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【要約と感想】エラスムス『痴愚神礼賛』

【要約】私は痴愚神。ちなみに女神。誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒めちゃおっかな。バカ最高!
 まず覚えてほしいのは、実はみんなバカが大好きだということ。口でいくら立派なことを言おうと、行動を見ればみんなバカが好きってことは一目瞭然だし、昔の偉い人たちも口をそろえて言っています。バカ最高!
 そしてもっと重要なのは、バカなほうが幸せになれるってこと。頑張って勉強して賢くなっても、健康を損なうのが関の山です。みんなでバカになって幸せになろう!バカ最高!
 でも決定的に大切なのは、バカはキリスト教徒が目指すべき生き方だということ。だってイエス・キリスト自身がそう言ってるし、そもそもイエスその人が最高にバカだからね。イエスを見習ってみんなでバカになろう!バカ最高!

【感想】抜群のオリジナリティで類書が他に見当たらない文句なしの傑作。パリ大学神学部も怒髪天を衝くおもしろさだ。刻の試練を乗り越えて現代まで語り継がれている理由がよく分かった。
 先行研究も構成についていろいろ検討しているところだが、私は3段構えのように読んだ。第1段では、エラスムス専門の古典教養が遺憾なく発揮されて、様々な古典文献からこれでもかというほど大量に「バカ」を礼賛する章句が引用される。自由闊達で縦横無尽な引用には、圧倒されて唖然とするしかない。第2段では、現実世界の人々が実際にいかに愚かが活写される。市井の人物から王侯貴族、さらに修道士や神学者まで、めっためたに撫で切りされる。確かな社会観察眼を土台にしたテンポ良い皮肉と諧謔が酷すぎる(褒め言葉)。しかし恐ろしいのは、聖書の記述をふんだんに引用しながらキリスト教の本質に切り込んでいく第3段だ。やはり引き続きユーモアに満ちた記述ではあるのだが、いきなり本質的な問いをぶつけられて、「痴愚神って実は本当にすごいんじゃないか」と真顔に戻ってしまう。それは、「キリスト教は本質的に反知性主義ではないか」という問いだ。そしてさらに「表面的に反知性であることが真の知性」という反転を見せられると、もう恐れ入るしかない。

【今後の研究のための備忘録】子ども観
 テーマが「痴愚」である以上、「子どもの痴愚」に関しての記述がそこそこある。教育史研究者としては、当時の子ども観を伺う上で重要な証言になるので、メモしておきたい。

「わけのわからぬことを言ったり、めちゃなことを言ったりすること以外に、幼年期の特徴があるでしょうか? 右も左もわからないこと以上に、もっと大きな魅力がこの年ごろにあるでしょうか? おとなのような知恵を持った子どもなど、いやらしい化け物ではないでしょうかしら?」38頁
「クピドは、いつでも子どもでいますね。なぜでしょうか? なぜかと申しますに、ふざけまわっていて、「まじめなこと」はいっこうにやりもせず、考えもしないからです。」45頁

 この文章からは、子どもを一人の人間として見るのではなく、ただただ理性を欠きつつも微笑ましく愛くるしい生き物として捉えている中世人の姿が浮かび上がってくる。キューピッドがいつも子どもの姿で描かれることにエラスムスが言及していることは記憶しておきたい。
 本書の全体構成としては、この子どもの痴愚が「老人の痴呆」に結びついて循環思想を示しているところがおもしろかったりする。昨今流行った「老人力」を先取りしているような洒落た文章もあったりして、エラスムスは侮れない。

【今後の研究のための備忘録】消極教育
 「教育」に言及した文章も見つけた。

「ねえ皆さん、その他の動物のうちで、いちばん快適な生活をしているのは、教育などをいちばん授けられておらず、自然だけに教え導かれているようなものだとは思いませんか?」95頁

 見ようによってはルソー『エミール』を経てロマン主義的な消極教育論に流れ込んでいくような発想ではある。しかも『エミール』の論理で決定的に重要な役割を果たす「自然に教え導かれる」という発想が寸分違わず登場している。おそらくエラスムス自身は本気で消極教育を唱えているわけではなかろうが、こういう発想そのものがルネサンス期に既に見られることは記憶しておきたい。逆に言えば、ルソーはまさに痴愚神から霊感を受けたということかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】自己肯定感・自尊感情
 また昨今教育界でもてはやされている自己肯定感あるいは自尊感情について、エラスムスが「自惚れ心」という言い回しで以て痴愚の一種として描いていることは、なかなか興味深かった。

「どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうかしら? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの人と折れ合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?」62頁

 エラスムスの言う「自惚れ心」は、なんらかの根拠があって自信を持つような社会的自尊感情ではなく、なんの根拠がなくても自信を持つような根源的自尊感情を意味している。なんの根拠もないのに自信を持つのだから、痴愚にされているわけだ。しかしこの痴愚の固まりである自尊感情を持っているからこそ、人間はなんとか生きていくことができる。こういう自尊感情の存在意義について、エラスムス以前に誰か言及しているだろうか? 少なくともストア派やエピクロス派の倫理説や、キリスト教系思想家には見あたらないように思う。個人的にはかなりのオリジナリティを感じるのだが、如何か。
 そしてエラスムスは、この「自惚れ心」をナショナリティに結びつける。

「自然はこの自惚れ心というものを、どの人間にもつけて生まれさせるわけですが、どの国民にもどこの都市にも同じくそれをつけてくれました。」123頁

 そして具体的に、イングランド、スコットランド、フランス、イタリア、ローマ、ヴェネツィア、ギリシア、トルコ、ユダヤ、イスパニア、ゲルマニアの特徴を挙げ、それぞれ無根拠に「自惚れ心」を持っていると言う。ルネサンス期のナショナリズムを考える上でも重要な証言だが、現代的には自己肯定感とか自尊感情という概念が持つ射程距離を改めて考えさせるような記述でもある。エラスムスは侮れない。

エラスムス『痴愚神礼賛』渡辺一夫・二宮敬訳、中公クラシックス、2006年

【要約と感想】ペトラルカ『無知について』

【要約】若い者4人に「無知」だと決めつけられてしまいました。いや結構、確かに私は無知です。しかしそれは、若い者4人が考えるような意味の無知ではありません。本当の「無知」とはどういうことなのか改めて考えてみれば、我々人間など、神様の前ではみんな無知です。というか、若い者4人はアリストテレス主義にかぶれてしまい、甚だしい勘違いと思い上がりによって、神様の素晴らしさを忘れ去っています。神様をあざ笑い、信仰厚い人々を「無知」と決めつけてあざ笑うくらいなら、私は無知で結構です。知者であることよりももっと大切なものがあります。

【感想】イタリア・ルネサンスを代表する詩人との呼び声が高いペトラルカの本を初めて読んだわけだが、いろいろ印象が変わった。まずペトラルカ自身について、ルネサンス人というよりは、中世人の印象が強くなった。心からカトリックを信仰しているように見えた。確かにルネサンスの特徴である人文主義的な教養は炸裂しているのだが、それは16世紀ルネサンスのように「人間」に関心の焦点を当てたものではなく、あくまでもカトリック教義に付随するものと扱われている。ペトラルカがプラトンに関心を示してギリシャ語を学び原典を読もうとしたのも、人文主義的な関心というよりは、当時まだ大きな影響を持っていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係が決定的だろう。ビザンツ帝国の存在を忘却して単純なヨーロッパ主義に陥れば「ヨーロッパの原点であるギリシアに遡ろう」というルネサンス文脈に回収できるのだろうが、ペトラルカが生きていた14世紀にビザンツ帝国が君臨していたことを踏まえれば、ギリシアへの関心は東西キリスト教会の分裂という同時代の問題が前提にあるに決まっている。しかもペトラルカはビザンツ帝国の知識人との交流が実際にあったのだから、古代へ遡ろうという人文主義的な関心ではなく、同時代的な問題解決への関心がないはずがない。ペトラルカをルネサンス人に規定してしまうのは、単に「ビザンツ帝国の存在を忘却し、単一のヨーロッパを実体化しよう」という欲望に基づくように思える。改めて、ペトラルカを何の考えもなしにルネサンスの文脈に落とし込むのは、なかなか危険なように思う。

  さらに問題になるのは、ペトラルカを誹謗中傷したという4人の若者だ。もちろん本書内ではボロクソにこき下ろされているわけだが、むしろこの4人のほうがルネサンス人ではなかったのか。本書内ではこの4人がアリストテレスに心酔し、カトリックの教義に対して冷淡で、「唯物論」的で「無神論」的な傾向にあったことが仄めかされている。中世カトリック信者から見ればとんでもない瀆神者になるわけだが、現代から見ればむしろ唯物論的な世俗感覚を持つ人間のほうが大多数を占める。本書は「アウグスティヌスをバカにするな」と繰り返し主張するが、しかしアウグスティヌスはあまりにも荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい幼稚な奇跡を信じていて、現代的感覚から見ると目を覆うほど「愚か」で「無知」に見える。少なくとも私にはそう見える。そしてペトラルカを「無知」と決めつけた4人にも、既にそう見えていた。だとしたら、こっちの4人こそが真性の「近代人」だ。
 しかも解説によれば、4人はヴェネツィアというグローバル商業都市に経済的基盤を持っていた。とういことは、カトリックの中世的世界観を覆すために必要な社会経済史条件が揃っていた可能性が高い。ペトラルカが評価しないアヴェロエス主義は、むしろアリストテレスに基づいた実証主義の精神で以てヴェネツィアの経済的繁栄を支え、近代へ向かう足がかりになったのではないか。だとすれば、グローバル経済に足場を置いて実証主義を唱える4人を敵視するペトラルカの方が保守反動だ。
 またあるいは例えばペトラルカはこの4人が「ラテン語を扱えない」ことを馬鹿にするが、グローバル商業都市を基盤とした商業活動を前提にすれば、むしろ「ラテン語はオワコン」というのが共通理解になってくる。グローバル経済圏の中心であるヴェネツィアで唯物的経済生活を駆動させる商業資本から見れば、ラテン語よりもアラビア語の方が圧倒的に重要だ。実際、17世紀が終わる頃にはジョン・ロックが「ラテン語はオワコン」と主張するようになる。ラテン語に固執するペトラルカの態度は実は単なる保守反動で、ラテン語なんか気にしない4人の態度の方が近代的ではないのか。ここまでくると、4人がペトラルカを「無知」と決めつけたのにも、相当の社会経済史的理由があるように思えてくる。

 というわけで、本書から見えてくるのは、ペトラルカ自身はルネサンス人でも何でもないが、同時代には確かに近代(神を必要としない唯物的世界)に向けた地殻変動が起こりつつあった、という事実だ。そしてペトラルカの証言が確かであれば、無神論的傾向の助長にはアリストテレス主義が決定的に関わっている。そしてそれはいわゆる「12世紀ルネサンス」に属する事項だ。そしてそのアリストテレス主義がアヴェロエス主義という形でイスラム世界からもたらされ、13世紀にはトマス・アクィナスが真剣に対峙して新境地を開拓することを思えば、教科書的に「ペトラルカはルネサンスを代表する人文主義者」などと呑気に言っている場合ではなく、むしろ12世紀以来200年近くに渡って成長しつつあった近代化傾向に対して冷や水を浴びせる体制内保守派知識人として理解するべき人物かもしれないのだが、どうなのか。
 だからペトラルカに対する評価は、彼のプラトンやキケロに対する興味関心が何処から生じたかが決定的な問題となる。単純に人文主義的な興味関心とするなら、確かにルネサンス文脈に回収できる。しかし12世紀ルネサンスを踏まえて、ビザンツ帝国の存在を視野に入れると、別のストーリーも出てくる。さてはて。

 ちなみに本題である「無知」については、哲学史を多少でも齧っていれば直ちにソクラテスの「無知の知」を想起するはずだ。もちろんペトラルカもソクラテスに言及する。ただし本格的に掘り下げていないのは、プラトンの著作が伝わって間もないので仕方がないところではある。むしろペトラルカが依拠するのは、アウグスティヌスの論理だ。この「知」よりも「愛」のほうが大事という論理は、哲学の語源が「知を愛すること」であったことを思えば、実はソクラテスにも通ずる話ではある。改めて、「無知」というテーマが哲学的にも教育学的にも極めて重要であることを認識したのであった。

【今後の研究に対する備忘録】
 本書の本筋とはあまり関係ないところだが、私の興味関心にとっては都合のよい言質なのでサンプリングしておくのだった。

「けだし真の神は唯一でしかありえず、どこにおいても自己より大きくも小さくもなく、どこでもつねに同一の自己です。ときによって自己と異なることも異なったこともありえません。」89頁

 カトリック教義の本丸で、もちろんペトラルカだけがこう考えているわけではない。誰もが繰り返しこの「同一性」の教義を述べているということを知っておくことに意味がある。

「とはいえ、教えること自体も技術的熟練を必要とします。なぜなら、キケロが『法律論』第二巻で言うように、「なにかを知っていることだけが技術ではなく、教えることもなんらかの技術なのです」(第一九章四七)。しかしこの技術はむろん知性と学知との明晰さにもとづいています。じっさい、自分の考えを表現して他者の心にきざみつけようとすれば学知のほかにもこの種の技術が要求されるとしても、しかしいかなる技術も明晰でない頭脳から明晰な弁論を生み出すことはないでしょう。」100頁

「わたしの見るところ、アリストテレスはたしかに、徳をみごとに定義し、分類し、するどく論じ、さらに悪徳や美徳のあらゆる特質についても論じています。それらを学び知ったとき、わたしの知識は以前よりすこしばかり増えます。しかし魂は以前のまま、意志ももとのままで、わたし自身は変わりません。知ることと愛することとは別であり、理解することと意志することは別なのです。かれはたしかに、徳とはなにかを教えてくれます。しかし徳を愛し悪徳をにくむよう、ひとの心をかりたてたり燃えたたせたりする、ことばの力や炎が、かれの論述には欠けています。あるいは、ごくわずかしかそなわっていません。
 そのようなことばの力や炎をもとめるひとは、これをわがラテン作家たち、なかでもキケロとセネカに見いだすでしょう。」113頁

 ペトラルカはアリストテレス主義に対してプラトン及びアウグスティヌスを対峙させて、攻撃する。それに加えて、キケロやセネカなど「ラテン作家」を持ち出して、アリストテレス主義を攻撃する。前者と後者では、攻撃の意味合いが異なる。
 プラトンとアウグスティヌスを持ち出すときは、アリストテレス主義の唯物論的傾向が批判の対象となる。プラトンのイデア論を、ペトラルカは神に近づいた認識として好意的に記述する。
 一方ラテン作家を持ち出すときは、文体と雄弁が問題の焦点となる。現代風に言えば「コミュニケーション論」ということになるか。近代化が進展するに伴って「雄弁」の意義が忘却されていくように個人的には思えて、ペトラルカのように「雄弁」の意義を強調する議論に触れると、なんとなく中世的な匂いを感じてしまうのであった。

ペトラルカ・近藤恒一訳『無知について』岩波文庫、2010年

【要約と感想】エラスムス『平和の訴え』

【要約】権力者たちは戦争ばかりします。権力者たちは、自分の欲望を満足させれば、いくら人が死んでも平気です。狂っています。平和を愛する一般民衆が力を合わせて、権力者たちの横暴を止めましょう。それがキリスト教本来の精神ってもんでしょう。

【感想】本書が出版されたのは西暦1517年。ルターが宗教改革の口火を切る「九十五箇条の提題」を掲げた年でもあるが、今からもう505年も前のことだ。しかし言っていることは、今でも通じる。というか、ロシアがウクライナに侵攻してから10日経ち、戦火が広がる今だからか、むしろ迫力がある。

「大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀栄華を貪るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません。こういう一握りの邪悪なご連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身でとくと判断していただきたいもの。」76節、96頁

 500年経っても人間が進歩していないというのは、とても悲しいことだ。

【研究のための備忘録】ナショナリズム
 ナショナリズムに関する興味深い言質を得た。

「というわけで、イングランド人はフランス人を敵視していますが、その理由はといえば、それはただフランス人であるということのほか何もないのです。イングランド人はスコットランド人に対し、ただスコットランド人というだけのことで敵意をいだいているのです。同じように、ドイツ人はフランス人とそりが合わず、スペイン人はこれまたドイツ人ともフランス人とも意見が合いません。ほんとうにまあ、なんというひねくれ根性!(中略)なぜ人間が人間にたいして好意をもてないのでしょうか? なぜキリスト教徒がキリスト教徒に対して好意が持てないのでしょうか? (中略)それぞれの祖国にただ違った名前がついているというだけで、国民を駆りたてて他国民の絶滅に征かせるのが正しいと思うのでしょうかしらね?」59節、78-79頁

 16世紀初頭の段階で、現代に通じるナショナルな感覚が定着していたことを伺うことができる。が、こういうナショナルな感覚は、12世紀の段階ではまだ成熟していなかったはずだ。13世紀~16世紀の間に何が起こったかを理解することは、ナショナリズム(あるいは近代国家の成立)を考える上で極めて重要だ。そしてエラスムスが、そういうナショナリズムの感覚を人文主義的な立場から軽蔑しているのも印象的だ。

【研究のための備忘録】人間の平等
 さすが人文主義の王エラスムスだけあって、「人間」というものに対する洞察が簡潔に示されている。

「洗礼はすべての人にとって共通のものです。そのおかげで、われわれはキリストにおいて蘇り、この俗世から切り離されてキリストの四肢に合入されてしまうのでし。それにしても、一つの肉体の各部分以上に同じ一体をなしているものが、他に何かあるでしょうか? 誰であろうと、洗礼を受けた後は、奴隷でもなく、自由民でもなく、異邦人でも、ギリシア人でもなく、男でも、女でもありません。あらゆる人がすべてを和合させるキリストに帰して一つとなるのです。」30節、47頁

 ここでは形式的にはキリスト教における平等が説かれているのだが、本質的にはあらゆる人間の平等が説かれている。性別も国籍も関係なく、「みんな同じ人間」であることが強調されている。これは古代ギリシアやローマにはあり得なかった考え方だし、中世キリスト教に萌芽はあるものの、全面的に展開するのは16世紀人文主義以降のことだ。この「みんな同じ人間」という意識を打ち出したことこそが人文主義の決定的な成果であり、近代化への大きな一歩だ。こう、「同じ人間」だと思えば、鉄砲の引き金は引けない。

エラスムス『平和の訴え』箕輪三郎、岩波文庫、1961年

【要約と感想】阿刀田高『やさしいダンテ<神曲>』

【要約】700年前のヨーロッパ文学古典中の古典であるダンテ『神曲』のおいしいところだけを抽出し、日本人にも分かりやすくアレンジしました。ダンテは、美少女ベアトリーチェの加護の下、案内役の詩人ウェルギリウスに伴われて、地獄→煉獄→天国と辿り、歴史的偉人や同時代イタリアの人々が死後どうなったか、神の裁きを目の当たりにします。が、まあ、現代日本人には、当時のキリスト教の価値観には納得いかないところが多いですな。

【感想】まあ、手っ取り早く分かった気にはなれるのかな。

【要検討事項】ルネサンス
 ルネサンスについて言及している文章。

「まことに、まことにルネッサンスはダンテから始まりペトラルカ(1304-1374)やボッカッチョ(1313-1375)に受けつがれてイタリアで顕著となり、ヨーロッパに広がっていったのである。」24頁

 歴史家ではない著者に言っても仕方ないのだが、こういうルネサンス観に対して、20世紀後半には専門家たちが違和感が表明している。さしあたって著者の言葉は、陋巷に広がる一般的なルネサンス理解の典型としてサンプリングしておくのがよいのだろう。

【研究のための備忘録】子ども観
 子ども観について、気になる言葉をサンプリングしておく。

「清純さは子どもの中にしか見当たらなくなりました。」268頁

 キリスト教の原罪観からすれば、子どもであろうとも清純さのかけらもない。アウグスティヌスもそう言明している。子どものことを清純だと認識するようになったのは、思想史的には、ルソーあたり、啓蒙思想から近代に入りかけの頃のはずだ。ダンテが本当に言っているとしたら、けっこうな問題だ。原典で確認する必要がある。

「洗礼のないままでは無垢な幼子もここには入れません。」283頁

 これがキリスト教の原罪観である。しかし洗礼を受ければ大丈夫だというのは、アウグスティヌスのころにはなかった考え方ではある。このあたりの幼児洗礼の変遷については研究書があったように記憶しているが、内容を忘れたので再確認である。

阿刀田高『やさしいダンテ<神曲>』角川文庫、2011年<2008年

【要約と感想】エピクテトス『人生談義』

【要約】幸せに生きましょう。そのために、自分の力の範囲でできることと、できないことを、明確に区別しましょう。自分の力が及ばないことに執着すると、必ず不幸になります。たとえば、財産、健康、家族、生死といったものは、自分の力ではどうにもなりません。自分の力が及ばない不運が人生に降りかかってきたときは、「ふーん」「ですよね」と思いましょう。それは私たちの善悪とは何の関係もありませんから、特に気にする必要はありません。不幸とは、不運なことではなく、不運を気にかける心が原因で陥ってしまうものです。
 一方、自分の力が及ぶものに関しては、力の限り頑張りましょう。その価値はありますし、トレーニングすれば誰にでもできるようになります。すぐやりましょう。自分の力が及ぶ対象とは、自分の心に浮かび上がってくる「心像」です。何でも自分の思い通りになります。心像を思うがままにコントロールすることで、私たちは幸せになることができます。そんなわけで、哲学とは、心像を把握し、容認し、判断するための知恵です。

【感想】後期ストア派を代表する哲学者エピクテトスの言葉を弟子が書き記した『語録』と、思想の要点をまとめた『要録』が収められている。文章量は多いけれども、言っている内容そのものはかなり単純で、同じ趣旨を何度も繰り返している。いつもいつも初心者が同じような初歩的な質問をしてくるから、何度も何度も基礎・基本を確認している、ということなのだろう。というわけで、ストア派の考え方の基礎・基本がよく理解できる本になっている。

 ところで、本書に示されているエピクテトスの考え方は、ひろゆきの考え方とよく似ている、と思う。自分の力が及ばないことには関心を持たず、他人の意見や感情などどうでもよく、見栄や外聞などに気を揉むことなく、ただただ自分のやりたいこと=やれることに力を傾けながら、人生の静穏と安寧を心がけ、ひたすら幸福を噛みしめる。という私の直観が正しいとして、もしも仮に今ひろゆきの言動に説得力があるのだとすれば、本質的には、実はストア派の考え方に人々が共振している、ということだ。その仮説を傍証するかどうかは分からないが、エピクテトスを扱った一般書が立て続けに出版されていたりもするし、セネカ(同じくストア派の思想家)が脚光を浴びていたりもする。
 思い返してみると、エピクテトスが活躍していた帝政期ローマの状況と、現代日本の状況は、「行き詰まり感」という意味において、よく似ている気もする。都市の消費文化が退廃を極めて拝金主義が横行し、地域格差や経済格差が埋め合わせ不可能なところまで拡大し、人々を束ねる共通の目的が見失われ、古くからの共同体が機能しなくなり、人々は剥き出しの「個」として自己責任の名の元に放り出されている。そんな行き詰まり感。そんな状況で、それでもなんとかサバイバルしようと手を伸ばしたときに、指先にひっかかるのがストア派であり、ひろゆきである、ということなのかもしれない。まあ、悪いことではない。どのみち、私たちは、何らかの手段で以て、サバイバルしなければならない。

【今後の研究のための備忘録】
 本書には「教育」という言葉がよく出てくる。ただしその中身は、いま我々が考える教育とはずいぶん趣を異にする。

「概してあらゆる能力は教育がなく力が弱い人がもつと、それによって自惚れ尊大になってしまう怖れがあるのだ。」1-8
「人は自分になにか優れた点があるとき、あるいはないのにあると思っているとき、教育を受けていなければ、必ずそのために自惚れることになる。」1-19

「むしろ、教育を受けるというのは、それぞれの物事が起きるがままに起きるように願うことを学ぶということなのである。」1-12
「とすると、教育を受けるというのはどのようなことなのか。それは、自然な先取観念を個々のものに自然本性にかなうようにあてはめ、さらには、物事のうち、あるものはわれわれの力の及ぶものであり、あるものは及ばないものであるということ、つまり意志や意志に基づく行為はわれわれの力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものはわれわれの力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。」1-22

「真の意味で教育を受けた人にとって最もうるわしく最もふさわしいものは、平静であること、恐れのないこと、自由である。自由人だけが教育を受けることを許されるという多くの人たちの言葉を信じるべきではなく、教育を受けた者だけが自由であるという哲学者たちの言葉を信じるべきである。」2-1

教育を受けるというのは、自分に関わるものと他人に関わるものとの区別を学ぶことだ。」4-5

「自分がうまくいっていないことで他人を非難するのは、教育を受けていない人がすることである。むしろ、教育を受け始めた人なら自分を非難するし、教育を受けてしまった人なら他人も自分も非難しないであろう。」『要録』5

 つまりエピクテトスが言う「教育」とは、ストア派の考え方を本質的に理解して実生活で実践できるようになることを指している。単に知識や技術を身につけることはまったく意味していない。(このあたり、原語を踏まえて研究を深めておく意味がありそうだ。)
 それを踏まえると、やたらと「子供」を例に出してくることもおもしろい。エピクテトスにとって、子供は単に「教育」を受けていない未熟なものに過ぎない。そこに可能性の一端も見ることはない。

「何のためにか。自分が納得するだけで十分ではないのか。子供たちがやって来て、手をたたきながら「サトゥルナリア祭おめでとうございます」と言っているのに、彼らに「それはめでたくないよ」などと答えるだろうか。けっしてそんなことはしない。むしろ、自分たちも手をたたくのだ。だから、君もだれかの考えを変えることができなければ、その人を子供だと思って、一緒に手をたたけばよい。そんな気持ちにならなければ、それからは黙っていることだ。」1-29

「だが、ソクラテスはそれらのものをうまくお化けと呼んでいた。つまり、経験がないために子供たちにはその仮面が恐ろしくて怖いもののようにみえるように、われわれもまた、子供たちがお化けに対するのと少しも変わることなく、それらの事柄に対して同様の感情を抱くわけである。というのも、子供とは何であるか。無知である。子供とは何であるのか。学びの欠如である。子供が知っているところでは、彼らもわれわれと変わるところがない。」2-1

「そうしないと、子供に戻って、ある時はレスリングで、ある時は一騎打ちをして遊んだり、ある時は喇叭を吹いたり、さらにみたり驚いたりしたことで悲劇の芝居ごっこをする。そのようにして、君もある時は競技者になり、ある時は剣闘士になり、さらに哲学者に、またさらには弁論家になるけれども、本気ではなににもなっていない。」3-15
子供のように、今が哲学者だが、後で税務官に、その次には弁論家に、またその次は皇帝任命の太守になりたがってはならない。」3-15

「例えば、われわれがまだ子供だった頃、口を開けて歩いていてなにかに躓いたりすると、乳母はわれわれを叱らずに、その石を叩いたものだった。いったい石は何をしたというのか。君の子供の馬鹿な行動のために、石はよけねばならなかったのか。さらに、われわれが風呂から帰ってきたときに食べるものがないと、子守役の召使はわれわれの欲求を抑えてかかるのではなく、代わりに料理係を打ちすえる。ねえ君、われわれは君を料理係の守役に決めたのではなく、われわれの子供の守役にしたのだから、子供をしつけて、子供のためになることをすればいいのだ。
 このように、われわれは成長しても子供のようにみえる。音楽を知らない人は音楽において子供であり、読み書きを知らない人は読み書きにおいて子供であり、教育のない人は人生において子供であるからだ。」3-19

「そんなふうに幼稚で子供っぽくふるまうのをやめる気はまったくないのか。子供のようにふるまう人が歳を重ねると、それだけ滑稽になるということが分からないのか。」3-24

「それでは、子供を護衛兵がついている僭主のところに連れていっても、怖がらないのはどうしてだろうか。子供が護衛兵を知らないからか。」4-7
「だれかがイチジクやアーモンドを撒くと、子供たちが奪い合って、互いにけんかを始める。だが、大人たちはつまらないことだと思うから、そんなことはしない。しかし、だれかが陶片を撒いたら、子供たちも奪い合うことはない。地方総督の仕事が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。お金が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。将軍や執政官の職が配分される。子供たちに奪い合いをさせるがよい。」4-7

 徹頭徹尾、子供を未熟で無知でくだらないことをする取るに足らない存在だと見なしているのであった。まあ、エピクテトスに限らず、西洋の古代から中世にかけてあらゆる人が同様の見解を示しているわけではあるが、分かりやすく表現されたサンプルということでは、けっこう貴重かもしれない。

 それから、「有機体」思想に関するおもしろい表現もサンプリングしておきたい。

「つまり、足については清潔であることが自然本性にかなっていると私は言うだろうが、もし君が足を足として認め、ほかから切り離されたものではないと考えるならば、それを泥の中に突っ込んだり、茨を踏んだり、時には全身のために切り離したりすることがふさわしく、もしそうでなければ、もはや足でないことになるだろう。われわれについても、なにかそんなふうに考えねばならない。君は何であるのか。人間である。もし君が自分をほかから切り離されたものと考えるならば、老年まで生き、富を蓄え、健康であることが自然本性にかなっている。だが、自分を人間として、つまりある全体の一部だと考えるならば、その全体のために時には病気をし、時には航海して危険を冒し、時には困窮し、また寿命の前に死ぬこともふさわしくなる。そうすると、なぜ君は腹を立てているのか。切り離された足がもはや足でないように、君も人間でなくなるということに気付かないのか。というのは、人間とは何であるのか。それは国家の一部である。第一には、人間と神々とからなる国家の、その次には、これに最も近似していると言われているもので、全体的な国家のなにか小さな模倣である国家の一部である。」2-5

「君は野獣と区別され、家畜と区別される。それに加えて、君は宇宙の市民であり、その一部であり、奉仕するものではなく指図するもののひとつである。なぜなら、君は神の支配を理解し、それから結果することを考慮することができるからである。ところで、市民の務めとは何であるのか。市民の務めは、どんなことでも私的な利益に関わるものとみなさず、どんなことについてもほかから切り離されたものと考えず、かりに手足が理性をもち、自然の仕組みを理解しているならば、全体に関わること以外のことに衝動を感じたり、欲求したりすることはけっしてないであろうが、それと同じように行動することである。」「それが全体の秩序から分かれて配分されたこと、全体は部分よりも、国家は市民よりも優れたものであることに気づいているからだ。」2-10

 もちろんこういう有機体思想は、既にプラトン『国家』の中に色濃く見られる(というか主題そのもの)であって、エピクテトスやストア派の専売特許というわけではない。後にキリスト教思想においても「神の国」における一体化が強調されていくことにもなるだろうし、ヘーゲルは「胃」によるメタファーを好んで使うことになるだろう。ここでは具体的に「足」や「手」というメタファーが使われているということに注目しておきたい。

 さてまたさらに、「人格」(ギリシア語でプロポーソン)の用例サンプルを得た。

「しかし、理にかなうこと、かなわないことを判別するために、われわれは外的なものの価値だけでなく、それぞれが自分の人格に関わるものの価値も用いている。」1-2
「というのは、一度でもそのようなことを考えたり、外的なものの価値を計算したりした者は、自分自身の人格を忘れてしまった者とほとんど変わらないからだ。」1-2
「ある人がこう訪ねた。「どうやってわれわれはそれぞれ自分の人格にかなったことを知ることになるのでしょうか」」1-2

「このことをよく記憶していれば、どんな場合にも、君がもつべき君自身の人格を保つことができるだろう。」4-3

 これに関して、本書の解説では以下のように指摘している。

「人格と訳したギリシア語のプロソーポンは顔の意味であるが、仮面をも意味しうる。いわば内面の自己である。それは本来の人間性を指し、同じく仮面を意味するペルソーナ(persona)によってラテン語化されて、キケロなどを通じて後に近代の人格概念(personality)へと受け継がれる。基本的には人格の喪失が個人の存在意義の喪失を結果させることを意味するわけであるが、尊厳を失わないための手段とされる自殺は、今日的な意味よりも範囲が広いことが注意されてよいであろう。」下486-487

 解説では、キケロを通じて近代の人格概念へと受け継がれるとサラッと書いてあるが、果たしてそんなにサラッと理解してよいのかどうか。別の研究者はキリスト教の「三位一体」思想が決定的に重要な役割を果たしたと言っている。個人的には、「有機体」の思想も背後で大きな役割を果たしているような直感がある。
 このテーマに関して「カラクテール=刻印」に関する記述もサンプリングしておきたい。

「つまり、土地、家屋、旅館、奴隷ではなく――これらは人間にとって真に固有のものではなく、すべて他人のもの、隷属的、従属的であるもの、主人によってその時々に各人にあたえられたものだからである――、むしろ人間的なもの、心の中にもってこの世に生まれてきた刻印を失った人を悲しむべきなのだ。われわれはこにょうな刻印を貨幣の中にも探し、これをみつければ貨幣として認めるが、みつからないとそれを投げ捨ててしまう。」4-5

 ここに表現された「刻印」とはカラクテール、後には「性格」と訳されるような言葉である。むしろ近現代の「人格性=personality」とは、人間が人間である所以のものをさしており、こちらの「刻印」のほうが意味内容としては近いのではないか。だからというか、現代においてもcharacterという言葉は「性格」と訳されることもあれば「人格」と訳されることもある。エピクテトスの段階においては、むしろプロポーソンという言葉には「社会的な役割=仮面」という意味合いが強く、近現代のような「責任の主体」という意味合いは薄いような印象がある。このあたり、もっとたくさんサンプルを集めて検討しなければならない。

 また近代以降に表明される考え方と響き合うような表現がいくつかあったのでサンプリングしておく。まず個別の利益が集団の利益と自然に一致することに関して。(もちろんアダム・スミスとの関連)

「一般的に言って、ゼウスはこのような自然本性をもった理性的な動物をこしらえたが、それは共通の利益になんらかの貢献をするのでないかぎり、個別的な善のいかなるものも獲得できないようにするためなのである。かくして、すべてのことを自分のためにするからといって非社会的であるわけではないことになる。」1-19

 それから、一般と個別の明確な区別に関して。(教育に関しては、普通教育=education/専門教育=instructionの区別)

「さらに、目的には一般的なものと個別的なものとがある。最初のものは人間としてあるための目的である。これには何が含まれているか。たとえおとなしくても羊のように行動することではなく、野獣のように有害な行動をすることでもない。個別的な目的のほうは、各人の生の営みや意志に関連している。竪琴を弾いて歌う人は竪琴を弾いて歌う人として、大工は大工として、哲学者は哲学者として、弁論家は弁論家として行動する。」3-23

 もちろんこれらはエピクテトスやストア派固有の考えというよりは、アリストテレスを引き継いで様々な立場から表明されているものではある。サンプルをたくさん集めて、近現代に流れ込んでくる様子を把握したいものではある。

エピクテトス『人生談義(上)』國方栄二訳、岩波書店、2020年
エピクテトス『人生談義(下)』國方栄二訳、岩波書店、2021年