「城」タグアーカイブ

【茨城県つくば市】小田城を語るときには北畠親房も忘れないでね。

 茨城県つくば市の小田城跡に行ってきました。
 国指定史跡だけあって、極めて保存状態が良好な城跡で、たいへん見応えがあります。

 小田城は、関東戦国史最大の萌えキャラと呼び名の高い(?)小田氏治との関係で語られることが多い城です。何度も何度も落城しているのに、なぜか部下が活躍して取り戻してくれるんですね。

 が、私個人としては、断然、北畠親房ゆかりの城として興味があります。

 東の虎口から城跡を眺めるの図。

 堀にかかる橋の向こうに筑波山が見えます。小田城は、筑波山のほぼ真南に位置しているので、夜になると北極星が筑波山の真上に見えるわけですね。北畠親房に何か霊感を与えていないでしょうか。

 城の南側から本郭を見下ろすの図。立派な庭園があったような雰囲気です。

 西側の虎口。ここを抜けると南西馬出がありますが、さすがに親房が滞在していた頃にはまだなかったでしょうね。

 南西馬出しにあった案内板。北畠親房が神皇正統記を書き始めたことなど、事跡も少し説明されています。小田城包囲後、関城に移ったことも書かれています。

 本郭にある案内パネル。

 本郭を出て北西の方に行くと、神皇正統記起稿之地碑があります。ある意味、日本の歴史を決定づけた本がここで書き始められたわけですね。

 北畠親房は、後醍醐天皇崩御の後、後村上天皇に献上するために、日本を神の国とする「神皇正統記」の執筆を開始します。そして親房の皇国史観は山﨑闇斎や水戸学に影響を与え、幕末尊皇思想の流れを作り、明治期以降の国体思想にも反映していくわけですね。日本の保守思想の土台を理解するためには、神皇正統記の内容と執筆背景を押さえておく必要があるなあと。

 そんなわけで、皇国史観の土台を作った茨城県を都道府県魅力度ランキング47位にしてしまう日本人って浅はかかもねと思いつつ、茨城県を離脱するのでした。そういえば小田城・関城・大宝城とも百名城にも続百名城にも選ばれていないなあ……

【茨城県筑西市・下妻市】関城・大宝城に続く
(2018年2/5訪問)

【千葉県千葉市・市川市・松戸市】小弓公方足利義明の野望

千葉県千葉市の小弓城(おゆみじょう)と小弓御所に行ってきました(2018年1/31訪問)。
ここは、関東の戦国史で忘れてはならない小弓公方(おゆみくぼう)の本拠地です。
小弓公方とは足利義明(1538年没)のことで、室町幕府の将軍足利家の親戚筋です。関東制覇の野望を抱き、一時期はいいところまで勢力を伸ばしましたが、後北条氏との戦いに敗れて命を落としています。歴史の教科書には載りませんが、なかなか興味深い人物です。
小弓城は、現在の千葉市の南端のほうに位置しています。

虎口のような切り通しを抜け、坂を登ると、真っ平らに整地された台地の上に出ます。そこに小弓城の石碑が立っています。あたりは一面畑になっていて、当時の面影はまったく残っていません。

石碑から100mほど南に行くと、小弓城の案内板が。

案内板に足利義明の事跡が少し記されています。

案内板の隣には石碑も立っていますが、背後は墓地。墓地の端まで行くと断崖絶壁になっていて、戦国時代には要塞として機能していた痕跡を伺うことができます。他、付近では堀や土塁の跡のようなものも確認できます。
案内板のある地点から東に150mほど行くと、八剱神社があります。ここに足利義明が構えた小弓御所があったようです。

八剱神社の本殿。この背後の木立あたりに小弓御所があったようです。

八剱神社、額の文字がなかなか趣深いです。

小弓御所跡。一面の木立となっており、当時を偲ぶよすがは全く残されていません。

小弓城跡の台地の全景。なかなかの比高差があり、人の手が確実に入っています。台地の前に広がる葦原の様子から鑑みるに、戦国時代には東隣の大百池から広がる湿地帯に囲まれ、沼地の上に浮かぶ要塞のようになっていたことが想像されます。

さて、そんな小弓城から北西に40kmほど行ったところに、小弓公方終焉の地があります。

1538年、小弓公方と北条氏綱との間で第一次国府台合戦が行われ、ここで小弓公方の野望が潰えることとなります。現在の千葉県市川市です。(2018年2/8訪問)

国府台合戦激戦地跡。写真の中央に立っている木の棒は、昭和の電信柱が朽ちたものではなく、国府台合戦の激戦地であったことを示すものです。

階段を上がると西蓮寺という寺院があるのですが、ここに国府台合戦の案内板があります。主に第二次の経緯が解説されていますね。

橋の上から国府台合戦跡地を見下ろす。当時の面影は、まったく残っていません。とても平和です。

激戦地から南に1kmほど行ったところに、国府台城跡があります。足利義明はここに陣取ったんでしょうね。現在は里見公園となっています。(2013年4/27訪問)

国府台城の案内板によると、例によって最初に築いたのは太田道灌ということになっていますね。小弓公方足利義明の事跡にも少しだけ触れられています。

足利義明は市川市で命を落としているわけですが、お墓は5kmほど北の松戸市にあります。(2013年5/5訪問)

お墓は、聖徳大学のキャンパス内にあります。史跡を見学するには入り口の警備員に一言ことわる必要があります。

門を入ってすぐ左、2つの土饅頭と「相模台戦跡碑」という石碑、案内板が立っています。この土饅頭自体は、小弓公方本人のものというよりは、戦死者全体の供養のためのものでしょうか。

案内板には小弓公方の事跡が書いてあります。足利義明と嫡男の義純が、第一次国府台合戦で討ち死にしたことが分かります。
ただ、このお墓自体は後に復元されたもののようです。1919年に陸軍工兵学校を作るために、いったん破壊されてしまったようですが、なぜか1931年に陸軍によって復元され、聖徳大学が1995年に現在の場所に移転させたとのことです。陸軍が1931年に復元させた経緯は、少し気になるところですね。

そんなわけで、関東の覇者を目論んだ小弓公方足利義明の野望に思いを馳せ、江戸川を渡るのでした。

【千葉県木更津市】証誠寺のタヌキ、請西藩陣屋跡は強者どもが夢の跡

千葉県木更津市に行ってきました。
木更津までは、東京湾アクアラインができてからは新宿や東京からの高速バスが便利ではあるんですが、土日は新宿から「特急さざなみ」が直通しているので、今回は電車で。自由席でも座って行けます。

新宿から75分で木更津着。特急は速いですね。
で、駅を降りたとたん、やたらとタヌキ推しでした。マンホールの蓋も、タヌキ。証誠寺(しょじょじ)を観光の目玉として推しているようです。

駅前に据えられたタヌキのモニュメント。

木更津港の近くにある海鮮バーベキューの店頭にも、タヌキ。セルフサービスのバーベキューで、サザエとアワビをいただいてきました。

隣のみやげもの屋さんにも、大量のタヌキ。

港にも、タヌキ。

さらに海岸通りにもタヌキ。特産の貝と観光名物のタヌキを合体させたのは分かるけど、それにしてもビーナスの誕生て。どれだけタヌキ推しなんだ。

そんなわけで、証誠寺にやってきました。本堂脇の梅がほころび始めていて、とても清々しいです。

「証誠寺の狸囃子」は、明るく楽しい童謡だと思っていましたが。元の話は、なかなか悲しいことになっていますね。

境内にはタヌキを慰霊する「狸塚」がありました。

証誠寺を離脱して、駅の東側へ。
駅の東側の山の天辺には、歴史博物館があります。真里谷武田氏の動向とか、請西藩の幕末とか、上総掘りの展開とか、他の地域にはない展示が充実しています。目玉展示は、日本の古墳でここからしか見つかっていない金の鈴。たいへん立派なものでした。

山の上にはふるさと創生の一億円で作ったという展望台があったので、登ってみると、木更津市街を一望できる上に、はるか京浜工業地帯の工場群から立ち上る煙と東京湾を見渡すことができます。絶景。

博物館から1.5Kmほど南に行くと、請西藩陣屋跡があります。ここに来たかったんですよね。

請西藩陣屋跡には、現在は石碑が建っているだけで、跡形もありません。

案内板には、幕末の林忠崇の動向が少し説明されています。中公新書から出ている「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯 」という本がとても面白くて、興味を持ったのでした。昭和16年まで存命の、ラスト大名です。なかなかすごい人生。

案内板の裏には重機が入って、宅地造成大開発の真っ最中でした。真っ平らにされてしまって、当時を偲ぶよすがは、ほとんど残されていません。と思いきや。

陣屋跡の周りを探索していると、なかなか面白い地形にでくわします。たとえば上の写真は、虎口ぽい感じです。他にも、土塁の跡らしきものや、堀の形跡らしいものはたくさん見えました。これらも今後の大開発で消えていくんでしょうね。

陣屋跡から数百メートル北には、請西城の跡があるらしいのですが、行ってみてもほとんど形跡は残っていませんでした。上の写真は請西城の跡地周辺のはずですが、左側の断崖絶壁が要塞としての痕跡を残している他には、当時を偲ぶ手がかりは見つかりませんでした。

今回は真里谷城に行けていないので、また木更津には行きたいと思います。
(2018年2/3訪問)

鵜殿の野望【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城

愛知県豊橋市の吉田城と鵜殿兵庫の城に行ってきました(2011年8/16訪問)。

吉田城は、JR豊橋駅から路面電車で10分くらい行ったところにあります。堀や石垣がたいへん立派で、見応えがある城です。続百名城にも選出されました。

隅櫓も、なかなか立派。
この吉田城が、1564年に三河統一を狙う徳川家康(当時は松平元康)に攻められたとき、蒲郡不相城から落ちのびた鵜殿一族も籠城に参加しています。翌年、和議が成って吉田城が落ちた際には、家康に降伏し、臣従することになったようです。

吉田城から見る豊川。この豊川、「とよがわ」と発音しなかったので、地元の方に修正されました。この川の向こうに家康軍が陣取っていたんですかね。なかなかの天然の要害です。

さて、その吉田城から西南西に4kmほど行ったところに、鵜殿兵庫の城(牟呂城)があります。Googleマップにも登録したので、検索すれば行けます。

現在は土塁の一部が神社となっておりますが、他に当時を偲ぶ手がかりは一切ありません。

土塁の跡に登ると、ひっそりと「鵜殿兵庫之城」の石柱が。

土塁の奥には小さな社が鎮座しております。地元の方が手入れをしてくれていて、こざっぱりとしています。ありがたや。

この城は、蒲郡不相鵜殿の出城ということになっているようです。450年前はもっと海岸線が奥まで入り込んでいたことを思えば、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城は海の道で直接つながっています。三河湾の海上覇権を握る上での要衝であったことが想像できます。また、吉田城(豊橋)と豊川を通じて繋がっていた可能性も想像できます。

さらに想像を逞しくすれば。この鵜殿兵庫の城があるところは「牟呂(むろ)」という地名ですが、もともとの鵜殿氏の本拠地である紀伊半島熊野一帯は「牟婁(むろ)」と呼ばれています。漢字は微妙に違いますが、「牟呂」と「牟婁」で通じるものがあります。ひょっとしたら、熊野の牟婁から海を通じてやってきた鵜殿一族が、豊橋の牟呂を実効支配していたんじゃないだろうかとか、想像が逞しくなります。ちなみにそういう説を唱えている人も実際に居るようです。(豊橋市「牟呂の地名の由来を教えてください。」)
 さらに、三河湾を牛耳っていた海賊についての記録は見たことがありませんが、ひょっとしたら熊野水軍の一員であった鵜殿一族が、何らかの活動をしていたのではないかと。証拠は一切ありませんけれども、鵜殿兵庫の城と蒲郡不相城の立地条件、さらに豊川と吉田城の地政学的関係などを考えると、いろいろ妄想が逞しくなります。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族

愛知県蒲郡にある、鵜殿氏ゆかりの不相城に行ってきました(2012年9月訪問)。
とはいえ、今は城ではなく、ホテルが建っています。蒲郡クラシックホテルという、なかなか立派なホテルです。かつては蒲郡プリンスホテルとして親しまれておりました。ぱっと見、城みたいな佇まいではありますが。

このホテルが建っている場所に、かつては鵜殿氏の城があったんですね。本家の鵜殿長持は蒲郡市内の上ノ郷に城を構えていましたが、こちらの不相城は分家の鵜殿長成(長持の弟)の城だったようです。長成は1562年の徳川家康(当時は松平元康)による鵜殿本家滅亡に伴って城を追われ、吉田城(豊橋)でしばらく頑張ったものの、最終的には家康に降伏したようです。

ホテルの庭園は、かなり立派です。が、残念ながら城の遺構を確認することはできません。
散策していると、海の向こうに島が見えます。竹島です。

竹島には、橋で渡ることができます。

橋を渡りきって蒲郡市街の方を見ると、丘の上に蒲郡クラシックホテルが見えます。比高差30mほどでしょうか。城を作るならここしかないという立地条件に見えますね。

島全体が八百富神社の神域となっています。航海の安全を司る神様である市杵嶋姫命と弁天様を祀っています。琵琶湖の竹生島から勧請したようですね。

遊歩道を行くと、三河湾を見晴らす絶景ポイントもあります。

島の西側に出ると岩場になっていて、海を挟んで蒲郡クラシックホテルの建物を見ることができます。
個人的には、実はこの竹島も鵜殿氏の城として機能していたのではないかと想像しています。物的には何の証拠もありませんが、インスピレーションの源泉はあります。というのは、もともと鵜殿氏は熊野の海賊として活動している上に、南北朝時代には南朝方についていたことが分かっているからです。

地図で見ると、この「蒲郡」という場所の地政学的な重要性がよく分かります。北朝方は三河と駿河を押さえているわけですが、蒲郡はこの拠点をつなぐ場所にあります(上の地図では黄色のルート)。一方、南朝方は吉野と伊那谷を押さえているわけですが、なんと蒲郡は南朝方の拠点をつなぐ位置でもあるわけです(赤のルート)。北朝と南朝の支配ラインが交わる極めて地政学的に重要な場所であったことが見えます。しかも、南朝方が拠点を連絡するには海の道を使うしかないわけで、そこに海賊の出番があります。海賊鵜殿氏の本拠地は熊野川の河口にあり、蒲郡はこことも海の道で繋がっています(水色のルート)。もともと鵜殿氏が蒲郡に進出したのも、名目上は熊野神宮の地頭としてではありますが、実質的には南朝の海上連絡ルートを確保するための実効支配であったようにも思えてくるわけです。証拠は何もありませんが。

ということで、地政学的に考えた場合、蒲郡は陸地の拠点としてだけ活用するには勿体ない場所にあり、どうしても水軍の拠点として機能していたのではないかと思えてきます。蒲郡を水軍の拠点として考えたとき、竹島の地政学的な意味がどう見えてくるか。もう海賊の根城として機能していたとしか思えないわけです。証拠は何もありません。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??