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【要約と感想】揖斐高『頼山陽―詩魂と史眼』

【要約】江戸後期の詩人にして歴史家の頼山陽は、若い頃にはやりたい放題で親や師に迷惑と心配ばかりかけ、最後まで子どもっぽさが抜けませんでしたが、確かな批評眼や旅の経験を踏まえた地勢への洞察によって優れた漢詩を詠んで一目置かれるようになり、父親の遺稿集も立派に編集・出版し、母親にも旅行をプレゼントするなど孝行を尽くします。また幕府公認の朱子学とは一味異なる「勢」と「機」の歴史哲学を土台に武士の名分を正した『日本外史』は、紀伝体の手法で一つの出来事を多面的な観点から描くなどしてユニークな歴史書となり、幕末維新期の若者に圧倒的に歓迎されて売れに売れ、尊王の気勢を高める上で極めて大きな影響を与えました。

【感想】なぜか日本教育史の教科書ではほとんど取り上げられない人物だけど、明治期日本教育史をやっている身としては、どの学校のカリキュラムを見ても『日本外史』が採用されているのを見るにつけ、まずは通り一遍の知識は身につけておきたいと思いつつ、なかなか手に取る気が湧かずに後回しにしていたのが、初学者向けにとっつきやすい新書が出たのでさくっと読もうとしたところ、なかなかおもしろくて一気に読了してしまった。若い頃の無軌道ぶりとか、いつまでも子どもっぽいとか、我が道を行くスタイルとか、なかなかの芸術家タイプ。『日本外史』本文にもあたってみるか。『日本楽府』も、歴史に詳しいと面白く読めそう。ただ漢詩はある程度トレーニングしていないと無理だろうな。本書にも代表的な漢詩が出てくるけれども、韻の踏み方とか専門用語が分からないのであった。高校では教えてくれなかったので、自分で勉強しよう。

揖斐高『頼山陽―詩魂と史眼』岩波新書、2024年

【要約と感想】牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探求者』

【要約】田中耕太郎(1890-1974)の人物と事績については当時も現在も毀誉褒貶が激しく、仕事の領域も多岐に渡って全体像を見通しにくいことから評価が定まりにくいのですが、本書は「組織の独立」のために闘ったという観点から首尾一貫した姿勢を確認していきます。政治史的な資料だけでなく親族や友人たちの証言も立体的に使いながら人となりを浮き彫りにします。
 まず田中の考え方の土台として、生来のコスモポリタニズムを背景としたカトリック思想と自然法思想を押さえます。そして具体的な事績では、民法からの「商法」の独立、国家からの「大学」の独立、国家権力からの「教育行政」の独立、政治家や世間の雑音からの「司法」の独立、国連における「国際司法裁判所」の独立を見ていきます。どの場面においても困難な課題に直面しますが、雰囲気に流されずに言うべきことを言い、組織の独立を守る強い姿勢を示しました。

【感想】知らないことがたくさん書いてあって、とても勉強になった。幅広い領域に目を注いでいて、労作であることは間違いないと思う。個人的な研究でも引用していきたいと思う。
 で、理解した限りでの田中耕太郎の人となりについて、敵(特に共産主義)に対して容赦がないのはともかく、身内(と見なした相手)に対してそうとう甘いんではないかという疑いを持ってしまった。そういう身内に甘く敵に厳しい行動原理を高所から眺めると「弱い組織の独立に尽力した」と見える、ということなのかもしれない。確かに組織(特に立ち上げ直後の基盤が整っていない弱い組織)にとっては必要不可欠な人材ではあったのだろう。が、それだけで、特に感銘は受けない。ひょっとしたら、勉強がやたらとできたようだし、私には見えていない景色がこの人には見えていたのかもしれない。厄介な人なんじゃないかという個人的な印象は拭えないのだが、歴史的な評価についてはエポケーしておくのが無難なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】教育基本法
 教育畑の私の個人的な研究関心は、もちろん教育基本法制定に係わった文部大臣としての田中耕太郎だ。特に第一条「人格の完成」という文言に強くこだわったことは教科書にも掲載されるほどの常識で、「人格」概念史を深めようとしている私にとっては無視できないどころか超一級の研究対象だ。そんなわけで、教育に係わるテキストはサンプリングしておくのだった。

「局長就任時の田中独自の主張は、教育勅語の擁護であった。その自然法としての意義を認め家長的権威が学校教育でも必要だとしていた。田中は学生の個性の発揚と人格の完成を掲げながらも「個性の発揚は個人主義、アナーキズムの弊に陥らざるように警戒することを要し、人倫の大本、即ち自然法的道徳原理に依る限界を厳守すること」を主張していた。」139-140頁

 本書にも「鋭い批判を浴びる論点」と記されているし、田中自身も後に撤回する見解ではあるが、まあともかく現代的な水準からは唖然とする暴論である。というのは、仮に教育勅語に示されている個別の道徳的内容が自然法に噛み合っていたとしても、完全に「固有」で「特殊」である命令形式については自然法として理解できるものではないし、主体性・能動性が問題となる道徳性について考える場合は「形式」についての洞察が決定的に重要な論点になる。田中の間違いは、形式に対して完全に目を覆っている点にある。しかし田中個人の資質に問題を還元してしまうのではなく、実は戦後直後の多くの知識人(自由主義者を含む)に共通する常識的な態度であったことは押さえておく必要がある。

「田中は一月三〇日に文相を辞任しているため、一月三〇日までの案が田中が直接検討作業に関わったものである。その影響は、とりわけ前文と、一月一五日案の「政治的又は官僚的支配」からの「独立」、「人格の完成」という条文の文言にある。(中略)
 一月七日に初めて作成された前文案は、「教育基本法前文案(大臣訂正の分)」いう表題の括弧部分が示すように、田中が手を加えたものだろうが、特に以下の第一段落は、「人格の完成」という言葉を入れるべきという田中の強い主張が反映されていた。
 教育は、真理の尊重と人格の完成とを目標として行わなければならない。しかるに従来、わが国の教育は、や〃もすればこの目標を見失い、卑近なる功利主義に堕し、とくに道徳教育は形式化し、科学的精神は歪曲せられ、かくして教育と教育者とはその固有の権威と自主性とを喪失するに至った。この事態に対処するためには、従来の教育を根本的に刷新しなければならない。」154-155頁

 教育学の基本中の基本の知識である。

「このうち第一段落部分は削除され、第二段落部分について以後検討が続けられ、結局一月三〇日案で第一条の冒頭は、「教育は、人格の完成をめざし」となり、それが成案となる。田中が辞任する直前の修正が、田中の意図する文言への変更となっていた。
 田中の強調する「人格の完成」は、一九三六年のパリ訪問時に意見交換をしていたカトリックの哲学者ジャック・マリタンの人格概念を基礎にしていた。マリタンは個別性や個人とは異なり、人格は神への信仰を通じて全体性を希求し、それによって完成に至るととらえていた(『人権と自然法』)。
 もっとも法案制定後、文部省が発した訓令では、「人格の完成とは、個人の価値と尊厳との認識に基き、人間のあらゆる能力を、できるかぎり、しかも調和的にせしめることである」と定義している(『教育基本法の解説』)。田中自身、文部省によるこの定義は、自身の見解とは異なると断っている。文言は残ったものの、その構想は修正されていた。」156頁

 専門的にもうちょっと詳しく言うと、「人格の完成」という文言は「人間性の発達」という文言を主張する立場から批判されている。「人間性」とは弱さや脆さも含めた現実の人間の価値と尊厳をイメージする言葉だが、それに対して「人格」とは神の完全性を踏まえた言葉である。どちらを採用するかで、教育が目指すべき方向性はかなり変わってくる。田中はカトリック信者らしく「人格」を前面に打ち出したわけだが、ここにマリタンの見解が関わってくる。マリタンは「人格」は普遍的だが「人間性」は特殊的だという区別をした。田中は明らかに普遍性を打ち出す意図をもって「人間性」を切り捨てて「人格」という言葉を持ってきている。そして後の文部省の定義はむしろ「人間性」に寄せた形になっているので、田中にとって「自分の見解とは異なる」のも当然ということになる。
 現在の学習指導要領等に記されている「人格」には、もちろんカトリックの思想は反映していない。そして「新しい学力」を打ち出す文部官僚たちが使う「人格」は、大正教養主義の意味すら持たない。現在の「人格」という言葉は、論者にとって何かしら都合の良い中身を自由に詰め込めるような、単なる空箱として機能している。そういう状況だからこそ、改めて田中耕太郎の立法意志に立ち返る意味があるのだろうと思う。

牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探求者』中公新書、2022年

【要約と感想】河合敦『吉田松陰と久坂玄瑞』

【要約】吉田松陰の人となりが、松下村塾の塾生たちに大きな影響を与えました。

【感想】幕末維新期をどう見るかというとき、いくつかの立場があって、まず会津藩や新選組に感情移入するような佐幕派があり、もう一方に坂本龍馬や高杉晋作のような進取の無頼派に感情移入する立場がある。吉田松陰や久坂玄瑞に惹かれるのは、比較的マイナーな立場なのかなと思い込んでいるが、いかがか。ちなみに私はさらにマイナーで、佐久間象山とか横井小楠とか橋本左内のような学者に関心を持つタイプであり、そういう意味で吉田松陰も気になる人物だ。

本書はオーソドックスに書簡などの一次資料を交えながら、松陰と玄瑞の人となりを淡々と描いていく。極端な私見を交えることがなく、安心して読める本ではある。逆に言えば、それ以上でもそれ以下でもないといったところか。
学問的には、松陰の業績は明治以降に必要以上に盛られているとする見解もあったりして、評価はなかなか難しい。まあ、信長などと並んで、日本人離れした、他に類を見ない、得がたいキャラクター(後に作られたとしても)であることは間違いないところではある。今後もある種の教師の模範としてもてはやされ続けるのだろう。

【メモ】
松陰が獄中から妹に出した手紙の中に、次の一節がある。

「およそ人は、天地の正しき気を得て形を拵へ、天地の正しき理を得て心を拵へたるものなれば」

朱子学の理気二元論を土台として、「理/気」=「心/形」という二項対立を示している。この儒教的な心身二元論の射程距離が、かねてから気になっている。松陰が胎教を語るときに言及していたことは、記憶しておきたい。

河合敦『吉田松陰と久坂玄瑞―高杉晋作、伊藤博文、山県有朋らを輩出した松下村塾の秘密』幻冬舎新書、2014年

【要約と感想】藤原辰史『給食の歴史』

【要約】給食について、貧困・災害・運動・教育・世界史の5つの観点から多角的に考えることで、給食の歴史と思想の実相を捉えます。すると、給食とは「境界」にあるものだということが分かります。給食を通じて、日本や世界の姿がはっきりと見えてきます。

【感想】事前の予想に反して(と言ったら失礼で恐縮だけれども)、非常に情報量が多いにも関わらず論理的に明快で、読み応えがあって、勉強になり、様々なインスピレーションを与えてくれる本だった。おもしろかった。意表を突かれるような記述も多かったが、それだけ私の視野が狭かったということだ。目から鱗が何枚か落ちた。

本書の論理的な柱である5つの観点それぞれがいずれも重要な論点を提出している。たとえば「貧困」に関しては、私も個人的に地域の「子ども食堂」に少し噛んでいるわけだが、貧困対策の本丸は給食にあるという本書の記述には、激しく納得する。表面上はどれだけ「飽食」を叫ぼうとも、貧困は見えないところに確実に存在する。現在は、ますます貧困の実相が見えにくくなっている。その貧困を掬い上げるのが福祉の仕事のはずだ。ところが小さな子ども食堂ですら「教育/福祉」の境界をどう調整するかで悩ましい問題がたくさん生じているなか、給食ではさらに大変な問題に直面しているであろうことは想像に難くない。その問題を解くには、おそらく「教育/福祉」を一体化した理念を提出できるかどうかがポイントになるのだろう。やはり児童の権利条約の精神が鍵を握っている気はする。

そして「教育」に関しては、大学で栄養教諭養成に関わっていることもあって、多少は勉強して知っているつもりではあったものの、改めてその重要性を認識し直した。授業では学生に対して「食育基本法」の精神だとか「教科等横断的な視点」における食育指導について話をしているわけだが、やはりまずは給食に関する根本的な理念を土台に据えることが決定的に重要なのだと感じた。表面上の条文やカリキュラム規定を暗記しても、土台となる精神を理解していなければ、何の意味もない。
また、教育学者が給食に対して関心を持ってこなかったという告発には、頭が下がる思いがした。確かに教育学の世界では「学力」に関する論争は盛んに行なわれる一方で、「食」に関しては周辺的な領域に追いやられがちなのだ。単に「食」を学習の題材にするという意識では、おそらくいつまでも周辺的な要素に留まり続ける。既存の常識に固執するのではなく、「生活」という広い観点から本質的に発想を組み換える論理が必要とされているように思った。

また「世界史」に関して、アメリカの影響と新自由主義の波がこれほどダイレクトに給食に表れていることは、言われてみればナルホドではあるが、普段はさほど気にしないところではあった。給食ほど日常生活の中に「世界史」が組み込まれている例は、確かにあまりないかもしれない。一点突破全面展開の材料として、給食がこれほど実り豊かな成果を出し得るポテンシャルを持っていたものだったとは、不覚にも認識していなかった。著者の着眼点の鋭さと、着実な成果を挙げる研究手法の確かさには、かなり感じ入った。いい本だった。
個人的には「遅刻しそうになって食パンを加えながら学校へ急ぐ」という戯画的なエピソードが極めてアメリカ的な心性の反映であり、象徴であるという仮説を持っていたわけだが、本著の成果と研究スタイルは私の仮説を裏付けるのに何かしらの意味を持っているように感じた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
教育という営みが本質的に抱え込むアポリアに対して誠実に向き合っている本は、実はそんなに多くないだろうと思った。だいたいは、アポリアを抱え続ける不安定な緊張に耐えられず、どちらか一方の立場から論を進めてしまうものだ。以下の記述は、なかなか感慨深く読んだ。

「給食は、国家に依存しない自立した人間をつくる、という考えは、当然、冷戦体制が急速に構築されていくなかで生じたものであるが、それ以上に、給食とは何かを根源的に問うものだ。なぜなら、学校とは社会の力で子どもを守るところであるとともに、一人の自立した人間として育てるところでもあり、厳守すべき社会のルールを学ばせつつ自己の独創性を育てなければならない、という、決して簡単には調和しない課題を引き受けており、日本の給食はまさにその教育の二面性の象徴だからである。」(123頁)

教育を仕事にするということは、この本質的なアポリアをアポリアとして断念したまま、それでも前に進む意志を持ちつづけるということだ。すぱっと割り切れないモヤモヤしたものをいつまでも抱え続ける勇気と根性が必要なのだ。いやはや。
本書が示した「境界」という言葉は、どちらか一方に倒れ込むことなく緊張感を保つための、よい戒めの言葉だと思った。境界に立っていることを自覚できれば、軽率に一方に決め込む愚を避けられる。

藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年

【要約と感想】芳賀登『成人式と通過儀礼』

【要約】昔は、大人になるのは大変だったんだぞ。

【感想】教育勅語が一時期話題になったとき。これがあたかも日本の伝統的道徳かのように主張する人もいたけれど。こういう民俗学の本を読むと、実際には教育勅語が日本の伝統的習俗の否定の上に成立していたものだということが分かる。

本書は、「成人式」や「成女式」を中心に、日本において「大人になる」ということが、かつてどういうことだったかを明らかにしようとしている。そして「若者組」や「娘組」の実践を振り返り、村落共同体全体での「しつけ」の重要性を強調している。この村落共同体全体での「しつけ」が、明治政府による一連の政策によって失われていったことを、丁寧に示していく。盆踊りや若者組の禁止など、自然村から行政村への転換の過程で失われた伝統は数知れない。
(1945年の断絶を強調する人々がいるけれど、それは1868年の破壊的な断絶に意識的であった時に初めて説得力を持つはずだ。教育勅語は日本の伝統的な姿を引き継いではいない。それが儒教的価値を近代的価値で装った「明治」という特殊的な時代状況において一定の役割を果たしたことは間違いないだろうが。)

しかし本書は同時に、前近代の習俗が示す非人間的な残虐性に対する戸惑いを隠していない。特に女性を奴隷のように扱う伝統的習俗は、修正されて良かったと言う。近代を評価するのか、それとも批判するのか、著者の立場は一貫せず、最後まで価値判断は揺れている。

したがって、同じ話が何度も執拗に繰り返されたり、話題が飛躍したり、行論がブレまくって、立場が一定しない。しかし論理的な破綻は、一つの判断基準では裁断できない主題に対する著書の誠実さの現れなのかもしれない。

芳賀登『成人式と通過儀礼―その民俗と歴史』雄山閣、1991年