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【要約と感想】小河織衣『女子教育事始』

【要約】明治維新以後、様々な領域で女子に対する教育が盛んになりました。キリスト教、語学、教員養成、音楽・芸術、医術の領域で女子教育の興隆に関わった先覚者や卒業生の活躍を紹介します。

【感想】理論的な話や分析はほとんどなく、もっぱら事例の紹介に終始している。素材のポテンシャルが高いために内容自体はおもしろく読めるのだが、いかんせん誤字が多すぎて、閉口する。OCRに失敗したような誤字が多いのはどういうことか。
 そして近代的な裁縫教育事始については一切の言及がなく、渡辺辰五郎について深めることはできなかった。

小河織衣『女子教育事始』丸善ブックス、1995年

【要約と感想】レナード・サックス『男の子の脳、女の子の脳―こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方』

【要約】男の子と女の子では、生物学的に脳の構造が異なっています。よって、同じ対象を見ても聞いても、感じ方や対応が異なります。男の子が乗り物など動くものに興味を持ち、女の子が華やかな色のものに興味を示すのは、脳の構造から導かれる自然な行動です。男女差は文化によって作られたのではなく、生物学的な根拠に基づいています。
この事実を知らないと、不適切な指導を加えてしまい、取り返しがつかない結果を招きます。男女の性の特質をよく踏まえて、もっとも効果的な働きかけを行なうよう、務めるべきです。男女別の教育を推進したほうが、ジェンダー・フリーな世界に近づくでしょう。

【感想】90年代頃からフェミニズムの論理に冷や水を浴びせかけているのが、本書に代表されるような進化心理学の立場である。男女の性差が文化的に生み出されたと主張するフェミニズムを、進化心理学は自然科学的な手法から徹底的に否定する。男女差は生物学的な基礎に基づく自然なのだと言う。特に脳の構造が決定的に違っているのだと言う。
まあ、自然科学的な根拠を持って言われてしまうと、なかなか否定するのも大変なわけだ。

とはいえ、本当の話は、そこから始まるのだろう。仮に自然科学的に男女差が存在しているとして、それはもちろん優劣の差を意味するのではない。単に「持ち味」の差であると理解するべきところだ。そしてもし「持ち味」の差が優劣の差に結びつくのだとしたら、どこかで何かが間違ってしまった可能性が高い。そして、どこで何が間違ってしまったかを判断するのは、進化心理学に期待される役割ではない。進化心理学が自然科学の手法にこだわるのであれば、価値判断の領域には越境してきてはならないのが原理原則のはずなのだ。

レナード・サックス『男の子の脳、女の子の脳―こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方』草思社、2006年

【要約と感想】木村育恵『学校社会の中のジェンダー―教師たちのエスノメソドロジー』

【要約】学校がジェンダー構造を再生産するという指摘は行なわれてきました。教育へ男女機会均等は実現しているにも関わらず、現実には男女で学業達成に大きな差が生じます。この原因が学校教育による「性役割の社会化」にあることは明らかになっています。本書が目指すのは、性役割再生産メカニズムに対して教師文化がどのように関わっているかです。それによって、個々の教師の意識を超えて、学校教育全体が担う「隠れたカリキュラム」を浮き彫りにし、自覚的な実践に繋がることを期待します。
具体的なアンケート調査や観察によって分かったことは、教育現場に相変わらず「性別特性論」が根強く、ジェンダーに関する議論や実践に停滞と揺らぎをもたらしていることや、学校段階や教科によって実践に偏りがあることです。教師集団自体に性別役割分業やジェンダー秩序が持ち込まれているとともに、他学級の実践や事情に介入しにくい教師集団の閉鎖的特質と官僚的集団同調圧力の下で教師個人の個性的な実践が行なわれにくいことが根本的な問題です。逆に言えば、教師同士のタテ・ヨコの関わりを持ちやすい教師文化を醸成すれば、ジェンダーに関する教育実践が深まっていくだろうと期待できます。
また、教員養成や研修において男女共同参画が大きなテーマとなっていないことも分かりました。理論と現場が乖離している原因はこのあたりにもありそうです。

【感想】「性別特性論」が極めて根強いのは、学生の様子を見ても伺える。「ピュシス=自然の法/ノモス=人為の法」の区別がまったくついていないし、区別をするという観念自体が存在していない。「人為の法」を人為と思わず「自然の法」だと誤認することは、単にジェンダーの問題だけでなく、民主主義(社会契約論)を成立させる際にも極めて大きな障害となる。なかなか厄介だなあと思う次第。

木村育恵『学校社会の中のジェンダー―教師たちのエスノメソドロジー』東京学芸大学出版会、2014年

【要約と感想】木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』

【要約】「ジェンダーと教育」をテーマとした研究の2009年時点での到達点を示すアンソロジー集です。膨大な関連研究のうちから代表的な23の文章を抜粋し、5つのテーマに配分して編集しています。
第Ⅰ部「ジェンダー・パースペクティブと教育研究の出会い」では、ジェンダーという視点や方法が教育学全体に対してどのようなインパクトを与えたかが考察されています。従来の教育学が男性視点に偏っていたことが明らかになると共に、見逃されていた新たな課題が提示されます。
第Ⅱ部「性別の社会化のしくみ」では、社会全般においてジェンダーが形成されるメカニズムを解析しています。おとなから一方的に性別役割が注入されるのではなく、子ども自身も主体としてジェンダー生成に関わっていく仕組みが明らかになります。
第Ⅲ部「学校教育におけるジェンダー形成」では、メリトクラシーや家庭環境要因を考慮に入れ、統計的な手法なども活用しながら、ジェンダー要因が学校文化や学歴達成や家庭の教育戦略にどのような影響を与えているかが明らかになります。
第Ⅳ部「ジェンダー視点からの教育史」では、ジェンダーの手法を用いることで近代教育史の通説に変容を迫り、家族と学校の関係について新たな視角を示しています。
第Ⅴ部「新たな動き」では、従来のジェンダー論では見逃されてきた様々なマイノリティとの関連が考察され、新しい課題と視角が提示されます。

【感想】本書は2009年時点での達成点を示すものではあって、それから10年経った現在では、本来なら情勢は変化していなければならないはずだ。が、残念ながら、本書はまだまだ有効なのだった。

たとえば具体的には、日野玲子「「ジェンダー・フリー」教育を再考する」という論文は、まだ示唆に富んでいる。現場では安易に「固定観念は取り除けることを前提としている」が、もともとジェンダー・フリー教育はそういう矯正を目ざすものではなく、「ジェンダー・バイヤスに気づくことによって、ジェンダー・コードから自由になる考え方を、子どもたちが身につけることを目的にしていた」(74頁)はずなのだった。現場が安易な実践に傾いていないか、いまでもチェック指標として意義があるだろう。
特に中西祐子「ジェンダー・トラック」で「学校が性役割観に基づく進路の「矯正力」を持つこと、それによって家庭での性役割の社会化効果を「打ち消す」ことは間違いない事実」(237頁)と明らかにされている以上、学校での実践はより意識的に行なう必要がある。
さらに村松泰子・河野銀子「理科好きな女子・男子を増やすために」で、「女子が理科から離れているのではなく、理科が女子から離れている」(354頁)という指摘には、ナルホドと思う。私の勤務校でも、彼女たちの専攻(栄養は被服)には絶対に理科の教養が必要なのに、理科が関わっていることを本質的に理解していない学生が多すぎるわけだが、しかしこれは中高の学校教育(特に家庭科)のあり方に問題があるのかもしれないと、改めて気がつかされたのだった。

あるいは、片岡栄美「教育達成過程における家族の教育戦略」が教えてくれる「男女の学歴決定メカニズムの構造は、異なっている」(163頁)とか「49歳以下の女性では、学校外教育投資は全く効果がみられない」という知見は、目の前の現実を考える上で極めて重要ではなかろうか。ドラえもんでしずかちゃんがバイオリンを習っていることを、われわれはどう理解すればいいのだろうか。そして2019年現在、男は学校外教育投資の効果が高く、女は家庭の文化資本の影響が大きいというデータに、変化はあるのだろうか。「女性は労働市場を通じた地位上昇の可能性がこれまで低かったことと、女性の地位維持や地位上昇が主として婚姻によって達成されてきたことと無関係ではない」という分析が正しければ、おそらく今も変化はないだろうと推測されるところなのだが。

そしてさらに、内田龍史「ジェンダー・就労・再生産」は迫力がある論文だったが、「専業主婦志向の女性には就労アスピレーションがそもそも見られないことが多い」という指摘と、「おそらくその背景にあるのは、「学校教育→職業達成」ルートからの「排除」であろう。」(380頁)という分析に、ナルホドと思う。勤務校で目にする女学生たちにも、そのままそっくり当てはまるのだった。彼女たちに「専業主婦になれないよ」と現実を教えてあげたところで、一方で労働市場から排除されている現実が変わらない限り、「専業主婦に賭ける」という生き方は変わらないのだろう。この「詰んでいる状況」を、どうすればいいのか。

本書に収録された論文は、本来はそろそろ「古典」になっていなければならないものばかりだ。それがまだ現役で役に立つとすれば、まるで変わらない現実の方に問題がある。

【今後の研究のための個人的備忘録】
やはり専門の日本教育史に関する記述には、引っかかるところが多い。それぞれもはや古典的な論文であって、いちど読んだことはあるのだが、改めて。
たとえば小山静子「良妻賢母思想と公教育体制」では、通説に対する批判が印象的だ。

「ところで、この時期の家庭教育論について、これまでの研究は、儒教主義に基づく家庭教育が次第に支配的になっていったとか、個性尊重主義家庭教育論が展開される一方で、それに対する儒教主義的立場や国家主義的立場からの批判が行なわれた、と総括してきた。しかしながら儒教主義的な特徴は希薄といわざるをえない。そしてこのような総括の仕方ではなく、むしろ、家庭教育が学校教育の対概念として措定されている点に、家庭教育論の特質を見出すべきなのである。」(270頁)

「良妻賢母思想の中心概念である「賢母」は、家庭教育が公教育の補完物として要請された時に登場してきたものであり、良妻賢母教育もまた、公教育制度の定着に伴う家庭教育の「近代化」が要請したものとして、とらえるべきであろう。」(274頁)

これらの記述はどうだろう? 個人的な経験を踏まえると、様々な点で素直に受け取ることができないのではあるが、具体的にどうこうしようとすると、「家庭教育」に関する多角的な史料収集が必要になってきて、意外に物申すのが難しい。要検討事項だ。

また沢山美果子「教育家族の成立」では、私の研究関心の中心にある「人格」観念に対する記述が気になるのであった。

「彼女たちの子育て、教育の目的は「子どもの人格をつくる」(鳩山)、「人格の完成、換言すれば人間として生きるための最善の道を会得する」(田中)ことに置かれ、それによって「将来の幸福」(鳩山)と、社会を「よりよく」(田中)生きることが目指される。では、「人格の完成」とは、また「よりよく」生きるとは、どう生きることであったか。鳩山は「自由は独立と同時に得られるものであるといふのが私の子供教育の方針の一つでございました」と述べ、田中は「よりよくと云ふことが教育現象の起る本源」と述べる。つまり、その目的とする「人格の完成」とは、自由=個人の解放と独立=個の自覚にあり、個人の解放と個の自覚を実現することが、個の社会を「よりよく」生きることに通じるのだというのである。
この「人格の完成」という教育目的のために「生活全部が教育」(田中)となる。」(302頁)

「しかし彼女たちは、自分たちはなし得たものの、人格形成と学力形成の統合が容易ではないことに気づいていた。」(303頁)

「この母親の発言に明らかなように、第二世代の親たちは学力と人格の統合が容易になし得ない現実、わが子の幸福な将来を願い、その願いを資本主義社会の中で実現しようとする時、人格形成と矛盾しかねない学力競争という競争原理が入りこむ矛盾に悩み始めているのである。そのなかで、学力形成については学校に頼らざるを得ない状況、学校教育の下請けとして家庭教育が行なわれる状況が進行する。学力形成と人格形成の矛盾が顕在化するこの時期、教育的マルサス主義と童心主義はこの矛盾を隠蔽する役割を果すものとして機能したのであった。」(308-309頁)

「人格の完成」という概念は、高等教育の文脈では阿部次郎や新渡戸稲造などの修養主義と絡めて言及されることが多いわけだが、実は家庭教育の文脈も重要であることが分かる。いちど全体的にさらっておいた方がいいかもしれない…

また一方で「個性」に関しては、次の記述も気になるところだ。

「教育的マルサス主義は、こうした大衆化状況のなかで、上昇できない部分に対しては、上昇できない現実的障害に向かうよりは、「素質」が悪いのだからという自罰の意識を、一方の極には、現実に開かれている上昇ルートを昇る原動力として働く。いい換えれば、資本主義社会の発展のなかで、労働の分業化が要求する人材配分とそれを正当化する「適材適所」のイデオロギーとして機能することとなる。」(307頁)

分業化と適材適所のイデオロギーは、いわゆる知能検査と連動しながら猛威を振るう。ここに「個性」という概念がどのように関わってくるかは、私の研究課題だ。

【眼鏡論に使える】
蔦森樹「ジェンダー化された身体を超えて―「男の」身体の政治性」(岩波講座『ジェンダーの社会学』収録)は、眼鏡論的に極めて興味深い。というのは、著者が<男>から<女>へとジェンダートランスしたときに実感した男と女の身体感覚の違いを表にまとめているのだが、その表に「眼鏡」という項目があって、男は「あり(太いべっこう)」とされるのに対し、女は「なし(コンタクトレンズ)」とされているのだ(146頁)。そしてさらに「性を理由にして否定されたと感じていた「身体を含めた」自分の可能性のほとんどが、出産以外は自分で行える。」(147頁)とも言う。彼女は、自分の意志で眼鏡を外して女性性を獲得したと主張しているわけだ。要するに彼女にとって「眼鏡を外す」という行為は、男性性を否定して女性性を獲得するという象徴的な意味を担っているのだ。これが当事者視点の証言は、極めて貴重だ。
すると、「「男でもなく女でもなく」というジェンダーのない世界を夢想したが、夢から覚めると、この身体も属するジェンダー・グループも常に女か男かのいずれかに即刻還元されるのであった。二元性の言語体系そのものが「私」の限界である事実を認めるまで、また認めてもなお、その苦しい心の状態が続いた。」(145頁)という記述も、眼鏡論的に興味深く読める。彼女の言う「二元性の言語体系」と「眼鏡ON/眼鏡OFF」という眼鏡の排中的な二元性は、極めて親和性が高いのだ。
彼女が言う「身体のジェンダー化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事」(147頁)とは、眼鏡にも当てはまる。身体の眼鏡化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事に他ならない。それは「見る主体=眼鏡ON」と「見られる客体=眼鏡OFF」を峻別する権力なのだ。

木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』日本図書センター、2009年