【要約と感想】マキアヴェッリ『フィレンツェ史』

【要約】イタリア半島の都市国家フィレンツェの、ローマ帝国滅亡(5世紀)から1492年までの歴史を描きました。フィレンツェ以外のイタリア半島の諸勢力(特にミラノ公国、ナポリ王国、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ローマ教皇)の動向にも目を配りつつ、フィレンツェ内の党派争いを詳述しているのが類書と異なる著しい特徴です。

【感想】ところどころにマキアヴェッリ節(目的のためなら手段は選ばない)が垣間見えて、単純に読み物としても面白い。ただ、訳者によるツッコミを見ると、単なる事実誤認もかなりあるようで、そのまま歴史的事実として受け取るのには気をつけた方がよさそうだ。

 歴史的に事実かどうかはともかく、面白く読めるのが、市内の党派争いに勝つためなら市外の敵と組むことも厭わない事件が連発する、一般的に言われる「内憂と外患が連動する」というメカニズムがよく分かるような、フィレンツェ市内の党派争いの醜さだ。まさに「目的のためなら手段は選ばない」というマキアヴェッリ理念を体現したような醜さで、しかも前書きから察するに、マキアヴェッリは意図的にこの醜さを強調するように全体を構成している。自身が権力闘争の渦中にいたマキアヴェッリとしても、度しがたい連中だと心底苦々しく思っていたのだろう。
 そして本書を踏まえると、『君主論』や『ディスコルシ』の表現の背後にあるものもなんとなく見えてくるような気がするのだった。

【今後の研究のための備忘録】有機体論
 都市を一つの「人体」に喩えている議論をサンプリングしておく。

「祖国に対して武器を取るのを、どんな理由からであれ、非難する者はいないでしょう。なぜなら、都市はいろいろな部分からなるとはいえ、一個の人体に似ているからです。都市には、鉄と火なしには治せない病いが幾度も生じますが、都市にたいへん不幸な事態が多発して鉄が必要になった際、祖国に忠実な善人が都市を治療せずに放置するとしたら、その人は間違っているのです。こういうわけですから、共和国という一個の人体にとって、隷属よりも重い病いなどありうるでしょうか?」第5巻第8章

 都市国家(ポリス)を一つの人体に喩えるのは、もちろんプラトン『国家』の伝統を踏まえたものであり、その観点から言えば極めて人文主義的な議論ではある。が、これがフィレンツェ自体を攻撃することを正当化するレトリックに使われているのが、なんともいやはやな議論だ。

【今後の研究のための備忘録】ペトラルカ
 ペトラルカは、もちろん教科書的にはイタリア人文主義の嚆矢と位置付けられる詩人であり、マキアヴェッリを200年遡る人物だ。マキアヴェッリがペトラルカに触れているところはサンプリングしておく。

「彼に期待を抱かせたのは、とりわけ「この手足を支配する崇高な精神」で始まる、ペトラルカの詩の数行であった。詩人はこう歌う。
 タルペイアの丘の上で、歌よ、汝は出会うであろう
 全イタリアが讃える一人の騎士
 わが身よりも他人の身を案じる者に
 ステファーノ殿は、詩人たちが神々しい予言者の精神にしばしば満たされるのを知っていた。だから、ペトラルカがこの歌の中で予言したことを何としても実現しなければならない、そしてそのような栄光に満ちた事業を成し遂げるべき者は自分である、と思ったのである。」第6巻第29章

 ペトラルカは古代ローマ賛美を通じてイタリア・ナショナリズムを浮上させたと見なされている。それが近代的なナショナリズムとどれくらい同じでどれくらい隔たっているかは丁寧に検討する必要があるが、この引用箇所でマキアヴェッリはペトラルカをイタリア・ナショナリズムを体現する詩人として扱っている。日本で言えば頼山陽の日本外史が幕末の志士たちを鼓舞したのと似た現象なのだろう。

【今後の研究のための備忘録】フィレンツェの人文主義
 コジモ・メディチがフィレンツェの人文主義を保護した記述をサンプリングしておく。

「コジモは、さらに文人を愛し、賞讃した。そこで彼は、ギリシア生まれで当時最高の教養人であったアルギュロプロスをフィレンツェに招聘したが、それは、フィレンツェの若者がこの人からギリシア語やそのほかの学識を習得できるようにするためであった。プラトン哲学の第二の父であり、彼が熱愛したマルシリオ・フィチーノの生活の面倒を自宅でみた。そして、マルシリオがより快適に学問の研究に打ち込めるように、またより気楽に使うことができるように、カレッジの別荘近くの土地と家屋を贈った。」第7巻第6章

 ここにフィチーノの名前が挙がり、「プラトン哲学の第二の父」と言われていることは気に留めておきたい。

【今後の研究のための備忘録】ひろゆき
 ひろゆきがもてはやされる風潮が分析されていた。

「多くの場合は平和なときに生じがちな災厄が、この都市に起きた。というのは、通常よりも束縛のなくなった若者たちが、衣服や宴会やそのほかの同様な放縦に常軌を逸した浪費をおこない、暇をもて余しては賭け事や女に時間と資産を空費したからである。かれらの努力は、華麗な衣服や、利口ぶった抜け目ない話しぶりをみにつけることにあった。他人をうまくへこますことのできる者が、より利巧とされたし、より高く評価された。」第7巻第28章

 人間の性は、洋の東西や歴史の違いに関わらず、そんなに変わらないということか。

【今後の研究のための備忘録】印刷術
 印刷術が宣伝合戦に活用された事例が記述されていた。

「教皇は狼であって羊飼いではないことが明らかになったので、在任として貪り食われてしまわないように、ありとあらゆる手段を使って自分たちの大義を正当化し、自分たちの国家に対して為された背信行為をイタリア全体に周知させた。」第8巻第11章

 ここに「フィレンツェ人は、モンテセッコの告白録を導入されたばかりの活版印刷によって刊行し、ここに正真正銘の文書合戦が始まった」と註が付されている。これが1478年のこと。グーテンベルク活版印刷の発明が1450年頃のこととされているので、本当だとしたらまさに直後の出来事だ。活版印刷を使用したプロパガンダ合戦はルター以後の宗教改革の事例がよく知られているが、これはもちろん1517年以降のことになる。宗教改革プロパガンダよりも40年早くイタリアの勢力争いで活版印刷が利用されていたことは気に留めておきたい。

マキアヴェッリ『フィレンツェ史』(上)齊藤寛海訳、岩波文庫、2012年
マキアヴェッリ『フィレンツェ史』(下)齊藤寛海訳、岩波文庫、2012年