「日々随想」カテゴリーアーカイブ

【備忘録と感想】日本STEM教育学会 第一回年次大会

STEM教育とは?

日本STEM教育学会の「第一次年次大会」に参加してきましたので、見てきた内容を備忘録的に記し、併せて個人的な感想を残しておきます。(2018年10/13、於国立科学博物館)。
「STEM」とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、数学(Mathmatics)の頭文字を繋げたものです。だから単純に考えると理科系の教育のように思いがちなのですが、これからの社会の変化(情報化・グローバル化)を考えた時には、むしろ文系にとって極めて重要な領域になるだろうことが想定されます。というか、そもそも理系と文系が断絶した現在の教育システムの弊害を超えようとする時に、この「STEM教育」という概念がキーワードになるだろうことが考えられます。
私個人も来年度からICT教育を担当するということもあり、いっちょ噛みしようということで出かけていったわけですが、たいへん刺激的でした。

教育改革とこれからのSTEM教育

残念ながら午前中のメニューには授業のために参加できなかったのですが、鈴木寛氏の記念講演「教育改革とこれからのSTEM教育」には間に合いました。なかなか熱が籠もった講演でした。
まず産業構造が転換し、250年ぶりに人類史が根底から変革するという、例の情報革命テーゼが前面に打ち出されます。情報技術の革新についていけないと、個人は職を失うし、日本は滅びるというわけです。
その認識を前提に、日本の教育を点検します。OECDのPISA調査の結果からは、日本の小中学校の理数教育は極めて優秀で、全世界でトップに立っていることがわかります。具体的には、日本には理数系が得意な学生(Level4以上)が20万人存在していますが、これはアメリカと同じ水準です。つまり潜在的には、日本には科学技術を支える人材が充分に揃っているはずなのです。ところが話が大学教育に移ると、とたんに科学技術を支える人材の数がめっきり減ってしまいます。つまり問題は義務教育段階の実践にあるのではなく、高校と大学の接続にあるだろうことが見えてきます。つまり一番の問題点は、高校のカリキュラムと大学入試にあるわけです。
そこで文部科学省は高校のカリキュラムを改訂した上で、高大接続のあり方にも抜本的に手をつけることになりました。まず高校には新たに理数科の「探究」という科目が登場しました。これは単に教科書の内容を覚えるのではなく、「探求」というタイトルにふさわしく、自ら課題を発見し解決していくというスタイルの「新しい学び」が期待されている科目です。しかし大学入試のあり方が変化しなければ、この「探求」という科目も絵に描いた餅に終わります。この科目の目的を実質化するために、大学入試のあり方として「AO入試」の割合を増やすべきこと(全体の30%目標)が提唱されています。もちろん学力の低い人間が一芸で合格するとかそんな生易しいAO入試を想定しているわけではなく、高校時代の「探求」のあり方が総合的に判断されるような実力本位の入試が要求されます。高校カリキュラム改革と大学入試改革が一体となって、これからの社会に必要となる優秀な人材を確保・育成する環境を整えようというわけです。
また、文科系の人間が数学を放棄する傾向に対しても歯止めをかけるべきことが提唱されています。今後の社会では、文科系の仕事は次々とAIに奪われることが想定されます。AIに代替不可能な創造的な仕事ができる人材を育成するためには、これまでの文系/理系を分断する教育システムではうまくいかないことが容易に想像できます。本来は、ScienceとSocietyを往還するような、理系や文系の分断のない教育こそが求められるべきです。そのために、数学や理科の学習を安易に放棄してしまう学生を生み出す現在の受験システムは早急に改められるべきだという主張です。
また具体的な教育のあり方としては、近代的な一斉教授が消え去り、効果的な個別指導が大規模に展開するという見通しが示されます。というのは、個人別の「スタディ・ログ」が蓄積されて膨大なビッグ・データとなり、それをAIが分析活用することによって極めて精度を高めた学習支援が可能となると見透しているわけです。
そんなわけで、これからの教育改革の方向性として、具体的に一言でいうと「文理分断からの脱却」が喫緊の課題として掲げられた講演でありました。

考えるべきこと

まあ、全体的に言いたいことは分かる気がします。とはいえ、考えなければいけないことはもっとたくさんあるようにも思うわけです。高大接続も確かに大問題ですが、たとえば個人的には大学卒業後の就職システムに本質的な問題があるような気もします。極めて単純化すれば、文系の方が理系よりも稼げる世の中で、優秀な学生がわざわざ理系を目指すかという問題です。東大文Ⅰを目指していたような人間が、敢えて理工学部を目指すかという問題です。あるいは東大文ⅠからSTEM人材が育つかという問題です。もともと慶応湘南藤沢キャンパスを目指すような学生なら言わなくても分かる内容のはずですが、しかし一方で東大文Ⅰを目指す学生に対して説得力を持つかどうか。
つまり、本物の力をもつ人材が持っている力を存分に発揮できる「人材配分」の仕組みを考えた時、これはもはや教育システムの問題ではなく、日本社会全体の構造の問題だろうと思うわけです。それを踏まえると、社会構造全体にメスを入れることなく教育システムだけをいじって「人材配分」をコントロールしようとしても、歪みをさらに増幅させる結果に終わるような懸念も生じます。教育にできることは「本物の力を粛々と伸ばす」ことだけで、人材配分のあり方については産業界の方に反省してもらわないといけないのではないかという感想を持ちます。4年生が就職活動のために授業を休むのが当たり前という、大学が就職予備校に成り下がっている現在の風潮は、教育システムの反省だけでは如何ともしがたい、STEM教育以前の大問題だと思うんですけれどもね。

シンポジウム「小学校プログラミング教育の実際と展望」

さて続いて、小学校プログラミング教育に関するメニューです。シンポジウムでは、3人の立場から報告がありました。(1)文部科学省の役人(2)教育研究者(3)教育委員会の3つの立場です。

(1)文部科学省からは、学習指導要領改訂の狙いについてお馴染みの話(社会に開かれた教育課程とカリキュラム・マネジメント)を踏まえた上で、プログラミング教育について説明がありました。プログラミング教育に向けてほとんどの教育委員会は実際に動けていないというデータ、教育委員会を支援するために文科省が「手引き」を作ったことなどが示されました。
その上で、文科省として教育委員会に求めるのは、まず一度実際にプログラミング教育を試してみることでリソースの確認と予算要求の目処を立て、すべての教員が模擬授業を体験できるところまで学校と教員を支援してほしいということでした。
と言いつつ、文科省の役人という立場を離れ、一人のお父さんとしてプログラミング教育を試してみた経験は、「まずやってみる」ことの重要性が極めてよく分かる、説得力がある上にたいへん微笑ましい話でした。

(2)研究者の兼宗先生はドリトルの開発者ということで、たいへん分かりやすいデモンストレーションを見せてもらいました。個人的に心強かったのは、プログラミング教育を目的ではなく「活用」として理解するべきだと強調していたところです。私も同様に思います。もしもプログラミング教育を「目的」と捉えると、単に教えるべきコンテンツがひとつ増えて現場の教員の負担が重くなるだけです。しかし「活用」と理解すれば、授業をさらに「深い学び」に持っていくリソースが増えることになります。兼宗先生は、プログラミングを低学年で「スキル」として身につけることで、高学年で「活用」できるという見通しを示しましたが、それは「字」というスキルを覚えるのと同じことだと主張します。低学年で覚えた「字」が、高学年で理科や社会で使えるのと同じことだというわけです。要するに、コンピュータは「コンテンツ」ではなく「リテラシー」と理解するべきものだということです。

(3)教育委員会(横浜市)からの報告は、いちばん生々しいものではありました。教育現場ではプログラミング教育に対して漠然とした不安が蔓延しているそうですが、まあ、そりゃそうだなあとしか。で、その不安を解消するために、教育委員会としては、(1)実践推進校で先進的な取り組みを蓄積する(2)研修を通じて人材育成をする(3)授業支援を行なうという具体的な取り組みを始めているようです。まずは柱となる理科・数学での実践を蓄積しながら、ICT支援員を増員しつつ、各種研修会を充実していくことを考えているようです。
文部科学省の「掛け声」はよく分かっても、それを実現するために実際に組織を動かしていくのは大変だよなあと、頭が下がる思いではあります。

考えるべき事

三者三様の立場からの話だったこともあり、当事者の間でも意識が乖離していることがよく見えるシンポジウムでもありました。研究者は「目的ではなくリテラシー」と明確に打ち出しているのですが、教育委員会の方は学習指導要領の要求を実現するために組織を動かすことに必死な状況で、そこまで意識を高める余裕はまったくないように見えました。一方で、文部科学省はその中間で、理念については高く掲げつつ、現実的には具体的な授業に落とし込むことに専念しようとしている感じです。
私としては研究者の見解にたいへん共感するわけですが、それを現実の授業に落とし込む教育委員会の仕事の大変さを思うと、文部科学省のような漸進的なやり方も分からないわけではないというところではあります。いやあ、どうなるのかね(←他人事ではない)

一般研究発表

一般研究発表もたいへん熱が籠もっており、それぞれとても印象に残りました

(R02)つくば市教育委員会の実践は、他の本でも読んで知ってはいたのですが、改めて聞いてすごいなと思いました。具体的な話題に挙がったのは小学校1年生「スイミー」での実践です。総合的な学習の時間であらかじめプログラミングのスキルを身につけた上で、国語の時間の「活用」としてプログラミング(アニメーションの作成)を取り入れた実践です。言語活動の一環としてプログラミング思考を養う姿勢が一貫しており、教科の本質とプログラミングという活用手法が無理なく融合しているように見えました。

(R03)Scrachの公開プログラムを分析して発達段階論の根拠とする手法には、目から鱗が落ちました。この手法、コンピュータ以外のテストや作文の分析にも応用できたら、一般的な発達段階論にも大きなインパクトを与えます。まあ、スタディログを収集してAIでビッグデータを分析するという発想は、まさにそういうことですが。

(R04)Scrachを開発しているLiflong Kindergardenの理念を土台として、実際に教師研修を行なった報告でしたが、とても印象に残りました。Lifelong Kindergardenは日本語に翻訳すれば「生涯幼稚園」となるわけですが、その名の通り、幼稚園の活動に教育の本質を見出して生涯教育に取り入れようとするチームです。幼稚園の教育の本質とは、「まず実際に自分でやってみる」という「構築主義」にあります。試行錯誤を繰り返しながらできることを増やして概念を豊かにしていくという教育手法です。これを幼稚園だけでなく、すべての教育の土台に据えようというとき、プログラミング教育が有効な手法として浮かび上がってきます。Scrachとはそういう理念と哲学の上に作られたプログラミング言語だったんだと、改めて感心した次第です。
そしてその理念を元に教員研修を行なった結果が報告されたのですが、本当に教員一人一人の力がめきめきと伸びていました。構築主義の威力を目の当たりにした思いです。

シンポジウム「これからのSTEM教育の実践と評価」

最後に、様々な立場から今後のSTEM教育の展望が報告されました。

東京学芸大学の大谷忠先生の報告は、産学協同で大規模なSTEM教育プロジェクト(STEMQUESTスタジアム)を実践したもので、たいへん刺激的でした。子どもが興味を持ちそうなアトラクションを作り、具体的な課題を設定し、それを子どもたちが自力で解決していくというプロジェクトです。自分が子どもだったら夢中でハマりそうな、楽しそうな実践です。そして実践の土台となる理念として、STEMの「E」を中核とする話は、ナルホドと思いながら聞きました。とはいえ、「評価」についてはまだまだ難しい問題があるということも分かりました。

電気自動車普及協会の有馬仁志氏からは、学生コンペの話がありました。学生コンペなら眼鏡協会もやっているぞと思いながら聞いたのですが、大きな違いは、コンペの過程で学生たちが産学の専門家たちからアドバイスを受けたり、他の学生チームとコミュニケーションをとりながらプロジェクトを軌道修正していくところでした。完成したものだけを評価するのではなく、「過程」を評価するというSTEM教育の本来のあり方を垣間見たような気がしました。

研究者の赤堀先生からは、プログラミング教育とは単にアルゴリズム(手続き)の知識や技術を身につけることではなく、実は「デザイン」の力をつけることがきわめて重要だという示唆を受けました。デザインの力は、理科系的な手続きの知識や技術から出てくるものというより、文科系的な国語読解力や社会考察力と相関が強いということでした。そして日本人は手続き自体の力は持っていても、デザインの力が弱いのではないかと指摘します。やはり文系と理系が断絶している現在の教育のあり方は、理系にとっても文系にとっても良くないということが見えてきます。

最後に白水始先生が総括をしました。いわゆるアクティブ・ラーニングを実践する際にも、子どもの主体性に任せるという掛け声の下で単なる放任に陥っている場合があるのですが、効果的に自主性を引き出すための有効な問いの立て方=「ドライビング・クェスチョン」が重要であるという話でした。プログラミング教育だけでなく、一般的な教育を考えていく上でも重要な視点でした。

まとめ

まあ、盛りだくさんすぎて一言でまとめられるような感じはしませんが。とても若々しく、未来に向けて希望に溢れた空気を感じました。こういう雰囲気は、他の学会にはない気がするなあ。まあ、第一回ですからね。
私としても、今後の授業や研究に活かしていけるよう、研鑽を重ねたいと思いを新たにし、上野の国立科学博物館をあとにするのでありました。

参考記事等リンク

なぜ今STEM教育が必要なのか――日本STEM教育学会 設立記念シンポジウム
10/11に開催されたJSTEMシンポジウムの記事。プログラミング教育とカリキュラム・マネジメントの関係にも言及されていたりと、これからの教育を考える上で大まかな方向を把握できる。

【感想】佐野翔音監督『こども食堂にて』

映画を観てきました。「こども食堂にて」というタイトルで、もちろん子ども食堂が舞台の話です。
いやあ、涙腺はもともと強い方ではないのですが、最後の方はずっと涙腺が崩壊したままでした。いい映画でした。

児童虐待の辛い体験を乗り越えて前向きに生きる女子大生が、子ども食堂でボランティアに携わり、様々な事情を抱える子どもや大人と関わっていく話です。体中に痣を作って被虐待の疑いが強い女の子や、悪いと分かっていながら障害を抱える子どもに手をあげてしまう母親や、実の母親に会いたいことを里親に言い出せない男の子など、生き辛さを抱える人たちを「見守ることしかできない」という子ども食堂の活動の過程で、少しずつ主人公が成長していきます。

この映画を観て、私が強く思ったことが三つあります。(1)チームの重要性、(2)食べることの意義、(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性です。

(1)チームの重要性
主人公は、最初は一人で問題の渦中に突入していくのですが、何もできない自分に対する情けなさで無力感を強めるだけに終わります。しばらく「私は何もできない」と落ちこむのですが、偶然入ったガラス工芸店で、何人もの専門家が関わって初めてようやく一つの作品を作り上げることができることを聞き、考えを改めます。一人でできることには限界があるけれども、たくさんの人が役割分担をして一人一人の持ち場を誠実に守っていくことが、最終的に価値ある仕事に繋がっていきます。
そう考えると、子ども食堂の運営者が言う「私たちの仕事はここまで」という言葉は、とても含蓄が深いものに思えます。もちろんそれは行きづらさを抱える人々を突き放す言葉ではなく、自分の持ち場を誠実に守るという決意を前提として、他の持ち場を守る人々をチームの仲間として信頼する言葉でもあります。自分たちの仕事に限界はあるけれども、他の専門家たちと連携することで様々な困難を解決できると信じている言葉です。実際、この映画では、子ども食堂と児童福祉に関わる専門家たちとのコミュニケーションが、しっかり描かれています。
私も大学の教職課程を持ち場としている身として、まずは自分の持ち場をしっかりと守りつつ、他の専門家の方々との連携を深めていくことが大事なのだと、改めて認識しなおした次第です。

(2)食べることの意義
映画の舞台が「こども食堂」ということで、もちろん「食」が中心的なテーマとなっている映画です。子ども食堂の運営を裏から支える八百屋さんや魚屋さん、パン屋さんたちの温かい活動が、さりげなくも丁寧に描かれていました。また、子ども食堂のシーン以外でも、コミュニケーションツールとしての「お饅頭」の扱い方が印象的で、人と人を繋げる行為としての「食」がライトモチーフとなっているように感じました。
言うまでもなく、生きることのいちばんの基本は「食」にあります。が、このいちばん大事であったはずの「食」の土台が、現代では壊滅的に崩れてきています。特に現在では「食」が徹底的に個人化・市場化してしまい、人と人を繋げる基礎が見えなくなっています。失われた「人と人との繋がり」を取り戻す上で、「子ども食堂」が「食」を基礎に置いていることは、とても重要なことのように思います。単に話を聞いても何も話してくれない子どもも、安心して「食」に参加できる場では口を開いてくれそうな気がします。安全に「食」を楽しむことは、生きることを無条件に肯定することだからです。
よくある勘違いとして、子ども食堂は貧困の子どもを対象にしていると思われがちですが、本来はそうではありません。貧困かどうかに関係なく、子どもたちが安心して「食」に関われる場です。生きるための基礎となる「食」が安定して、初めて人と人が繋がる条件が成立するということが、よく分かる作品だと思いました。

(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性
近年では、子育ては家族がもっぱら責任を負うべきものだとされがちですが、かつてはそうではありませんでした。生産力の低い時代、子育ての優先順位は低く、まずは生存に必要なカロリーを確保することが最優先事項でした。大人たちは農作業や狩猟で忙殺され、子育ては近所の小さな女の子が担当する(いわゆる子守)など、地域全体で担うものでした。現代では生産力の向上と同時に家族の島宇宙化が進行し、家族が子育ての責任をもっぱら背負うようになり、地域が子育てに関与しなくなりました。児童虐待の増加は、このような「家族にだけ責任を負わせる」ような子育て形態の変化が土台にあるように思います。
地域の存在感の低下を埋め合わせるように児童相談所など行政への期待が増してきていますが、まだまだ人員や予算が不足しているため、すべてをカバーしきることは難しい状況です。そんな中、かつては地域が行ない、本来は行政がカバーしなければいけない領域を代わりに確保しているのが、子ども食堂という存在だと思います。その存在は、作中では「家庭でも学校でもない第三の場所」と呼ばれました。
80年代から90年代にかけての少年にとって、「家庭でも学校でもない第三の場所」はゲームセンターだったりストリートだったりしました。そこでは家庭や学校の序列からは解放されて、本来の自分を取り戻せるような感覚を得られました。今では、その場所はインターネットなど仮想空間になっているかもしれません。が、仮想空間では、お腹がふくれません。「第三の場所」としての子ども食堂は、子どもたちの居場所を確保する場として、本当に貴重な存在だと思いました。

そんなわけで、この作品、派手な演出があるわけでもなければ、びっくりするようなドンデンガエシの脚本なわけでもありません。ドキュメンタリーの手法を交えた、会話中心で進行する、地味な映画であるとはいえます。が、観てよかったなと、確実に思える作品でもあると思います。いろいろな立場の人に観てもらいたいなと思いました。私個人は、地域の子ども食堂に実際に行ってみたいと思いました。観る前には心のなかに存在しなかった感情です。
上映後に行なわれた監督のトークショーも興味深く聞きました。まさか作中の重要な登場人物が監督本人だと思っていなかったので、そこそこ意表を突かれました。

2018年10月12日まで、渋谷アップリンク上映中「こども食堂にて」

【感想】青年劇場「キネマの神様」

青年劇場の「キネマの神様」という演劇を観てきました。原作は原田マハの小説です。

*以下、ネタバレを含みますので、劇を見たり本を読んだりする予定がある方は、見ないようにしてください。

 

 

見たあと、とても幸せな気分になれる作品でした。それぞれ問題を抱える登場人物たちが、協力して一つのプロジェクトを成功に導いていく過程で、自分自身の問題を解決していくという筋書きです。登場人物たちの問題が複雑に絡み合うため、筋書きそのものは単純ではないのですが、一つのプロジェクトが成功に向かって行く柱が分かりやすく、最後まで作品世界に入りこんで楽しむことができました。

登場人物たちが抱える課題とは、
(1)アラフォーのヒロイン:思い込みが激しい性格が災いして、長く勤めた会社を退職。
(2)ヒロインの父親、ゴウちゃん:ギャンブル依存症で多額の借金を抱えている上に、心筋梗塞で倒れる。
(3)名画座の主:時勢の流れに逆らえず、名画座を畳まなければならないと思い詰める。
(4)映画雑誌の編集長:夫が自殺し、ひきこもりの息子を抱えている。
(5)ひきこもりの息子:ひきこもっている。
という具合なわけですが。

こういう問題を抱えた登場人物たちが、協力して「キネマの神様」という映画評論サイトを立ち上げ、自分の持ち味を存分に発揮していきます。それぞれの持ち味がチームの中でがっちり噛み合って、奇跡的な成功に向かって行きます。きっと誰か一人が欠けただけでも、この成功はもたらされなかっただろうなと思います。一つのプロジェクトを成功させようと全員が真剣に取り組むからこそ、お互いの持ち味を尊重し合い、自分の能力を最大限に発揮して、チームが一つに固まっていくのだなと思いました。

ゴウとローズ・バッドが論争のやりとりの中から友情を紡いでいく過程も、とても刺激的でした。最初はゴウを見下していたローズ・バッドが次第に相手の人格を尊重し始め、最終的にかけがえのない友情を築き上げていく展開には、ついホロリとしてしまいました。
お互いの人格を認め合えないまま相手を罵って一方的に勝利宣言して終わる昨今の不毛なtwitter的論争と比較した時に、なんと奇跡的な「論争」でしょう。こういった論争を成立させるためには、どうしても「映画を愛している」という共通項が存在しなければならないのでしょうけれども。愛している映画の前では、自分のプライドなんて、ちっぽけでつまらないものなわけですから。
ローズ・バッドは、ゴウの映画批評に対して「人間性が表れている」というような意味のことを言いました(正確な表現は忘却)。私も本の感想などいろいろなことを書き散らかしている身ではありますが、ちゃんと私の文章に私の人間性が表れているかどうか。まずは「自分自身に嘘をつかない」という意識を徹底しなければいけないなと、劇を見ながら思った次第です。

要所要所で織り交ぜられる細かいギャグも効果的で、最初から最後まで集中して見られる舞台でした。とてもおもしろかったです。

■青年劇場「キネマの神様

闘士ゴーディアンの、ここが革新的だ!

闘士ゴーディアンというと、一般的には山本正之の主題歌で知られているような風潮があるが、その神髄が理解されていないのは極めて残念なことだ。ということで、闘士ゴーディアンのどこが凄いか、切々と語らせていただく。

死亡フラグが立つまでもない

闘士ゴーディアンの最大の特徴は、「出死に」だ。お笑いには「出落ち」という概念がある。登場した瞬間に笑いをとることを意味する言葉だ。ゴーディアンには、「出死に」という概念がふさわしい。キャラが登場した瞬間に、視聴者が「あ、このキャラ、この回で死ぬな」と悟るからだ。もはや死亡フラグを立てるまでもない。
以下、どれだけ出死にするか、見てやっていただきたい。

ゲストキャラは、ほぼ死ぬ

ゴーディアンでは、ゲストキャラ皆殺しが繰り返される。
第7話で主人公の生まれ故郷が全滅したのを皮切りに、第11話では友情を交わしたヘンリー含めて第7連隊が全滅、第12話ではメガコン隊員ダルフの家族(母、姉、妹×2、弟)が皆殺しにされ、第16話では任務のために雇われた5人のゲストキャラが全滅、第33話では収容所から脱走した仲間が全滅する。
特に衝撃なのが第33話で、脱走した仲間がロイド将軍を救うために「ここは俺たちが引き受けた。ありったけの武器をおいてってくれ」と100%死亡フラグを立てて頑張ったにもかかわらず、ダイゴに背負われたロイド将軍は基地に着く前に死んでしまう。ふつう、ロイド将軍は助かるだろ。ダイゴは「俺は何をやってきたんだ。みんな死んじまった!みんな死んじまった!みんな死んじまった!」と叫び、マドクターに怒りの鉄拳をふるうのだった。

出死にDATA
■第7話の死亡者:ゲスト全滅。ゲンじいさん(祖父)、サム、幼馴染み
■第11話の死亡者:ゲスト全滅。ヘンリー。カスター隊長。
■第12話の死亡者:ダルフの家族みなごろし。(母、姉、妹×2、弟)
■第16話の死亡者:ゲスト5人全滅。 死亡フラグ:マーチン「俺に任せて早く行きな」
■第33話の死亡者:ゲスト全滅。ロイド将軍、ニッキー、マイルズ、ディランなど。

肉親が、ほぼ殺される

ゴーディアンでは、主要キャラの肉親がよく殺される。計算したところ、主要キャラの肉親は、83%の確率で、登場したその回のうちに死ぬ。
インパクトがあったのはポールの父親が公開処刑される第34話だ。ダイゴはポールの親父さんを助けに行くが、間一髪間に合わず、親父さんは蜂の巣にされるのだった。 ふつう間に合うだろ。
ヒロインの母親が無惨に殺される第58話もすさまじい。

出死にDATA:肉親の死亡者
■第7話の死亡者:ダイゴの祖父
■第12話の死亡者:ダルフの家族(母、姉、妹×2、弟)
■第34話の死亡者:ポールの父親
■第42話の死亡者:ダイゴの母親
■第58話の死亡者:ヒロインの母親

市長は、ほぼ死ぬ

ゴーディアンでは、市長が死ぬ。計算したところ、市長として登場したキャラは、85%の確率で、その回のうちに死ぬ。
20話代でビクトールタウン攻防戦が描かれた後、本格的なサントーレ同盟とマドクターの戦いが全地球規模で始まる。主人公達は他の街を味方につけようと会議を開いたりするが、簡単には味方は増えない。サントーレとマドクターの勢力拡大競争の過程で各タウンの市長が登場するが、ほとんどは惨殺されるか、自業自得の非業の死を遂げ、街は廃墟となる。
各市長が頻繁に登場するのは、このアニメではゴーディアンは切り札であっても決戦兵器ではないことに由来する。ゴーディアン一体では戦局を決着させることができないので、主人公側は各都市を味方につけるために政治をすることになり、その過程で各都市の市長の登場機会が増えるという仕組みになっているのだった。高度に政治的なアニメなのだ。

出死にDATA:市長の死亡者
■第24話の死亡者:ビクトールタウン知事ロビンソン
■第31話の死亡者:ビーサウンドタウン知事(街全滅)
■第39話の死亡者:マイナータウン市長(街全滅)
■第42話の死亡者:ケープギャラクシータウン市長マダムクイーン(街全滅)
■第44話の死亡者:タイガータウン市長(街全滅)、レインボータウン市長
■第47話の死亡者:スタータウン市長クーパー、ジョージタウン市長ジョージ
■第53話の死亡者:ヨーロッパ共同体タウン大統領シュバイツ

「ここは俺に任せてお前は早く行け」と言った奴は死ぬ

ゴーディアンでは、「ここは俺に任せてお前は早く行け」と言ったら、かなりの高確率で死ぬ。計算したところ、89%の確率で死ぬ。死ななかったのはバリー隊長くらいのものだ。
衝撃的なのは第26話のメイスン。バリー隊長を逃がすために戦ったメイスンは、マドクターのロボットに踏みつぶされて死ぬ。踏みつぶされる過程がきちんと丁寧に描かれるのが非情だ。

「ここは俺が食い止める」死亡者DATA
■第7話の死亡者:ゲンじいさん「わしにかまうな。早く街を救ってくれ」
■第16話の死亡者:マーチン「俺に任せて早く行きな」
■第26話の死亡者:フランコ「ここは我々が引き受けた。おまえは撤退しろ」、メイスン「15連隊にかまわず、その間に逃げろ!」
■第42話の死亡者:マダムクイーン「この戦いは私に任せてあなたがたは海岸に避難なさい」
■第59話の死亡者:龍馬「おいはここでできるだけ長く敵を食い止める」
■第60話の死亡者:ガウス「ここは我が隊に任せろ。早く家族たちをサントーレへ」

回心して味方になった人は、間違いなく死ぬ

ゴーディアンでは、回心して味方になったキャラが、容赦なく死ぬ。計算したところ、回心した7人のキャラ全員が死んでいる。死亡率100%。圧倒的だ。
第22話で登場した青シャツ党党首の妹アニタが、最終回一話前まで引っ張られた上で物質崩壊ビームによって木っ端微塵になるのも衝撃ではあるが、最も印象に残るのは第27話のマドクター戦闘員のエピソードだ。サントーレの避難民に詰め寄られ、「いいんだ。俺はみんなに殺されても仕方のない人間だ。今ならジタバタせず死ねるよう!ただ先生に何も恩返しができねえのが」と涙ながらに叫ぶところに、ゴーディアンのエッセンスが凝縮されている。第62話のあっけないテウスの死に様も、感慨深い。

回心したのに死亡者DATA
■第22話の死亡者:青シャツ党首ゲバリスタ
■第27話の死亡者:マドクター戦闘員
■第60話の死亡者:ガウス、メウス
■第62話の死亡者:カレン、テウス
■第72話の死亡者:アニタ(ゲバリスタの妹)

捕虜が虐殺される

ゴーディアンでは捕虜が助からない。
第37話では、マドクター幹部のエリアスが、部下のツアラを殺された腹いせに、300人の捕虜を大量虐殺する。300人はマドクター幹部一同が逃げるための人質だったのだが、ゴーディアンが手出しできずに幹部が逃げ切ったあと、虐殺される。ラストは砂漠に死体が転がっている図で終了する。ダイゴが「貴様ら人間じゃねえ、人間の皮をかぶった獣だ。ゆるさねえ、許してたまるか!」と叫ぶのも当然だ。
第58話では、せっかく解放したマドクターの負傷投降兵が、マドクター将軍の手によって皆殺しにされる。そもそもマドクターの下級兵士を巻き添えにする作戦で、「余分な人間は整理しておくのだー」「生きていても役に立たない者ばかり」というマドクター将軍のセリフが恐ろしい。
ちなみに第34話では、公開処刑にされた捕虜のうち、ポールの父親だけ蜂の巣にされ、他の人は助かる。とても珍しい。良かったね。

捕虜の虐殺DATA
■第33話の死亡者:脱走者多数
■第37話の死亡者:捕虜300人くらい皆殺し
■第58話の死亡者:マドクター負傷投降兵皆殺し

敵幹部は、ほっといても死ぬ

ゴーディアンでは、マドクター幹部を主人公がまともに倒せず、マドクターの内部抗争による陰謀で死ぬことが多い。最終回でクリントを殺されたダイゴは「許せねえ、お前らだけは俺がこの手で倒す」と叫ぶのだが、ダイゴが戦うまでもなくマドクター幹部たちは次々と自滅していった。ゴーディアンは、敵をこの手で倒してないのだった。戦闘隊長のバルバダスは、ゴーディアンが全く別のところで戦っているときに、メカコン隊員の待ち伏せで情けなく倒されているし。
バラス総統はいちおうゴーディアンとの一騎打ちで死んでいるが、構造的にはエリアスとの権力闘争に敗れたために一騎打ちに追い込まれた形となっている。
「お慈悲をー」と叫びつつ死ぬサクシダーなど、哀れすぎる。

マドクター幹部死亡者DATA
■第9話の死亡者:クロリアス(内部抗争による自滅)
■第27話の死亡者:バルバダス(主人公の仲間が爆殺)
■第63話の死亡者:バラス総統(内部抗争による自滅)
■第73話の死亡者:エリアス(自滅)、サクシダー(マドクター内部事情)、ドクマ大帝統(自滅)

どうしてこうなった

ということで、軽快な山本正之の主題歌などのせいで、一見脳天気なマカロニウェスタンに見えるにも関わらず、実際の内容は強烈な鬱展開だ。
ゴーディアンの放映期間は1979年10月~1981年2月。ちなみに『機動戦士ガンダム』の放映期間が1979年4月~1980年1月で、微妙にかぶっている。ゴーディアンの鬱展開は、基本的にはタツノコの『テッカマン』や『キャシャーン』に由来するのだろうが、中盤以降の戦争描写には『ガンダム』の影響を考慮する必要があるような気がする。
世界観は中二的SF世界。彗星衝突による文明崩壊後の世界というのはともかく、敵組織がナポレオンやヒトラーを陰から操っていたとか、ネアンデルタール人とクロマニヨン人の断絶を説明してしまうとか、挙げ句の果てに宇宙論で最終回を迎えるあたりなど、壮絶な超展開には唖然とせざるを得ない。

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」に行ってきました

東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」に行ってきました。とても見応えがありました。

なんといっても、縄文の国宝6点が大集合していたのが大興奮でした。これは、なかなか見られません。
他にも、遮光器土偶(どうしてまだ重要文化財なのだ)とか、火焔式土器大集合とか、縄文ポシェットとか、巨大な石棒どもとか、見所が満載でした。

そんなわけで、お土産もたくさん買ってきました。やはり眼鏡者としては、遮光器土偶は外せません。
まずは遮光器土偶キーホルダー。

さらに、遮光器土偶キャンディ。

ケースに入っていると光の加減でどうなっているのか分かりにくいですが、出したらこう。

コーラ味でした。美味しくいただきました。

いちばんインパクトがあったのは、これですかね。遮光器土偶アイマスク。

これで我々も遮光器土偶になれる!?

縄文時代については、近年急速に見直しが進んでいるようです。未解明の部分も多いので、これからの展開も楽しみですね。私は、土器を見ただけで製作時期を当てられるように研鑽を積みたいものです。(今は中期くらいしか見分けが付かない…)