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【要約と感想】村井実『人間の権利』

【要約】人間の権利とは、天から与えられた自然なものではなく、人々の訴えによって歴史的に作られてきた道徳的なものです。

【感想】天賦人権説を否定したところから、どのように新たに権利の体系を土台から構築していくかという課題に挑んだ、新書で扱うにしては意欲的な作品に見える。素朴に天賦人権説で話を進めようという人が現在もけっこういるけれども、18世紀ならともかく、21世紀の現在ではそこそこ無理筋だったりする。天賦でなくとも人権の意義を打ち出せるような論理が必要なわけだが、そういう意味では、50年以上前の本書にも大いに存在意義があると言えそうだ。人権というものが様々な人々の努力の積み重ねによって歴史的に構築されてきて、そして我々もそれを引き継いで、不断の努力によって引き継いでいこうという意志が必要となる。人権は天から与えられた「自然的」なものではなく、人間が作っていく「歴史的」なものだという認識と自覚を持たねば、民主主義は簡単に崩れる。

村井実『人間の権利―あすの生き方を思索する』講談社現代新書、1964年

【要約と感想】村井実『ソクラテスの思想と教育』

【要約】ソクラテスの思想と行動は、教育的な視座から見るのがもっともわかりやすい。

【感想】冒頭での著者の宣言に、感銘を受ける。「この「教育」的視点こそ、過去においてさまざまの研究者によってとられてきた「道徳」的、「政治」的、「哲学」的等の視点に比して、あるいは歴史的ソクラテス像を描き出すのに最もふさわしい中心視点であろうというのが私のひそかな確信なのである」(p.iv)。いやあ、よくぞ言ってくれました。私もまったく同じ考え。ソクラテスを統一的に構想しようとすると、教育者として描くことがもっとも相応しいと思う。まあ難しいのは、近代以降の「教育」という概念でもってしては、ソクラテスの思想と行動の全範囲をカバーした気にはなれないというところではあるけれども。もっと適切な言葉が欲しいところではあるけれど、やっぱりそれは今のところ「教育」と呼ぶのがもっとも適切なんだろう。

その教育的な視点は、ソクラテスとプラトンの考えを峻別する観点をもたらす。『国家』は全編が教育計画構想を示している著作なわけだけど、ここでプラトンが提示している教育計画は、ソクラテスの対話的教育からはるかに隔たっている。その要点のまとめが、とてもわかりやすい。個人的には、特に「エロス」や「魂」や「弁証法」といった概念がまるで異なっていることに薄々気がついていたつもりだったが、おかげで論点がかなり明確になった。ソクラテスを倫理的教育主義、プラトンを政治的教育主義と切り分ける観点は、とても参考になった。

倫理的な主体形成を主眼とするソクラテスと、知覚と認識の確実な根拠を追求するプラトンでは、立ち位置がかなり異なるわけだが、両者を総合的に把握する為には、はたしてイデア論がこれを統一する論理となり得るかどうかに関する洞察が鍵になるんだろうなあ。「善のイデア」に「エロス」を有機的に統合できるかどうかが試金石、というところか。たいへんだ。

村井実『ソクラテスの思想と教育』玉川大学出版部、1972年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

【要約】安全地帯に留まったままプラトンから何か有益な知識を得ようと思っても、何も起きません。主体的にプラトンとソクラテスの謎に巻きこまれ、自分の生を問い直すことによって、初めてプラトンを相手にする意味が生じます。だから、従来の入門書が扱ってきた魂の三分説のようなトピックは敢えて無視しました。

【感想】テキストそのものに沈潜するのではなく、プラトンの個人史に寄り添いながら主張を噛み砕いていくという、思想史として王道のスタイル。だが、プラトンが相手では思想史の王道スタイルは成立しにくいらしく、多くの研究者は口を濁してテキストに耽溺するしかないと宣言する。本書は、いっさい言い訳じみた逃げ道を用意せず、敢えてドまんなかの王道で突き進んでいって、とても清々しい。

本書がプラトンを読み解く際、「ギャップ」という言葉がキーワードになっている。対話篇は、様々な登場人物たちの考え方のギャップを際立たせる手法となる。そのギャップから、哲学が立ち上がってくる。洒落た言い方をするなら、間主観性から意味が生まれる、なんて言うところだろうか。

このギャップは教育を成立させる条件でもある。教育とは、知識をモノのようにやりとりする技術のことではない。教育とは、真実の方向へ魂を向け換えることだ。そして人々が「政治」と呼んでいたものは実は「政治」と呼ぶに値するものではない。人々の魂を向け換えること、すなわち教育こそが「政治」と呼ばれるにふさわしい唯一の仕事となる。プラトンは人々が「教育」とか「政治」と呼んでいたものを、それぞれ偽物と見なした。

だから、プラトンの議論が「教育論なのか政治論なのか」と議論することそのものが見当外れとなる。それは世間の人々が言っているような俗論教育論でもなければ俗論政治論でもない、まったく別の何ものかだと言うより他ない。私の立場としては、その何ものかを敢えて「教育」と呼びたいわけだが。というのも、ギャップある対話者同士の間に成立している関係は、「政治」というよりも「教育」と呼ぶにふさわしいという直感があるからだ。この直感は、私が時間をかけて具体的な形にしていくしかない。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』NHK出版、2002年

【要約と感想】プラトン『法律』

【要約】おれの考えた最強の国家は、人々を徳に導く教育をいちばん大事にします。

【感想】プラトン終生のテーマであるところの、魂の不死とか、真の知識とか、正しい生き方がいちばん幸せとか、一と多の関係とか、お馴染みの議論がいつものように展開される一方で、この本でしか見られない具体的な教育論とか法律論も盛りだくさん。

教育学的観点から興味深いのは、子供に関わる様々な記述だ。プラトンは、しばしば子供を完全な無能者として扱っている。たとえば「「再び子供にもどる」というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなるのですね。」(646A)とか、「これらの犯罪のどれかを犯す者は、おそらく、狂気の状態にあるために、あるいは、病気にかかっているとか、非常な高齢にあるとか、子供に近い状態にあるとかで、狂気の人と少しも変らない有様」(864D)というふうに、子供を発狂者や痴呆老人や酔っ払いと同じカテゴリーに入れて無造作に扱っている。子供期を特別な価値を持った時間とは、明らかに捉えていない。彼が特別な敬意を払うのは、決まって老齢の人々である。

が、一方でプラトンは幼児期の教育(胎教含む)に高い意義を認め、さらに子供の遊びが人格形成に与える影響を積極的に評価している。キリスト教的な子供観と異なる価値観が見えるのも間違いない。ただし、こういった幼児期教育の重視は、「子供というものは、すべての獣の中でもっとも手に負えないものです。」(808D)というような、子供を一個の人格としては認めない認識と表裏一体ではある。

他、教育に関する見所は、職業訓練的な教育(いわばinstruction)の意義を否定し、人格形成のための教育(いわばeducation)を真の教育と明確に述べているところなど(644A)。徳のための教育を真の教育と見る姿勢は初期対話編から終始一貫しているわけだが、多くはソフィストとの対比で語られていて、ここまではっきり職業訓練的な教育と比較している箇所は珍しいかも。後のヨーロッパ的思考の土台となる「教育/教授」を区別する枠組みが既に確認できる。

また、法律論でも、懲罰刑ではなく教育刑の意義を前面に打ち出している点とか(まあ、それにしては死刑への沸点が低すぎるけど)、奴隷や動物や無生物が犯罪を犯した場合の対処とか、ヨーロッパ的な法思想枠組を考えると、興味をそそられる論点が多い。

あと、お葬式で死体を重要視しないように勧告するところなどは、一周回って仏教と同じような議論になっていて、なかなか興味深かった。魂の不死と輪廻転生を信じた場合、論理的に筋道をたどれば、同じような結論に至るということか。

プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈上〉』岩波文庫
プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈下〉』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき』

【要約】反復継続的な暴力である「いじめ」は、反復継続的に通うことを強制する「学校」という場が引き起こしています。「ひとり」であることに耐えられない子供たちは、特定の一人を標的として分離することで、集団の一員であることに安住します。特定対象への執拗な暴力は、自分が「みんな」の側にいることを固定するために反復継続されます。であるなら、いじめが終わるのは、「みんな」という帰属性を求めず、「ひとり」でいられる力を持ったときでしょう。

【感想】命の危険を感じるくらいなら、学校なんか行かなくていい。そう大きな声で言えるようになったのは、そんな昔の話ではない。著者のような人たちが真剣にいじめ問題に取り組んでいるなかで、そういう認識ができあがっていった。

そもそも「学校」という組織は、産業革命の進行に伴って必要となった「過渡的な形態の組織」である可能性が高く、人間の成長にとって不可欠な役割を果たすかどうかは、極めて怪しい。「教育」が必要かもしれないとして、その役割を「学校」が一元的に独占するのは絶対に避けられないことなのかどうか。あんな狭い空間に人間が何十人も強制的に集められ、毎日顔を合わせることになったら、子供だろうがなんだろうが、万人の万人に対する闘争が勃発し、ある種のリバイアサンが誕生するのは不可避だろう。
いじめが発生するたびに、「学校なんか解散してしまえばいい」と思ってしまう自分がいるが、本書はその気持ちを半分だけ代弁してくれる。いじめをなくそうと思ったら、学校を解散するのがいちばん簡単だ。

もう半分は、それでも学校は必要だという、ある種の感覚。民主主義的な精神を涵養する教育を考えたときに、民間経営の塾ではダメだろうという直感。実は、民主主義的な精神を育てるというのは、「いじめ」が不可避的に発生するような場を敢えて作り、子供をその環境に強制的に閉じ込めた上で、万人の万人に対する闘争を意図的に発生させ、子供の人間関係調整能力を発達させようという、ものすごい過酷な試練なのではないか。

そういう意味でいうと、民主主義的精神を育てようと意図的に構成された学校では、実は必然的にいじめ発生に直面するリスクが高くなる。デモクラシーという目的が放棄されない限り、構造的に「いじめ」を終わらせることは不可能だろう。しかしそのリスクを低めることはできる。リスクを低めるための技術を蓄積することはできる。教師にできることは、その技術を多面的に活用し、万人の万人に対する闘争からリバイアサンを生み出すのではなく、「一般意志」を作り上げることなんだろうと思う。

芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき-根本的解決への提言』彩流社、2007年