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【要約と感想】安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』

【要約】文部科学省の学習指導要領改訂は、知識(コンテンツ)を与えるのではなく、能力(コンピテンシー)を育成することを目指しています。しかし、教育の本質である「人格の完成」をおろそかにした改革なので、失敗するのではないかと危惧します。現状肯定的に社会に適応して貢献する人材育成では、必ず限界が来ます。地球と人類の未来を見すえて、人格形成を土台とした教育を目指すべきです。

【感想】近年には珍しい、極めて「教育学的」な本であるように思った。とても、いい。感動した。

いま巷に溢れているのは、教育をただの手段として考えるような「教授術」の本ばかりだ。21世紀型スキルにせよ、キー・コンピテンシーにせよ、「生きる力」にせよ、「カリキュラム・マネジメント」にせよ、その議論の過程に教育学固有の領域というものはまったく必要とされていない。教育に期待されているのは経済的な発展に貢献する人材育成のための「効率的な手段」である。それは教育学と呼ぶのに相応しくなく、本来は「教授学」と呼ぶべきものだ(ちなみに、教授学は教授学としての存在意義があり、必要な学問ではある)。

本書は、そんな世界の趨勢に敢然と立ち向かう。教育の目的としての「人格の完成」、人格の定義、私教育と公教育の役割の明瞭な区別、公教育の役割限定、そのうえでの学力向上への取組み、近代と現代の区別、現代的な課題の自覚に立った教育の変化という、極めて真っ当な議論が展開される。そんな極めて真っ当な教育学的議論が、世界全体の怒濤のような授業改革の大波の前では、あたかもドン・キホーテのように見えてしまうという恐ろしい21世紀。いま、世界全体の授業改革の趨勢は、「人格」そのものをフルに経済活動に動員するべく、人格を測定し評価し改造する手段を手に入れようと全力を傾注しているのであった。

2014年4月に公表された文部科学省「論点整理」を読むと、一部の委員が何度も何度も「人格の完成」の重要性を個人的意見として訴えながら、世界的な授業改善の動向の渦を前に、無視され続ける姿を確認することができる。おそらく、会議の中で繰り返し「人格の完成」の重要性を訴え続けた委員は、安彦氏だったのだろう。氏は、この有識者会議の座長を務めていた。彼の無念さは、もちろんあからさまに書かれることはないのだが、本書の記述の端々に滲んでいる。

しかし、教育課程に関する安彦氏の著作はいくつか読んでいたはずなのに、氏がここまで真っ当な「教育学」者であったことを認識していなかったことが恥ずかしい(教授学者だと思い込んでいた)。これからは私も微力ながら、教育における「人格の完成」の重要性を訴えていきたい。手始めに、本書を来年の授業の教科書にでも指定するんですかね?

安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年

【要約と感想】木村元『学校の戦後史』

【要約】近代の学校制度は、必然的に矛盾や制約を抱え込みます。というのは、近代学校は、いったん生活の場から子どもを引き剥がして、学校という特別な場所に子どもを隔離し、そしてもう一度生活の場に戻すという特殊な人づくりを担っているからです。特殊日本的な学校は、高度成長期まで矛盾を抱えながらも産業化という時代の要請に対応してきましたが、産業化が一段落した1980年代からは矛盾が表立って目につくようになります。「平等」から「選択」へと価値観が急速に変化しつつある現代では、学校の存在意義や教職の専門性に対して多方面から疑問が持たれています。新たな課題への対応のために学校の土台を再構築することが求められています。

【感想】「近代」という時代の賞味期限が切れつつあり、それに伴って学校の存在意義が低下していくという歴史観は、研究者の間では広く共有されていると思われる。いわゆる「学力低下」に対しても、賛成にせよ反対にせよ、その文脈で把握する論者が多い。本書のユニークさは、近代終焉の視点に加えて「日本の学校」の特殊性を重視した記述にある。一般的な近代とは異なり、日本には特殊日本的な近代の在り方がある。特殊日本的な学校の在り方は集団を重んじる学級経営という形で戦前から形成され、また特殊日本的な教師は単に知識を伝授する職人ではなく人格形成に携わる立派な人間性を具えた人物として理解されてきた。しかし高度経済成長までは機能した近代学校および特殊日本的学校は、ポスト産業化社会を迎えるに当たって機能不全を起こしたと見なされ、構造改革の対象となる。
本書は「近代における学校の機能」という論理的視点に目を配りつつ、さらに「特殊日本的近代における学校の機能」という具体的視点を加えることにより、現代学校の立ち位置と抱え込んだ課題を浮き彫りにしてくれる。これからの学校や教育をどうするのかを考えるための、確かな議論の土台となる知識や視点を、コンパクトに与えてくれる。逆に言えば、本書に書かれている内容を踏まえない学校論や教育論は、地に足のつかない空理空論に終わる可能性が高い。学校や教育を語る際の必須教養として広く読まれて欲しい本。

木村元『学校の戦後史』岩波新書、2015年

【要約と感想】山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』

【要約】「学力低下」とは単に学校の中だけの問題ではありません。論争の本質は、これからどのような社会システムを選択していくかという世界観の問題です。身分原理から業績原理への転換という近代の原則を信じて機会均等を主張し、均質な教育サービスが多くの人に行き渡る世界を目指すのか。それとも資産の差や能力の差を認め、身分原理へともう一度先祖返りするのか。競争から降りる子どもたちが増え続ける現状を見る限り、もはや公教育の退勢を止めることはできず、新自由主義的な学校選択へと進むことが予想されます。

【感想】二人の著者、山内氏と原氏とで、言っていることはかなり違う。山内氏は「学力低下」の問題を、「近代の終わりの始まり」という社会転換の文脈から広く読み取り、社会システム選択の問題として把握する。大雑把に言えば、近代の賞味期限が切れるという歴史認識では、佐藤学氏などと認識を同じくしている。ただ、解決策の提示に関しては、やや悲観的に、学校の歴史的使命は一定程度終わったように見ているように感じる。
一方、原氏は、「ゆとり教育」とか、さらには「個性」という概念に対する敵意を隠さない。2000年代前半に子どもたちが起こした事件や、ニートや引きこもりなどの原因を、「ゆとり」や「個性」という言葉に結びつけていく。そういう教育観であること自体は問題ないとしても、率直にいえば、相関関係と因果関係がしっかり区別されておらず、「個性」に関する原理的・歴史的な考察も欠けており、少々軽率な物言いが目につくように感じた。

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年

【要約と感想】佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』

【要約】「学力低下」を大袈裟に嘆く前に、まず問題の所在を正確に認識することが大事です。本当の問題は、「圧縮した近代」を経て日本の近代が頂点に達し、勉強の見返りが得られないことから「学力神話」が崩壊し、子供たちが学びから逃走しているところにあります。「学びからの逃走」のほうが、「学力低下」よりも深刻な問題です。状況を変えるには、「勉強」から「学び」へと転換しなければなりません。

【感想】大雑把な歴史観から本書を見れば、近代化=産業主義の過程が終わって「成熟した近代=ポスト産業主義社会」に突入することで、近代化の推進力として機能していた学校の役割が終わるという議論の一種のように思える。本書のユニークなところは、「圧縮した近代」では有効だった「東アジア型の教育」が現代では賞味期限切れを起こしているという見立てを、「学力という通貨の暴落」として表現したところだ。「学力」が3つの観点(同一尺度の評価基準、受験や労働市場における交換手段、投資の対象となる貯蓄手段)から「貨幣」と似ているという指摘は、なるほどと思った。「圧縮した近代」では問題なく流通していた貨幣としての「学力」が、現代では評価基準としても交換手段としても機能しなくなり、誰も貯蓄の対象として期待しなくなったというストーリーは、「学力低下」や「意欲低下」の説明として、うまくできているように思う。さすがだなあ。

具体的な対策としては、著者は「勉強/学び」を二項対立的に理解した上で、東アジア型教育の「勉強」から「学び」への転換を提唱し、「学びの共同体」という概念を提出している。そして「学び」を支援するために、少人数学級の実現や教科書の充実、「評価」の廃止や高校入試の廃止を提言する。大学人に対する苦言には、背筋が伸びる。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年

【要約と感想】苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』

【要約】しっかり実態調査を行ってみたところ、子どもの学力が低下傾向にあることがわかりましたが、それよりも本質的な問題は、格差の拡大です。家庭環境による格差は、小学校段階から始まっており、学習成果や学習行動だけではなく、学習意欲にまで深刻な影響を与えています。問題の本質は「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」にあります。

【感想】客観的な調査によって学力が「ふたコブらくだ」化したことを示したところは、引用しがいがある。そして同時に、学力に関する本質的な問題が「格差拡大」にあることを具体的なデータを基に客観的に示した点で、ゆとりに賛成にせよ反対にせよ、様々な議論のマイルストーンとなった本とも言える。実際、学力低下論争の過程で、苅谷氏の議論は広く引用され、文部科学省の方針転換にも大きな影響を与えたように思われる。

とはいえ、本当の勝負はここから始まるとも言える。実際に学力が低下し、格差が拡大したことが事実だとしても、どうしてそういう傾向が生じたかについては、様々なストーリーを描くことが可能だ。文部科学省のゆとり的施策が学力低下の原因であるかどうかは、自明ではない。学力低下という実態が先にあり、ゆとり教育はその実態に対する現実的対応だったのかもしれない。客観的なデータだけでは、相関関係を捉えることはできても、因果関係を特定するには至らない。学校の中だけ見るのではなく、もっと広く社会の変化を視野に入れることで、様々な説明様式が生まれてくることになるだろう。
「学力低下」論争は、様々な世界観を背景に複雑な要素が絡み、多様なアプローチが可能だ。逆に言えば、様々な思惑を込めて参入できる分野でもあって、なかなか厄介ではある。本書はその点には禁欲的で、学力低下という実態を客観的に捉え、それを克服する学校教育の在り方を示唆するところまでに仕事を限っている。そしてそういう意味で、様々な議論の起点として機能することになった。

ちなみに、学力の「ふたコブらくだ」化は、本書が示すよりも前、1990年前後には教育関係者の間で知られていた可能性が高いような気がする。というのは、1988年~1991年、私は岡崎高校に在籍する高校生として進路指導を受けているわけだが、学年集会等で示された偏差値グラフは既に明瞭に「ふたコブらくだ」化しており、進路指導担当教諭もこの二極化傾向が全国的に観測され始めたことに注意を促していたからだ。そしてこの二極化現象は、本書で提示されたシェーマで説明することはできない。なぜなら、岡崎高校は愛知県下有数の進学校であり、家庭間格差は相対的にかなり小さいと考えられるからである。そして岡崎高校内における下層は、他の学校では上層に当たるはずだ。全体的に高い学力集団を選抜した上で、その集団内でも二極化が発生してしまうことは、苅谷シェーマでは説明がつかない。(ちなみに1972年生まれの私は、1977年度版学習指導要領による小学校課程を過ごした、最初のゆとり世代である。)
当時高校生だった私は、学力の「ふたコブらくだ」化の理由について、わざわざ電車通学までして広域から集まってくる学生(相対的に意欲が高い)と、岡崎市内から自転車通学する比較的狭い地域を出自とする学生(相対的に意欲が低い)との落差が生じたものと理解していた。調べたわけではないから、本当のところは分からない。が、電車通学していた私自身としては、高いコスト(金のみならず時間や労力も)をかけてまで通っているのだから、これで見返りが与えられなければ馬鹿馬鹿しいという思いは、確かにあった。他の電車通学組がどう考えていたかは分からない。

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年