【要約】ものづくりは、客観的・中性的な「モノ」の存在ではなく、ものづくりを巡る言説によって価値づけられます。女性たちの主体的なものづくりへの意志や創造性は、家父長的な規範の中で常に周辺化され、フェミナイズされた言説によって都合よく利用され、大きな力に回収されてきました。
【感想】女性のクリエイティヴィティということで私がいつも即座に思い浮かべるのは、コミケだ。このコミケですらフェミナイズされた言説によって男性原理に回収しようとする人々が後を絶たないわけだが、コミケが女性たちの創造への意志によって成り立ってきたことは疑いようがない。で、コミケがすごいのは、男性の欲望や眼差しを排除して、家庭や家族という規範を無視して、女性だけの欲望に基づいた言説空間が成立しているところだと思う。そして交換(商品化)に基づく経済というより、贈与(感情の共有)に基づく経済に近いようなイメージもある。まあ、こういう物言いも、女性がケア領域を担当するというフェミナイズされた言説に回収されていると反省するところか、さてはて。
で、問題の本質は個人的にはやはり資本主義だと思った。何でも商品化してしまおうという欲望渦巻く資本主義の圧力の中で、女性たちが蓄えた能力を商品化するための水路として「内職のススメ」が語られる一方、商品化が不可能(たとえば技術や購買力の不足による)な領域をフェミナイズされた言説によって家庭の責任(つまり家事)に押し付けるやり方。商品化できない仕事のことを「家事」と呼ぶとすれば、たとえば技術の発展による「商品化できるもの」の境界線の移動は、常に言説によって調整されることになる。本書が扱う「手芸」とは、その境界線を行ったり来たりするものだ。商品化できるとなれば仕事と職業の文脈で語られ、商品化できないとなれば家庭と趣味の領域で語られる。その境界線を決めるのは、あらゆるものを商品化しようとする欲望、つまり資本主義だ。今や性どころか人格や個性を簡単に商品化できてしまう世界において、本書が主題とする「フェミナイズされた言説」というアプローチは、「ものづくり」以外の領域を考える際にも極めて有効だと思った。創造や表現への意志は、知らないうちに何か大きな力に回収されていないか。
【個人的な研究のための備忘録】裁縫と人格形成
明治初期に女子裁縫学校の設立者として活躍した渡辺辰五郎の研究を進めている身としては、裁縫教育に関わる次の文章は無視できない。
「手芸を学ぶ過程は、その多くが技術の修得に費やされるが、手芸の言説は技術に言及することはあまりなく、女性の精神性――婦徳・高尚優美など――ばかりが語られる傾向にある。(中略)こうした考えは近代女子教育のなかでは広く認識されており、裁縫や手芸は、忍耐、綿密、節約、清潔を必要とするものであり、これらの何か一つでもかけては完全な制作品はできず、またこれらは家政に不可欠な徳だと考えられていた。つまり裁縫・手芸は女子の徳を育て、また徳が身につかなければ裁縫・手芸はできない、どこまでいっても針仕事と婦徳は相互に不可欠なものとみなされていた。」38-39頁
本書では下田歌子を引用しているが、裁縫と精神性を結びつける言説は、実は江戸時代から見ることができる。ご多分に漏れず、渡邊辰五郎も裁縫教育が「人格形成」に寄与するものだと言っている。だから問題は、その「人格形成」の具体的な中身である。「女性として」必要な徳を身に付けるのか、「人間として」必要な資質・能力を伸ばすのか、どちらなのかが問題となる。
ともかく本書が指摘する通り、歴史的には、そして日本に限らず、裁縫や手芸は女性が経済的に自立するための手段というより、家庭を回すための必須技術として婦徳とセットで理解されていた。そういう時代背景において、裁縫教育を合理化した渡邊辰五郎の仕事はどのように理解することができるか。
【個人的な研究のための備忘録】個性
高度経済成長期の手芸ブームを語るパートで「個性」という単語が大量に出現する。個性概念を追及している身としては、とても気になる。
「この言説から、団地への危機感は、画一化によって奪われる個性とみなされていることがわかる。それも文脈的には「主婦の個性」である。個性を奪われることが、人間性の否定につながり、その回復のためにこそ手芸が生かされるということになる。」169頁
「手芸家たちは家庭空間のあらゆる場所を、その場に適した手芸品で飾っていくことを是とした。それこそが個性の追求であり、画一性の回避であるからだ。」175頁
「手作り品によって個性を出すこと、つまり他者の暮しと差異化することは、手芸作家たちの大きな関心事であり、また受容者である高度経済成長期に生きる女性たちにとっては何によって人との差異化が図れるのかは重要な問題だったとも言える。」178頁
「また芸術品を分析することによって、手芸制作者の個性が刺激され、創作欲が生まれ、生活を豊かにするという目的が達せられるとも述べる。」178頁
「手芸をする主体であった女性たちも、自分の欲望に意味づけを必要とした。量産された材料に自らの労力をかけて唯一無二の手芸品を作ることによって、量産品に囲まれた家庭空間を個性的な空間へと変貌させるという、新たな手芸の意味づけであり、その使命をもつ者こそ主婦であるという新たな主婦規範であった。」182頁
美術史的には、既成工業製品に対する手仕事の尊重は、19世紀末ウィリアム・モリス等のアーツ・アンド・クラフト運動に既に見られる現象だ。(これが美術の普遍主義から各国の「個性」を尊重するナショナリズムに結びついてく展開は個人的にも追求したいテーマだ)。で、本書はアーツ・アンド・クラフト運動から遅れること70年、日本の高度経済成長期に手芸による「個性」の表現が盛り上がったことを伝える。これは、既成工業製品が日本人の日常生活に決定的な(悪)影響を及ぼすようになったのがイギリスから70年遅れたことを意味している、と理解していいところか。そして、この文脈で使用される「個性」が、19世紀末のナショナリズムにおいても、高度経済成長期の日本の主婦においても、普遍的な科学・技術への対抗・反発する「ロマン主義」的な土台を持つ言葉だと理解していいところかどうか。そう理解していいなら、高度経済成長期におけるロマン主義的な「個性」概念は、地域共同体から切り離されて島宇宙化していく近代家族概念と極めて親和的だ。そして70年代乙女チック少女マンガ(わたしらしいわたしの尊重)の流行も、この流れと絡めて理解したくなるところだ。
しかし翻って、この「個性」は、苅谷剛彦が言うところの階級間格差を隠蔽して「不平等を正当化する」ように機能する。本書のモチーフで言えば、ジェンダー間格差を隠蔽して「不平等を正当化する」ような個性だ。確かに個性は個性で間違いないのだが、往々にしてその個性にも序列があることが隠蔽される。本書で言えば、売れる個性と売れない個性がある。この「売れない個性」を慰撫してルサンチマンを冷却化するように「個性」という概念が機能する時、不平等な現実は正当化される。それを各個人が納得して受け入れられるかどうかは各人の性格と置かれた環境によるのだろうが、なんらかの社会的集団(たとえば本書であればジェンダー。他には学歴や地域、世代)に適用される場合は、隠蔽と無化のメカニズムを暴露しておいたほうがよいのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】自己実現
「自己実現」の用法もサンプリングしておく。
「女性たちが自己実現を目指して伝統工芸界に参入することは、生活の保障がなく、多大な労力が必要で、後継者がいなくなった伝統工芸界にとって、まさに苦境を打破するものと見なされている。」214頁
教育学で言えば「配分」の問題系で考えるところか。社会的な需要と個人の自己実現の折り合いをどうつけるか。少なくとも現状のキャリア教育の議論では、ここまで目配りできていない。途方に暮れる。
■山崎明子『「ものづくり」のジェンダー格差―フェミナイズされた手仕事の言説をめぐって』人文書院、2023年