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【要約と感想】深井智朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで』

【感想書き直し2022/2/12】実は著者が論文の「捏造」をしていたことが、読後に分かった。捏造していたのは他の本ではあるが、本書が捏造から免れていると考える根拠もない。信用できない。読後の感想で、「論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている」と書いたが、それがまさに研究にとって極めて危うい姿勢だということがしみじみと分かった。今後、本書から何か引用したり参考にしたりすることは控えることにする。

【要約】一口にプロテスタンティズムといっても内実は多様で、ルターに関する教科書的理解にも誤解が極めて多いのですが、おおまかに2種類に分けると全体像が見えやすくなります。ひとつは中世の制度や考え方を引き継いで近代保守主義に連なる「古プロテスタンティズム」(現代ではドイツが代表的)で、もうひとつはウェーバーやトレルチが注目したように近代的自由主義のエートスを準備する「新プロテスタンティズム」(現代ではアメリカが代表的)です。前者は中世的な教会制度(一領域に一つ)を温存しましたが、後者は自由競争的に教会の運営をしています。

【感想】いわゆる教科書的な「ルターの宗教改革」の開始からちょうど500年後に出版されていてオシャレなのだが、本書によれば「1517年のルター宗教改革開始」は学問的には極めて怪しい事案なのであった。ご多分に漏れず、ドイツ国家成立に伴うナショナリズムの高揚のために発掘されて政治的に利用された、というところらしい。なるほど音楽の領域におけるバッハの発掘と利用に同じだ。そんなわけで、でっちあげとまでは言わないが、極めて意図的な政治的利用を経て都合良く神話化されたことは、よく分かった。
 古プロテスタンティズム=ドイツ保守主義、新プロテスタンティズム=アメリカ自由主義という区分けも、やや図式的かとは思いつつ、非常に分かりやすかった。ウェーバーを読むときも、この区分けの仕方を知っているだけでずいぶん交通整理できそうに思った。
 全体的に論点が明確で、情報が整理されていて、とても読みやすかった。が、分かりやすすぎて、逆にしっかり眉に唾をつけておく必要があるのかもしれない。(もちろん著者を疑っているのではなく、自分自身の姿勢として)。

【研究のための備忘録】中世の教会の状態と印刷術
 そんなわけで新書ということもあって、論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている。ありがたい。
 まず、宗教改革以前(というか「印刷術」以前)の教会の状態を簡潔に説明してくれている本は、実は意外にあまりない。

「また人々は、教会で聖書やキリスト教の教えについての解き明かしを受けていたわけではない。たしかに礼拝に出かけたが、そこでの儀式は、すでに述べた通りラテン語で執り行われていた。一般の人々には何が行われているのかわからない。もちろん人々の手に高価な聖書があるわけではない。仮にあったとしても、聖書はラテン語で書かれているので理解できなかった。」p.28

 こういう印刷術前の状況は、「教育」を考える上でも極めて重要だ。たとえば印刷されたテキストそのものが存在しない場合、今日と比較して「朗読」とか「暗誦」という営み、あるいは「声」というメディアの重要性が格段に上がっていく。そういう状況をどれくらいリアルに思い描くことができるか。
 で、現代我々がイメージする「教育」は、「文字」というメディアが決定的に重要な意味を持ったことを背景に成立している。もちろん印刷術の発明が背景にある。ルターの見解が急速に広がったのも、印刷術の効果だ。

「ルターの提言は、当時としては異例の早さでドイツ中に広まった。(中略)この当時は、版権があったわけではないから、ヨーロッパ各地で影響力を持つようになっていた印刷所や印刷職人が大変な勢いで提題の複製を開始した。」p.45
「いわゆる宗教改革と呼ばれた運動が、すでに述べた通り出版・印刷革命によって支えられていたことはよく知られている。ルターはその印刷技術による被害者であるとともに受益者でもある。」p.49

 これに伴って「聖書」の扱いが大きな問題になる。

「一五二〇年にルターはさまざまな文章でローマの教皇座を批判しているが、その根拠となったのは聖書である。(中略)しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖につながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。
 この問題を解決したのは、一つはグーテンベルクの印刷機である。写本ゆえに高価であった聖書が印刷によって比較的廉価なものとなったからだ。しかしなんと言っても重要なのはルターがのちに行う聖書のドイツ語訳である。(中略)これは画期的なことであった。聖書を一般人も読めるのである。文字が読めなくても朗読してもらえば理解できる。」pp.58-59

 本書では「近代」のメルクマールを人権概念や寛容の精神に求めていて、もちろんまったく問題ないが、一方でメディア論的にはそういう法学・政治学的概念にはまったく関心を示さず、印刷術の発明による「知の流通量増加」が近代化を促した決定的な要因だと理解している。「教育」においても、印刷されて同一性を完璧に担保されたテキストが大量に流通したことの意味は、極めて大きい。

【研究のための備忘録】フスとの関係
 ルターの主張と宗教改革の先輩ボヘミアのヤン・フスの主張との類似性は明らかだと思うが、教育思想史的にはコメニウスとの関係が気になるところだ。フス派だったコメニウスにはどの程度ルター(あるいはプロテスタンティズム)の影響があるのか。本書で説明される「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」の説明を踏まえると、コメニウスの主張にも反映していないわけがないようにも思える。(先行研究では、薔薇十字など神秘主義的な汎知学との親和性が強調されているし、そうなのだろう。)

「エックは、ルターがフスの考えを一部でも支持して、フスは正しかったと言ってくれれば、それでこの二人は同罪だと指摘すべく準備していたのだ。エックは事前にルターの考えを精査し、ルターとフスの考えの類似性を感じ取っており、また内容それ自体で勝負しようとしているルターを陥れるとしたら、この点だと確信していたのである。」p.54

【研究のための備忘録】中世と近代
 で、歴史学的な問題は「中世と近代の境界線」だ。はたして「宗教改革」は中世を終わらせて近代を開始したのか。本書は懐疑的だ。

「トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。」p.107
「近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。」pp.108-109

 ということで、本書は中世の終わりをさらに後の時代に設定している。それ自体は筋が通っていて、なるほどと思う。とはいえ、メディア論的に印刷術の発明をメルクマールに設定すると、いわゆる「宗教改革」は派生的な出来事として「知の爆発的増加」の波に呑み込まれることになる。このあたりは、エラスムス等人文主義者の影響を加味して具体的に考えなければいけないところだ。

【研究のための備忘録】市場主義と学校
 教会の市場化・自由化・民営化を、学校システムと絡めて論じているところが興味深かった。

「「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教史上の独占状態を前提としているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提としているという点である。」p.112
「それ(古プロテスタンティズム:引用者)はたとえて言うならば、公立小学校の学校区と似ているかもしれない。」p.113
「その点で新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけではなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。」p.117

 現代日本(あるいは世界全体)は、いままさに学校の市場化・自由化・民営化に向けて舵を切っているが、コミュニティ主義からの根強い反対も続いている。なるほど、これはかつて教会の市場化・自由化・民営化のときにも発生していた事態であった。つまり、教会改革の帰結を見れば、学校改革の帰結もある程度予想できるということでもある。

【研究のための備忘録】一と多
 本書の本筋とは関係ないが、「一と多」に関する興味深い言葉があったのでメモしておく。

トレルチ講演原稿の結び「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」p.208

 カトリックの思想家ジャック・マリタンの発言との異同を考えたくなる。

【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)

【要約と感想】西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』

【要約】自然科学の考え方で、生徒の行動や考え方を観察して、帰納的に原理原則を考えれば、自ずと学校の在り方が見えてきます。校則は必要ありませんし、定期テストや制服も必要ありません。「ひとつの校長ルール」とは、誰かが勝手に決めたルールを無条件に信奉して演繹的に思考するのではなく、帰納的に物事を考えるということです。

【感想】物事を考えるルールは「帰納的に思考する」ということだが、根底にあるのは、子どもを一人の人間として扱い、人格を尊重するという、人権感覚だ。「大人/子ども」を区別することなく、境界線を引くことなく、徹底的に子どもたちを一人の人間として扱う。この土台が揺らがないから、教師や生徒たちも安心してついていくことができるのだろう。この理念がなかったとしたら、帰納的な自然科学思考を徹底したとしても、たいした成果は挙がらないだろう。徹底的な人間愛の理念の下で大きな成果を挙げた手腕には、ただただ頭が下がる。すごい。

カント・ヘーゲル以降の近代的人間観においては、「大人」と「子ども」の間には確固たる境界線が引かれ、「未成熟な子ども」は一方的に「理性的な大人」の指導を受ける立場だと考えられてきた。その基本的なOSの上に、学校制度を中心とする近代教育は形成されている。「大人/子ども」の厳密な区別を前提として、初めて近代学校制度は動くように組み立てられている。
しかし近代的な「大人/子ども」の峻別は、50年ほど前から向こうになりつつある。大人は決して理性的でないし、子どもは必ずしも未成熟でないという理解が説得力を持ちつつある。1989年「子どもの権利条約」は、子どもを一人の人間として認めようという理念の集大成となった。それに伴い、既存の近代的価値観に寄りかかる学校制度は機能不全を起こしつつある。近代的な「大人/子ども」の区別が説得力を持たなった現代だからこそ、「子どもを一人の人間=おとな」として扱うという根本的な価値転換が大切になってくる。
本書は、根本的な価値転換の在り方を、具体的な形で丁寧に示してくれる。とても貴重な実践だ。現実には賛否両論があるのだが、表面的なところでこの実践を否定している人々の意見は、実にくだらない。「近代的価値観」の是非にまで踏み込んで、初めて賛否両論を検討することに意味がある。

西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』小学館、2019年

【長野県松本市】開智学校は建築も展示も資料もすごい

松本市にある旧開智学校に行ってきました。2019年9月、国宝に指定されました。

洋風建築を見よう見まねして作られた、擬洋風建築を代表する建物です。土台部分は煉瓦造りに見えますが、実は木造で、漆喰によって模様をつけているだけです。

授業料や校舎建築費の自己負担に憤って学校を焼き討ちしてしまう地域もある中、長野県では住民がお金を出し合って学校を作っています。開智学校のような先進的な校舎を作り上げてしまうというのは、並大抵の気合いではありません。教育にかける期待がいかに高かったかを伺えます。

正面玄関の彫刻が、とてもユニークですね。唐破風に付けられた校名額の天使が愛らしいのかどうか。

訪れたのは国宝指定の一ヶ月前のことでしたので、この時点ではまだ「重要文化財」です。

中に入ることもできます。2階の講堂は、なかなか豪華な作りですね。

展示も充実しています。国定教科書の紹介など、近代教育の流れが大まかに分かるような展示内容になっています。

専門的にいっても興味深い展示がいくつかあります。たとえば開智学校では、明治32(1899)年に特別学級が設けられています。

この場合の「特別学級」とは、特に障害児教育を意味していません。ビネー式の知能検査が開発普及するのはもう少し後のことです。
展示パネルで興味深いのは、「料理屋への方向や芸妓修行で学習時間の確保が困難な女児のための裏町特別学級」という記述です。一般的には日露戦争前後に就学率が100%近くになったと言われていますが、現実的には特別学級のような「抜け道」が用意されることで、就学率が見せかけ上100%に近づいていただけということが伺えます。長野県だけではなく、東京や大阪の工場地帯でも事情は同じです。この時点でも、子どもは「労働力」として期待されており、学校へ行って勉強できるのは必ずしも当然のことではありませんでした。

また明治31(1898)年には「子守教育」も始まっています。

現在では子育てを担うべきなのは専ら母親であると思いこまれていますが、当時は母親が子育てなどしていませんでした。母親に期待されていた役割は、子育てではなく「肉体労働」でした。子どもを産んだ翌日には、母親は畑に出て野良仕事を開始しています。
では誰が子育てをしていたかというと、子どもたちです。子どもが子どもを育てていました。それがよく分かるのが「子守」という言葉です。開智学校に展示されている写真は、なかなか衝撃的です。

子どもを背負った子どもが、輪になってフォークダンスをしているところでしょうか。子どもを背負いながら授業を受けている写真は、開智学校だけでなく、日本各所で見ることができます。
現在、「日本では昔から母親が子育てをしてきた」と主張する人がいますが、こういう写真を見れば、一発でウソだと分かります。子育てをしていたのは、子どもです。大人は働くので精一杯でした。そして母親が働くので精一杯で子育てにまで手が回らないという事情は、実は現在でもさほど変わっていません。変わったのは、子育ての責任を母親だけに押しつける風潮が強くなったところです。

ところで、開智学校がすごいのは、建築や展示だけではありません。一般の見学者が立ち入りできない資料保管所があって、そこに研究者垂涎の資料がたっぷり残っているのです。
特に個人的には、明治年間の「教案」が大量に残っているのがありがたいです。教案とは、現在で言えば「指導案」のようなもので、個々の授業の目的や段取りを現場の教師がデザインしたものです。教育雑誌に掲載されている模範的な授業案ではない、現実に使用された生の教案が残されているというのは、実証研究にとって本当にありがたいことです。

ところで展示で以下のようなパネルがあったので。

「哲学概説」の「二」は、おそらく「実態」ではなく「実体」ですね。物質的な実体と精神的な実体の二元論が特徴だと答え、日本的哲学(西田幾多郎など)において一元化されたと批判することが期待されているのでしょう。
「大化改新」については、現在なら中大兄皇子実行犯説は怪しいとか、黒幕は実は孝徳天皇だったとか言いたくなります。当時であれば、豪族支配を終わらせて天皇制を確立した端緒というふうに答えるべきところなのでしょう。同じく、「建武中興」について、現在では後醍醐天皇の政策の是非について荘園など土地経済制度を踏まえて答えるところですが、当時であれば天皇制の理念に沿って回答することが期待されていたはずです。歴史的事実を正確に知っているかどうかよりも、国体思想に素直に適応しているかどうかが試されている問題ですね。テストが行なわれた昭和12(1937)年は、盧溝橋事件から日中戦争が泥沼化していくタイミングでした。
(2019年8月訪問)

ブロトピ:国内旅行

【北海道札幌市】北海道開拓の村で教育と近代について考える

 北海道開拓の村に行ってきました。札幌駅からだいたい45分くらいで着きます。
 開拓の村は、歴史的建築物の復元展示をしている野外博物館です。愛知県にある明治村や、小金井にある江戸東京たてもの園と同様のコンセプトです。
 一日いても飽きない、たいへん素晴らしい空間でした。

 展示はたいへん充実していたのですが、私の仕事に絡めて教育関係だけ記録しておきます。

 北海中学校の校舎は、明治42(1909)年に建築されました。

 北海中学校は、札幌農学校へ優秀な人材を送り込むことを主目的とした私立中等教育機関でした。明治18(1885)年に北海英語学校として設立された時は、学校の名前に「英語」とついているとおり、英語の修得を主目的とする予備校でした。というのは、当時最先端の学問を日本語で学ぶことは不可能だったからです。札幌農学校で最先端の農業を修得するためには、その条件として英語を身につけていることが必須でした。

 校舎のスタイルは、木造と鉄筋コンクリートの違いがあるとはいえ、基本的には昭和まで引き継がれる形ですね。

 建物内には北海道の教育に関する展示が行なわれています。教育について考えるときは、ついつい無意識に東京を中心にしてしまいがちですが、北海道の事情は東京都はもちろんまるで違っていました。基本的に開拓事業が優先され、教育は後回しにされます。森有礼が明治19(1886)年に小学校令を出して現在の義務教育の基礎を作ったことはよく知られていますが、北海道では就学期間が短くてもよい「簡易小学校」を中心に展開することになります。
 初代北海道庁長官に就任した岩村通俊は、明治20年にわざわざ「教育ノ程度ヲ低フス」という施政方針演説を行なって、殖産工業重視の姿勢を強調しています。子どもは学校で勉強するのではなく、労働力として期待されています。

 他にも様々な違いがありますが、特にアイヌの存在は極めて重要でした。「母語ではない日本語」を教え込むというコロニアルな仕事が教育に課せられていたわけです。

 簡易小学校やアイヌの日本化が進められている一方で、この私立北海中学校は日本の近代化に貢献するエリートを養成するための学校として期待されていました。近代という時代の両極を感じられる、軽く目眩のする空間となっております。

 続いて下の写真の建物は、学生寮です。札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」です。

 なんだか馴染みのある佇まいだなあと思っら、東大駒場寮と雰囲気がよく似ているのでした。木造と鉄筋コンクリートの違いはありますが、形や雰囲気はよく似ているように思います。

 下の写真にある「畳ベッド」も、駒場寮にあった畳ベッドを彷彿とさせます。

 展示されている案内パネルもたいへん充実しており、見応えがありました。自治寮としての誇りを感じさせる内容となっております。「落書」はおもしろいですね。駒場寮の落書きもなかなかのものだったことを思い出します。

 他にもたくさん見所があるのですが、ボリュームが多すぎてまとめきれません。
 ともかく、同種の野外博物館との決定的な違いは、「近代の影」を垣間見ることができる点だろうと思いました。たとえば明治村は、文明開化に向かう若々しい高揚感を感じられる場所です。開拓の村でも、札幌市街を中心とした都市部の展示(写真館とか新聞社など)にはそういう若々しいエネルギーを感じることができます。
 が、開拓の村には辺境フィールドも設定されていて、ここが類似博物館との大きな違いとなっています。

 たとえば上の写真は「平造材部飯場」です。都内の飯場も同じような感じだったのでしょうが、北海道の厳しい自然環境の中で一人あたり畳一枚の生活は、さぞ大変だったことでしょう。
 また、下の写真は、入植者が最初に建てた「開拓小屋」です。

 寒風吹きすさぶ苛酷な北海道の自然をこれで切り抜けたかと思うと、かなり驚きます。近代国家として国土開発を進めるというとき、最前線はこうだったのかと。

 馬車鉄道が行き交う風景は、のんびりとしたものです。

 しかしこういう都市生活の裏で、最前線を支える人々の苛酷な仕事があったことが、よく分かる博物館です。そして実は現在もあまり変わっていないのでしょう。
(2018年5/21訪問)