【要約と感想】アリストテレス『政治学』

【要約】国家の形には様々ありますが、いずれにせよ、国家の目的としていちばん重要なのは教育であり、そして国家を維持していく手段としていちばん重要なのも教育です。

【感想】タイトルは「政治学」となっているけれども、教育思想の本として読むわけだ。
というのも。ニコマコス倫理学で一人の人間の幸福について考察したアリストテレスは、その興味関心と結果を引き継いで、人間の集団である国家へと議論を展開していく。さすがアリストテレスだけあって、多様な国家の形態を緻密な議論の運びで縦横無尽に検討していく。しかしアリストテレスの議論は、最終的に教育へと着地するのだ。教育は「目的」と「手段」の二つの意味で、国家にとっていちばん重要なものとされている。

まず、アリストテレスは国家の存在意義について検討し、社会契約論的な見方を明快に切り捨てる。アリストテレスによれば、お互いの利益を図るために作られた国家など、形式的に成立しているだけの、まがいものの国家に過ぎない。ほんものの国家は、ただの互助団体や軍事同盟などとは全く違うものである。国家は国民を幸福にするために存在するものでなければならない。そして幸福とは、ニコマコス倫理学で既に明らかになっているように、徳に満ちた生活を送ることだ。つまり国家とは、ただ人々が「生きる」ために存在するのではなく、人々が「善く生きる」ために存在しなければならないのだ。そして、「善く生きる」ことを知るためには、教育を受けなければならない。ただ単に「生きる」だけなら、食料や住居など生活必需品が行き渡るように工夫するだけでよい。しかし「善く生きる」ためにはそれだけでは不十分で、人々が「徳」について自覚を深めなければならない。だからほんものの国家は、国民の「徳」を呼び覚まし、ほんものの幸福な人生を与える。国家の本質は、教育機能にあるのだ。
そんなわけで、本書の解説も「それなら国は簡単には何団体と呼んだらよいか。敢えて言えば、優れた意味において、「教育団体」である。従って国はその国民のいろいろな徳の涵養を第一の、主要な任務としなければならない。」(460頁)と言っている。
ただし、ちなみにこの場合の教育とは、我々がすぐさまイメージするような学校教育を指してはいない。アリストテレスがイメージしているのは「社会教育」である。実際、アリストテレスが生きた時代には、中等教育は存在していなかった。教育=人間形成は、実際の社会の中で行われる。だから社会教育の具体的な手段が真剣に議論され、その際に「法律」が大きな問題となるわけだ。さらにちなみに言えば、ルソーが『エミール』の中で「ほんものの市民教育は失われ、二度と復活しない」というようなことを言っているが、おそらくギリシア時代に行われていた「法律を土台とした社会教育」のことを指していると思われる。

このような教育国家は、おそらくアリストテレスだけのものではなく、東洋にも広く見られる考え方であるように思う。特に儒教的な考えでは、善い君主は同時に善い教育者であらねばならない。というか、「天」から与えられた「道」を人々に指し示すことが君主の役割なのだから、そもそも善き教育者であることは君主であることの必須条件だといえる。そしてそれは「教」という漢字の成り立ちからも伺うことができるだろう。人々を支配するとは、「道」と「教」を手に入れることに外ならない。教育権を放棄した権力などというものは、想像することすらできない。支配するとは、教育するということなのだ。
もちろんこの場合の教育も、我々がただちにイメージするような学校教育のことではない。「宗教」も含め、人間の価値観全体を一つの方向に染め上げるような権力のことだ。「教育」の「教」という漢字が「宗教」の「教」でもあることを想起しなければならないところだ。「教育」は、近代的な感覚では、ただ単に価値中立的な知識を与えることを意味しがちだ。しかしアリストテレスにせよ儒教にせよ、「教」とは価値中立的な知識を機械的に与えるものなどではなく、人の価値観全体を強制的に作り上げる力だ。

だから当然、あらゆる国家を滅亡から救うのは、「教育」以外にはない。国家のあり方に相応しいような形で教育が行われているとき、国家は存続していく。逆に、国家のあり方に逆らうような形で教育が行われるとき、国家は容易に滅亡する。これは「教=人に価値観を植えつける」の定義からして必然的な帰結であると言える。というわけで、教育は国家存在の「目的」であると同時に、国家を保持存続させるために最も重要な「手段」でもある。というわけで、本書の全8巻のうち、最後の第8巻はまるまる教育に関する議論に費やされることとなる。
この教育の議論が、なかなか興味深い。たとえば、どのような順番で教育を行うかという議論では、まず「体育」を施してから「音楽」へ展開するという道筋を示す。この「体育→音楽」という順序にアリストテレスはかなりこだわっているわけだが、事情を知らない人には、どうしてアリストテレスがこんなにも長々と記述するのか理解できないだろう。実はこの論述でアリストテレスが試みているのは、プラトンの教育思想への反駁なのだ。プラトンは『国家』で教育思想を全面的に展開し、そこで「音楽・文芸→体育」という教育順序を示している。アリストテレスは、このプラトンの見解に真っ向から勝負を挑んでいるわけだ。かつての師匠であるプラトンの教育説と勝負するわけだから、自然と熱が籠もる。現在の我々から見ると「体育→音楽」だろうが「音楽→体育」だろうがどうでもいいように思えてしまうわけだが(あるいは「体育と音楽は同時並行でやれよ」などと思うわけだが)、プラトンやアリストテレスにとってみれば、この問題は自分の人間観全体(具体的には肉体と魂の関係をどう捉えるか)の価値を示す試金石となるものなのだ。教育論での勝敗は、思想全体の優劣を決する。アリストテレスが本書の末尾を教育に関する議論に費やしているのは、教育思想こそが哲学大系全体の要石であることを痛感しているからだ。
個人的におもしろく読んだのは、カリキュラム論だ。どのような内容を教えるべきかというカリキュラム論では、素朴な形ではあるものの、教科分類を試みている。アリストテレスは(1)読み書き(2)体操(3)音楽(4)図画というように、全教科を4つの領域に分類する。その上で、特に「音楽」の教育効果に関する具体的な議論が長々と展開される。「音楽」は何のために教えられなければならないのか? この議論は、まさに現代の「カリキュラム・マネジメント」の精神にも通じるような内容となっている。プラトンの音楽教育論と比較しながら読むと、とてもおもしろい。

研究のための個人的備忘録

本書を通じて目立つのは、一貫して「子供」を価値のないものとして理解する態度だ。そしてそれは、「奴隷」や「女性」を価値のないものとして理解する態度と通底している。アリストテレスにとって、「人間」とは「自由のある成人男性」だけなのだ。これはアリストテレスを含め、ギリシア時代の教育を考える上で頭の片隅に置いておかなければならない事実と言える。

【子供観】
「従って支配するものと支配されるものとには本性上多数の種類があることになる、すなわち自由人の奴隷に対する支配と男性の女性に対する支配と大人の子供に対する支配はそれぞれ別である、そして魂のいろいろの部分は凡ての人々のうちにあるけれども、しかしそのあり方に相違がある。つまり、奴隷は熟慮的部分を全く持たないが、しかし女性は持っている、けれどもそれは権威を持たない、また子供も持っているが、不完全である。」1260a
「しかし子供は不完全なものであるから、子供の徳も自分と自分との関係に属するものではなく、完全なる者や指導する者との関係に属するものであるということは明らかである。」1260a
「すなわち子供や老人たちは或る仕方で国民だと言わなければならないが、しかし全然条件ぬきにではなく、むしろ附け足しをして、子供の方は「未成年の」国民と言い、老人の方は「男盛りを過ぎた」国民、或は、別のこういう類の「なになにの」国民(というのはわれわれの言おうとしていることは明らかなので、どんな言葉を使っても構わないから)と言わなければならないのである。」1275a
「何故なら国民の子供でさえも大人と同じように国民であるのではなく、一方の大人たちは無条件に国民であるが、他方はただ[国民になり得るという]前提のもとに国民なのであるから。というのは、子供たちは国民ではあるが、しかし「不完全な」国民であるのだから。」1278a

このように子供を価値のないものとみなす態度は、「欲望」にたいする考え方を土台としている。子供は自分の「欲望」に打ち勝つことが出来ないために不完全な存在とみなされるのだ。

【欲望と子供】
「というのは勇気や節度や思慮の何らの部分も持たず、傍を飛ぶ蠅は恐れるが、食ったり飲んだりする欲望が起れば、極端なことさえ何一つせずにおくことはなく、一文のために最愛のものすら亡ぼす者を、しかしまた同様にその心のことでも、子供や気狂いのような風に考えがなかったり、間違っていたりする者を、誰も至福な者とは言わないだろうから。」1323a

そんなわけで、教育の存在意義は、人間の「欲望」を制御するところにある。

【教育と欲望】
「しかしなお、たとい、ひとが凡ての人に中庸を得た財産を規定したにしても、何の役にも立たない。というのは財産よりも欲望を平均化することの方がむしろ必要だからであるが、このことは法律によって充分に教育されたものにとってでなければ不可能なのである。」「しかし、その教育はどのようなものであるだろうか、それを言わなければならない。一つで同じものだと言うだけでは何の役にも立たない。というのは同じ一つのものではあるが、しかしそれは金銭なり名誉なり或はその両方なりを余分に取ることを望む者にするような教育であり得るのである。」1266b
「さらに、また、人間どもの賤しい欲望は飽くことを知らないものである。例えば、初めのうちはただ二おろぼすで充分であるが、しかしすでにそれが伝統的なものになると、常にそれ以上のものを必要とし、遂に無限に進んでいくのである。というのは欲望の本性は無限であって、これを充たすために大衆は生きているのだからである。従って、かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである、そしてこのことはこの賤しい人々の数が少く、また不正に取扱われなければ、可能なのである。」1267b

人々の欲望をコントロールし、国を存続させるためには、教育を最重要の仕事として認識しなければならない。

【国家の仕事としての教育の至高性】
「このことによってまた、ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということも明らかである。というのはもしそうでなかったら、この共同体は一つの軍事同盟体であることになるからであるが、それは他の互に離れている軍事同盟体にくらべて、[その同盟者は離れず接しているので]その他のものとはただ場所によってのみ異なっている。また、もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。」1280b
「国とは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である、そしてかかる生活は、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることである。従って国的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為のためにあるとしなければならない。」1281a
「しかし国制が存続するために、私の語った凡てのことのうちで最も重要なことは、今日凡ての人々に軽んじられているけれど、それぞれの国制に応じて教育がほどこされることである、というのはもし国制の精神によって習慣づけられ教育されていなければ、例えばもし法律が民主制的なものなら、民主制的に、もし寡頭制的なものなら、寡頭制的にそうされていなければ、その法律が最も有益なものであり、凡ての国民によって是認されたものであっても、何ら益するところはないからである。」1310a 以下も教育について語られる。
「ところで立法家が特に努力を致さなければならないのは、若者の教育についてであるということを、とやかく問題にする者はひとりもいないだろう。というのは実際国においてそのことが為されないならば、国制は害われるからである。何故なら国民はそれぞれの国制に応じて教育されねばならないからである。何故ならそれぞれの国制に固有の性格がその国制を維持するのを常とし、またもともとその国制を作り出すものだからである。」1337a
「また政治家はいろいろの生活と行為の選択に関しても同様でなければならない、というのは国民は事業と戦争とを行うことが出来なければならないが、しかし一そう多く平和と閑暇とに生きることが出来なければならないからである。また生活に必要なことや有用なことを為さなければならないが、一そう多く立派なことを為さなければならないからである、従ってこれらのものを目標にして、国民がまだ子供である時にも、また教育を必要とするその他の年齢にある時にも、教育をほどこさなければならない。」1333a-b

アリストテレス/山本光雄訳『政治学』岩波文庫、1961年