポジウム(タイトルは忘れた)は「反教育学」をテーマとしてドイツから反教育学者を招いた。反教育の内部にも様々な流派はあるものの、乱暴にまとめれば、「教育は必ずしも善いものとは限らない」という認識や「教育なんて必要ない」という主張では同じ方向を向いている。若い私にとっては率直に言って意味不明だったが、どうやらそれが世界で流行っているらしいことまでは認識したのであった。
 90年代を通じて、教育学部は「教育学には固有のディシプリンなどない」というメッセージを発し続けたし、「教育学には固有のディシプリンなど必要ない」と開き直っていた。そもそも、当時の東大には一文字学部(法学部・文学部・医学部・農学部など漢字一文字の学部)を正統とし、二文字学部(教育学部や教養学部)をディシプリンの定まらない新参者として軽んじる貴族的意識が根強く残っていた。実際、「文学部教育学科」からの「教育学部」の独立は、学問的というよりは、戦後の政治的な関心(GHQとCIEの戦後改革)の下で進められている。
 私が大学院に進むころには、歴史学や社会学などある程度ディシプリンが定まった立場から教育という現象にアプローチするべきだという立場が急速に台頭し(具体的には広田照幸先生の置かれた微妙な立場を思い出す)、「教育学固有のディシプリンを打ち立てよう」という気概は完全に影を潜めていた。教育学は哲学や歴史学や社会学などとは異なる「ポイエーシスの学」だという主張にナルホドなどと思ったりした。

 しかしそれはポストモダン特有の現象かというと(本書でも昔からの伝統であることに言及はあるが)、実はデュルケムが登場したあたりから100年あまり続いている葛藤だったりするだろう。デュルケムは伝統的(ヘルバルト的)な教育学を「ペダゴジーとしての教育学」と呼んだわけだが、実際に教育学は「公教育(つまり学校)に携わる教員養成」と密接に関わって発展した。近代的な「国民国家」の展開に伴って浮上した教育学は、期待に応えて教育現象に関わる知識と経験の組織化に勤しむこととなるが、それはつまり「教育そのもの」を対象として発展したというよりは、近代という時代に固有の課題に応えることを暗黙の前提として発展したということだ。それ自体は特に良いことでも悪いことでもないが、デュルケムはそういう「学問以外の価値」を持ち込むことを是とせず、教育を社会的事実として実証的に記述することを目指すこととなる。で、「善い教育」でも「教育的価値」でも、なんと呼んでも構わないが、そういう類の「学問以外の価値」を持ち込む際には、膨大な言い訳を要求されるようになる。勝田守一や村井実(ちなみに本書が村井実を引用しない理由がよく分からない)はポストモダンの潮流ではなく、デュルケム的なものと対決していたはずだ。そんなわけで本書は仮想敵をポストモダンの潮流に置いていたが、実はラスボスはデュルケム的なものになるのだろう。
 付け加えるなら、デュルケムが個人の自律性よりも上位の集団である国家や社会の自律性を本質的だと見なしており、いわゆる「社会有機体論」の引力圏にあることには留意しておいていいのだろう。本書はいわゆる「社会有機体論」に関わる要素を最初から考察の対象とせず、一貫して「モナド的な個」を前提に世界を組み立てている。それ自体は良いことでも悪いことでもないが、しかしデュルケム的な立場からはその前提こそが疑わしい臆断と見なされるだろう(このあたりは現象学的には「間主観性」をめぐる表現に関わってくるか)。本書が理論的に依拠するヘーゲルについても、彼の有機体論的な議論に一切触れていないのは、そこそこ気になるところだ。
 そして有機体論的な発想ということで想起するのは、プラトン『国家』だ。プラトン『国家』は、疑いようもなく有機体論的発想で構成されている。そしてプラトン『国家』については「テーマが政治学なのか教育学なのか」という議論が続いているが、私個人の感想では疑いようもなく「教育学」だ。なぜならプラトンにとっては「教育こそが国家の存在意義」であり、その逆ではないからだ。だとすれば、本書が仮に「民主主義こそが教育の存在意義」と考えているのであれば、教育が最上位目標というわけではないので、それを教育学と呼ぶべきなのかどうか、議論の余地はあるように思う。

 もうひとつ、本書の肝は「自由」という概念にあるわけだが、個人的にはそこに多少の引っかかりを感じるところではある。
 個人的な本質直観に従えば、教育(instructionではなくeducationとしての)という概念の核は「自由でないものが自由になる瞬間」にある。(ちなみにカントの表現によると「人間は教育によってはじめて人間となる」となる)。よって、法学や政治学や心理学や経済学では「自由で平等な個人」を所与の前提として話を進めても構わない(つまり特異点は別のところに設定してよい)のだが、教育学は他の学問と異なり、「自由で平等な個人」を所与の前提とするわけにはいかない。「自由で平等な個人」が立ち上がるダイナミックな瞬間(平たく言えば、子どもが大人になる瞬間)こそが、他の学問にはない教育学固有の対象であり、特異点だ。
 そしてそれはおそらく、「自由で平等な共同体」を所与の前提とせず、それが立ち上がる瞬間を捉えようとする努力とも重なってくるはずだ。ルソーは自由が立ち上がるダイナミズムを個人的なレベルでは『エミール』で描き、共同体のレベルでは『社会契約論』で描いた。だから間違いなく『エミール』は教育学の本だし、同様に『社会契約論』も教育学(ペダゴジーではなく)の本だ。またヘーゲルはそれを『精神現象学』で長々と描写した。だとすれば『精神現象学』も教育学の本だ(自由で平等な個人という範囲を遥かに超えて記述が進むが、自由でないものが自由になるダイナミズムという観点から言えば、その主語が個人である必要は特にない)。
 だから本書が言う「自由の実質化」の中身が具体的になんなのかは、かなり重要な話になってくる。たとえばルソーが『エミール』で「自由」についてこう言っているのに耳を傾けてもいいだろう。

「これまでのところ、きみは見かけだけ自由であったにすぎない。まだなにごとも命令されていない奴隷のように、きみにはかりそめの自由があっただけだ。いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい。きみの心情に命令するのだ、おお、エミール、そうすればきみは有徳な人になれる。」(下198頁)
「自由になるためにはなにもすることはないのだ、とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければそれで十分なのだ。ああ、先生、あなたこそ、必然に従うように教えることによってわたしを自由にしてくれた。」(下254頁)
「わたしは、支配と自由とは両立しない二つのことばであって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、かならず自分の主人ではなくなる、ということを知った。」(下254頁)

 ここでルソーが「自由」と呼んでいるものは、どうも本書が言う「自由」とは違った何かのように読めるような気もするわけだ。本書の言う「自由」が、ルソーの言う「見かけだけ自由」とか「かりそめに自由」だという畏れはないか。本書が言う「自由の実質化」とは、ルソーが求めた「じっさいに自由」なのだろうか。個人的には多少の不安があるが、まあ、専門的にマニアックで些細な話ではある。

苫野一徳『学問としての教育学』日本評論社、2022年