教育学Ⅱ(龍ケ崎)-10

■龍ケ崎キャンパス 12/11(月)

前回のおさらい

・物事を深く考えるということはどういうことか。
・「深く考える」とは、単に答えだけを知っている状態ではなく、そこから新しい問いを引き出して次のステージに登ることができる姿勢である。この「問い」を生み出す姿勢がないと、人間は成長しない。誰かから答えを与えられるだけで満足していると、同じステージに留まるだけで、成長は止まる。
→指導者は、常に「問い」を生み出す姿勢を促すために、「問い」を受け止め、許容し、一緒に考える雰囲気を作る必要がある。
・「人間には主体性があるが、動物は調教や命令によって動くだけ」という命題の吟味。
→「理想の自分」を思い描かせ、「目的」を内側から引き出す。「理想」や「目的」がない者を成長させることは、どんな有能な指導者にも不可能である。自分の胃や腸で栄養素を消化しない者に、外からいくら栄養素を与えても意味がない。
→目的を達成するための適切な「手段」は外からいくらでも与えられるが、「目的」を外から与えることは不可能である。指導者は「モデル」を見せ、憧れを与えることしかできない。

これまでの作業の振り返り(3)

対話的に考える

・これまでやってきたことは、一つは「対話的に考える:interactive learning」のトレーニングである。
・単に「対話的に考えよう」と言っても身につかないので、実際に作業を行いながら具体的に考えてみた。
・「人間とは何か?」という問いは、「対話的に考える」うえで、極めて有効に働く。対話的に考えなければ分からないからである。
・しかし「人間とは何か?」という問いはレベルが高かったようなので、「スポーツとは何か?」という問いに変更した。

対話的でない考えとは?

・「対話的でない考え」とは、単に思い込んでいるだけにもかかわらず、それが正しいと勘違いしているような状態である。
・自分が正しいか間違っているかは、自分一人だけでは判断できない。自分を客観的に見られないからである。自分の「外」からの働きかけ(対話)によって、初めて自分が間違っていることに気がつける。
・「書く」ということの意義。自分の「外」に出て、「外」から客観的に見ることができるようになる。自分自身との対話。
・「対話的でない考え」がダメなのは、いつまでも自分の間違いや勘違いに気がつかないからである。
・「対話的でない考え」がダメなのは、独りよがりになるからである。

「対話的に考える」とは?

*ソクラテス:紀元前399年に処刑されたギリシャの人物。
・無知の知:自分は何も知らないという自覚。
・産婆術:自分は何も知らないにもかかわらず、対話相手から知が生まれるメカニズム。
・汝自身を知れ:本当に知るべき重要なことは、自分自身についてであるということ。対話の過程から、自分自身に対する「本物の知」が生じる。

指導者として気をつけること

・「対話」のないところに成長はない。
・「対話」とは、答えを一方的に与えることではない。適切な「問い」を投げかけることで、自分自身の視野が狭かったことに気づかせることである。
・「答え」は相手が自分で見つけてくるが、その答えの全てが有効なわけはないし、全てを無条件に認める必要もない。間違っている場合もある。指導者が生徒と一緒になって、しっかり吟味する必要がある。
・吟味の過程で、さらに相手が「答え」を発展させ、「問い」へと結びついていくと、大きな成長に結びつく。

命題の吟味

人間にはスポーツをする余裕があるが、動物は生きるために精一杯で余裕がない。

・肉食動物が走るのは、獲物を捕らえるとき。草食動物が走るのは、逃げるとき。何らかの目的があって、走る。人間は、どんなときに走るのか? →走るために走るとき、走ること自体が目的となっている。
・人間に余裕ができたのはいつか? →狩猟採集から農耕文明へ。貯めることができるようになる。(しばらくは生活の大半を「保存食」の生産に費やすが)
・余裕=スコラ→スクール。生産活動に携わる必要がない上層階級だけが「勉強」あるいは「スポーツ」できる。

・人間がスポーツを始めたのはいつの頃か。鎌倉時代に武士がやっていた「流鏑馬」はスポーツか?
・「登山」はスポーツなのか。平安時代に山伏が山に登っていたのは、スポーツか? 「蹴鞠」はスポーツか?
・一方、古代ギリシアで行われていた競技(古代オリンピア)はスポーツなのか? マラソンは?
→戦争とスポーツ。宗教とスポーツ。
・戦争や宗教と切り離されたときに、スポーツはスポーツとなる。「何かのため」に行うのではなく、「それ自体のため」に行う。