永青文庫で開催された「くまもとの絶景―知られざる日本最長画巻「領内名勝図巻」―」(2025年4/26~6/22)を観た。「領内名勝図巻」は保存状態がいいのか修復されたのか、色味も抜群ですこぶる見応えがあった。図巻の成立は寛政5年(西暦1793年)で、肥後熊本第八代藩主・細川斉茲(1759~1835)の発注による。この寛政5年は、ちょうど松平定信が老中を退くタイミングに当たる。
この図巻が興味深いのは、「風景を描く」という在り様において、自然そのものを主題にするという、近世初期までには見当たらない新しい視点を提供してくれるところだ。室町から江戸初期にも風景画のように見える作品もなくはないが、広く見られるのは雪舟様式の山水画であり、題材となるのは中国南部の山深い仙境や瀟湘八景、あるいは瀟湘八景に範をとった近江八景、もしくは歌枕にゆかりのある吉野の桜や龍田の紅葉、八橋といったところで、富士山ですら積極的に画材に選ばれることはほとんどなかった。つまり、題材に選ばれるのは漢詩や和歌に詠まれて文学的な意味を持つ場所であり、視覚的に美しい固有の風景そのものはインスピレーションの源となっていない。またあるいは、狩野派の四季図や長谷川等伯の松林図屏風など美しい自然を描く作品はあるが、抽象化・一般化・象徴化された自然を屋内環境で再現・経験することに重きを置いており、どこか実際にある固有の風景を写し取ろうという関心は読み取れない。一方、「領内名勝図巻」に描かれている風景は、肥後領内の名所ではあっても、まったく伝統的な歌枕ではない。肥後の殿様が領内を巡検して実際に見て感動した固有の「風景」そのものが画材となっている。また図巻には、滝の高さや大きさなど各所に説明のための文字が書きこまれているが、禅画のような賛が入ることもなく、人文地理的ではなく素朴な自然地理的な関心が先に立っている。室町期までには見られない、極めて新しい感性のように思う。
また興味深いのは、細川斉茲が江戸参勤交代の折に司馬江漢の絵や地球儀を手に入れているという事実だ。司馬江漢は江戸期蘭画の代表者として知られておいる。府中市美術館で開催(2025年3/15~5/11)された「司馬江漢と亜欧堂田善 かっこいい油絵」も観に行ったが、展示されていた風景画は室町期までの伝統的な日本画とは決定的に異質だった。もちろん使用する絵の具にしろ、遠近法やグラデーションのような技法にしろ、あらゆるところが異質なのだが、そもそも何を書くかという画材の選択から異なっている。印象的なのは、江の島を題材としたたくさんの風景画だ。司馬江漢はよほど江の島を気に入っていたのか、様々な角度から何枚もの江の島の絵を描いている。ちなみに室町期までには江の島を弁財天信仰の対象として描いた「江島縁起絵巻」のようなものはあるにせよ、信仰を度外視して自然の風景そのものに関心を注いだのは司馬江漢からだろう。室町期までの例外として雪舟の描いた「天橋立図」が思い浮かぶが、それは実在の風景を元にしたとはいえ、仏教的象徴を帯びて理想化された空間として構成されており、現地の地誌的特性にはあまり重きが置かれていないように思える。司馬江漢の江の島に対する関心は、細川斉茲が肥後領内の風景に注ぐ関心と立場や手法は異なるものの、いずれも信仰や伝統的典拠に依存せず、実際に見た固有の風景を視覚的主題とするという点で、先駆的な風土意識を共有していたように思える。細川斉茲が司馬江漢を贔屓にしたのには必然的な理由があったように思える。
そして細川斉茲はこの図巻を、江戸参勤交代時に同じ趣味を持つ水戸や紀州の藩主に見せる意図があったという。寛政期には肥後の殿様と同じく風景に関心を注ぐ上流階級が江戸に形成されつつあったらしいが、この細川の行為は結果として自領の風景を「国家的に共有可能な風景」として提示する意味を持った。
一方、葛飾北斎「富嶽三十六景」は天保2年(1831年)頃、「東海道五十三次」は天保4年(1833年)頃ブームになっている。これ以前に「風景」を主題とした浮世絵は見当たらない。ちなみに旅行ガイドのような名所図会は宝暦年間前後から登場するが、定型化するのは天明〜寛政年間で、これは細川斉茲や司馬江漢の活動時期と一致する。自然風景への関心が藩主レベルの上流階級や日本蘭画の作家に発生してから40年後に一般庶民レベルに広がったことになるが、タイムラグを置いて連続した現象と見るか、あるいは独立した事象とみるところか。化政文化期における商業出版の隆盛とも関わってきそうなテーマではあるが、いちおうタイムラグがあったことだけは気に留めておく。
さて、近代に入って、「風景」を特別のテーマとして扱ったのは、もちろん志賀重昴『日本風景論』(1894年)だ。本書は「風景」を個人的な経験として特権化する近代的なまなざしに特徴があると同時に、世界における「日本」の個性をも前面に打ち出していることが重要だ。近世までにもある風景を文学的な象徴として共有する基盤はあったが、それを国家のアイデンティティと明示的に結びつける視点は、志賀以前には体系化されていなかった。確かに日本には中国や朝鮮とは異なる政権があることは自覚されていたものの、その特徴については中国や朝鮮と異なる「ナショナリティ」に基づく違いではなく、あたかも中国古代の斉や楚や秦や韓といった国々が「君主の徳」によって異なっていたのと同じような違いとして理解されていた。人々の風俗や生活習慣の違いに関心が持たれていなかったわけではないが、それが国家の個性を支える要素だとは理解されていなかった。瀟湘八景を近江八景として翻案するように、中国の文化的伝統は何の障壁もなく日本の文学表現に翻案され、中国における君主の徳はそのまま日本の君主の徳として翻案された。風景が国家のアイデンティティや国民の精神性に関わるとは、まったく理解されていなかった。それを転回させたのが志賀重昴だが、もちろん彼の完全な独創というよりは、近代的な国家観が成熟したことによる、ある一つの表現型として理解するべきところだろう。同じような表現型として、正岡子規の俳句・短歌論があり、岡倉天心の日本美術論がある。
しかしやはりナショナリズムが成立する前提として、日本を何らかの統一体として理解する視点は近代以前に既に育まれていたように思う。林子平の海防論(1787年)しかり、伊能忠敬の日本全図(1821年)しかり。「領内名勝図巻」という地方(熊本)の風景を描いた作品が参勤交代制度を通じて江戸(東京)で共有されるという経験は、文学的な表現の対象となってこなかった地域の風景を改めて日本という国家的空間の中に埋め込み、日本を何らかの共通性を持つ統一体として理解するうえで重要な土壌となっていたのではないか。さらに庶民による伊勢詣・富士講・善光寺詣といった聖地巡礼は、地理的に隔たった場所を身体的かつ精神的に結びつける。
さて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」とは、新聞などの印刷物によって、地理的に隔たった人々が同じ時間・空間を共有しているという感覚を抱き、共同体の一員としての自覚を深める、近代特有の精神的構築物である。しかしその基盤には、近世以前から育まれてきた「移動する身体」「地図としての空間」「共有される地方風景」という三つの要素があった。これらがそろっていなければ、たとえメディアがあっても、「想像の共同体」はそう容易には形成されないのではないか。










