鵜殿の野望【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族

愛知県蒲郡にある、鵜殿氏ゆかりの不相城に行ってきました(2012年9月訪問)。
とはいえ、今は城ではなく、ホテルが建っています。蒲郡クラシックホテルという、なかなか立派なホテルです。かつては蒲郡プリンスホテルとして親しまれておりました。ぱっと見、城みたいな佇まいではありますが。

このホテルが建っている場所に、かつては鵜殿氏の城があったんですね。本家の鵜殿長持は蒲郡市内の上ノ郷に城を構えていましたが、こちらの不相城は分家の鵜殿長成(長持の弟)の城だったようです。長成は1562年の徳川家康(当時は松平元康)による鵜殿本家滅亡に伴って城を追われ、吉田城(豊橋)でしばらく頑張ったものの、最終的には家康に降伏したようです。

ホテルの庭園は、かなり立派です。が、残念ながら城の遺構を確認することはできません。
散策していると、海の向こうに島が見えます。竹島です。

竹島には、橋で渡ることができます。

橋を渡りきって蒲郡市街の方を見ると、丘の上に蒲郡クラシックホテルが見えます。比高差30mほどでしょうか。城を作るならここしかないという立地条件に見えますね。

島全体が八百富神社の神域となっています。航海の安全を司る神様である市杵嶋姫命と弁天様を祀っています。琵琶湖の竹生島から勧請したようですね。

遊歩道を行くと、三河湾を見晴らす絶景ポイントもあります。

島の西側に出ると岩場になっていて、海を挟んで蒲郡クラシックホテルの建物を見ることができます。
個人的には、実はこの竹島も鵜殿氏の城として機能していたのではないかと想像しています。物的には何の証拠もありませんが、インスピレーションの源泉はあります。というのは、もともと鵜殿氏は熊野の海賊として活動している上に、南北朝時代には南朝方についていたことが分かっているからです。

地図で見ると、この「蒲郡」という場所の地政学的な重要性がよく分かります。北朝方は三河と駿河を押さえているわけですが、蒲郡はこの拠点をつなぐ場所にあります(上の地図では黄色のルート)。一方、南朝方は吉野と伊那谷を押さえているわけですが、なんと蒲郡は南朝方の拠点をつなぐ位置でもあるわけです(赤のルート)。北朝と南朝の支配ラインが交わる極めて地政学的に重要な場所であったことが見えます。しかも、南朝方が拠点を連絡するには海の道を使うしかないわけで、そこに海賊の出番があります。海賊鵜殿氏の本拠地は熊野川の河口にあり、蒲郡はこことも海の道で繋がっています(水色のルート)。もともと鵜殿氏が蒲郡に進出したのも、名目上は熊野神宮の地頭としてではありますが、実質的には南朝の海上連絡ルートを確保するための実効支配であったようにも思えてくるわけです。証拠は何もありませんが。

ということで、地政学的に考えた場合、蒲郡は陸地の拠点としてだけ活用するには勿体ない場所にあり、どうしても水軍の拠点として機能していたのではないかと思えてきます。蒲郡を水軍の拠点として考えたとき、竹島の地政学的な意味がどう見えてくるか。もう海賊の根城として機能していたとしか思えないわけです。証拠は何もありません。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??