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【要約と感想】マルクス・アウレーリウス『自省録』

【要約】私が善き人間であろうとする時、他人の評価は全く関係ありませんし、意味がありません。過去を思い悩んだり、未来に希望をかけたりするのは意味がありませんので、現在与えられた環境と条件の下で精一杯できることをしましょう。宇宙の原理と一体化し、存在の本質を考えれば、やるべきことは自ずと見えてくるはずです。

【感想】文句のつけようのない名著で、長く読み継がれてきたことにも深く納得する。折に触れて読み返したい本だ。
 著者のマルクス・アウレーリウスは、2世紀後半にローマ帝国の皇帝を務めた人物だ。が、本人は皇帝ではなく、哲学者になりたかったようだ。
 本書には、高貴であろうと努力を重ねる魂のもがきが記録されている。地球の重力に肉体を引かれつつも、魂は自由を求めて宇宙を目指す。こういう人が実際にいたんだと思うだけで、私自身もちょっとは謙虚になれる。自分の生き方に対して具体的な人生訓になるかどうかは別として、あるいはこういう生き方や考え方に共感するかどうかも別として、こういう一本筋の通った人生というのがあり得るという「可能性」については、知っておいて損はない気がするのだった。

【個人的な研究のための備忘録】
 著者の思想の根幹はストア哲学で固められている。ストア哲学は、「一」という概念に対する強烈な信仰が土台にある。世界は一つであり、太陽の光は一つであり、普遍的な物質は一つであり、生命は一つであり、理性は一つである。あらゆるものを貫く「一」という見方・考え方こそが「神」という概念を構成する。

【「一」に対する信仰告白】

「自分固有の魂をすべて理性のあるものの魂から切りはなす者は社会から切断された肢のようなものだ、なぜならば魂は一つであるから。」第4巻29章

「宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの完成に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮べよ。」第4巻40章

「万物によって成立する一つの宇宙があり、万物の中に存在する一人の神があり、一つの物質、一つの法律、叡智を有するあらゆる動物に共通な〔一つの〕理性がある。また同胞であり、同じ理性を共有する動物の完成ということが一つならば、真理もまた一つなのである。」第7巻9章

「四肢と胴とが一つの体を形成する場合と同じ原理が理性的動物にもあてはまる、というのは彼らは各々別の個性を持っているが、協力すべくできているのである。君が自分に向かって「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」とたびたびいって見れば、この考えはもっと君にピンとくるであろう。」第7巻13章

「ひょっとしたら君は見たことがあるだろう、手、または足の切断されたのを、または首が切り取られて、残りの肢体から少し離れたところに横たわっているのを。起ってくる事柄をいやがったり、他の人たちから別になったり、非社会的な行動を取ったりする者は、それと同じようなことを自分にたいしてするわけである。君は自然による統一の外へ放り出されてしまったのだ。君は生まれつきその一部分だった。ところが現在は自分で自分を切り離してしまったのだ。ただしここで素晴しいことには、君は再び自分を全体の統一にもどすことが許されている。」第8巻34章

「理性のない動物の間には一つの生命が分配されている。理性的動物の間には一つの叡智ある魂が分け与えられている。それはちょうどすべて土からくるものにたいして一つの地があり、我々にものをみせてくれる光が一つであり、我々のようにすべて視覚と生命を持つものの呼吸する空気が一つであるのと同様である。」第9巻8章

「太陽の光は一つである。たとえそれが壁や山や、その他数知れぬものに分割されようとも。普遍的な物質は一つである。たとえそれがどれほど沢山の個体に分けられていようとも、生命のいぶきは一つである、たとえそれが数知れぬものの自然に分かれ、各個体固有の制約の下に分かれようとも。叡智ある魂は一つである。たとえそれが分かれているように見えても。以上いったものの中で(精神以外)の部分、たとえば息や物質のごときものは、感覚もなく、相互間の絆もないが、それでもなお知力および同じ中心に向かって牽引する重力によって結合されている。ところが精神は独特で、同類のものへ向かい、これと結びつく。そして社会連帯の感情はとだえることがないのである。」第12巻30章

 この「一つ」への希求は、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」やA.C.クラーク『地球幼年期の終わり』等にも見ることができるユートピア(あるいはある種のディストピア)だ。この強烈な「一」への信仰と希求を押さえると、ストア哲学の全体像を掴みやすいような気がする。
 このような「一つ」への信仰を土台とする世界観は、デモクリトスに始まる「原子論」とは対極にある。原子論は世界を「バラバラの要素」の集まりだと考える。だとしたら、世界をどのように作るかも自由に見えてくる。しかし世界がもともと「一つ」であるならば、人間が自分の思うように世界を作ってはいけないし、作れるはずもない。世界を「一つ」と見るか「バラバラ」と見るかで、自然観も社会観も宗教観も完全に変わってくる。ストア的世界観は保守的(社会有機体説)に流れやすいし、デモクリトス的世界観は革命的(社会契約説)に流れやすいだろう。

 そしてこのような「一つ」に対する信仰は、空間だけでなく時間に対しても適用される。いわゆるアイデンティティ概念に言及した記述も非常に多い。鴨長明『方丈記』と同じく、儚く移り変わるものを「河」に喩えて説明しているのも印象的だ。

【アイデンティティに関わる記述】

「時というものはいわばすべて生起するものより成る河であり奔流である。あるものの姿が見えるかと思うとたちまち運び去られ、他のものが通って行くかと思うとそれもまた持ち去られてしまう。」第4巻43章

「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」第5巻23章

「ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来ったものも部分的にはもう消え失せてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく、流転と変化が世界をたえず更新する。この流れの中にあって、我々の傍を走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍を飛んで過ぎて行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう視界の外へ行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは我々が各瞬間にしていることだが――昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。」第6巻15章

「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。その上そこでは万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致しているものはない。また地球全体は一点にすぎない。」第8巻21章

つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。しからばその目的はなんであるべきか、ということを付け加えなくては以上いったことは足りない。というのは、大衆がなんらかの意味で善しと見なすものについての世論は必ずしも一致せず、その中にあるもの、すなわち公益に関するものについてのみ一致するようであるが、我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。」第11巻21章

 しかし仮に河が常に移り変わるものであったとしても、やはり依然として「河は同じ河」であり続ける。河が同じ河であり続けるように一人の人間が同じ人間であり続けるためには、移り変わるものにこだわってはいけない。たとえば肉体や経済状況のようにめまぐるしく変動するものは、人間存在にとって本質的なものではない。そんな些末なことに囚われるのは、人生全体にとって無駄なことだ。同じ人間であるために決定的に重要なのは、著者によれば「人生目的」の定め方ということになる。この「人生目的」を定める時に、「一」という概念が本質を見定める指針となる。「一」に適っているのが正しい目的で、そうでなければ一時的で些末な衝動に過ぎないということになる。ここはなかなかアクロバティックな論理展開に思えるが、だからこそ逆に言えばストア派の自然観と倫理観を繋ぐ重要な「飛躍=信仰」でもあるのだろう。
▼参考:アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

 他、本筋とはあまり関係ないところで、おもしろい証言もたくさん手に入る。たとえば当時の「子ども」と「学校」にまつわる証言は興味深い。

【学校に関すること】

「曾祖父からは、公立学校にかよわずにすんだこと、自宅で良い教師についたこと、このようなことにこそ大いに金を使うべきであることを知ったこと。」第1巻4章

「しかしこれは皮肉や叱責の調子ではなく愛情をもって、心の底に怨恨をいだかずにやらなくてはいけない。そして学校の先生のような態度ではなく、そこにいる第三者に尊敬されるためでもなく、たとえ周囲に他の人たちがいようとも、まったく彼一人にたいして話すがよい。」

【子どもに関すること】

「腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲ばり、暴君。」第4巻28章

「また我々は互いに咬みあう子犬や、笑ったかと思うともう泣く喧嘩好きの子供と選ぶところはない。」第5巻33章

子供の喧嘩と遊び、また死体を担う小さな魂」第9巻24章

「活動の停止、衝動や主観の休止ならびにその死ともいうべきもの――以上は悪いことではない。今度は人生の各段階に目を転じて見よ、たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。ここになにか恐ろしいものがあるだろうか。」第9巻21章

 まず興味深いのは、当時の「学校」や「学校の先生」がくだらないものと認識されていることだ。学校や先生に関わらなくて幸せであったと著者は主張している。学校に対するこのような意見は21世紀に入っても見られるところだが、学校や先生は2000年ずっと変わらないということか。
 また本書では、子どもは一貫してくだらないものとして認識されている。理性を最大限に尊ぶ著者からしてみると、理性に欠ける子どもは尊重するに値しないものとなる。このような姿勢は少し後のアウグスティヌスにも同様に見られることになるだろう。西洋思想が子どもをくだらないものと認識する姿勢は、キリスト教の「原罪」に由来するというよりは、ギリシア・ローマの「理性尊重」の姿勢に由来するもののような印象がある。
 また発達段階に対する著者の証言は記憶しておきたい。著者は人間の一生を「幼年→少年→青年→老年」の4段階として認識している。この認識は著者独特のものではなく、ギリシア・ローマを通じて一般的だったと考えていいように思える。そして、その段階の変化を「それぞれ一つの死」だと表現していることから分かるように、それぞれの発達段階をまったく別のものだと認識している様子がうかがえる。この姿勢も、少し後のアウグスティヌスに色濃く見られる考え方だ。子どもを取るに足らないものとして認識する姿勢の背景にある、当時の常識ということだろう。

 また認識論の点では、カントの理性批判を彷彿とさせる描写がそこかしこにあった。カントの考え方は急に登場したのではなく、ストア哲学的な背景と土台があって生まれてきたということなのだろう。

「したがって人間の構成素質の中で第一の特徴は社会性である。第二は肉体的欲情にたいする抵抗力である。というのは、理性的知性的な動きには独特な能力があって、周囲のものから自分を孤立させ、感覚や本能の動きに決して負けないのである。なぜならば後者は双方とも動物的である。ところが叡智の動きは優越を欲し、これらのものに克服されるのを肯んじない。これは当然のことである。なぜならばその性質として叡智は全て他のものを利用するようにできているからである。」第7巻55章

「事物は(我々の魂の)戸の外に立っていて、自分自身の中にとじこもり、自己についてはなにも知らず、なにも伝えない。では彼らについて伝えるものはなにか。指導理性である。」第9巻15章

「「自分とはなにか。」理性のことだ。「しかし私は理性ではない。」それならそれでいい、だが少なくとも理性が自分で自分を苦しめることのないようにせよ。君のほかの部分が具合悪くなった場合には、その部分自体に自己についての意見をいだかしめればいいのだ。」第8巻40章

 カントの倫理的な態度は、著者の倫理的な姿勢とそうとうに共振しているように思った。ストア派はなかなか侮れないなと、改めて認識しなおした次第である。

マルクス・アウレーリウス/神谷恵美子訳『自省録』岩波文庫、2007年<1956年

【要約と感想】サルスティウス『ユグルタ戦争・カティリーナの陰謀』

【要約】紀元前1世紀に活躍したローマの史家によるモノグラフ2編です。
「ユグルタ戦争」はB.C.112年~106年にかけて北アフリカにあったヌミディアを舞台に展開した戦争を描いています。ヌミディア王国の内戦にローマ共和国が介入しましたが、ローマ内部の権力闘争をめぐる思惑や贈賄が複雑に絡まって長期化しました。最終的には首謀者であったユグルタが捕えられて決着がつきました。表の主役は機知に長けた野心家ユグルタですが、影の主役は後にローマ共和国で権力闘争を繰り広げるマリウス(平民派)とスッラ(閥族派)です。
「カティリーナの陰謀」は、B.C.63年に発生したクーデター計画の展開を描いています。カティリーナが計画したクーデターは事前にキケローに露見してあっけなく頓挫し、一味は捕えられて処刑され、カティリーナは戦場で華々しく散りました。表の主役は道徳心の欠片もない悪の権化カティリーナとそれに対抗するキケローですが、影の主役は後にローマ共和国で権力闘争を繰り広げるカエサル(平民派)と小カトー(閥族派)です。

【感想】おそらく訳文の妙もあるのだろうけれど、余計な装飾があまりない軽快な文章で、さくさく読めて、おもしろかった。普通なら悪役で終わるはずのユグルタやカティリーナの経済史的背景がそこかしこに垣間見えて、平板的なストーリーに終わらないところが味わい深い。作者の意図かどうかは分からないが、ピカレスク・ロマンの一種としても読めるように思った。悪役であるユグルタとカティリーナのキャラクター描写は、最後の滅び方まで含めて、なかなか魅力的だ。
また背景となる社会経済史的状況の描写も興味深い。単に表面上の事実経過を記しているだけでなく、背後で蠢く思惑を多面的に描いていて、ローマ共和政末期の様子が俯瞰的に理解できるのが、非常におもしろかった。中間層が崩壊して格差が拡大し、既得権益の固定化が組織全体を腐敗させ内部から崩壊させる様子がよく分かる。賄賂や横領で私腹を肥やすことに心血を注いで国家全体をダメにしていくローマ閥族たちの愚かな行動を見ると、2021年の日本に生きる者としても、他人事とは思えない。2000年経って政体や慣習が変わっても、人間の本質は変わらないということか。
まあ作者が知りえなかった世界史的観点から考えると、共和政ローマの帝国主義戦争(ポエニ戦役)が一段落したことで経済が一気にグローバル化し、資本投下の宛先などカネの回り方が急激に変容した結果、中間層没落と階級的矛盾が激化したことが背景として考えられるか。著者はカティリーナやその一味が悪に染まった根本的な理由を怠惰と欲望に求めているけれども、それは現代で言うところの自己責任論的な考え方だ。しかし当時の経済的大変動を考えると、実は放埒や怠惰といった自己責任的な考え方では回収できないような経済史的必然として、社会の矛盾を個人の生命で解消せざるを得ない彼らのような破滅的立場が生じてしまうのではないだろうか。このあたり、歴史学はかなり深いところまで研究していそうだな。俄然興味が湧いてきたけれど、新学期が始まっちゃうぞ。

ちなみにアウグスティヌス『神の国』は、その歴史哲学パートで本書を盛んに引用している。しかもローマの歴史を大局的に理解しようとする文脈で、盛んに持ち出してくる。本書が単なるモノグラフで終わるものでなく、長く大きな文脈を見据えた歴史哲学を背景としていることを傍証しているようにも思う。

サルスティウス/栗田伸子訳『ユグルタ戦争・カティリーナの陰謀』岩波文庫、2019年

【要約と感想】タキトゥス『ゲルマーニア』

【要約】ライン川の東、ドナウ川の北には、ゲルマーニー人たちが蠢いています。彼らは頽廃しつつあるローマの風習に染まらず、質実剛健な風習を維持しています。ローマは何度かゲルマーニア制圧を試みましたが、これまで失敗に終わっています。このままだと、ローマがやられるのもそう遠くない話でしょう。心配です。
ゲルマーニアの習俗と、代表的な部族の特徴について記します。

【感想】大雑把には、ヨーロッパの地政学として、ライン川とドナウ川が極めて重要だということを再認識した感じ。ローマ帝国としては当然この両大河を防衛ラインの基本に据えるよなあ。
しかしライン川がフランスとドイツを切り分ける分断のイメージが強いのに対し、ドナウ川は分断というよりは流域をつなぐ印象があったりする。南北に走るライン川と、東西に走るドナウ川ということで、縦と横の違いが地政学的に影響してたりするかどうか。(この南北/東西の切り分けに関する議論は、明治大正期の日本の地理を考える際にも大きなテーマになっていたりする。内村鑑三とか志賀重昂とか。)

本文よりも註の方のボリュームが多いタイプの本で、浩瀚な言語学的知識を土台とした議論にはクラクラする。すごい。註までも含めて味わおうとすると、そうとうの教養を必要とする手ごわい本であった。

【個人的な研究のための備忘録】
ゲルマン人の、いわゆる「成人式」に関わる記録が興味を引く。

「さて彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行わない。しかし武器を帯びることは、その部族(市民)団体(civitas)が資格があると認めるまでは、一般に何ぴとにも許されない習いである。それが認められたとき、同じかの会議において、長老のうちのあるもの、あるいは〔その青年の〕父、または近縁のものが、楯とフラメアとをもって青年を飾る。これが彼らの間におけるトガであり、青年に与えられる最初の名誉である。これまで彼はただ家族集団の一部であった。今後は、すなわち市民社会(res publica)の正員と見なされる。」70頁

戦闘員として一人前になる(武装することを許される)ことがそのまま集団の正員と見なされる決定的な要因になることは、洋の東西を問わず普遍的な現象と考えてよいのかどうか。
またここでは註でも気合を入れて解説しているところではあるが、ローマ人(文明人)であるタキトゥスがゲルマーニー人(野蛮)に対してcivitasとかres publicaという言葉を適用しているところが気になる。日本語で言う「市民」という概念をどう理解するかにも深く関わってくる個別具体事例である。このケースではどちらかというと「市民」という日本語よりも「公民」という日本語のほうがより適切な感じもするけれど、どうなんだろう。(ここはラテン語と日本語の違い全体が絡んできて、議論はややこしくなりそうだ)

また、出産調整や、いわゆるマビキに関する証言が注意を引く。

「子の数をかぎり、あるいは〔遺言または嗣子がきめられた〕あとに生まれた子を殺すなどは、忌むべき行為とされ、そこにおいては良習俗が、よそにおける良法典よりも、有力なのである。」(92頁)

歴史学(子ども史)の研究では、かつて日本でも世界全体でも出産調整やマビキは日常茶飯事であったと言われるし、実証的な研究も積み重ねられてきているところである。が、ローマ帝政期において、ゲルマン人が出産調整やマビキを人倫に悖る行為と理解(少なくともそう伝文)し、タキトゥスがそれに共感を示しているのは記憶しておいていいだろう。逆に、ローマではかつて普通に行われていたということでもある(註では、既に行われなくなったとも指摘されている)。「子殺し」は人間にとって普遍的な行為なのか、あるいは歴史的な条件(たとえば家長権の肥大とか身分制による格差の拡大とか)の中で発生するものなのか、考えるための材料の一つである。

そして、物事が宴席で決まるという記述は、時節柄、ちょっとおもしろかった。

「しかしまた仇敵をたがいに和睦せしめ、婚姻を結び、首領たちを選立し、さらに平和につき、戦争について議するのも、また多く宴席においてである。あたかもこの時を除けば、他のいかなる時にも彼らの心が、単純な思考をめぐらす程度にさえ、ほぐれることはなく、偉大な思考に耐えるまでに熟する時がないかのごとくである。飾らず偽らざるこの民は、そのとき、自由に冗談をさえ言い放って胸の秘密を解き開き、こうして今や覆いを取られ、露わになった皆の考えは、次の日にふたたび審議される。したがって双方の機会のもつ効果は十分に量られ、発揮される。――すなわち、彼らは本心をいつわることが不可能なときに考量し、過つことができない時に決定するのである。」106頁

2000年後の日本では、総務省の役人がNTTや東北新社から宴席で接待を受けていたことが発覚した。はたして彼らは「本心をいつわることが不可能なときに考量」するために宴席を設けたのか、どうか。まあいずれにせよ、2000年前から人間は進歩していないということか。

タキトゥス/泉井久之助訳註『ゲルマーニア』岩波文庫、1979年

【要約と感想】ルーカーヌス『内乱―パルサリア』

【要約】史実を元にした大河フィクションです。
ローマの運命を賭けて、カエサルとポンペイウスの二大巨頭が対決しました。エネルギッシュで狡猾で恐れを知らないカエサルを前に、かつての大英雄ポンペイウスは悲惨な最期を遂げ、ローマから自由が失われました。しかし外国と戦争して領土や宝物を獲得するならともかく、ローマ人同士で戦う内乱は、悲惨きわまりないものです。(著者非業の死により、未完)

【感想】どちらかというと、日本人は外国との戦争のほうを悲惨なものと認識し、日本人同士の殺し合いはエンターテイメントとして楽しんでいる感じがする。源平合戦とか戦国時代とか幕末維新とか。まあ保元平治の乱や真田父子の犬伏の別れのように、親兄弟が敵味方に分かれることは悲劇として描かれるとしても。どういうことか、少し気にかかるところではある。

文章は、なかなか激越で、おもしろく読んだ。カエサルとポンペイウスを対照的に取り扱うなど、人物を極端にキャラクター化している感じも興味深い。女性では、破廉恥で淫乱なクレオパトラと貞淑で甲斐甲斐しいコルネリアが対照的だ。
しかし読後にいちばん印象に残っているのは、カトーが砂漠を縦断するくだりだったりする。グロくて、悪趣味で、恐ろしい描写だった。

ルーカーヌス/大西英文訳『内乱―パルサリア』岩波文庫、2012年

【要約と感想】小林標『ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産』

【要約】ラテン語は現在でも生きているどころか、世界中で随一の生命力を誇る秀逸な言語です。なぜなら、ただこの言語のみが「形式」と「意味」の正しい対応を保っているからです。その秀逸な論理性ゆえに圧倒的な内在的造語能力を発揮して、現在でも強靭な生命力を保っています。
ラテン語への関心を通じて、比較言語学のあらましやローマ文学史の概略も分かります。

【感想】教育学で19世紀(あるいはそれ以前から)のカリキュラム改革の話に触れると、必ず「ラテン語を勉強して意味あるのか?」というヨーロッパ人の自問自答に出くわす。ラテン語学習に意味を見出さないのはスペンサーなど自然科学的認識(特に進化論)を最重要視する一派だ。一方でラテン語学習に意味を見出す人々は、既に19世紀教育学では少数派になってくるのだが、ラテン語の「論理性」を重視し、たとえ現実に使用しない言語であったとしても、ラテン語学習によって明晰な論理的認識力が身につくと主張する。ラテン語を学ぶ意味は「幾何学」を学ぶ意味と同列に理解されていた。その考え方を一言で「形式的陶冶」と言う。
そういう形で「ラテン語で論理的認識力を学ぶ」という理屈には触れていたわけだが、具体的にどのように論理的であるかは朧気にイメージしているだけだった。本書では、ラテン語の「論理性」の根拠について、これでもかというくらい繰り返してしつこく実例を畳みかけて説明してくれる。ラテン語が論理的に明晰な言語であることについて、よく分かった。勉強になった。
あと、不学者たちを戒める皮肉の言葉が端々にあって、個人的には身が縮こまる思いをした。研鑽を積んで不用意な発言を慎むようにしなければと改めて思った。のだが、これは知識と教養の問題なので、自覚してどうなるという話でもないのであった。

【今後の研究のための個人的検討事項】
ありがたいことに、私の個人的関心である「人格」と「同一性」の語源に関するエッセイもあった。「人格」については各所で聞き及んでいたことの復習であったが、「同一性」については新たな知見を得ることができて、世界が広がった。とてもありがたい。
本書によればidentityの語源となるラテン語identitasが登場するのは5世紀と言う。とてもありがたい情報だ。とはいえ個人的に気になるのは、プラトンやアリストテレスや、あるいはローマ時代ならキケローやセネカの著作に、「同一性」という概念に深く関係するとしか思えない記述が繰り返し登場していることだ。プラトンやアリストテレスがギリシア語でどのように「同一性」を表現し、それをキケローやセネカがどのように受け取ってラテン語で表現したか、これは私自身が追究するしかないのか・・・どうしよう。

小林標『ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産』中公新書、2006年