【要約と感想】小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学』

【要約】血液型性格診断は、デタラメです。性格と血液型の間には、何の相関も発見されていません。
現代のパーソナリティ心理学は、人を「類型」に分けようとするのではなく、複数の「特性」のセットによって個人差を測定しようとする科学です。「何を測るか」とか「どうやって測るか」とか「本当に測定できているのか」について、科学的な手続きを経る作法に則っています。
そういう観点から言っても、血液型性格診断は、デタラメ極まりないインチキです。滅ぶべし。

【感想】初心者の大学生が読むようなテキストなんだけど、個人的にパーソナリティ心理学をしっかり押さえる必要が生じつつあるので、まずは初歩からしっかり学ぶ。
本書は、初学者向けの教科書として、例が豊富で、読み物としてもおもしろく、わかりやすい。初学者にはとてもいい本だと思う。血液型性格診断のバカバカしさに対する批判は、論理的に明快かつ感情的に痛快だ。おもしろい。

が、まあ、いろいろ疑問に思う点も、なくはない。けれど、それは著者の記述に対する疑問ではなく、パーソナリティ心理学という学問そのものに対する違和感だと思う。以下に疑問を連ねるが、それはパーソナリティ心理学に対する批判ではなく(もちろん門外漢で初学者の私が批判できるわけもない)、私自身が今後の学習過程で誠実に取り組んで明らかにすべき課題を備忘録的に記すものだ。と、お断りして。

疑問に思うのは、まず「特性」というものが現実の正確な写像たりえるのか、かなり怪しいことだ。本書も、特性を記述する因子が実体なのか構成概念なのかについて、けっこう突っ込んで記述しているところだが。特性因子の抽出には統計学的な根拠があるし、手続き自体の根気強さには関心するんだけれども、ただ、その手続きを経て明らかにしていることは、実は言語そのものの意味構造なのであって、個々の人間のパーソナリティを実際に構成する因子が抽出できている客観的な保証は一切ないように見える。そういう問題意識から振り返ると、言語の特性を抽出してそれを現実の写像と見なす素朴な態度は、いわゆる「言語論的転回」以前の状況にあるように見える。もっと言うと、特性因子の組み合わせによるパーソナリティ記述は、現実を反映しているわけではなく、パーソナリティ心理学という領域でしか通用しない「言語ゲーム」を強化しているだけではないかという疑いが強まってくる。具体的には、統語論のような操作に終始しているような印象を受ける。言語を介している限り、そのゲームの外部には決して出ることはできない。一般的に言って、言語が現実の写像であるかどうか、何の保証もない。そして、この「言語論的転回」という世界史的思想傾向にも関わらず、それに対する反応がまったく見えないのは、そこそこ気になるところだ。脳生理学等を通じて外部の現実と接続していると見なす立場もあるのだろうけれども、それでも生物学的な諸要素とパーソナリティ心理学の諸因子はアナロジーで結びついているだけで、一対一の写像関係を実証する科学的根拠はないように見える。複雑な生理的過程をたった5つの因子で説明し尽くせるとは、にわかには信じがたい。5つの因子で説明できるように見えるのは、現実を正確に反映しているからではなく、言語ゲームとしての完成度が高いということの表れに過ぎないのではないのか。

もう一つの課題は、歴史的なメタ視点だ。大きな歴史の流れを考えてみれば、パーソナリティ心理学が目指している「個人差の測定」は、そもそも前近代にはまったく必要とされない欲望だ。というのは、前近代においては、ある人間に対する評価は基本的に身分によって決まるのであって、パーソナリティが意味を持つ余地はほとんど残されていないからだ。具体的には、農民と侍の個人差を比較しても、まず何の意味もない。農民と侍の間に「人間」として共通しているものが想定できないからだ。共通しているものがないもの同士を比較することはできない。で、市民革命以後、政治的に「自由」と「平等」を達成し、経済的に資本主義が世界のオペレーション・システムとなってメリトクラシーが世界を覆ったとき、初めて全ての「人間」を共通の能力を持つものとして把握する土俵が形成され、個人差を測定しようという欲望が発生する。近代によって「人間」という観念が成立しなければ、人々を比較しようとする欲望が発生することはない。私の現在の理解から言えば、パーソナリティ心理学を必要とする欲望の土台は、歴史的に形成されたものであって、普遍的なものではない。
となると、逆に言えば、近代が終わったとき、その欲望も大きく変化すると予想される。たとえば、あまりにも個人差が激しくなりすぎて、同じ「人間」としての共通基盤が失われたと感じられるときには、個人差の測定に対する興味は喚起されなくなるはずだ。人間が個人差を測ろうとする欲望を持っていることは、実は全ての「人間」に共通の基盤があるという信念が成立していることの証拠であるとも言える。「科学の普遍性」という大義名分の裏に、近代という時代の関心と制約が伴っていることは、疑ってかかりたい。

パーソナリティ心理学の発生が19世紀末というのも、示唆的だと思う。たとえば人間を統計的に把握しようという欲望は、19世紀から広範囲に見られるようになる。ドイツでは「道徳統計」の集計が行政の仕事となり、フランスではデュルケームが統計による世界把握の手法を推し進めた。(統計的に世界を把握しようとする欲望が、同じ時期に発達した熱力学と何らかの関係があるかどうかについては個人的に興味があるが、それはまた全然別の話になる)。大雑把には、統計という手法に拠って立つパーソナリティ心理学の展開も、この19世紀からの統計的世界把握への欲望と軌を一にしているように見える。このあたり、知能測定が優生学と結びつきながら現実の政策に影響を及ぼしたことが歴史学で研究されているわけだが、もうちょっと広い文脈においても、近代が喚起した欲望とパーソナリティ心理学の志向は親和性が高いように思える。個人的な関心から言えば、その欲望と志向は「個性」という概念に集約していくと理解しているわけだが、どうか。私自身が追求すべきテーマとして、興味が尽きないところである。いろいろ調べたい。
(そういう意味では、数ある初学者向けのテキストから本書を選んだのは、副題が「個性をめぐる冒険」となっていたからなのだが、残念ながら本文中で「個性」という概念が具体的に検討されることはなかった。まあ、だからといって不満というわけではない。)

こういう他領域の原理についての疑義は、いまだに学問固有の対象と手法が確立されていない「教育学」という領域に関わっている人間が胸を張って口にすることではないんだけれども。まあ、教育学という学問が近代特有の欲望に拠って立っていることを自覚してしまうからこそ、パーソナリティ心理学という学問領域に対してもそういう不安を投影してしまうということなのかもしれない。この課題に自覚的であることは、教育学とは何かという問題を考えることでもある。たぶん、そういうことだ。

【眼鏡学に使える】
本書で学んだ観点は、眼鏡学にも大いに応用できると思った。特に「類型」と「特性」の区別は、方法論として頭に留め置くべきものだと思う。眼鏡っ娘を「類型」としてではなく「特性」を通じて把握することは、おそらくとても重要なことだ。眼鏡っ娘を「類型」として把握し続ける限り、浮上の目は出てこないようにも思う。
そうは言っても、だがしかし。眼鏡っ娘が「類型」として把握されてしまうのは、そもそも眼鏡というものが「かけている/いない」という二元的な性質を持つからでもある。この眼鏡の二元的性質は、現象学的に眼鏡を理解するときに「本質」として顕れるものと思われる。眼鏡っ娘が「特性」ではなく「類型」として把握されやすいことのは、現象学的に興味深い現象と言える。

小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学―個性をめぐる冒険』ミネルヴァ書房、2010年