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【要約と感想】スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』

【要約】スピノザの初期の思想を垣間見ることができる論文ですが、生前に出版されることなく、全貌が明らかになったのも19世紀以降です。
 神の存在や実体と属性、様態と変状、コナトゥス、必然性、能産的自然・所産的自然、人間の情念の分析、認識の類型、人間の自由などに関する考え方にはすでに『エチカ』と同じものが見られ、しばしば主著『エチカ』のプロトタイプともみなされます。
 一方、神の存在と定義の順序、悪魔への言及、神とシンクロする際の神秘的表現など、要所要所で『エチカ』と異なっているところもあります。

【感想】いきなり神の存在証明から始まるが、本書の最終的な目的はタイトルにあるように「人間の幸福」の条件と方法を明らかにすることで、その意図は『エチカ』まで一貫している。そういう執筆意図を踏まえると、個人的な印象では、スピノザの思想は何か新しいものを示しているというよりは、デカルト、あるいは中世スコラ学よりも古代哲学の原点に還っているように見える。というのは、古代ギリシア哲学やヘレニズム哲学は徹底して「人間の幸福」の条件と方法を考察したが、その哲学の伝統はキリスト教によって断ち切られる。キリスト教にあっては、人間に浄福をもたらすのは人間自身の認識や努力ではなく、神の恩恵である。ルネサンス・人文学によって古代哲学が復興した際も、確かに世界の真理や道徳性についての関心は盛り上がったものの、「人間の幸福」という古代哲学のテーマが前面に打ち出されたような印象はない。「幸福」というテーマでは、ルネサンス期はキリスト教の圏内にあるように思える。潮目が変わるのはモンテーニュやデカルトがあっけらかんと「快楽」の肯定に回るあたりだろうが、彼らには「人間の幸福」に対する原理的な洞察は欠けている。ということで、スピノザが真正面から「人間の幸福」の在り様と方法に取り組んで、見かけ上古代哲学の原点に立ち返っているのは、実はスピノザ思想の内容以上に、完全にキリスト教の軛から抜け出したことを意味するのかもしれない。同時代から無神論者のチャンピオンとして恐れられるわけだ。
 確認すると、スピノザによれば、人間の幸福は神(という名の全自然)とシンクロする認識に達することである。「信仰」ではなく「認識」によって「幸福」に達すると主張したので、カトリック大激怒だ。そしてその結論自体は『エチカ』と変わらないのだけど、表現は本書の方が極めて神秘的で印象的だ。そしてそれはヘレニズム期ストア派の宇宙論を髣髴とさせる。確認すると、ストア派は人間に小宇宙を見出し、宇宙=自然とシクロすることで心の平安(アパテイア)を得ることを目指した。スピノザの言う「神=自然」とストア派の言う「宇宙」は、もちろん実体に対する理解などあらゆる面で違っているが、その自然論・宇宙論が「人間の幸福」の在り様と内在的に関わっているという点で、個人的には本質的に似ているような印象を持つ。(と思ってciniiを検索したら、スピノザとストア派を比較する論文がいくつかあった。私が思いつく程度のことは、だいたいとっくに他の人も気がついている)。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 本書(というか西洋哲学全般)には「完全性」という言葉が繰り返し登場し、重要な役割を担って使用されている。ただしスピノザの「完全性」は、他の哲学者の使う「完全性」とは微妙に意味や役割が違っているようだ。

「我々が我々の知性の中に完全な人間の観念を形成する場合、それは(我々が我々自身を観察する時)さうした完全性へ到達する為の何らかの手段を我々が有するかどうかを顧るよすがとなり得るであらう。そしてこの際我々をさうした完全性へ促進する一切を我々は善と名づけ、反対にこれを阻害するもの、或はさうした完全性へ我々を促進しないものを悪と名づけるのである。
 故に私が人間の善悪に関して何ごとかを述べようとすれば、私は或る完全な人間の観念を形成せねばならぬと私は言ふのである。」125頁

 ここは「完全性」と「善・悪」の関りから見て、『エチカ』の記述との整合性が気になるところだ。というのは、『エチカ』でスピノザはあらゆる個体はある種の「完全性」を有していると言っている。ただし「大きな完全性」か「小さな完全性」かの違いはある(そして「善」とは完全性をより大きくするものであり、「悪」とは完全性をより小さくするものだ)。その際に、スピノザは通俗的な「完全性」の概念は勘違いで生じたに過ぎないと批判する。引用箇所にある「完全な人間の観念」とは、そのような勘違いに過ぎないはずだ。本書の記述は、『エチカ』に示された「完全性」と、中身や用法がそうとう違っているように思える。

【個人的な研究のための備忘録】二度生まれ
 ルソー『エミール』で重要な役割を果たす「二度生まれ」という表現に、思いがけずここで出くわした。

「思ふに、我々の第一の誕生は、我々が身体と合一してそれに依つて動物精気の活動と運動が成立した時であった。しかし、我々のこの新しい、或いは第二の、誕生は、我々がこの非物体的客観の認識に相応する全く異なれる愛の諸結果を我々のうちに知覚する時に起るであらう。この諸結果と最初のそれとは、恰も非物体的なものと物体的なものが異なり、霊と肉とが異なるだけ異つてゐる。そしてこの愛と合一とから初めて永遠不変なる恒常性が生ずるのであるから、それは益々多くの権利と真理とを以つて更生と呼ばれ得るのである。」193頁

 本書はスピノザ生前には出版されず、ルソーが目にしていた可能性は限りなく低い。よって、ルソーがこの表現から「二度生まれ」という霊感を得たわけではない。ということは、実は17世紀時点で「第二の誕生」というような言い回しが一般的にあったということを想定していいのかもしれない。
 そして上記引用箇所は、個人的には、本書と『エチカ』の決定的な相違点を示しているのではないかと思う。引用箇所でスピノザは、精神と肉体が合一するのが「第一の誕生」で、精神が神と合一するのが「第二の誕生」としており、それこそが真の「人間の幸福」の形だと言っている。そのエッセンス自体はもちろん『エチカ』と同じなのだが、筆の運びがまったく違う。本書には「霊」だとか「愛」だとか「永遠不変なる恒常性」だとか「更生」だとか、『エチカ』には見当たらない神秘主義的な言葉が連発される。ここで言及される神秘的な「愛」は、『エチカ』の第3部で分析される功利的な「愛」とはまったく違うものだ。この「神との合一」は、ストア派の言う「宇宙=自然との合一」を想起させると同時に、中世神秘主義のエックハルトやイエズス会創始者のイグナチウス・ロヨラをも連想させる。本当にスピノザが書いたのか?

スピノザ/畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』岩波文庫、1955年

【要約と感想】柏木惠子『おとなが育つ条件―発達心理学から考える』

【要約】おとなになってからも、人間は発達します。むしろ、発達しなければいけません。というのは、高齢化した現在、退職後や育児終了後にも長い人生が待っており、そこでの過ごし方によって幸福になれるかどうかが決まってくるからです。
幸福になれるかどうかの鍵は、「自分とは何か」というアイデンティティの模索がうまくいくかどうかです。旧来の性別役割感に縛られると、幸福にはなれません。自分の個性と「なりたい自分」を認識し、「個」として充実することが大切です。
幸福になりたいなら、男性は家事と育児をしましょう。「おとな」の条件とは、弱者をケアする力と意志を持つことです。女性は家に閉じこもらず、仕事をするなど社会に出ましょう。

【感想】実践的に、身につまされる話であった。もっと家事をしなくちゃなあ。

【今後の研究のための備忘録】
「個性」や「アイデンティティ」という言葉の用例など、様々なサンプルを得た。

「教育や指導法の効果は学習者の個性とマッチしているかどうかによる、個性(適正)に応じた処遇―教育が有効なのです。」(44頁)
個性が大事、独創性を、としきりにいわれています。しかしその実現は容易ではありません。きちんとすること、間違いをしないことを促す強い社会化は、個性やチャレンジする心と行動を育ちにくくします。」(46頁)

発達心理学の文脈で語られる「個性」であって、教育哲学の言う「個性」とはかなり違う意味を担っている。ここで言う「個性」とは、44頁で括弧を付けて「適正」と言い換えていることからも顕著に分かるとおり、社会の中での相対的な「個人差」を意味している。教育哲学の言う「個性」とは、相対的な個人差を問題にせず、かけがえのない存在の独自性を土台とする。

「退職後は、肩書きのない個人として「自分は何者か」が問われ、どうふるまうかを自分で決めねばなりません。個人としてのアイデンティティが求められます。活動への参加体験は、とりもなおさず「個人」としてのアイデンティティの発見と確立の機会となります。」(75頁)
「エリクソンの理論に源をもつアイデンティティ―「自分とは何者か」「私はどう生きるか」の問いに解を出すことは、長らく青年の発達課題とされ、青年心理学の中心的テーマでした。そして青年期にアイデンティティが確立できていれば、その後の人生は揺るぎなく展開すると考えられてきました。しかし、今日、アイデンティティはおとなにとって重要な発達問題となっています。」(146頁)
「人類が初めて出会った長期の非生産年齢期間が、おとなのアイデンティティという課題を突きつけたのです。」(148頁)
「青年から成人のアイデンティティの発達を総覧しますと、アイデンティティの確立には二つの場での発達があります。一つは他者との親密な関係の中での自己の定義/確認、もう一つは自分自身の活動と存在で獲得する有能感や自存を基盤とした自己定義です。換言しますと、「かかわりの中での発達・成熟」と「「個」としての発達」で、この二つの発達プロセスをもつことがアイデンティティの確立と安定には重要です。」(208頁)

やはりアイデンティティという言葉の使い方も教育哲学と発達心理学では大きく異なっている。特に発達心理学ではエリクソンの業績を踏まえて使用される言葉となっている。が、教育哲学では、プラトンやアリストテレスに由来しスコラ哲学で鍛え上げられてきた「同一性」の概念と無縁ではいられない。
またそれは、「自己実現」という言葉が、発達心理学ではマズローに引っぱられることとも同様である。

「女性が長い人生を、育児(繁殖)だけでなく自己実現のために使う方向に行動指針を取り始めた、史上初の事態です。」(150頁)

また、恋愛結婚や「おとな/子ども観」に関しても言質を得た。

「一九六九年を境に、見合い結婚と恋愛結婚との割合が入れ替わり、今やほとんどが恋愛結婚、見合いや紹介で始まっても交際後「恋愛的」関係になることで結婚となりました。このことは男女の関係に大きな影響をもたらしました。第一は対人関係スキルとりわけコミュニケーション能力が重要となったことです。」(83頁)
「「おとな」であることの条件はいうまでもなく自立です。しかしそれだけでは「おとな」ではありません。幼弱病老者へに配慮と援助―ケアの心と力を備えていることは、おとなの必須の条件です。ケアすることは即おとなが育つ条件です。」(97-98頁)

「おとな」であることの条件が弱者へのケアの心と力だという見解には、教育哲学的な立場からも絶大な賛意を示したい。

柏木惠子『おとなが育つ条件―発達心理学から考える』岩波新書、2013年

【要約と感想】セネカ『人生の短さについて』

【要約】無意味に長生きすることに、なんの意味もありません。真に「生きた」と言えるためには、意味のある人生を送らなければなりません。そしてそれは、「死に様」に現われます。だから、つまらない他人に人生を振り回されず、貴重な時間を自分自身のために使うべきです。本当の幸福とは、私が私自身であり続けることにあります。そのためには、自分が「死すべき運命にある」という必然を認識し、受け入れることが肝要です。

※2008年に改訳されましたが、学生のときに買った旧訳で読んでいます。

【感想】事実を積み上げて帰納的に論理を構築していく類の言論ではなく、あらかじめ結論が決まっていて、各事例を演繹的に斬っていくという類の言論だろう。そういう意味では、哲学的な緊張感をさほど感じない本ではある。

 とはいえ、一定程度完成した論理体系の完成度と射程距離を測定するという意味では、充分に機能してもいる。ストア派の論理から導き出される人生観と世界観について、具体的によく分かる本でもある。

 簡単にまとめると、セネカの言う幸福とは「わたしがわたしである」ということに尽きる。だが、これを実践するのはとても難しい。名誉や財産などを追い求めることは、他人のために人生を浪費することであって、わたし自身を失っていく愚かな行為だ。「わたし」とは本質的に「死すべき存在」だ。「死すべき存在」としての在り方を突き詰め、その本質を受け入れることが、平静であるということであり、自由ということであり、「わたしがわたしである」ということだ。その境地に達している人間を賢者と言う。
 なるほど、まあ、ひとつの卓見ではあると思う。だがそれは絶対的に無矛盾なのではなく、「死」という特異点を軸として構築された仮構的に無矛盾な体系ではある。これを受け入れるためには、「死」というものを特異点として無条件に受け入れるだけの覚悟と度量が必要となる。この姿勢を得ることがそもそも「死すべき存在」である人間には極めて難しいわけだが。

【個人的な研究のための備忘録】
 ところでセネカは、「自由」に関して、なかなか興味深い文章を残している。

「しかしソクラテスは市民の中心にあって、時世を嘆いている長老たちを慰め、国家に絶望している人々を勇気づけ、また資財のことを憂慮している金持ち連中には、今さら貪欲の危機を後悔しても遅すぎるといって非難した。さらに、かれを見習わんとする人々には、三十人の首領たちの間に自由に入って行って、偉大なる模範を世の中に示した。にもかかわらず、この人をアテナイ自身が獄中で殺した。僭主たちの群をあざ笑ってもなお安全であったこの人の自由を、自由そのものの力で持ちこたえることはできなかったのである。」pp.81-82

 この文章には、自由のアポリアが示されている。自由を破壊するのは自由である。こういう意味での「自由」は、人間の尊厳をも自由自在に破壊して恥じるところのない新自由主義者たちが掲げる「自由」に相当するものと言える。
 しかし同時に、セネカは以下のようにも言っている。ここで言われている「自由」は、上の新自由主義的な「自由」とはずいぶん違うように読める。

「宇宙の定めの上から堪えねばならないすべてのことは、大きな心をもってこれを甘受しなければならない。われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない。我らは支配の下に生まれついている。神に従うことが、すなわち自由なのである。」p.149

 このような「自然を認識し、それに従うことが自由」という自然主義的な「自由」は、近代に入ってからもヘーゲル等の言葉に見ることができるだろう。

 また、「自分自身と一致する」ことに対する徹底的なこだわりも、印象に残るところだ。「個性」概念や「アイデンティティ」概念について考える際に、ストア派的伝統をどの程度考慮に入れるべきか、ひとつの参照軸にできるように思った。

「しかし自分自身のために暇をもてない人間が、他人の横柄さをあえて不満とする資格があろうか。相手は傲慢な顔つきをしていても、かつては君に、君がどんな人であろうとも、目をかけてくれたし、君の言葉に耳を傾けてくれたし、君を側近くに迎え入れてくれたこともある。それなのに君は、かつて一度も自分自身をかえりみ、自分自身に耳を貸そうとはしなかった。だから、このような義務を誰にでも負わす理由はない。たとえ君がこの義務を果たしたときでも、君は他人と一緒にいたくなかったろうし、といって君自身と一緒にいることもできなかったろうから。」p.13
「ルクレティウスが言うように、誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとするのである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。」p.74

 ルクレティウスを引用していることからも分かるように、ストア派といいつつも、けっこうエピクロス派の論理に親和的でもある。
 ちなみにセネカがこのように「自分自身」との関係性にこだわるのは、「理性」と「神」との類似性に由来すると思われる。

「理性は感覚に刺激され、そこから第一の原理を捕えようとしながら――つまり、理性が努力したり真理に向かって突進を始める根拠は、第一の原理以外にはないからであるが――そうしながら、外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らのなかに立ち帰らねばならない。なぜというに、万物を抱きかかえる世界であり宇宙の支配者である神もまた、外的なものに向かって進みはするが、それにもかかわらず、あらゆる方向から内部に向かって自らのなかに立ち戻るからである。われわれの心も、これと同じことをしなければならぬ。心が自らの感覚に従い、その感覚を通して自らを外的なものに伸ばしたとき、心は、感覚をも自らをも共に支配する力を得ることになる。このようにして、統一した力、すなわちそれ自らと調和した能力が作り出されるであろう。そして、かの確実な理性、つまり意見においても理解においても信念においても、不一致も躊躇もない理性が生まれるであろう。この理性は、ひとたび自らを整え、自らの各部分と協調し、いわば各部分と合唱するようになれば、すでに最高の善に触れたのである。(中略)。それゆえ大胆にこう宣言してよい――最大の善は心の調和である――と。」p.136

 このような「再帰的な理性」という存在の在り方が、動物など他の存在にはありえない人間独自の在り方であり、人間と神との相同性を主張する理論的根拠ともなる。
 セネカの文章では、この「再帰的」な在り方の記述は徹底せず、論理がすべって一目散に「調和」のほうに流れている。このあたり、いったん自分の外部に出て、再び自分に返るという理性の運動については、ヘーゲル『精神現象学』が執拗に記述することになるかもしれない。そのときは、セネカが言うような「調和」ではなく、矛盾と闘争の果ての総合が問題となるだろうけれども。

 ところで、我が日本にもセネカと同じようなことを言っている先哲がいたことは記憶されて良いかもしれない。江戸時代初期の福岡の朱子学者・貝原益軒は次のように言っている。

「かくみじかき此世なれば、無用の事をなして時日をうしなひ。或いたづらになす事なくて、此世くれなん事をしむべし。つねに時日をしみ益ある事をなし、善をする事を楽しみてすぐさんこそ、世にいけらんかひあるべけれ。」貝原益軒『楽訓』巻上

 あるいは両者を比較して、セネカが「死」を思ってとかく悲観的なのに対し、益軒が「楽」を思ってとても楽観的なことについては、考えてみると面白いかもしれない。

セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年

【要約と感想】菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』

【要約】アリストテレスの狙いは「徳の論理的基礎づけ」ではなく、「道徳的発達論」にあります。

【感想】ニコマコス倫理学は教育学の本だったのか! という、目から鱗を落としてくれた本。続編の『政治学』がほとんど教育学の本であることについては私も声高に主張したわけだけど、そんな牽強付会な私ですらニコマコス倫理学を教育学の本とは読んでいなかった。なんたる不覚。アクラシアをめぐる考察を発達論的に読むとニコマコス倫理学の構造が分かりやすくなるとは、言われて初めて気づいたけれども、言われてみれば「そりゃそうだ」って感じだ。

しかし『ニコマコス倫理学』に対する私の感想文を読み直してみると、教育に関わるところにはしっかり反応していて、徳に対する教育可能性とか習慣づけの意味についてはちゃんと引用してあったりする。それにも関わらず、全体を通じて教育学として理解する視点を持ててないとは、いやはや、先入観って怖いなあ。

ともかく、教育学者の私としては、本書を「完成した人格を対象とした倫理学の論理的基礎づけ」ではなく「人間の教育可能性の追究」として読む態度に、激しく同意なのだった。自分の不明を明確に認識させられた点で、読んで良かった一冊であった。『ニコマコス倫理学』本体も読み直さなくては。

菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』勁草書房、2016年

【要約と感想】アリストテレス『政治学』

【要約】国家の形には様々ありますが、いずれにせよ、国家の目的としていちばん重要なのは教育であり、そして国家を維持していく手段としていちばん重要なのも教育です。

【感想】タイトルは「政治学」となっているけれども、教育思想の本として読むわけだ。
というのも。ニコマコス倫理学で一人の人間の幸福について考察したアリストテレスは、その興味関心と結果を引き継いで、人間の集団である国家へと議論を展開していく。さすがアリストテレスだけあって、多様な国家の形態を緻密な議論の運びで縦横無尽に検討していく。しかしアリストテレスの議論は、最終的に教育へと着地するのだ。教育は「目的」と「手段」の二つの意味で、国家にとっていちばん重要なものとされている。

まず、アリストテレスは国家の存在意義について検討し、社会契約論的な見方を明快に切り捨てる。アリストテレスによれば、お互いの利益を図るために作られた国家など、形式的に成立しているだけの、まがいものの国家に過ぎない。ほんものの国家は、ただの互助団体や軍事同盟などとは全く違うものである。国家は国民を幸福にするために存在するものでなければならない。そして幸福とは、ニコマコス倫理学で既に明らかになっているように、徳に満ちた生活を送ることだ。つまり国家とは、ただ人々が「生きる」ために存在するのではなく、人々が「善く生きる」ために存在しなければならないのだ。そして、「善く生きる」ことを知るためには、教育を受けなければならない。ただ単に「生きる」だけなら、食料や住居など生活必需品が行き渡るように工夫するだけでよい。しかし「善く生きる」ためにはそれだけでは不十分で、人々が「徳」について自覚を深めなければならない。だからほんものの国家は、国民の「徳」を呼び覚まし、ほんものの幸福な人生を与える。国家の本質は、教育機能にあるのだ。
そんなわけで、本書の解説も「それなら国は簡単には何団体と呼んだらよいか。敢えて言えば、優れた意味において、「教育団体」である。従って国はその国民のいろいろな徳の涵養を第一の、主要な任務としなければならない。」(460頁)と言っている。
ただし、ちなみにこの場合の教育とは、我々がすぐさまイメージするような学校教育を指してはいない。アリストテレスがイメージしているのは「社会教育」である。実際、アリストテレスが生きた時代には、中等教育は存在していなかった。教育=人間形成は、実際の社会の中で行われる。だから社会教育の具体的な手段が真剣に議論され、その際に「法律」が大きな問題となるわけだ。さらにちなみに言えば、ルソーが『エミール』の中で「ほんものの市民教育は失われ、二度と復活しない」というようなことを言っているが、おそらくギリシア時代に行われていた「法律を土台とした社会教育」のことを指していると思われる。

このような教育国家は、おそらくアリストテレスだけのものではなく、東洋にも広く見られる考え方であるように思う。特に儒教的な考えでは、善い君主は同時に善い教育者であらねばならない。というか、「天」から与えられた「道」を人々に指し示すことが君主の役割なのだから、そもそも善き教育者であることは君主であることの必須条件だといえる。そしてそれは「教」という漢字の成り立ちからも伺うことができるだろう。人々を支配するとは、「道」と「教」を手に入れることに外ならない。教育権を放棄した権力などというものは、想像することすらできない。支配するとは、教育するということなのだ。
もちろんこの場合の教育も、我々がただちにイメージするような学校教育のことではない。「宗教」も含め、人間の価値観全体を一つの方向に染め上げるような権力のことだ。「教育」の「教」という漢字が「宗教」の「教」でもあることを想起しなければならないところだ。「教育」は、近代的な感覚では、ただ単に価値中立的な知識を与えることを意味しがちだ。しかしアリストテレスにせよ儒教にせよ、「教」とは価値中立的な知識を機械的に与えるものなどではなく、人の価値観全体を強制的に作り上げる力だ。

だから当然、あらゆる国家を滅亡から救うのは、「教育」以外にはない。国家のあり方に相応しいような形で教育が行われているとき、国家は存続していく。逆に、国家のあり方に逆らうような形で教育が行われるとき、国家は容易に滅亡する。これは「教=人に価値観を植えつける」の定義からして必然的な帰結であると言える。というわけで、教育は国家存在の「目的」であると同時に、国家を保持存続させるために最も重要な「手段」でもある。というわけで、本書の全8巻のうち、最後の第8巻はまるまる教育に関する議論に費やされることとなる。
この教育の議論が、なかなか興味深い。たとえば、どのような順番で教育を行うかという議論では、まず「体育」を施してから「音楽」へ展開するという道筋を示す。この「体育→音楽」という順序にアリストテレスはかなりこだわっているわけだが、事情を知らない人には、どうしてアリストテレスがこんなにも長々と記述するのか理解できないだろう。実はこの論述でアリストテレスが試みているのは、プラトンの教育思想への反駁なのだ。プラトンは『国家』で教育思想を全面的に展開し、そこで「音楽・文芸→体育」という教育順序を示している。アリストテレスは、このプラトンの見解に真っ向から勝負を挑んでいるわけだ。かつての師匠であるプラトンの教育説と勝負するわけだから、自然と熱が籠もる。現在の我々から見ると「体育→音楽」だろうが「音楽→体育」だろうがどうでもいいように思えてしまうわけだが(あるいは「体育と音楽は同時並行でやれよ」などと思うわけだが)、プラトンやアリストテレスにとってみれば、この問題は自分の人間観全体(具体的には肉体と魂の関係をどう捉えるか)の価値を示す試金石となるものなのだ。教育論での勝敗は、思想全体の優劣を決する。アリストテレスが本書の末尾を教育に関する議論に費やしているのは、教育思想こそが哲学大系全体の要石であることを痛感しているからだ。
個人的におもしろく読んだのは、カリキュラム論だ。どのような内容を教えるべきかというカリキュラム論では、素朴な形ではあるものの、教科分類を試みている。アリストテレスは(1)読み書き(2)体操(3)音楽(4)図画というように、全教科を4つの領域に分類する。その上で、特に「音楽」の教育効果に関する具体的な議論が長々と展開される。「音楽」は何のために教えられなければならないのか? この議論は、まさに現代の「カリキュラム・マネジメント」の精神にも通じるような内容となっている。プラトンの音楽教育論と比較しながら読むと、とてもおもしろい。

研究のための個人的備忘録

本書を通じて目立つのは、一貫して「子供」を価値のないものとして理解する態度だ。そしてそれは、「奴隷」や「女性」を価値のないものとして理解する態度と通底している。アリストテレスにとって、「人間」とは「自由のある成人男性」だけなのだ。これはアリストテレスを含め、ギリシア時代の教育を考える上で頭の片隅に置いておかなければならない事実と言える。

【子供観】
「従って支配するものと支配されるものとには本性上多数の種類があることになる、すなわち自由人の奴隷に対する支配と男性の女性に対する支配と大人の子供に対する支配はそれぞれ別である、そして魂のいろいろの部分は凡ての人々のうちにあるけれども、しかしそのあり方に相違がある。つまり、奴隷は熟慮的部分を全く持たないが、しかし女性は持っている、けれどもそれは権威を持たない、また子供も持っているが、不完全である。」1260a
「しかし子供は不完全なものであるから、子供の徳も自分と自分との関係に属するものではなく、完全なる者や指導する者との関係に属するものであるということは明らかである。」1260a
「すなわち子供や老人たちは或る仕方で国民だと言わなければならないが、しかし全然条件ぬきにではなく、むしろ附け足しをして、子供の方は「未成年の」国民と言い、老人の方は「男盛りを過ぎた」国民、或は、別のこういう類の「なになにの」国民(というのはわれわれの言おうとしていることは明らかなので、どんな言葉を使っても構わないから)と言わなければならないのである。」1275a
「何故なら国民の子供でさえも大人と同じように国民であるのではなく、一方の大人たちは無条件に国民であるが、他方はただ[国民になり得るという]前提のもとに国民なのであるから。というのは、子供たちは国民ではあるが、しかし「不完全な」国民であるのだから。」1278a

このように子供を価値のないものとみなす態度は、「欲望」にたいする考え方を土台としている。子供は自分の「欲望」に打ち勝つことが出来ないために不完全な存在とみなされるのだ。

【欲望と子供】
「というのは勇気や節度や思慮の何らの部分も持たず、傍を飛ぶ蠅は恐れるが、食ったり飲んだりする欲望が起れば、極端なことさえ何一つせずにおくことはなく、一文のために最愛のものすら亡ぼす者を、しかしまた同様にその心のことでも、子供や気狂いのような風に考えがなかったり、間違っていたりする者を、誰も至福な者とは言わないだろうから。」1323a

そんなわけで、教育の存在意義は、人間の「欲望」を制御するところにある。

【教育と欲望】
「しかしなお、たとい、ひとが凡ての人に中庸を得た財産を規定したにしても、何の役にも立たない。というのは財産よりも欲望を平均化することの方がむしろ必要だからであるが、このことは法律によって充分に教育されたものにとってでなければ不可能なのである。」「しかし、その教育はどのようなものであるだろうか、それを言わなければならない。一つで同じものだと言うだけでは何の役にも立たない。というのは同じ一つのものではあるが、しかしそれは金銭なり名誉なり或はその両方なりを余分に取ることを望む者にするような教育であり得るのである。」1266b
「さらに、また、人間どもの賤しい欲望は飽くことを知らないものである。例えば、初めのうちはただ二おろぼすで充分であるが、しかしすでにそれが伝統的なものになると、常にそれ以上のものを必要とし、遂に無限に進んでいくのである。というのは欲望の本性は無限であって、これを充たすために大衆は生きているのだからである。従って、かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである、そしてこのことはこの賤しい人々の数が少く、また不正に取扱われなければ、可能なのである。」1267b

人々の欲望をコントロールし、国を存続させるためには、教育を最重要の仕事として認識しなければならない。

【国家の仕事としての教育の至高性】
「このことによってまた、ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということも明らかである。というのはもしそうでなかったら、この共同体は一つの軍事同盟体であることになるからであるが、それは他の互に離れている軍事同盟体にくらべて、[その同盟者は離れず接しているので]その他のものとはただ場所によってのみ異なっている。また、もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。」1280b
「国とは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である、そしてかかる生活は、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることである。従って国的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為のためにあるとしなければならない。」1281a
「しかし国制が存続するために、私の語った凡てのことのうちで最も重要なことは、今日凡ての人々に軽んじられているけれど、それぞれの国制に応じて教育がほどこされることである、というのはもし国制の精神によって習慣づけられ教育されていなければ、例えばもし法律が民主制的なものなら、民主制的に、もし寡頭制的なものなら、寡頭制的にそうされていなければ、その法律が最も有益なものであり、凡ての国民によって是認されたものであっても、何ら益するところはないからである。」1310a 以下も教育について語られる。
「ところで立法家が特に努力を致さなければならないのは、若者の教育についてであるということを、とやかく問題にする者はひとりもいないだろう。というのは実際国においてそのことが為されないならば、国制は害われるからである。何故なら国民はそれぞれの国制に応じて教育されねばならないからである。何故ならそれぞれの国制に固有の性格がその国制を維持するのを常とし、またもともとその国制を作り出すものだからである。」1337a
「また政治家はいろいろの生活と行為の選択に関しても同様でなければならない、というのは国民は事業と戦争とを行うことが出来なければならないが、しかし一そう多く平和と閑暇とに生きることが出来なければならないからである。また生活に必要なことや有用なことを為さなければならないが、一そう多く立派なことを為さなければならないからである、従ってこれらのものを目標にして、国民がまだ子供である時にも、また教育を必要とするその他の年齢にある時にも、教育をほどこさなければならない。」1333a-b

アリストテレス/山本光雄訳『政治学』岩波文庫、1961年