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【要約と感想】慶應義塾大学文学部『恋愛を考える』

【要約】文学部の総力を結集して「恋愛」について考えてみました。

【感想】哲学、社会学、歴史学、文学、美術史、心理学など、様々な学問的立場から多様に「恋愛」に迫る論考は、ひとつひとつ興味深く読める。若い人に「学問的アプローチとはいかなるものか」を具体的に示すには格好の本かもしれない。
とはいえ、個人的に期待していたのは、愛にまつわる代替不可能性とか唯一性といった概念に対する原理的な考察だったので、その点に関しては肩すかしだった。まあ、「愛」に対する考察ではなく「恋愛」に対する考察なので、最初から無い物ねだりだったような感じではある。

【眼鏡学に関連して】
大串尚代「永遠をめぐる物語~乙女チック・マンガにおける恋と未来」での論考は、眼鏡学にも参考になる。本論は「少女マンガとアメリカ文学との距離は以外に近い」(94頁)と指摘している。少女マンガで「眼鏡を外すと美人」というクソみたいな物語を見ることがあるが、このような物語はアメリカ的精神と近い可能性があると思っている。というのは、もともと日本やヨーロッパには「眼鏡を外して自己実現」という考えは見当たらないのに対し、アメリカではスタンダードであるように見えるからだ。少女マンガに対するアメリカ文学の影響を緻密に調べていくと、「眼鏡を外して自己実現」というゴミのようなエピソードの由来が見えてくるかもしれない。

慶應義塾大学文学部『恋愛を考える―文学部は考える〈1〉』慶應義塾大学出版会、2011年

【要約と感想】アリストテレス『形而上学』

【要約】存在を存在として探求する学というものがあり、それは「矛盾律」のような疑い得ない確かな定理を土台として構築されるものでしょう。そして存在について厳密に考察を進めると、「イデア」のような考え方は必要なくなります。

【感想】個人的な見所は、「一」というものに対する徹底的な吟味と、「可能態=質量/現実態=形相」という措定から演繹される諸結論の2つだ。

人間が或る何かを「一」であると認識することができるのは、たしかに不思議な力だ。たとえば人間のことを「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」というふうには認識しないで、「一人の人間」と認識する。どうして我々は物事を「多」ではなく「一」と認識するのか。この「一」という認識は、そのまま「人間が存在する」という「存在」に対する認識である。どれだけ「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」という認識を深めていっても、決して「一人の人間」という認識には到達しない。「一人の人間」という認識に飛躍的に到達したときに、初めて「一人の人間がいる」という認識が可能となる。だから「存在」を存在そのものとして理解するとは、「一」を認識できる根拠を理解することである。

アリストテレス自身は、この「一」を「尺度」として探求し、数の原理的考察から追い詰めていこうとしている。「一は数ではなく、二から数である」という認識は、「一」というものを原理的に問い詰めていった末の結論であって、一定の世界観を示している。

私自身は、この「一」とは生命原理に由来するように思える。アリストテレス自身も「霊魂」へ言及するところで仄めかしているのだが、人間は何らかの「生命の塊」の単位を「一」として認識しているように思える。それは「全体と部分」の関係からも洞察される。ある部分を切り離したときに全体そのものが失われるという場合、その部分は「多」ではなく「一」として全体に含まれている。そもそも「ある部分を切り離したときに全体そのものが失われる」とは、一部の毀損によってなんらかの「生命」が失われることを意味するだろう。生命が失われたとき、「一」は成立しなくなる。その場合の「生命」とは、無生物にも適用できる。それは「働き」の単位である。何らかの「働き」をするものがあったとき、それが「多」から合成されたものであっても、我々は「一」と認識する。ある工場群に大量の工作機械があって、働く人間やロボットや建物が「多」であったとしても、その工場群の「働き」が一つであるとき、我々はそれを「一」と認識する。我々は「働き」の単位を「生命」として認識するということだろうか。
そしてここまでくると、物事の本質を「アレテー=徳」として捉えたソクラテス=プラトンの議論とも響き合ってくる。プラトンによれば、アレテーとは、物事に本来備わっている「働き」を完全に発揮することだ。このソクラテス=プラトンとアリストテレスの議論を重ねると、「徳=アレテー」を完全に発揮したものこそまさに「一」であり「生命」であるという話になる。

【この本は眼鏡っ娘について語っている】
ところで我々は、どうして眼鏡っ娘のことを眼鏡っ娘と理解できるのか。どうして「眼鏡」と「娘」が合成されただけの、つまり部分が集合した「多」として認識するのではなく、全体としての「眼鏡っ娘」、つまり「一」を認識するのか。たとえばアリストテレスはこう言う。

しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようでなしに語節がそうであるように複合されたものは、――というのは、語節はたんなる字母どもではなく、BAはBとAとではなく、肉は火と土とではないからである。なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや(肉とし語節としては)存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらとは異なる或るなにものかである。(1041b)

この文章は明らかに眼鏡っ娘について語っている。眼鏡っ娘とは「眼鏡と娘の複合体」ではなく、これらとは異なる或るなにものかである。そしてこの眼鏡っ娘を単なる「眼鏡と娘の複合体」ではなく「眼鏡っ娘全体」にしている「或るなにものか」こそが眼鏡っ娘の実体であり本質である。この実体や本質を追究することこそが、眼鏡っ娘学の使命と言える。

また本書は、「眼鏡っ娘の生成」に関しても多方面から大きな示唆を与える。たとえば、眼鏡っ娘が眼鏡を外したら直ちに眼鏡っ娘でなくなってしまうのだろうか? アリストテレスは「実体」という概念に即してこの問題を検討している。

もし実体が、さきには存在していなかったがいまは存在しているとか、あるいは逆にさきには存在していたがのちには存在しなくなっているとかいうようなものであるとすれば、このことは、生成しまたは消滅する過程においておこることと考えられる。しかるに点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはあり得ない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生成し、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に(生成過程においてでなしに一挙に)生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときには今まで存在しなかった二つの面が存在している。だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、何から生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない、しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在でないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである(1002a-b)

アリストテレスが言っているのは、眼鏡っ娘にとっての「眼鏡」とは、立体を切断するときの「面」のようなものであり、時間で言うところの「いま」のようなものだということである。それらは等しく「生成や消滅の過程にはあり得ない」ような、「一挙に生じる」という性質を持つ。つまりそれは「実体的な存在ではないことを示している」ということである。アリストテレスの論理に従えば、眼鏡っ娘が着脱する眼鏡そのものは眼鏡っ娘にとっての「実体」ではない。

この眼鏡の着脱が眼鏡っ娘そのものを消滅させるかどうかについては、アリストテレスの言う「可能態/現実態」の概念が参考となる。アリストテレスはこう言う。

なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能がある(活動しうる)のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能があり、同様にその他の場合にもそうである、というのである。だが、この説から生じる諸結果の不合理性を見つけることは容易である。
というのは、明らかに(この説からすると)なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という(不合理な)ことになるからである(なぜなら、建築家であるということは建築する能のあるものであるということだから)。(1046b)

この論理は眼鏡っ娘は眼鏡をかけていないときでも眼鏡っ娘であると言うことを示唆する。「可能態としての眼鏡っ娘」とは、メガネっ娘居酒屋「委員長」で新城カズマ氏が語った「未がねっこ」概念を指し示している。では、その「可能態」とはどういうことか? アリストテレスはこう主張する。

しかし、もし実際に、我々の言うように、この「人間」のうちの一方はその質量で、他方はその型式であり、一方は可能的に、他方は現実的にあるのだとすれば、ここに問い求められているところは、もはやなんらの難問とも思われないはずである。(1045a)

「眼鏡っ娘」のうちの一方(可能態)は質量であり、他方(現実態)は型式である。こう考えれば、もはや矛盾は解消される。様々な個別の質量(可能態)=未がねっこに対して、眼鏡っ娘の型式が備わったものが現実態としての眼鏡っ娘である。しかし眼鏡っ娘はどのようにして可能態から現実態へと転化するのだろうか? アリストテレスはこう言う。

では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの(丸くありうる青銅)が現実的に存在する(現に丸くある)にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあろうか? というのは、可能的に玉であるものが現実的に玉であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。(1045a)

アリストテレスによれば、未がねっこ(可能態)が眼鏡っ娘(現実態)であることは、「他になんらの原因もなくて、まさにこうあることが両者の本質」なのだ。ただしそこには「能動者」という原因が想定されている。「能動者」とは何か? アリストテレスによれば、それは「種子や医者や勧告者やそのほか一般にこうした能動者、これらすべては、それから物事の転化または静止の始まる始まり(始動因)としての原因である」(1013b)ということになる。そこで問題は、この「始動因」としての「能動者」の有り様ということになる。この問題については、残念ながら本書では詳らかにならない。

アリストテレス/出隆訳『形而上学〈上〉』岩波文庫
アリストテレス/出隆訳『形而上学〈下〉』岩波文庫

【要約と感想】田中美知太郎『ロゴスとイデア』

【要約】「事物そのものに直接向かわずに言語のうちに事物を探求する」と言うことで、何をしようとしているのか。そしてイデアという現実離れした考え方が必要になるのは、どうしてか。これらは一見すると現実にまったく影響を与えない抽象的な考察に見えるが、実際にはこういった哲学的問題を根本から考えることが、強力な光の照射となって、暗がりに隠れて見えなかった現実を把握することが可能となる。

【感想】全体的な完成度の高さに、感服するしかない。戦時中にこれほど地に足の着いた体制批判が可能であったということにも、驚く。70年後のいま読んでも、決して古びていない。今でも古びない要因は、著者が流行の思想に乗って著述作業をしているのではなく、自らの根源的な問題関心に忠実に則り、さらにそのような個人的な問題関心を他者にわかりやすく伝えるために文体形式に意識的に工夫を加えているところにある。個人的な問題は時代を超えていつまでも現在の問題であり続け、他者に向けてわかりやすく語ろうとする試みは時代を超えて機能する。プラトン思想の外在的な解説ではなく、プラトンを噛み砕いて消化した上で、自分の言葉として語っている。それは「あとがき」で自ら「対話」と自称するだけの意識的な方法論を伴っている。

内容としても、いわゆるイデア論を徹底的に認識論の面から分析しているのが興味深い。最近のプラトン解説本は、イデア論に真正面から認識論で挑むのは分が悪いと認識されているのか、現象学的な手段を援用しながら価値論の方から迫ろうとするものを散見する。それはそれで意味のある仕事だし興味深く読めるわけだが。しかし本書のように何の衒いもなく真正面から認識論に突入していくのは、むしろ新しい。そして凄い。おそらく著者は、認識論を真正面から突破した上でなければ「善」について語る資格はそもそも得られないと考えているのではないか、という感じがする。

というわけで、これは哲学研究者の仕事ではなく、哲学者の仕事であるように思った。

【これは眼鏡論に使える】認識論の方向からイデア論を突き詰めることは、「眼鏡っ娘」とは何かを考える上でどうしても避けては通れない道である。我々はどうして「個々の眼鏡をかけた女性」を個別に認識するのではなく、抽象的に「眼鏡っ娘」と認識するのか。また、どうして眼鏡をかけている女性に対して「お前は眼鏡っ娘じゃない」と思ってしまう時があるのか。このような認識のプロセスを解き明かすうえで、イデア論に対する理解は決定的な霊感を与えてくれる。本書も、眼鏡論に大きな霊感を与えてくれる。

田中美知太郎『ロゴスとイデア』文春学藝ライブラリー、2014年<1947年
■オリジナル:田中美知太郎『ロゴスとイデア』岩波書店、1947年

【要約と感想】プラトン『パイドロス』

【要約】恋とは、人間の狂気のなかでも最も尊い。なぜなら、その狂気を通じてのみ、人は「真の美」を想起できるからです。

【感想】この本、プラトンの著作の中で一番好きだなあ。印象的なエピソードが、集中して本書に集まっている感じ。

まず、恋愛の話が凄い。恋の狂気のみが人を「真の美」へと導く。なんてことが真正面からド直球で説かれるという。技巧に走る芸術家は、狂気の人々が作る作品には決して追いつけないとか。ソクラテスは教科書的には「無知の知」で有名だけど、教科書に「ただし恋の話だけはよく知ってる」という但し書きもつけてほしいところ。

それから、「文字の発明」のエピソードが収められているのも本書。文字の発明は、実は人々の記憶力を退化させて、真の知恵から遠ざけるだけだという。文字によって、人々は見かけだけ博識家になって、うぬぼれだけが発達し、つきあいにくい性格になる。プラトンは、対話可能な言葉だけが真実へと導くと言う。「ディアレクティケー=対話」という手続きの本質について、考えさせる。

さらに、「分析」と「総合」という手続きが「ディアレクティケー(対話法)」の神髄として明確に示されているのも大きな特徴。ただ、論理的な手続きをどれだけ誠実に積み重ねても、アプリオリな総合判断には辿り着かない。その「直感」は「神がかり」の「狂気」によってもたらされるしかない。「神がかりの狂気」によって直感を得る前半部と、論理的手続きによって「ただ一つの本質的な相にまとめる」という後半部が、一つの本に両立している不思議。直感と論理の二つがどのように内在的に結び付くかは、残念ながら本書では明確に見えない。

そして、ソクラテスが楽しそうに話しているのが、とてもいい。他の本だと皮肉を言ったり、攻撃的だったり、詭弁を弄したり、ちょっとどうかな?と思うこともある。けれど、本書は終始楽しそう。いちばんスッキリするプラトンだと思う。

*9/18後記
狂気に触れた者だけが物事の本質に辿り着けるという議論は、眼鏡っ娘論に対して極めて重要な示唆を与える。「眼鏡っ娘とは何か?」という問題に対して、ある程度は論理的に迫ることができても、一定の成果を上げたところで、必ず論理的なアプローチでは超えられない深淵が見えてくる。底の見えない深淵。この「深淵」を跳躍できるのは、「狂気」だけだ。俺に跳躍の勇気をくれ!

プラトン/藤沢令夫訳『パイドロス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『メノン』

【要約】「徳」は、「知恵」と「無知」の中間にある「正しい思わく」からももたらされるらしい。「思わく」なら神の恵みによって備わるかもしれない。そして本書の見どころは、「想起説」と「仮設法」。

【感想】「徳とは何か?」とか「徳は教えられうるか?」というテーマについて扱っている。『プロタゴラス』を引き継いだテーマと言える。まあ、いつもどおり消化不良ではある。とはいえ、『プロタゴラス』よりは生産的な方向に話が進んでいるような気はする。『プロタゴラス』では、結局のところ「徳」と「知」の関係は明らかにならなかった。本書でも相変わらず「徳とは何か」は分からないが、「知」でもなければ「無知」でもない中間であるところの「思わく」からも立派な行為がもたらされるという結論は出た。そしてそれは「知」でない以上は教えることができないものであり、神によって偶然に恵まれるものだ。

その結論とは直接関係なく、本書の見どころは論理的な手続きについて語られた「仮設法」と「想起説」にあるように思う。「仮設法」とは、蓋然的な命題を仮設して、そこから演繹的推論を重ねて出た結論を吟味し、仮設が正しかったかどうか確認するという手続きだ。しかしその手続きを重ねた結果、「徳とは知である」と「徳とは知でない」という仮設命題の両方が正しいことになってしまった。つまり仮設法は真の知へと至る確実な道ではなく、あくまでも便宜的な手続きに過ぎず、それはアンチノミーに陥ることが示唆される。これを解消するためには、仮設命題そのものの吟味が必要だ。つまり「徳とは知である」と言ったとき、「徳とは何か」と「知とは何か」が分かってなければ、本当の探求は始まらないということだ。

しかしそこで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」(80e)という詭弁にぶつかる。「徳とは何か」とは「知とは何か」などということについて、そもそも人は知りようがないのではないか?という疑問だ。我々はあらかじめ「徳」というものを分かっていなければ、「徳」について語りようがない。逆に、我々が「徳」について現実になにかしら語っているということは、我々はすでに「徳」というものを知っているはずだ。しかし改めて「徳とは何か」と聞いてみると、誰もそれを説明することができない。ソクラテスが求めているのは、我々があたかもあらかじめ知っているかのように「徳」というものを語っているが、どうしてそれを説明することができないのにあらかじめ知っているかのように語ることが可能なのか、その根拠だ。それは分析的な知でもなければ、アポステリオリな総合の知でもない。アプリオリな総合判断の根拠だ。プラトンはそれに対して「想起説」で応えた。生まれる前から「知っている」のだ。アプリオリに知っているのだ。我々は、だからあたかもあらかじめ知っているかのように語れるのだ。だがその根拠を説明できないのは、忘れているからだ。「学ぶ」というのは、その根拠を思い出すことだ。このように想起説をもちだすことで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」という詭弁をくつがえすことができる。アプリオリな総合判断とは「既に知っているにもかかわらず、その根拠を探求しなければならない」というものだ。

が、残念ながら、本書はアプリオリな総合判断の根拠を探求することへ向かうことはなかった。その解答は、『国家』を待たなくてはならない。

*9/18後記
このアプリオリな総合判断の根拠への探求は、眼鏡っ娘学の根本をなす動機でもある。我々はあたかも最初から「眼鏡っ娘」を知っているかのように、何らかのキャラを見て「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」などと判断している。だが、その判断の根拠を問われてみると、実は明確な言葉で定義して答えることができないという、困った事態に直面させられる。「単に眼鏡をかけている女のことを眼鏡っ娘と呼んでいいのかどうか」と問われれば、そんなに単純なもんじゃないと思う。「じゃあ誰が眼鏡っ娘なんだ」と問われれば、答えに窮するしかない。「知っているけれど説明できない」としか言えない。我々は確かに「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」と判断できるが、その判断の根拠を示すことはできない。これが「アプリオリな総合判断」というやつだ。「眼鏡っ娘とはなんだ?」という問いへの追究は、結局は「アプリオリな総合判断はどうして成立するか?」という人間の知への究極の問いを追究する行為と言える。そしてそれは、『饗宴』なり『パイドロス』で示されるように、「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介することで成立するようなものなのだろう。

あるいは「萌え」という概念に一般化してもよい。我々は「萌え~」などと言えるが、どうして萌えるかの根拠や、そもそも「萌えとは何か」について答えることはできない。どれだけ分析しても、誰も納得しない。それはそもそも分析的な知ではないからだ。あるいはどれだけ萌えキャラをたくさん提示しても、誰も納得しない。それはアポステリオリな総合判断ではないからだ。それはアプリオリな総合判断であり、その根拠を提示しない限り人を納得させる回答とはならない。ソクラテスが「勇気」や「節制」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断に満足できなかったように、人々は「萌え」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断には満足しない。ではアプリオリな総合判断の根拠はいかに示されるのか。それはまさにソクラテス自身が示したように、もはや「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介する形でしか示唆することはできない。だから小野寺浩二は正しい。彼こそ現代のソクラテスだ。賢者とも言う。

プラトン/藤沢令夫訳『メノン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」