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【要約と感想】『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』

【要約】下田歌子は戦前の女子教育に極めて大きな貢献をしたにも関わらず、戦後の教育史研究では保守的な良妻賢母主義論者とみなされ、まともな研究対象とならずに忘れられた存在となっていました。しかし近年の歴史研究の成果に基づいて改めて検討してみると、単に保守反動だったわけではなく、近代的な観点から女性の地位向上を目指した良妻賢母主義を掲げていたことが明らかになります。女子教育への貢献と良妻賢母主義の内実を改めて精査することを通じて下田歌子の実像を多面的に明らかにすることを目指したアンソロジーです。

【感想】お城探訪が好きなもので、日本三大山城である岩村城にも14年前に訪れているのだが、城の麓に岩村町偉人十傑として下田歌子を顕彰する石碑と銅像があったことをよく覚えている。アカデミズムは下田歌子を黙殺したけれど、地元はしっかり覚えているのだった。
 そしてご多分に漏れず私も下田歌子については百科事典的な知識と例のゴシップに基づいた先入観しか持っていなかったので、本書はたいへんな勉強になった。おもしろく読んだ。現実主義的な漸進論で足元を固めながら女性の地位を着実に上げていったという印象だ。ラディカルな改革主義者からすれば鼻持ちならない日和見主義ということにもなるのだろうが、現実を変えていくのはこういう実力者なのだろう。見直した。

【個人的な研究のための備忘録】職業婦人
 渡邊辰五郎の研究を進めている関係で、女性の職業的自立に関する記述にはアンテナを張っている。

「良妻賢母主義で知られている下田だが、「女子の教育」にはむしろ、どのような教育によって女子がどのような仕事に就くことが可能になるのかに関心を寄せている様子がうかがえる。」142頁:志渡岡理恵「自立自営への道―『泰西婦女風俗』とイギリスの女子教育

「下田は女性の自立のために手芸教育を推進しようとした。手芸は必ずしも「女らしく」なるためのものではなく、女性たちが近代社会を生き抜く技能として身に着けることを推奨したのである。」229頁
「多くの手芸家たちと同様に下田が最も重視したものは、「裁縫」である。」234頁
「実際に女子教育者として下田が活躍する時代には、紡績も機織も女学生の日常では必要とはされていなかった。「手芸」の内容の変化は下田にとってある種の危機感となり、女性たちが手仕事の技能を失っていくことを憂う文章を残している。」241頁:山崎明子「下田歌子の手芸論―「手芸」による女子の自立を目指して」

 下田歌子が女子教育における裁縫を、単なる嫁入修行としてではなく、生活費を稼ぐ手段として考えていたということ、つまり良妻賢母主義とは異なる「自立のための裁縫教育」が、渡邊辰五郎の専売特許ではなく、女子教育における潮流として存在していたことは頭の片隅に置いておきたい。上流や新中間層では良妻賢母主義が主流だったとしても、中下層においては(あるいは上流や新中間層においても)ただの観念に過ぎなかったのだろう。女性の自立について、観念的な言説レベルではなく、実態として捉える観点と手法が切実に必要だが、これが難しい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」という言葉も連発されていた。本書の主題とはまったく関係のないところだが、極めて興味深い記述なのでサンプリングしておく。

「そして「賢母良妻主義」に対抗する考えとして、たとえば「人格主義」という考えがあると述べる。この「人格主義」は、「人が人として立ち得る為には、立派なる人格を持つて居らなければならぬ。立派なる人格を備へた人を、男なら紳士と云ひ、女ならば淑女と云ふのである。さすれば、賢母良妻などゝ云ふ狭い事を目的とせずに、夫人として立派なる人格を養成しさへすれば、其の立派な人格を備へた婦人が、社会に立てば立派な淑女と仰がれ、家庭に入れば賢母良妻と称せらるゝのである」と主張するものであるが、下田はこれに対しても、「倫理学の根本原理から出た説で、如何にも広く行き亘つて居る」と、基本的には是としながらも、「実地の上に当てはめると、存外実際の役に立たぬやうな事がありますまいか」と、その内容が具体性に欠けることに厳しい評価を下し(以下略)」220-221頁
「下田は単なる国家主義的イデオロギーとして「賢母良妻」を説いていたわけではない。「人格が十分出来た、気高い立派な人」を育成したい、しかしそうなれと説いたところで、年若い子どもたちは、具体的にどのような人物になればよいかがわからない。だからこそ「賢母」あるいは「良妻」という具体的目標を設定し、それを達成することで、結果的に「人格が十分出来た、気高い立派な人」となることをめざしていたのである。」221頁:伊藤由希子「下田歌子・女子教育の思想可能性」

「このように、下田は賢母良妻主義を「社会の当面の必要から割り出した説」と捉えて、その狭さを指摘し、抽象的で実践性に乏しい人格主義の方がより「包容的」であると認める。その上で、賢母良妻主義と人格主義は、どちらも「完全なる国民としての布陣を作ると云ふ主義と、一致することができるであらう」と述べ、「完全なる国民としての婦人」の育成という観点から、良妻賢母主義と人格主義の折衷・統合を図ろうとするのである。」323頁:広井多鶴子「下田歌子を捉えなおす」

 「人格」という言葉が哲学的・文学的・教育学的には出てこない文脈で使用されており、非常に興味深い。まあ、形式としての人格主義・内容としての良妻賢母主義、といったところだろうが、どちらかが間違っているのではなく、形式と内容が止揚されたところに現実の女子教育がある、ということだろう。この形式と内容の止揚は、教育基本法を制定した田中耕太郎に影響を与えたジャック・マリタンにおいては「形式としての人格・内容としての個性」という表現を与えられるが、下田歌子は実質的には同じことを言っている。
 ただしこういう理解や表現は、「人格」という言葉の中身を少しずつズラしていく背景ともなる。本来の「人格」という言葉は、具体的な姿を与えられることを通じて、意味を変えて(あるいは豊かにして)いったのだろう。

実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』勁草書房、2021年

【要約と感想】ジャック・アタリ『教育の超・人類史』

【要約】人類は長い間学校ではなく家庭や職場を通じて知識を伝達してきましたが、500年前の印刷術普及と宗教改革によって知識が社会に広がり始め、120年ほど前から学校による知識伝達が当たり前になりました。
 しかし過去の教訓から考えれば、教育によって社会を改善できると考えるのは幻想に過ぎず、さらに現在はテクノロジーの発達によって急速に状況が変わりつつあり、根本的に考え方を改めないと人類は滅びるでしょう。

【感想】著者出身のフランスの事情だけやたら解像度が高く、他の地域についてはスカスカだというツッコミは置いておいて。まずは女性に対する教育と子どもに対する虐待について全時代・全地域に渡って丁寧に目配りしているのは、ものすごく感心した。素晴らしい。逆に、従来の教育通史がこの問題にいかに無関心だったかが浮かび上がる。
 また、過去の教育から引き出される教訓については、教育学を専攻する者からすれば苦々しい話ではあるが、なるほどと思わざるを得ない。理想的な教育を行ったからといって、理想的な社会になるわけではない。教育にはできないことがたくさんある。
 勢い、悲観的なディストピアに説得力が出てくる。そして現実世界の動きを見ていると、悲しいことに、預言が当たりそうな雰囲気が漂っている。
 まあ私がいくら心配したところで現実は変わらないので、まずは自分にできることをできる範囲で丁寧にやっていくしかない。幸いなことに、著者が示す明るい未来の可能性に関わる仕事に、私も参加できそうではあるのだ。

【要確認事項】
 古代を持ち上げて中世を下げている。これは中世を暗黒時代と決めつける古臭い歴史観のようにも思えるが、大丈夫か。

ローマ時代の記述に続き「ところが、教育の普及はまもなく崩壊した(ただし、ユダヤ人社会は除く)。その後、世界で大衆の教育レベルがこの程度にまで回復するのには一五〇〇年以上を要した。」74頁

 一方、商業が発達したオランダやイタリアでは世俗的な教育が発達しているような記述がある。経済史や教育史の専門家はもうちょっと慎重な書き方をしているように思うが、ここまで断定的に言いきって大丈夫か。

「一〇世紀以降、フランドルの港町の商人や貴族は、「子供は純真な存在」と考えるようになり、子供の教育に熱心になった。なぜなら、読み書き算盤の能力を必要とする仕事が急増したからだ。(中略)仕事に忙しい商人は、自分たちの知らないこれらの知識を(将来の従業員に)教える学校を必要とした。つまり、聖職者がラテン語で祈りを唱える小教区学校の出番ではなくなったのだ。」107頁

 印刷術により知識普及の質と量が格段に上がったことはマクルーハン以来の常識ではある。が、中世の書物の価格が「家一軒分」というのはハスキンズが引用する史料に出てくるくらいだと思うのだが、何の根拠があって言っているのか。まあ中世の書物の価格について具体的に言及するものは少ないので、ありがたく参照させていただくが。

印刷術の登場によって「書物の価格は急落した。手書きの本の価格は家一軒分だったが、キケロの著作の印刷版の本の価格は、すぐに教授の一か月分の給料と同じくらいにまで下落した。」137頁

 私の理解では、デューイは『学校と社会』で「人格」という概念を前面に打ち出すような話をしていないが、著者は何を見てそう言っているのか。

「一八九九年、当時のリベラリズムに触発された心理学者ジョン・デューイは『学校と社会』を出版し、シカゴ大学内に実験学校を設立した。デューイの考える学校のおもな役割は、子供が「人格」を養うこと(完全な自己実現に導く習慣と美徳を身に付けること)だった。」300頁

【個人的な研究のための備忘録】学校教育
 教育史では常識に属するが、人類の長い歴史の中で学校教育という形式は例外的だ。常識が示されたテキストということで、いちおうサンプリングしておく。

「社会を機能させるのに必要な知識の伝達は、世界中で何千年もの間、一九世紀中頃までは、おもに学校抜きで、学校外で、さらには学校に反して行われてきた。学ぶ時期は子供時代であり、これは現在も変わらない。学びの場は一般的には家庭であったが、多くの子供が職場で学んでおり、女子は学ぶ機会を持たなかった。学びの場では虐待が横行していた。」19頁
「今日、われわれが「学校」と呼ぶ施設は、各種教会の神官や権力者に仕える高官の養成を除き、ほとんど何の役割も担っていなかった。」75頁

ジャック・アタリ/林昌宏訳『教育の超・人類史』大和書房、2024年

【要約と感想】北村陽子編著『職業教育とジェンダーの比較社会史』

【要約】比較教育社会史研究会のアンソロジーで、19世紀後半~第一次世界大戦の日本・ロシア・イギリス・ドイツにおける、女性と戦争障害者に対する職業教育と就労支援を対象としています。19世紀末の段階では、日本に限らず女性のキャリアとして考えられるものは学校(しかも初等段階)の教員くらいしかありませんでしたが、家庭重視の立場と労働力重視の立場の間で緊張が高まりつつありました。
 戦争障害者に対するケアと配慮は第一次世界大戦以降に喫緊の課題となり、各国で再教育と就労支援が模索され、現代の福祉行政に繋がっていきます。

【感想】研究対象となる時期については私の専門と同じくするが、地域と対象については盲点となっているものばかりで、たいへん勉強になった。というか、王道本流の教育学理論が見てこなかった、見えなかった、見ようとしなかった対象であって、ここを突き詰めていくことで「教育」という概念そのものが溶けていく。あるいは逆に、急激に発達する資本主義と国民主義(まとめると「近代」)に伴う包摂と排除のメカニズムの中で「教育」という概念の輪郭が引かれ、外部に押し出されたものが見えなくなったと考えるところか。
 ともかく、たまには自分の興味関心とは異なる領域の研究成果に触れなければいけないことは間違いないのだった。

北村陽子編著『職業教育とジェンダーの比較社会史―近現代における女性と戦争障害者の就労支援』昭和堂、2025年

【要約と感想】『跡見花蹊―女子教育の先駆者』

【要約】跡見花蹊(1840-1926)は天保期摂津に生まれて父の私塾を手伝いながら学問や絵画の腕を磨き、幕末動乱の京都で才能を開花させ、明治維新後に東京に移ってからは日本画家・書家としてだけではなく教育者として各方面で活躍し、女子教育の先駆者として知られています。女子教育理念としては、芸術を通じた婦徳の涵養を前面に打ち出す良妻賢母主義教育に力を入れる一方で、主婦の内職を奨励したり女性の職業的自立も打ち出しています。

【感想】落ち着いた筆致ながら迫力のある内容で、才能に恵まれた女性の一代記としてとてもおもしろく読んだ。出てくる固有名詞がことごとく一流どころばかりで、幕末から明治・大正にかけての日本の歴史の一幕を垣間見るような大河的展開だった。さすが、はいからさんが通った学校のモデルとなっているだけのことはある。

【個人的な研究のための備忘録】近代女子教育
 明治大正期の女子教育は、一般的には良妻賢母主義として家庭に入ることが前提とされ、女性の職業的経済的自立は重視されていなかったとされている。しかし本書では、女性の自立についての言及がある。

「花蹊は美術教育の必要を説き、外国に行った際に絵を理解できることも想定している。さらに、「内職」ということばを用いて、それを女性の経済的な力に結びつけることも主張する。上流の子女を迎えた跡見女学校であったが、大正時代に入り、ただ夫の懐を頼るばかりではなく、嫁入り道具程度に少し嗜むのでもなく、本気で取り組むことを説き、話は世界に売ることにまで及び。「本職」という言葉を用いるが、単なる趣味に終わらせるのではなく、本腰を入れて妻の経済力につながることを期待している。大正という時代に、回顧を中心とする文章の中で、花蹊が美術をもって女性たちの「自立」を奨励しているのは興味深い。」129頁

 さて、この記述を額面通りに花蹊の教育理念の本質として受け取るか、あるいは大正デモクラシーの勢いが醸成した日本全体の空気として理解するか、今のところ判断は留保しておきたい。

【個人的な研究のための備忘録】跡見玉枝
 それから、花蹊の従姉妹である跡見玉枝にも注目しておきたいと思った。岡倉天心とフェノロサが京都で行った講演を聞き、すぐさま天心に面会して推薦状をもらい上京する行動力。就職先が共立女子職業学校(渡辺辰五郎が創立者の一人)というところで、辰五郎との接触もあったかどうか。

泉雅博・植田恭代・大塚博著『跡見花蹊―女子教育の先駆者』ミネルヴァ書房、2018年

【紹介と感想】沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』

【紹介】近世から近現代まで、教育史に関わる人物の簡単なプロフィールと思想を簡潔に紹介しています。それぞれその道の専門家が書いており、簡にして要を得た内容となっています。人物とその仕事を通じて、その時代の教育の特徴や課題も分かるようになっています。

【感想】教員採用試験に出てこないような人物も扱っているけれど、教職課程の学部生レベルでも読んでおいて損はないでしょう。近現代に厚い代わりに、菅原道真や世阿弥のような古代・中世の人物を扱っていなかったり、近世でも池田光政やシーボルト、近代では高嶺秀夫や井上毅が落選していることを云々しようと思えばできるのだろうが、そういう人選に教育観が具体的に出てくるもので、本書の在り方にはナルホドの説得力を感じている。天野貞祐、林竹二あたりを語ることで埋まってくるものはけっこう大きい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 倉橋惣三に関して言質を得た。こういう予定になかった出会いが生じるので、概説書は定期的に読んでおく必要がある。本書は倉橋が1919年から欧米留学に赴き、米国進歩派教育に学んだことに触れ、以下の文章を引用する。

「フレーベルの説は哲学的な人格本位教育であつて、従つて其の社会生活観も、個人の人格を完全なものとして、その個人が集まつて一つのよき社会を創るというのでありました。処が、現今は、非常に社会的生活を主体とする傾向になりまして、従つて教育も、個人的よりは一層社会的に考へねばならなくなつてまゐりました。……ミスヒル、及びキルバトリツク教授二人は、此の考へに基いて、社会的教育主義を幼稚園に実現さす事に力を尽したのでります。即ち、一般教育の原理なる社会生活を主体とした教育目的を幼稚園の日々の保育の実際に取り入れる事に尽力したのであります。(『幼児教育』22-10・11、1922年)

 これを踏まえて本文はこうなっている。

「アメリカにおいて倉橋が学んだもの、それは個人の人格の完成を目指す従来の「人格本位教育」から、社会的場面の学習を通じて、社会的性格や態度の形成を目指す「社会的教育主義」への大きな転換であり、それこそ複雑化し変動する社会に適応しつつ、主体的に生きるために必要な教育であるということであった。」200-201頁

 ところで私の理解では、「個人の人格の完成を目指す教育」はようやく1890年代以降に始まる。1880年代の「開発主義」は、徹底的に自然科学および能力心理学に基づく発想で組み立てられていた。だから倉橋が1922年段階で「従来の」と言っていても、それはしょせん20~30年の浅い歴史しか持たないものだ。そしていわゆる「社会的教育学」は日露戦争の後にヘルバルト主義に代わってナトルプ等の受容から勃興している(アメリカではなく)はずで、1922年段階では一周遅れだ。むしろ「個人の人格の完成を目指す教育」はグリーンを経由した新カント主義(ナトルプでない方)の受容を通じて「大正教養主義」として盛り上がっているはずで、1922年時点でことさら「人格の完成を目指す教育」を否定して「社会的教育」を称揚する姿勢には何かしらの意図を感じざるを得ないが、どんなもんか。

■沖田行司編著『人物で見る日本の教育 第2版』ミネルヴァ書房、2015年