「眼鏡学」タグアーカイブ

【要約と感想】プロチノス『善なるもの一なるもの』

【要約】「存在」とは要するに「ひとつ」であることです。「ひとつ」とは、「知性」や「精神」や、あるいは「万有」といったものよりも先の何かです。われわれはその「ひとつ」と一体になることによってのみ、本当に存在し、幸福になることができます。しかしその有り様は言葉によって説明することがそもそも不可能な事態であって、実際に経験するしかありません。
ただし、どうして「一」から「多」が生じたのか、という問題に答えるのはとても難しいです。

【感想】プラトンが対話編で具体的に展開した議論を、筋道立てて抽象的な論理にまとめるとこうなるという、新プラトン主義の精髄のような論文だ。そして新プラトン主義の「存在」に対する議論は、キリスト教神学を経由して、近代西洋哲学の土台になっていく。これこそ「同一性の哲学」の核心だ。たとえば、ここに描かれた「一から多への運動」は、そのエッセンスをヘーゲル精神現象学もパクっているんじゃないかと思えたりするし、自己へ還る「ひとつ」という主体の様式の議論は、そっくりそのまま実存主義と重なる。極めて重要な霊感がたっぷり詰まっている論文であるように思う。

一方、訳者の翻訳の仕方にも関わってくるとは思うのだが、とても東洋的なセンスを感じる論文でもある。言葉では伝えられずに経験によって伝授するしかない真実の在り方に関しては禅が言う「不立文字」をどうしても想起せざるを得ないし、あるいは現実の物質的世界を解脱して「ひとつ」と精神的に一体化するという展望は、そのまま仏教の教えと重なる。神と一体化するというよりも歓喜のうちに神自体になるという論理には、東洋的なセンスを感じざるを得ない。

とはいえやはり、最終的には本書は「同一性」の哲学であって、東洋の「空」の思想とは決定的に異なる。この「同」と「異」をどう捉えるかは、西田幾多郎的な課題となる。

【この本は眼鏡論にも使える】
「一と二の関係」を原理的に考察する本書の論理は、もちろん眼鏡論にも多大な霊感を与える。なぜなら、「眼鏡っ娘は一」であるのに「眼鏡と娘は二」という根本的な絶望に対し、論理的な光明を与えてくれるからだ。

「かくて、見るものは見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られた者というよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。」47頁

プロチノスのいう「見るもの」と「見られたもの」との対立は、まさに眼鏡という視線を制御するアイテムが「媒介」するものにふさわしい論理構成と言える。

「ところで、これらの各は一つずつの知性であり、存在なのであるが、これらを合わせた全体は、知性の全体であり、存在の全体なのであって、その場合知性は直知することによって、存在を存立せしめ、存在は直知されることによって、知性にその有様を与え、直知することを得させているのである。とはいえ、直知の原因となるものは別にあるのであって、それはまた存在に対しても原因になっている。つまり両者に対して同時に原因となるものが別にあるのである。というのは、両者は同時に、しかもいっしょにあって、互いに見棄てることのない関係にあるけれども、この知性と存在のいっしょになっている一者は二者なのである。すなわち知性は直知する作用に即してあり、存在は直知されるものの側にある。これはすなわち、異の対立がなければ、直知は成り立たないであろうということなのである」63-64頁

この文章の解釈は困難ではあるが、眼鏡について語っていることは間違いない。「知性=眼鏡」と「存在=娘」を同時に成り立たせる原因である「別のもの=眼鏡っ娘」ということだろうか。さらに研究を深めなければならない。

プロチノス『善なるもの一なるもの』田中美知太郎訳、岩波文庫、1961年

【要約と感想】飯田隆『新哲学対話―ソクラテスならどう考える?』

【要約】ソクラテスを対話の登場人物にして、現代哲学の諸問題に取り組んでみました。哲学は、教室の中の難しい言葉ではなく、日常の言葉で充分に成立します。

【感想】ソクラテスそのものを扱った本かと勘違いしてタイトル買いしたけれど、中身はまるで違った。ありがたいことに、とてもおもしろく読めた。タイトル買いも、たまには必要だ。

扱っているテーマは4つ。人工知能や、意味論と統語論の関係や、不完全性定理など、現代哲学の古典的な題材だ。個人的にはまだまだ不案内な領域であって、勉強にもなった。著者には「啓蒙」の目論見があって書いたそうだが、私個人に対してはその目論見が上手に当たったと言える。

個人的な関心から言えば。数学的理性の限界についてプラトンもアリストテレスもそこかしこで言及しているように思うので、彼らの言う数学的理性の限界と、現代哲学で言う理性の限界が同じものなのか違うものなのか、違うとすればどこがどう違うのかについて、専門家の見解を聞いてみたいところではあった。まあ、ないものねだりをしても仕方がないので、自分で勉強するしかない。

まあ、とてもおもしろく読んだ。巻末の註のトボケ具合も含め、ちゃんとプラトンを読んでいる人にだけ分かるようなギャグが全編に散りばめられていて、なかなか笑える本だった。

【眼鏡学へ向けて】
読んでいる最中に、眼鏡学に向けてのインスピレーションも与えてもらった。やはり「矛盾律」と「排中律」についてしっかり考えることが、眼鏡学完成のための肝になる。
というのは、数学的理性の限界とは詰まるところ「ある/ない」の二値的思考(あるいは分節的思考)の行き着く先にあるものであって、それは眼鏡学的に言えば「かけている/かけていない」の二値的思考が最終的に行き詰まるしかないことの理論的表現なのではないかと思えてしまうのだ。この二値的思考を超えていくものとして、一方にヘーゲル的な弁証法の思考があり、もう一方に仏教的な「空」の思想がある。あるいは斜めにはアリストテレス的な知慮(フローネシス)の領域がある。眼鏡学的な「かけている/かけていない」の矛盾を論理的に見つめる上で、数学的理性「ある/ない」の二値的思考の行き詰まり方は、無関心ではいられないのだった。

飯田隆『新哲学対話―ソクラテスならどう考える?』筑摩書房、2017年

【要約と感想】高橋健太郎『振り向けばアリストテレス』

【要約】アリストテレスが現代日本に甦ったら、一人の眼鏡っ娘が幸福になった!

【感想】とても良かった。感動した。なによりも良かったのは、眼鏡っ娘が幸福になったことだ。本当に良かった。眼鏡っ娘が獲得したのが正真正銘の紛れもない「本物の幸福」であることは、私の主観などではなく、本書が客観的に証明してくれるのだ。こんな構成の本、他にない。猛烈に感動した。

そして本書が「感動的」な理由も本書自体が客観的に解説しているという、メタ・フィクション的に恐るべき離れ業が見られるのであった。ネタバレになるので詳細は書けないのだが、「認知と逆転が同時に起こるのが最高の悲劇」という『詩学』の教えを、本書自体が見事に再現しているのだ。すげえ。最後の眼鏡っ娘の「認知」を示すセリフと、「認知」そのものが「逆転」を引き起すという「筋」の見事さと、それに対するアリストテレスの返答および態度に見られる「性格の一貫性」には、本当に泣かされてしまった。素晴らしかった。

アリストテレスの性格の一貫性についても、読み始めたときは「アリストテレスの性格描写がえらくステレオタイプだなあ」などと思ったのが、それすらも最終的には整合的に説明できてしまうし。読み終わってから書籍内書籍の表紙にかかった帯を見て、ニヤリとできるし。いやあ、まいったなあ。

【眼鏡学への示唆】
そして本書は、私の「眼鏡学」に対するインスピレーションにも多大なインパクトを与えてくれた。やはり眼鏡っ娘を理解するためには、アリストテレスの理論が強力な示唆を与えてくれることが確認できた。特にアリストテレス『形而上学』に見られる「可能態から現実態へ」「存在の四原因」「形相と質量」といった諸概念は、眼鏡っ娘を理解するうえで決定的に重要な役割を果たす。プラトンの「イデア論」では行き詰まるしかなかった眼鏡論が、アリストテレスの論理によって駆動する。

高橋健太郎『振り向けばアリストテレス』柏書房、2018年

【要約と感想】小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学』

【要約】血液型性格診断は、デタラメです。性格と血液型の間には、何の相関も発見されていません。
現代のパーソナリティ心理学は、人を「類型」に分けようとするのではなく、複数の「特性」のセットによって個人差を測定しようとする科学です。「何を測るか」とか「どうやって測るか」とか「本当に測定できているのか」について、科学的な手続きを経る作法に則っています。
そういう観点から言っても、血液型性格診断は、デタラメ極まりないインチキです。滅ぶべし。

【感想】初心者の大学生が読むようなテキストなんだけど、個人的にパーソナリティ心理学をしっかり押さえる必要が生じつつあるので、まずは初歩からしっかり学ぶ。
本書は、初学者向けの教科書として、例が豊富で、読み物としてもおもしろく、わかりやすい。初学者にはとてもいい本だと思う。血液型性格診断のバカバカしさに対する批判は、論理的に明快かつ感情的に痛快だ。おもしろい。

が、まあ、いろいろ疑問に思う点も、なくはない。けれど、それは著者の記述に対する疑問ではなく、パーソナリティ心理学という学問そのものに対する違和感だと思う。以下に疑問を連ねるが、それはパーソナリティ心理学に対する批判ではなく(もちろん門外漢で初学者の私が批判できるわけもない)、私自身が今後の学習過程で誠実に取り組んで明らかにすべき課題を備忘録的に記すものだ。と、お断りして。

疑問に思うのは、まず「特性」というものが現実の正確な写像たりえるのか、かなり怪しいことだ。本書も、特性を記述する因子が実体なのか構成概念なのかについて、けっこう突っ込んで記述しているところだが。特性因子の抽出には統計学的な根拠があるし、手続き自体の根気強さには関心するんだけれども、ただ、その手続きを経て明らかにしていることは、実は言語そのものの意味構造なのであって、個々の人間のパーソナリティを実際に構成する因子が抽出できている客観的な保証は一切ないように見える。そういう問題意識から振り返ると、言語の特性を抽出してそれを現実の写像と見なす素朴な態度は、いわゆる「言語論的転回」以前の状況にあるように見える。もっと言うと、特性因子の組み合わせによるパーソナリティ記述は、現実を反映しているわけではなく、パーソナリティ心理学という領域でしか通用しない「言語ゲーム」を強化しているだけではないかという疑いが強まってくる。具体的には、統語論のような操作に終始しているような印象を受ける。言語を介している限り、そのゲームの外部には決して出ることはできない。一般的に言って、言語が現実の写像であるかどうか、何の保証もない。そして、この「言語論的転回」という世界史的思想傾向にも関わらず、それに対する反応がまったく見えないのは、そこそこ気になるところだ。脳生理学等を通じて外部の現実と接続していると見なす立場もあるのだろうけれども、それでも生物学的な諸要素とパーソナリティ心理学の諸因子はアナロジーで結びついているだけで、一対一の写像関係を実証する科学的根拠はないように見える。複雑な生理的過程をたった5つの因子で説明し尽くせるとは、にわかには信じがたい。5つの因子で説明できるように見えるのは、現実を正確に反映しているからではなく、言語ゲームとしての完成度が高いということの表れに過ぎないのではないのか。

もう一つの課題は、歴史的なメタ視点だ。大きな歴史の流れを考えてみれば、パーソナリティ心理学が目指している「個人差の測定」は、そもそも前近代にはまったく必要とされない欲望だ。というのは、前近代においては、ある人間に対する評価は基本的に身分によって決まるのであって、パーソナリティが意味を持つ余地はほとんど残されていないからだ。具体的には、農民と侍の個人差を比較しても、まず何の意味もない。農民と侍の間に「人間」として共通しているものが想定できないからだ。共通しているものがないもの同士を比較することはできない。で、市民革命以後、政治的に「自由」と「平等」を達成し、経済的に資本主義が世界のオペレーション・システムとなってメリトクラシーが世界を覆ったとき、初めて全ての「人間」を共通の能力を持つものとして把握する土俵が形成され、個人差を測定しようという欲望が発生する。近代によって「人間」という観念が成立しなければ、人々を比較しようとする欲望が発生することはない。私の現在の理解から言えば、パーソナリティ心理学を必要とする欲望の土台は、歴史的に形成されたものであって、普遍的なものではない。
となると、逆に言えば、近代が終わったとき、その欲望も大きく変化すると予想される。たとえば、あまりにも個人差が激しくなりすぎて、同じ「人間」としての共通基盤が失われたと感じられるときには、個人差の測定に対する興味は喚起されなくなるはずだ。人間が個人差を測ろうとする欲望を持っていることは、実は全ての「人間」に共通の基盤があるという信念が成立していることの証拠であるとも言える。「科学の普遍性」という大義名分の裏に、近代という時代の関心と制約が伴っていることは、疑ってかかりたい。

パーソナリティ心理学の発生が19世紀末というのも、示唆的だと思う。たとえば人間を統計的に把握しようという欲望は、19世紀から広範囲に見られるようになる。ドイツでは「道徳統計」の集計が行政の仕事となり、フランスではデュルケームが統計による世界把握の手法を推し進めた。(統計的に世界を把握しようとする欲望が、同じ時期に発達した熱力学と何らかの関係があるかどうかについては個人的に興味があるが、それはまた全然別の話になる)。大雑把には、統計という手法に拠って立つパーソナリティ心理学の展開も、この19世紀からの統計的世界把握への欲望と軌を一にしているように見える。このあたり、知能測定が優生学と結びつきながら現実の政策に影響を及ぼしたことが歴史学で研究されているわけだが、もうちょっと広い文脈においても、近代が喚起した欲望とパーソナリティ心理学の志向は親和性が高いように思える。個人的な関心から言えば、その欲望と志向は「個性」という概念に集約していくと理解しているわけだが、どうか。私自身が追求すべきテーマとして、興味が尽きないところである。いろいろ調べたい。
(そういう意味では、数ある初学者向けのテキストから本書を選んだのは、副題が「個性をめぐる冒険」となっていたからなのだが、残念ながら本文中で「個性」という概念が具体的に検討されることはなかった。まあ、だからといって不満というわけではない。)

こういう他領域の原理についての疑義は、いまだに学問固有の対象と手法が確立されていない「教育学」という領域に関わっている人間が胸を張って口にすることではないんだけれども。まあ、教育学という学問が近代特有の欲望に拠って立っていることを自覚してしまうからこそ、パーソナリティ心理学という学問領域に対してもそういう不安を投影してしまうということなのかもしれない。この課題に自覚的であることは、教育学とは何かという問題を考えることでもある。たぶん、そういうことだ。

【眼鏡学に使える】
本書で学んだ観点は、眼鏡学にも大いに応用できると思った。特に「類型」と「特性」の区別は、方法論として頭に留め置くべきものだと思う。眼鏡っ娘を「類型」としてではなく「特性」を通じて把握することは、おそらくとても重要なことだ。眼鏡っ娘を「類型」として把握し続ける限り、浮上の目は出てこないようにも思う。
そうは言っても、だがしかし。眼鏡っ娘が「類型」として把握されてしまうのは、そもそも眼鏡というものが「かけている/いない」という二元的な性質を持つからでもある。この眼鏡の二元的性質は、現象学的に眼鏡を理解するときに「本質」として顕れるものと思われる。眼鏡っ娘が「特性」ではなく「類型」として把握されやすいことのは、現象学的に興味深い現象と言える。

小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学―個性をめぐる冒険』ミネルヴァ書房、2010年

【要約と感想】板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』

【要約】「私」というものは他者や環境との関係があって初めて生じるものです。人間の幼児には、他者(無生物を含む)の行動に対して合理的な意図や関係性を見出す認知機能が生得的に備わっていて、この機能の発達が「心」の発生(=メンタライジング)に関わります。

【感想】人間は幼児期から「心」を認識している可能性があることを、興味深く読んだ。本書に記述された実験に関する報告を信用するなら、人間は様々な対象に「心」を見出す傾向が生得的に備わっているようだ。実験の妥当性を高めるための工夫がいちいちおもしろく、読み物としても楽しい。

ただ、本書に限ったことではないが、心理学や認知科学に対して一般的に疑問を思ってしまうのは、観察された現象を本当に「心」という言葉で呼ぶのが妥当かどうかということだ。原理的に言えば、観察者が持っていた「心」という概念を観察対象に適用して「心」の存在を証明することは、帰納的な推論ではなく、「循環論法」に陥っているのではないか。たとえば、動物実験で観察されたものを「心」と呼ぶのは、単なる擬人化ではないかとも疑ってしまう。観察で見出された現象は、本当に「心」というカテゴリーで処理するのが一番適切なのだろうか? まあ、そんなことはライル等が既に言っていることだけれども。

具体的には、そこで見出されているものの本質は、「心」と呼ぶより、「一」と呼ぶ方が適切ではないだろうか。あるいは、もっと正確には「生命の単位としての一」と呼ぶべきかもしれない。人間は「私」だけを環境から切り出しているのではなく、様々な「一」を環境から切り出している。あるいは他の動物も。だから、人間が生得的に持っている認知傾向とは、「心」を見出す能力というより、「多」から「一」を切り分ける高度な能力ではないのか。まあ、「心」を見出すから「一」を切り分けられるのか、「一」を切り分けてから「心」を仮託するのか、鶏と卵の関係のようなものではあるが。ともかく、最初から「心」の存在を仮定するのではなく、「一」というものを仮定しても、同じ現象がまったく別の論理で説明できてしまうはずだ。このあたりは後期プラトンやアリストテレスがそうとう厳密に手がけているところではあるが。そして古代哲学の論理によれば、「一」から様々な概念が演繹される。たとえば、首尾一貫性という概念であり、アイデンティティという概念であり、あるいは「存在」という概念だ。プラトンやアリストテレスはそこまで言っていないが、実は「心」という概念も「一」から演繹されるものではないのか。そう考えると、「心」とか「アイデンティティ」とか「首尾一貫性」というものは付属的な属性に過ぎず、本質は「一」であると見なすのが適切ではないのか。そしてそう考えても、本書で示された現象は全部きれいに説明できてしまう。

じゃあ、そもそも「一」とは何だと聞かれたら。そんなものは「認知の特異点」であって、それがあるから他のあらゆるものが説明できる認知の底であって、外部からは説明のしようがない何者かとしか言いようがない。どうして「私」が「一」なのかは、誰にも説明できない。それは目の前の「眼鏡」がどうして「一」なのか説明できない(こんなにたくさん部品があるのに、どうして「一」と呼べるのか?)のと同様のことだ。「私」や「眼鏡」を「一」と認知することで、初めて世界が成り立つ。「私」を認識する前に「一」を認識していなければ、世界は立ち上がらない。人間(あるいは他の動物)の生得的な認知の基礎は、そこにあるのではないのか。アリストテレスも、数字は「二」から始まるのであって、「一」は数字ではないと言った。「一」とは数字を成立させるための「認知の特異点」として特別な対象であって、数字のような形式的操作の対象には納まりきらないということだと承知している。「心」というものも現在では実験など形式的操作の対象となっているが、それを成り立たせる根底にはもっと別の根源的な何か、具体的には「一」というものが前提されねばならず、それこそが人間の認知の基礎的で生得的な条件となっているのではないか。まあ、そんなことはアリストテレスやカントが既に言っているのだが。ただ、AIにできないのは、「心」を持つことよりも前に、「一」を認識することではないか。人間は、自分や他人を「一」と認識できるほか、自分よりも小さなもの(たとえば指とか足とか髪の毛とか)も「一」と認識できるし、自分よりも大きなもの(たとえば「家族」とか「民族」とか「国家」とか「地球」とか「世界」)をも「一」と認識できる。そして「一」と認識したものに対して、頼まれもしないのに「心」を仮託する傾向にある。AIは、「心」を生む前に、まず「一」を認識することができない。ここに「生命」と呼び習わされてきた何かの本質があるのではないか。

まあ、本書を読みながらそんなことをつらつらと考えたのだが、もちろんこれは私の問題であって、本書が扱わなければならない問題ではない。

【眼鏡学に使える】
「視線」に関する記述は、眼鏡学的な観点から、興味深い。

「目は心の窓」。いみじくも古人がこう表現したように、他者の心を最もよく反映するのは、視線かもしれない。「私」が最初に出会う他者の心は、他者の目に凝縮されていると言ってもいいだろう。たとえば、視線は、他者が何を見ているかを単純に示すものである。(126頁)

「視線」を可視化するのが眼鏡というアイテムである。つまり他者の眼鏡を外すという行為は、他人から視線を剥奪することの象徴であり、端的に主体性を否定することを意味する。眼鏡を共有する行為は、視線を共有することの象徴であり、生死を共にする共同体の一員であることを保障することを意味する。この「視線」に関する観点は、マンガ作品分析等で極めて多大な示唆を与えてくれる。

板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書、2006年