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【要約と感想】三浦清一郎『不登校を直す ひきこもりを救う』

【要約】ひきこもりはただの甘えなので、家族から隔離して第三者が他律的に厳しく叩き直して、耐性をつけましょう。

【感想】いやまあ、なんのエビデンスもないのに、思い込みと独断と偏見だけで、勝手に決めつけられるもんだなあと。ひとつの臨床事例もなく、ただいくつかの本を読んで自分の価値観に合っているものを褒めるという、研究にも何もなっていない、唖然とする本であった。

三浦清一郎『不登校を直す ひきこもりを救う―原因の分析とその対処法は間違っていないか?』コミュニティ・ブックス、2017年

【要約と感想】山折哲雄『いま、こころを育むとは―本当の豊かさを求めて』

【要約】いま、世の中がおかしくなりつつあります。かつてのリズムと古典を学ぶことが必要です。

【感想】学ぶべきところが多い本であり、著者の教養の深さと誠意については疑うところではない。が、それでもやはりデタラメなところはデタラメであると指摘しておく必要もある。
著者は、最近の事件が若年化・凶悪化しているという、統計に基づかない主観的な思い込みと勘違いを主張した上で、「おそらくわれわれの伝統的な社会は、独自の価値観によってその殺意をコントロールしてきたはずです。」(156頁)と、間違いを重ねる。明らかにウソだ。平安後期から鎌倉時代は、殺伐たる殺し合いの時代だった。戦国時代の大量殺人や切腹など、わけの分からない人命軽視の風潮をどう理解するのか。江戸時代だって、些細なことから簡単に命のやりとりをしていたのが日本人だ。間引きなど子殺しが横行していたのも周知の事実だ。忠臣蔵のようなテロ行為に喝采を送り、幕末の京都でテロ行為を繰り返したのは、日本人だ。現代の問題を考えるためには、日本人が歴史上「殺意をコントロールなんてしていなかった」ことを前提にしなければいけない。

【今後の研究のための備忘録】
「個性」に関する興味深い言質を得た。

「自立の精神が大事だということが、戦後教育、民主主義教育の最初のところにしっかりすえられていました。人間はそれぞれ個性を持っている。その個性を大事にして、磨いて、この自立を実現しなさい、と。」(167-168頁)
「個とか個性とか個の自立というものは、もちろん大事だと思います。しかし、これは全てヨーロッパから輸入した考え方です。言葉も全部、翻訳語です。ヨーロッパの市民社会がつくり出した価値観でした。」(168頁)
「そのことについて、あるとき、はたと気がついた。西洋人の個性という言葉に当たる、日本列島の大和言葉は何かないのか。大和言葉に、西洋の個性という言葉に対応する言葉があるとすれば、個性とは何かを解くための重要な入口になるのではないだろうか。そう思ったんです。
そして、そのときに自然に頭に浮かんできた言葉がありました。西洋人が考えた個性、個というものに、まさにぴったり対応するような伝統的な大和言葉。それは、「ひとり」という言葉ではないかと思いついたのです。」(169頁)

ナルホド、というところである。さすが一日の長がある人の言うことは違う。

「西洋社会において二百年、三百年の歴史しか持っていない「個」という問題と、日本列島において千年以上つづいてきた「ひとり」。この言葉を突き合わせ、それこそ比較をして、輸入語としての「個性」の中身を、この「ひとり」という、日本人が千年以上の間培ってきた伝統的な価値観によって埋めていく必要があったのではないか。」(170頁)

ただし、こう決めつけられると、ハテナというところではある。西洋人は、それこそプラトンとアリストテレスから徹底的に「個」についての思索を深めている。そしてその伝統は、一神教の「一」の追究に引き継がれていく。著者が言う「二百年、三百年」というのは、教養を欠いた言い草であるように思われる。
まあ、親鸞、尾崎放哉、種田山頭火、高浜虚子を例に出して「ひとり」概念を追究していくところは、おもしろく読める。

山折哲雄『いま、こころを育むとは―本当の豊かさを求めて』小学館101新書、2009年

【要約と感想】鹿嶋真弓『教師という生き方』

【要約】教師はたいへんですが、やりがいのある仕事です。喜びを一度知ったら、やめられません。特に、学級担任の仕事が醍醐味です。
教師として生きるには、「情熱」に加えて、「技」が必要になります。その技として、構成的エンカウンターは効果的です。崩壊した学級を立て直してきました。
女性の教員は確かに大変ですが、担任としては「当たり」です。

【感想】前向きで、元気が出る本だ。学級経営の際に具体的に役に立ちそうな技も紹介している。特に教員を目指す女性にお薦めの本かもしれない。大学生になってからではなく、高校生のうちに読んでおくといいのかも。
出産や育児に関して、状況はいくぶん改善されているので、そのあたりはフォローしておいたほうがいいのかも。

鹿嶋真弓『教師という生き方』イースト新書Q、2017年

【要約と感想】若江眞紀『協育のススメ―戦略的教育CSR×学校』

【要約】これからの時代は、企業による教育CSRが重要になります。なぜなら、社会が求める人材が大きく変化したのに、保守的な学校現場が変わろうとしないからです。民間企業が教育に関わることで、これからの時代に必要な能力を伸ばすことができます。
企業の方もCSRの考え方を転換し、単に商品を売る市場と考えるのではなく、中長期的な観点から、発展的継続が可能な活動として、教育に関わっていきましょう。企業と学校がwin-winの関係になりましょう。

【感想】CSRとはCorporate Social Responsibilityのことで、「企業の社会的責任」を意味する。これまでのCSRは環境問題や労働問題に取り組むところが多かった印象だ。本書は、CSRとして企業が教育支援活動に関わることを勧める。単なる机上の空論ではなく、実践的に現場に関わってきた人の話だけあって、なかなか説得力がある。

最新学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」というキーワードの下、学校と地域社会が連携していくことを求めている。学習指導要領には「民間企業」の影は薄いのだが、現実的には民間企業の役割を無視することはできないだろう。民間企業も交えて、地域社会と学校が連携していこうとするとき、本書で示された知見と数々の実践例は大いに参考となる。
企業のほうが大きく変わろうとしている昨今ではあるが、さて一方、学校や教育関係者の意識は如何だろうか。

若江眞紀の教育共感net
教育CSRメソッド
株式会社キャリアリンク

若江眞紀『協育のススメ―企業のブランドコミュニケーションの新たな手法』カナリア書房、2014年

【要約と感想】森口朗『誰が「道徳」を殺すのか』

【要約】グローバル化が進み、日本国内でも貧富の差が拡大することは避けられません。格差を受け容れましょう。他の国ならクーデターが起こりそうなものですが、日本では発生しません。なぜなら道徳教育がしっかりしているからです。貧富の差が拡大しても国民がおとなしくしてくれるよう、道徳教育をすすめましょう。

【感想】まあ、道徳教育を推進しようとしている人の本音がどのあたりにあるか、とても分かりやすくしてくれたという意味において、意義のある本なのかもしれない。

【ツッコミ】
本書は独断と偏見と思い込みと勘違いの塊で成り立っていて、全体的にツッコミどころは多いのではあるが、さしあたって左右問わず多くの人に役に立つかもしれない指摘を、専門家の立場からしておいてもいいのかなと思う。

本書は以下のように主張しているが、完全な事実誤認である。

「もちろん、教育勅語が愛国心を否定する反日的なものであるはずもなく、国民に愛国心があることが前提となっていたのでしょう。」(94頁)

デタラメである。教育勅語には、愛国心は一切書かれていない。そもそも当時の国民の大半に、愛国心は確認できない。というか、もともと教育勅語は「国民」を想定していない。教育勅語は一貫して「国民」ではなく「臣民」と言っているではないか。臣民は愛国心など持たないし、持つ必要もない。臣民に必要なのは「忠誠心」である。だから、正確に言いたいなら、「国民に愛国心がある」ではなく「臣民に忠誠心がある」と言わなければならないところだ。

まず教育勅語を作成した中心人物は、元田永孚と井上毅である。儒教主義者の元田は、そもそも近代国家の何たるかを一切理解していないし、理解する気もない。元田がイメージしているのは、儒教が理想とする古代中国の国家である。古代中国には、もちろん「愛国心」という概念など微塵もない。あるのは、「忠君」である。教育勅語を貫くのは、近代的な「愛国」概念ではなく、儒教的な「忠君」概念である。
そしてその場合、もちろん国家を構成するのは「国民」ではない。想定しているのは、君主に忠誠を誓う「臣民」である。元田が想定しているのは、国家を構成する国民を育成することではなく、君主に忠誠を誓う臣民を育成することである。愛国心のために君主を裏切るなどということがあっては、いけないのである。実はこの時点で「愛国」を謳っていたのは、むしろ反政府運動の側であった。高校生でも知っていることだが、「愛国公党」や「愛国社」を名乗ったのは、薩長政権に反対した自由民権運動の側であった。愛国を旗印に掲げたのは、明らかに反政府側であった。もちろん元田はその愛国的な自由民権運動を憎々しく思っている。元田の儒教主義にとって、愛国心は必要ないどころか、有害な概念である。
著者はこのあたりの勉強をどうやらまったく疎かにしているらしいが、こういう基本事項を知らずに教育勅語について語るのは、教育勅語の歴史的意義を分からなくさせるだけの迷惑行為なので、ぜひ自己抑制していただきたいところだ。

続いて井上毅だが、彼は大日本帝国憲法に関わった法制官僚だけあって、近代的な考えをしっかり持っていた。教育勅語に憲法や法律に関する記述が含まれるのは、井上の功績と言える。元田一人では、逆立ちしても出てこない文章である。
とはいえ、この時点で井上毅も「愛国心」という概念を理解していなかった。というか、ほぼすべての日本人が「愛国心」という概念を分かっていなかった。保守派が近代的な「愛国心」を理解するのは明治19年の西村茂樹「日本道徳論」あたりからであって、勅語渙発の明治23年段階では日本全国に広がっていなかったのである。井上も御多分に漏れない。
実は「愛国心」が表面に出て来ているのは、教育勅語ではなく、むしろ同年に出された「第二次小学校令」の中にある「国民教育」の規定である。明治19年の小学校令(森有礼によるもの)と明治23年の小学校令を比較すれば、この間に「愛国心」が広がっていった様子が伺える。文部官僚が作成した近代的な「第二次小学校令」には「愛国心」が表現され、儒教主義者が作成した儒教的な「教育勅語」には「愛国心」ではなく「忠誠心」が表現されているのである。
井上毅が「愛国心」を根本的に理解するのは、シュタインの国家学論理に触れてからである。周知の通り、伊藤博文が欧州憲法調査の際に、もっとも頼りにした学者がシュタインである。その後、明治20年前後に、若手官僚や学者のシュタイン詣でが盛んに行なわれた。そこで初めて日本人は「ナショナリズム」の意味と効果を理解することになる。「ナショナリズム」とは、徹底的に近代的な論理なのである。
井上が直接シュタインと会うことはないものの、書籍を通じてシュタインの国語論に触れ、感激したことが、史料に残されている。教育勅語渙発の時点では、「愛国心」について本質的に理解していなかったと考えられる所以である。

このあたり、近代的な概念である「愛国心」や「ナショナリズム」というものがなかなか日本に根付かなかったことについては、私が学術論文で論証を試みているところである。著者の思い込みと勘違いを正す参考になれば、幸いである。
「明治初期における伝統の保守-国民教育の背景」
「明治10年代の美術における国粋主義の検討」

森口朗『誰が「道徳」を殺すのか―徹底検証「特別の教科 道徳」』新潮新書、2018年