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【要約と感想】大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

【要約】大村はまの国語教室で実際に受けた授業を振り返り、さらに教育学的に考察を加え、「教えること」の重要性を再確認します。近年のいわゆる「新学力観」によって、教えることを躊躇する教師が増えましたが、とんでもない間違いです。一方的な詰め込みも、ただの放任も、どちらも教育の本質を見失っています。
しっかりと「教える」ためには、目の前の一人一人の子どもの個性を理解し、それぞれに適した教材を用意し、「てびき」を作って「考える」ためのきっかけをお膳立てし、それぞれの躓きを把握するために適切な評価を行ない、さりげなく背中を押すことです。教師は楽をしてはいけません。

【感想】なかなか凄い組み合わせの本だ。奇跡的な繋がりと言ってもいいのかもしれない。(まあ、教育界隈にいる人じゃないと、どこがどう奇跡的なのか分からないとは思うけれども……)

著者の組み合わせから受ける期待に違わず、中身もエキサイティングであった。昨今(といってももう15年前か)の「新学力観」に真っ向から立ち向かい、実践面と理論面の両方からばったばったと薙ぎ倒していく様は、かなり痛快だ。まあその痛快さは、ブーメランのように自分自身に突き刺さってくることになるのだけれども。

ともかく「教育の本質」を考える上で、侮れない本であることは間違いないように思う。私自身も、いろいろ反省しなければならない。

「研究者という、考えることのプロであるはずの大学教師でさえ、教員養成課程の学生たちに考える力をつける授業ができているかどうか。生きる力が大事だというわりには、大学の授業も心許ない。」193頁
「「生きる力」を唱える教育学者の授業が、案外と学生たちに考える力をつけさせない、退屈で一方的な授業にとどまっているという皮肉な例も少なくないようだ。」209頁

あいたたた。

【言質】
「個性」とか「自己実現」に関する多角的な言質を得た。

「夏子:もう一つ、子どもの自主性とか個性、創造力というのが、じょうずにてびきをしたぐらいで損なわれるかという問題があるかと思う。どう思いますか。私は自分では損なわれた気などしていないけれども。
大村:損なわれない。」124頁

「教育関係の審議会の答申などでも、教育は子どもたちの「自己実現」をめざすものだとか、教師の役割は、生徒の「自己実現」を支援するといったような文章が登場することが多い。」201頁
「これと似た例に、「個性」がある。教育の世界で多用される個性ということばは、実に多義的に使われている。いろいろな意味を帯びているのに、それでも会話が成立してしまう。ちょっと考えてみると、不思議ではないか。」204頁

苅谷は、「自己実現」や「個性」という言葉が、内実を伴わず、イメージと雰囲気で流通している様を浮き彫りにする。まあ、言うとおりなんだろう。が、個人的には、それを現象として認めた上で、さらに一歩本質的に先を行きたい気分ではあるのだった。

【個人的研究のための備忘録】
「学力」に関する言及も、メモしておく。もちろん、新学力観を批判する文脈である。

「学習のための条件ともいえる「関心、意欲、態度」を、「学力」の一部に組み入れたことで、目的と手段との関係はあいまいになってしまった。」188頁

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』ちくま新書、2003年

【要約と感想】大村はま『教室に魅力を』

【要約】教室にいる子ども全員が実力を発揮して伸び、成長を実感できるのが、魅力ある教室です。現在の学校では、遅れた子どものケアばかりに集中し、優秀な子どもがほったらかしにされているのが問題です。
子どもの自主性に任せるだけでは、子どもは伸びません。教師が適切に背中を押していく必要があります。それをしないのは、教師の怠慢です。
魅力的な教室を作るためには、子ども一人一人を知り、教師が楽をしないことが重要です。

【感想】圧倒的な実践者である。生半可な覚悟では、この人に対して何も言うことができない。ものすごい迫力だ。

技術的には、もちろん「単元学習」から学ぶべきものが極めて多い。現代のいわゆる総合学習の先駆けのような実践である。
しかし単に子どもの興味関心に寄りかかって教師が何もしないのではなく、適切な指導が入るところが特徴だ。一人一人の子どもの個性を理解し、適切な教材を用意し、授業中にはさりげなく背中を押し、子どもの学力実態を把握するための適切な評価を行なう。抽象的にまとめるとこうなるが、具体的な実践を目の前の子どもに合わせて積み重ねてきた過程が極めて尊い。

「同じ教材、同じ方法、これがいちばんまずいと思います。スタートラインが一緒で、同じ教材で、同じ方法でしたら、同時にゴールにはいらないのが、あたりまえです。」30頁

いま、イエナプランのような個別学習が流行の兆しを見せている。まあ外国の魅力的な実践を参照することは確かに大切ではあるのだが、それと同時に、日本には大村はまがいたことを知ることも大事なはずだ。

大村はま『教室に魅力を』国土社、2005年<1988年

【要約と感想】小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか』

【要約】答えを知っている者(教師)が答えを知らない者(学生)に質問する形の授業では、本来の学びが促進されません。学生たちの「解釈フィルター」と「活用エンジン」を活性化させることが大切です。そう考えると、現在の授業研究には危機感を抱かざるを得ません。
理性には限界があるので、理性的な対象を想定した授業研究は、生きる力の活性化には意味がありません。一回性こそが尊いのです。

【感想】学校で語られがちな「キレイゴト」の数々に鋭いツッコミを入れていく。なるほどなあ、と思うことも多い。「こうやって論点をズラすのね」と、教養の深さと視野の広さに感心するところもあったりする。
とはいえ個人的には、著者がとりあげなかった問題にこそ、問題の本質があると思ってしまうところでもある。具体的には、本書は「資本主義の本質」に切り込んでいくような論点を意図的に避けているように見えた。いわゆる進歩主義的教育が言いがちなキレイゴトに対する論評が鋭いだけに、現実そのものに切り込んでいかない態度に対しては釈然としない違和感を抱えてしまうところではある。
まあ、本書では「理性」の限界を示しながら「非合理」や「矛盾」に耐えることを推奨しているところなので、こういう非合理な姿勢も受け容れて、学べるところだけ学ぶのであった。一回性が尊いことについては、私も教育に携わる者として、意見を同じくする。本書との邂逅も、実に一回性のなせる業である。いやはや。

【言質】近代と学校の関係に関する言質を得た。大雑把に言えば「近代の終わり」に対する言及だ。

「近代国家は、整備された統治組織と独立を維持するための軍隊とそして一つの国家のもとにつどう国民の存在を必要とした。その国民を創出するために、学校教育という近代公教育がスタートする。すなわち学校は軍隊と同じ使命のものち編み出されてきた近代化のための装置であったのである。」183頁
「近代の荒波に船出していくには、学校という強制の場に子供たちを集め、一定の到達目標を掲げて「国民」を育成していくことは避けて通れない道であった。」184頁
「したがって、近代教育と近代工業はほとんどアナロジーが可能である。」185頁
「近代国家、軍隊と学校、近代科学、近代工業は、たがいに影響しあいながらそれぞれの発展の道をたどってきた。それは、合理、分析、規格、統制などをキーワードとする壮大な歴史絵巻とも言える現象であった。」186頁
「いじめや不登校などのいわゆる教育問題のそれぞれにはそれぞれの背景はあろうが、巨視的にみた場合、教育問題なるものは、近代の装置としての学校と眼前の子供が生きる「現代」とのミスマッチが、もはや限界に達していることの現れである。」186頁

学校と「近代」の密接不可分な関連性を明らかにした上で、脱近代化された「現代」においては学校はもはや不必要になってきたという、いわゆる脱学校論の文脈で理解できる文章である。
このミスマッチに対する解答は、高知で行なわれた「脱藩」という取り組みを具体例として、「一回性」というキーワードで示される。

「すべてのことが一回性である。「一回だけこれっきり」ということはすばらしいことなのだという発想に立たなければ「脱藩」の意義は読み解けない。近代教育学に縛られているかぎり読み解けない。」187頁
「教育というのは本来再現可能性などなくてもよいのではないか。子供を学校という教育空間に囲い込み、必ず再現できる事どもだけを与えていくというのは、むしろ貧しい発想ではないのか。」

うむ。ディルタイが100年前には指摘していることである。ボルノウの仕事は60年ほど前か。いずれにせよ、思いのほか近代学校の息は長いのであった。

小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか―「現代の諸課題と学校教育」講義』東信堂、2012年

【要約と感想】大前孝夫『子どもの疑問を大切に―考える力・探究心・対話する力を培う』

【要約】これからの時代は、「質問」することが大切になります。疑問を持たなければ、考える力は育ちません。子どもが安心して質問できるようになるには、子どもの疑問に大人が全力で応える必要があります。分からない時も、子どもと一緒に考える姿勢を見せていきましょう。
実際に小学校での各教科(生活・算数・社会)で子どもの疑問を大切にした授業の展開例や、連絡帳を利用した活動例を示してあります。

【感想】確かに、大学生を見ていても思うのだが、「質問力」が異様に低い。これまでの教育で「答え」を出すことのトレーニングばかりして、「問う」ことのトレーニングをほとんどしてこなかったことが分かる。
これからの時代、「問題」さえ見つかれば、あとはAIが解いてしまうような時代になってくる。AIには、「解答」を導くことはできても、「問題」を見つけることはできない。人間の独創的な仕事は、「解答」を見つけることではなく、「問題」を提出することになるだろう。「解答」だけ出すトレーニングをしてきた人間は、これから先、必要なくなってくるように思う。
(たとえば将棋研究にAIが導入されていることは広く知られているが、そもそも「課題局面」を見つけられないような人間にはAIを活用することが不可能ということ。)
「問題」を見つけられる人間を育てるためにも、小学校から「疑問」を大切にする授業や取り組みをすることはとても大切になってくるのであった。

大前孝夫『子どもの疑問を大切に―考える力・探究心・対話する力を培う』丸善プラネット、2016年

【要約と感想】森山善之『誰にでも分かる英語の教え方―英語教育にコペルニクス的転回を』

【要約】「読み取りカード」という独自のツールを開発して英語教育に取り組んだところ、生徒の成績は伸び、やる気も増進しました。ポイントは英語の語順を自然に身に付けることです。語順が変わっても意味が通じるという日本語の特性をうまく利用しました。

【感想】現場で工夫を重ねて独自にツールを開発した努力が、とても尊い。こういう現場の先生たちのオリジナルの工夫は、もっともっと奨励されてよい。ツール自体の効果はともかく、ツールを独自に開発する努力を重ねて授業に臨む態度と姿勢そのものが、きっと生徒たちに感銘を与えることになる。知恵と時間と愛情がツールとして具体的な形になっているところに、口先だけでは生じない説得力が発生する。私もがんばろう。

森山善之『誰にでも分かる英語の教え方―英語教育にコペルニクス的転回を』近代文藝社、2010年