【要約と感想】苫野一徳『子どもの頃から哲学者』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】いやあ、おもしろかった。一気に読んだ。感動した。いい本だ。
客観的に言えば、メジャーな哲学者の思想を要所でわかりやすく織り交ぜながら、それら哲学思想が他人事の空論などではなく、自分の人生の問いに深く関わっていることを示してくれる、実践的な哲学案内書ではある。が、過剰に溢れ出る実存的情念の渦が、単なる哲学案内書の枠を超えている。私もずっとマンガ家になりたかったのを、最終的に断念したのが修士2年の時だったからなあ。いやはや。

で、社会有機体論について。先日『どのような教育が「よい」教育か』の感想で、社会有機体論に対する構えが弱いことが気にかかるというようなことを書いたばかりだけれども。しかし本書を読むと、実は著者自身がもともと熱烈な社会有機体論者であり、いま打ち出されている個体論的世界観は転向後に培われたものであったという事情が、よく分かる。例えば以下のような文章がある。

「何もかもが、一つになって溶け合うイメージ。すべての感情を同時に感じたことで見えた「心」。そしてまた、すべての人類が互いに溶け合い、結ばれ合っていた「人類愛」。」(124頁)

もう、そのままドンピシャでなんの疑いもなく有機体論者だったわけだ。著者はこの有機体論的世界観を、哲学的思考によって乗り越える。その過程は感動的だ。で、感動的なのはともかく、論理的に言えば、『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ時点では理解できなかったのだが、本書の記述を参照軸に組み入れると、どうして著者がモナド的世界観を無条件な前提にしつつも社会有機体論への構えを見せないか、その事情が極めてよく分かる。もともと著者が社会有機体論的傾向を持っていたところ、特異点(具体的には不可知論)との遭遇によって世界観が反転したという経緯がポイントだったわけだ。
著者がヘーゲルを推す理由も、なんとなく分かった気になっている。ヘーゲルの論理は、私の理解では、モナド的世界観と社会有機体論をダイナミックに架橋するという点で、確かに無比の迫力を持っている。社会有機体論から特異点を通じてモナド的世界へ反転するという著者の人生経験そのものが、モナド的世界から特異点を通じて社会有機体論へと反転するヘーゲルの弁証法的な記述に呼応しているような気がする。(ちなみにヘーゲルが用意した特異点こそ「家族」とか「子ども」であって、個人的には教育学という学問の拠って立つ論理的基盤はこの特異点にあるような気がしている)
180頁から記述される「青春三部作」の中身も、概要だけ見ても社会有機体論的な世界観であることがよく分かる。「生きながら全臓器を他人に移植する」(181頁)の下りは、もはや比喩でも何でもなく、そのまま「有機体」の話になっているし。
もともと有機体論者だった人が反転してモナド的世界観を体得したのであれば、おそらくもう一度反転して有機体論に戻ることは考えにくいところではある。敢えて有機体論に対する予防線を張っておく必要を感じないのは、こういう事情によるのだろう。

とはいえ、どこにどういう「特異点」が待ち構えているかは、人生、分からないものでもある。特にルーマンあたりは、恐ろしい特異点を用意しているような気もする。天皇制を無謬の体系とする日本論・日本人論が組み合わさると、なかなか手強い。日本の民主化に絶望してモナド論から社会有機体論に吸い込まれていった人たちは、けっこうたくさんいる。それこそ80年前の『近代の超克』とか。私個人としては、こっちへの予防線を張ることにエネルギーを費やしているうちに(岡倉天心や陸羯南の研究)、気がついたら本道で使うべき時間を失いつつあるという感じではある。著者には、余計な予防線を張ることにエネルギーを浪費することなく、本道で邁進してもらいたいと思ってしまった。

苫野一徳『子どもの頃から哲学者―世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』大和書房、2016年