朝日新聞の「公立小中、独自配置の教員1万人」記事に対して、教育学者として思うあれこれ

朝日新聞DIGITALの記事で、「公立小中、独自配置の教員1万人 多忙化解消など図る」という記事が配信されたが、強い違和感を抱いたので、思ったことを記す。

教員加配は多忙化解消のためなのか?

記事では、「各教委が国の定数では不十分だと判断し、独自の予算で定数を超える教員を配置している」と言っている。それ自体は事実としても、理由の説明に疑問がある。記事では教員数を増やすのは「教員の多忙化」のためだと言っているが、私はそう聞いていない。私が聞いた理由は、「少人数学級の実現」だったり「特別の配慮を必要とする生徒への対応」だったり「教育困難校対策」だったり「習熟度別指導」の実施だったりした。「多忙化」への対応というのは、最近打ち出された「働き方改革」に伴って出てきた理由だろうが、その前からずっと教員加配は行われてきた。多忙化解消という理由は、ミスリードの可能性が高い。
そして、この記事のミスリードが問題になるのは、事態の本質が見えなくなるからだ。

人件費の国庫負担が3分の1ということ

記事中では、しれっと「人件費も3分の1を国庫で負担している」と書いているが、実はここに問題の焦点があることに触れないといけない。15年ほど前は、国の負担は2分の1だった。残りの2分の1は、各自治体が負担していた。ところが、小泉改革の「三位一体改革」によって、教育的な効果についての議論がほとんどされることもないまま、国の負担が3分の1に切り下げられた。地方の負担が3分の2に増えた。
差し引き6分の1だとバカにしてはいけない。地方財政を最も圧迫しているのは、公教育費なのだ。公教育費負担が6分の1増えると、ただでさえ貧窮していた地方財政を破綻に追い込みかねない額になる。
もちろん、政府もそんなことは承知していて、代わりに「地方交付税交付金を増やす」と約束していた。だから地方は「義務教育費国庫負担が減っても、代わりに交付金が増えるから問題ない」と考えていた。が、ふたを開けてみたら、地方交付金は増えなかった。2000年に総額21.4億円あった地方交付税は、2016年には20.5億円となっている。地方交付税交付金は増えず、義務教育費の補助金が減っただけだった。
が、もちろん政府もそんなことは承知していて、「税源を地方に移す」と約束していた。これが「三位一体」というやつだ。というわけで、2007年から所得税が減り、住民税が増えることとなった。そして地方は「ふるさと納税」をめぐって熾烈な争いを繰り広げ始めた。税源を確保して潤う自治体も出てきた。しかし一方、破綻したり破綻寸前の自治体も出てくることになる。一般的に言って、地方財政は大赤字に追い込まれていく。今日配信の記事「「誰も関心がない」自治体財政で、今何が起きているか」を読むと、複雑な気分になる。

自治体の格差拡大が、義務教育を壊す

簡単にまとめると、小泉改革の結果、金持ちの自治体と貧乏の自治体で、格差がかなり広がった。この貧富の差が教育の質を直撃する。国の決めた定数を超えてさらに教員数を増やすことができるのは、もちろん金持ちの自治体だ。貧乏な自治体は国の補助金を当てにできない以上、教員を増やすことはできない。だから、地方ごとに教育の質に差が出始める。全国一律平等だった日本の義務教育の基盤が崩れつつある。それを見越した裕福な親は、公立学校から脱出して、子どもを私立学校に入れたがるようになる。私立学校に行く裕福な家庭の子供と、公立学校から脱出できない子どもの学力格差が広がっていく。
つまり、教員数の問題は、もともと「教員の多忙化」とかそういうレベルの話ではなく、税金と結びついた制度の問題として把握されなければならないのだ。義務教育の危機として理解されなければならない問題だ。(いま義務教育が持ちこたえているとしたら、様々な圧力を受けながらも公立学校の先生たちが頑張っているおかげだ。それこそ多忙を極めながら)

非正規雇用教員の増加

そして同時に問題なのは、各自治体が単に教員定数を超えて「独自配置」をしているわけではないということだ。実際には、正規教員の数を削って、非常勤や臨時採用といった非正規雇用の数を増やしているに過ぎない場合が多いはずだ。たとえば正規教員を2人雇うお金で非正規教員を3人雇えるという場合、正規を切って非正規にすれば、見かけ上の教員数は一人増えるわけだ。記事では、このカラクリがまったく見えてこない。
確かに、各自治体が教育予算を独自に付け加えて正規雇用を増やしているのであれば、教育の質にとってはとても良いことだろう。しかし実際は、「少人数学級の実現」や「教育困難校対策」や「習熟度別指導」の実施を目指して行われた教員数増加は、だいたい非正規採用枠の増加によってまかなわれた。あるいは、正規教員の給料切り下げによって財源が確保された。馳浩が2009年の参議院文部科学委員会で指摘したとおりだ。(馳浩は、教育の金を確保するために、かなり頑張って仕事をしているように思う)。

問題の本質は、時間ではなく、金

そんなわけで、この問題を取りあげる場合、「時間」に焦点を当てるのは、100%間違っているというわけではないが、問題の本質に目を覆う結果になる恐れが強い。問題の本質は、「金」にある。誰が誰に金を払っているのか、という問題だ。「誰が」については、国と地方の責任のあり方の問題になる。義務教育費国庫負担を3分の1に切り下げたのは、果たして正解だったか。ややもすれば世間は学力低下を「ゆとり教育」のせいにしがちだが、実は「教育に金を出すのを渋った」のが本質的な原因だった可能性を疑っていいのではないか。「誰に」については、正規雇用と非正規雇用の問題になる。非正規雇用の増加とその悲哀の実態は、「教室を覆う格差と貧困」を参照だ。
確かに「教員の多忙化」が解決すべき大きな問題であることに間違いはないが、それは「独自配置1万人」とは別種の問題である可能性が高いわけだ。

 

※1/22追記 同じような趣旨の批判記事がアップされていた。妹尾昌俊「先生の数が多少増えても、学校は忙しいままだ