【要約】アウグスティヌスは、近代的な意味での「個」の思想が生まれた出発点です。人は、伝統的な共同体から切り離されたとき、はじめて「私とは何か?」という問いに直面します。そしてアウグスティヌスが活躍したローマ帝政末期とは、まさにそういう時代でした。アウグスティヌスはその問いに対して誠実に真正面から取り組む過程で、神と対面することになりました。それは鏡を通して自分の見慣れない不気味な顔と対面するような奇妙で居心地の悪い体験でありつつ、告白の言葉が自分に折り重ねられて内側に向かい、向かい合わせの鏡に映る顔のように何重にも畳み込まれて重層化します。そして「告白」というものが愛する人に対して行なう行為であるように、「私とは何か?」を問う相手は「愛している者」です。だから誰を愛しているかさえ分かれば答えは分かったも同然かと思いきや、「愛する者」と「私」が合わせ鏡にように無限の問いを生み出して、結局「私とは何か?」という問いに答えが出ることはありません。それが近代的な「個」というものの有り様でしょう。
【感想】アウグスティヌスの概説書ではない。アウグスティヌスを題材として切り口に使っているところまでは間違いないが、言っている内容は徹底的に著者本人の興味関心に即している。アウグスティヌスについて情報を仕入れようと思って本書を繙いた人はおそらくガッカリすることだろう。
が、個人的には非常におもしろく読んだ。というのは、「一」の思想について示唆に富んでいる本だったからだ。そして「一」とは「無限」であり「特異点」でもあることを改めて確認したのであった。「一」を「一」たらしめるためには何らかの「特異点」が絶対に必要になるのだが、その「特異点」が論理必然的であることは「一」そのものからは証明することができず、論理は「無限」のトートロジーに陥るしかない。そしてそれは合わせ鏡に映る景色のようなもので、論理的に無限であることは分かりつつも、有限な人間の身においては無限を見通すことなどできず、実際に認識できるものは有限回のうちに留まる。その認識が有限回で行き着く限界のそのまた先にあるだろうものがいわゆる「神」というもので、理論的には絶対にあるはずなのに、人間の感覚では捉えることが不可能という。しかしまあ、いわゆる「神」と呼ばれている何かが合わせ鏡に映った像の向こう側にある何かであり、そしていわゆる「私」と呼ばれるべきものが合わせ鏡に映った像を認識している何かだとしても、合わせ鏡の中にいる「それ」が何なのかは結局は分からないのであった。いやはや、合わせ鏡の思考実験と比喩はなかなか優秀なように思う。自分でも使っていこう。
【今後の個人的研究のための備忘録】
「一」に関する表現サンプルを得た。ありそうでいて、なかなか多くないので、貴重だ。
「私というものもまた、そのようなありかたをしている。私の一つの身体には、たとえば二本の腕があり、そこにはそれぞれ五本の指があり、ずっととんで細胞レベルまで行けば、身体全体でおよそ60兆もの細胞があるらしく、その各々がまたそれぞれに多を含む。心のなかにはいつもさまざまな思いが去来し、その思いの一つ一つがまた、さらに微細な感情や思い出や期待や欲望を秘めている。一人の私、一つの心とは言っても、それはとりとめようもないほど多くの多からなっており、にもかかわらず、一人のこの私である。」pp.35-36
まあ、プラトン『国家』やアリストテレス『形而上学』から問題となっていることで、哲学の本丸ではある。が、実はこの本丸にダイレクトに突っ込んでいくような論述は、あまり多くないように思っていたりする。
また、「告白」に関する言質も得た。ちなみに個人的には、「告白」に関する論述というと、直ちにフーコー『性の歴史Ⅰ』とか柄谷行人『日本近代文学の起源』を想起するところではある。
先に内面があって後に告白という行為があるのではなく、先に告白という形式的な行為があって後に内面が作られるという、フーコー=柄谷図式とはどう響き合うか。内面があって愛が生まれるのではなく、愛があって後に内面が生じるということかどうか。
■富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』NHK出版、2003年