「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】苫野一徳『勉強するのは何のため?』

【要約】「どうして勉強しなければならないのか?」や「どうして学校に行かなければならないのか?」という疑問に応える本です。子ども向けに、平易な言葉で書いてあります。一方で、著者が専攻する教育哲学の知見がしっかり反映されていて、土台が確かなので、説得力があります。
「どうして勉強しなければならないのか?」の答えは、「自由になるため」です。「どうして学校に行かなければならないのか?」の答えは、「お互いに自由を認め合えるようになるため」です。

【感想】教育哲学の理論書『どのような教育が「よい」教育か』の応用実践編とも言える本で、難しい内容を平易な言葉でしっかり伝えている、とても良い本だ。類書はたくさんあるものの、それら類書と異なっているのは、「学校に行くこと」の意味に対しても真正面から応えようとするところだ。多くの類書では「勉強すること」の意義は説き明かそうとするものの、「学校に行くこと」の意味について真正面から踏み込むことはない。難しいからだ。しかし本書は「勉強すること」の意味と論理内在的に結びつけながら「学校に行くこと」の意味を語る。その答えに納得するかしないかは人によって異なるのかもしれないが、とにもかくにも難しい問題に対して真正面から問いに答えようとする姿勢自体が極めて尊いことは強調したい。
悩んでいる子どもだけでなく、教職を目指す学生たちにも読んでもらいたい本だと思った。

苫野一徳『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』日本評論社、2013年

【要約と感想】苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

【要約】現代教育学は、相対主義に気圧されて臆病になり、なにが「よい」教育なのかという規範を考えられずにいます。しかし、規範を考察するためのロジックを提出することが教育哲学固有の役割だったはずです。ということで規範学としての教育哲学の課題を真正面から引き受け、「よい」教育とは何かを考えました。フッサール現象学とヘーゲル欲望論を土台として考えれば、教育とは「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」であり、「よい」教育とは<一般福祉>に適う教育であると、断言できます。ちなみに「一般福祉」とは、ルソーの言う「一般意志」に基づいた行政が行なう社会政策の規準です。

【感想】様々なインスピレーションを湧かせてくれる、若々しい本だった。いろいろな刺激を受けた。おもしろく読んだ。とても良かった。

【今後の研究のための個人的備忘録】
とはいえ、思うところは、なくはない。いや、たくさんある。
ということで以下、しつこく批判を連ねていくが、もちろん著者個人に物申すという意図から出たことではなく、私個人の研究をより深めるための備忘録だ、ということはあらかじめ言っておいて。

まず著者が結論として示した「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」という言葉が、教育学研究者として、素直には納得できない。根本的な違和感は、問題の核心である「自由」という言葉にある。著者が「人間は<自由>を欲する存在である、という人間的欲望の本質論」(30頁)と言っている論理が、そもそもおかしい気がするわけだ。というのは、個人的な研究史を踏まえて言わせてもらえば、どうせ同じことを言うなら「各人の<人格>および社会における<人格の相互承認>の<ビルドゥング:陶冶=文化>を通した実質化」と言ったほうが、遙かに良いと思うわけだ。
素人から見たら単に「自由」を「人格」と言い換えているだけのように見えるかもしれないが、研究者視点から言えば、これで論理の最終的な射程距離がそうとう変わってくると思うのだ。というのは、スピノザ風に言わせてもらえれば、「自由」とはそもそも「人格」の<属性>に過ぎないからだ。本質である<実体>は「人格」のほうにある。たとえば、仮に本書の中に登場する「自由」という言葉を全て「人格」に変換しても、まったく違和感なく筋が通るはずだ。「人格」が主で「自由」が属だから、属を主に換えても筋は同じままでよいわけだ。
ちなみに属性である「自由」を軸に論理を組み立てても筋が通るのは、たまたま「教育」というテーマが「人格の属性である自由」と実践的に相性が良かったためだ。しかしおそらく他の一般的議論(たとえば芸術論)に展開した場合には、「自由(属)」よりも「人格(主)」のほうが射程が延びるだろう。実際、著者も「自由」という言葉では論旨を通貫できずに思わず「人格」という言葉を持ち出す個所がある。具体的には196頁で「他者を一個の人格として尊重することを学ぶのである。」と言っている。本書の趣旨から言えば、ここは「自由の相互承認」という表現で貫徹してよかったところだ。しかし「自由」という<属性>では表現しきれない何かを言い表したくなったとき、「人格」という射程距離の長い概念が降りてくる。

さらに哲学的に論理を敷衍すれば、「人格」の本質とは「一」である。たとえば本書に出てくる「自由」を全て「一」と言い換えても、論旨は通じる。つまり「自由」とは「一」の<属性>なわけだ。そしてヘーゲル風に言わせてもらえれば、その場合の「一」とは、「無限定の一」から自己矛盾を経て分離した「対自」と「即自」が再び綜合(アウフヘーベン)されて「再帰的な一」となった現実的な「一」だ。この現実的な「再帰的な一」の諸属性の中に「自由」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった概念が含まれる。つまりヘーゲルの教育論の本質は、私が理解するところでは、「無限定の一(無邪気な子ども)」が、自己自身を限定=否定することで分裂の危機に陥った後、再び綜合(自分自身に戻る)して現実的な「人格」を完成するという弁証法的なプロセスにある。本書はこれを「自由」の欲望論で記述したわけだが、私の研究史的観点から見ればそれは属性的に付随する話に過ぎず、本質的には「弁証法プロセス=再帰的な一」として描くものだと思う。ちなみにこのプロセスは、ルソーが『エミール』でも描いていたような、「なすこと」と「欲すること」の分離と一致の過程ともオーバーラップする。本書でも「なすこと」と「欲すること」のズレと綜合が「自由」の源泉であるようなことが書いてあったが、本来ならそこでは『エミール』が参照されるべきだとも思った。

また、「再帰的な一」は、本書内で繰り返し登場する「生きたいように生きたい」という再帰的なテーゼを、「自由」という<属性>よりもはるかに本質的な次元で言い表す言葉であるように思う。著者は「私たちは皆どうしても、「生きたいように生きたい」、すなわち<自由>を欲してしまうのだ、というヘーゲルの主張」(28頁)と言うが、私の研究史的観点から考えれば、「生きたいように生きたい」という再帰的な命題は、「自由」ではなく、「わたしが<わたし>でありたい」という「再帰的な一=人格」のほうに本質的に結びつくように見える。いや、確かにもちろんそれは「自由」ではあるのだが、「自由」は<属性>として必然的に付随するだけであって、本質は「再帰的な一」にあるわけだ。
そしてこの「再帰的な一」を、人は「人格」と呼ぶ。こうしてみると、実は旧教育基本法第一条に掲げられた「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言は、筆者の言う「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」以外の何物でもない。ということで、私個人としては、「よい」教育とは「旧教育基本法が目指す教育」でファイナルアンサーのような気がしないでもないのだった。

で、こういうふうに「自由」を<属性>と捉えていくと、実は本書138頁や149頁で語られていることは、けっこう危ういように思える。本書で「教育学のアポリア」について何回か言及されるが、私としてもそれらは擬似問題に過ぎないと思う。しかし本当の意味での「教育学のアポリア」とは、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」であるところにあると思っている。このアポリアに対して数々の教育哲学者が膝を屈しているときに、本書はそのアポリアをアポリアとも思わず軽々と飛び越している。それは単に「自由」をパッケージ化したことの副産物ではないかとも思う。
本書は、「自由」についての定義をしっかり試みている(第3章)。それ自体の論旨に特に問題は感じない。しかしいったん「自由」のパッケージ化に成功した後は、「自由」は無謬の審級として威力を振うこととなる。無敵な「自由」の前に、立ちふさがるものはない。いや、まさにそれを成立させるための構成になっているから、論理自体に問題があるのではない。ただ、著者に同意せずに「自由」を無敵だと思っていない立場で読むと、「自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアを「自由のためには許される」という論理でするっと抜けられたとき、「えっ、本当にいいの?」となってしまう。もしもここで論理の底に据える審級が「自由」ではなく「人格=再帰的な一」であったとしたら、筆の運びはまるで違うものになったかもしれない。教育という「自由でないものを強制的に自由にする営み」とは、本当に「再帰的な一」にとって「よい」ことなのか。このあたり、ヘーゲル自身の行論は、なかなか刺激的だったはずだ。具体的にはヘーゲルは次のように言っていた。

「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。家夫長的統治の下にある諸民族もまったく子供と同様であって、この場合人々は、貯蔵庫にあるもので養われ、独立した人間および成人とはみなされない。
だから、子供に奉仕を要求することが許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。奉仕が、教育との関係をぬきにして、ただそれだけでなにか重要なことであろうとしてはならない。というのは総じて最も非倫理的な関係は、子供を奴隷にする関係であるからである。
教育の主眼点は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合たんに穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。
子供に理由を示すということは、その理由を承認するつもりがあるかどうかを子供にまかせることであり、したがっていっさいを子供の気ままな意向にゆだねるということである。そうではなくて、両親が普遍的で本質的なものを成すということ、このことから子供の服従の必要が出てくるのである。おとなになりたいというあこがれを起こさせるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック67頁。

これこそが、「子供の我意を砕く」ための「躾」と「服従」こそが、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」の具体的内容としてヘーゲルが掲げているものだ。ヘーゲルが描いた教育像を「時代的な制約」ということで済ませて大丈夫なのだろうか。ここはヘーゲルの論理に内在する傾向性が率直に現われている描写ではないのか。ヘーゲルに依拠して教育論を組み立てるのであれば、この「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアに対して、「どうして強制が許されるのか」という論理構成には、相当本気で取りかかる必要があると思う。

まあヘーゲルについては難しいことがたくさんあるので、もっと勉強しなければならない。さしあたって個人的にはヘーゲルよりもカント倫理学のほうが好きなわけだが、ヘーゲルはさすが『精神現象学』という発達理論をものしただけのことはあって、静的なカントと違って自由の生成過程までダイナミックに踏み込んでくるところは、本書の言うとおりだ。確かにヘーゲルを侮ってはならない。
そして同様に(?)、個人的嗜好から言えば、フッサールよりもヴィトゲンシュタインを採りたい。その理由の論理展開は既にこっち(稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』)に記してある。

あと、私も含めて足を掬われるかもしれないと思ったのは、「社会有機体論」に対する構えが薄いというところだ。本書にはルーマンの名前もちらほら出てきているわけだが、スペンサーなりパーソンズなり、社会有機体論的な発想に対しては、そもそも本書の論理は何のインパクトも与えないだろうと思う。なぜなら本書は徹底的な個人主義に拠って構成されていて(本書が扱う共同体主義も所詮は個人主義の枠内にある論理に過ぎない)、社会有機体論者に響く共通要素は何もないからだ。本書はいわゆるライプニッツの「窓のないモナド」的な世界観を無条件に前提しているわけだが、社会有機体論はその前提自体を共有する必要がないのだ。その世界ではもはやフッサールを持ち出すまでもない。ホッブズ以来の「自由」の展開は、実は資本主義の史的展開によって「窓のないモナド」的世界観の無前提的な共有が広がった結果に過ぎないのかもしれない。モナド的でない世界の見方がいくらでも可能だということには、たぶん気をつけなければ、足を掬われる。私個人は著者のモナド的世界観を無前提に受け入れることができるが、しかし著者(あるいは私)の世界観を共有しない「絶対の他者」は、すぐ隣りにいるのだ。社会有機体論は、そういう対象をも射程に入れてくる、なかなか恐ろしい論理ではある。あるいはヘーゲルも社会有機体論に足を一歩踏み入れているとも言える。たとえばヘーゲル自身はこう言っているではないか。

「諸契機のこの観念性は、さながら有機体における生命のようなものである。生命は有機体のどの点にもあるが、すべての点にただ一つの生命があるだけであり、この生命にたいする抵抗はなく、これから離れたときはどの点も死んでいる。いっさいの個々の身分、権力、職業団体の観念性もこれと同じであって、これらのものがどんなに存続し自存しようとする衝動をもっていようと、そうである。これらのものは有機体における胃のようなもので、胃も自分だけの独立の位置を占めてはいるが、しかしそれと同時に揚棄され犠牲にされ、全体に融合されるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック、305-306頁

この表現は時代性のなせるわざだろうか? 私はヘーゲルの内的な論理から必然的に導き出される本質的な帰結だと思っている。ヘーゲルの論理を突き詰めていくと、著者が依拠する無前提のモナド的世界観を超えて社会有機体論へと変質する一点が、きっとある。そしてそれはおそらく「再帰的な一」という概念そのものに埋めこまれた本質的で回避不可能な特異点であり、その「特異点」を自覚しない限り必ず同じ罠にはまる。特異点に吸い込まれて、メビウスの輪のように、表と思っていたものが知らないうちに裏に変わる。畏れなければならない。

まあいろいろ書いたけれども、あくまでも著者に対して難癖をつけているつもりはなく、私個人の研究を深めるための独り言に近い備忘録だ。なにかしらエキサイトしているように見えるとすれば、著者をやっつけようとしているのではなく、私から対自的に分離した私自身の言葉に対して、それを回収して再び「一」に戻ろうとする内的衝動が原因だ。それは私の心の動きを率直に眺めれば感得できる。それは確かに「自由」でもあるが、より本質的には「再帰的な一」であることを求める私の内なる欲望に基づいているのだ。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、2011年

【要約と感想】落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる』

【要約】これからの人生100年時代、近代教育の価値観から抜け出せない人は滅びます。他人から働かされる人ではなく、人やAIを使う側に回れるような人が生き残ります。そのためには、他人と同じ価値観に染まるのではなく、自分だけのニッチな価値規準を持ち、自らリスクを引き受けて行動できるようなトレーニングを積みましょう。本当の幸せとは、ストレスなく自分の有り様を自然に発揮し続けることです。

【感想】個人的には「おっしゃるとおり」としか。まあ、若い国家官僚とか経営者とか学者とか含めて、気づいている人はみんな気づいている「当たり前」のことしか書いていないわけだけれども。ただ、その当たり前を誰でも表現できるかどうかは別の話で。著者は実際に自分でリスクを引き受けて新たな価値創出にチャレンジしているぶん、能書きを垂れているだけの国家官僚とか学者よりも、圧倒的に説得力があるわけだ。

というわけで、個人的には、とても勇気が出る本だった。おもしろく読んだ。特に意を強くしたのは、著者が大学教育に関して発言している部分だ。たとえば「僕は今、大学教育に携わる側の人間として、大学を就職予備校のように捉えている人がいることを、とても残念に感じています。」(56頁)と言うが、まさにその通りだ。私も残念に感じている。

また、「大学では、「研究はゲームではないけれど、論文を通すテクニックそれ自体はゲームだ」とよく学生に言っています。」(135頁)の下りでは、涙が出そうになった。いや、ほんと、そう。私も論文を通すために「お作法」に倣って作文する技術を身につけてきたわけだが、いやはや、ほんと「ゲーム」に過ぎない。「研究」へのモチベーションは、そういう「お作法」とはまったく関係がないところから湧いてくる。私も「ゲームとして攻略法を追究することには興味が薄い」(136頁)ので、業績がいつも不足しているわけだが。いまはますます興味が薄くなってきて、誰に読まれるでもない論文を業績のために粗製濫造するよりも、こういうふうにwebでいろいろ発信する方が個人的にも社会的にも意味があるのではないかと割り切りつつある。いまは孤独だが、本書を読んで「これでいいかもな」と、勇気を得るのであった。

【今後の研究のための備忘録】
とはいえ、気になるところはないではない。たとえば著者は「人類にとっての<近代>を終わらせることは、長期的な僕の活動の重要なテーマです。」(100頁)と言っている。これ自体は新しい発想ではなく、宮代真司や上野千鶴子のような社会学者が20年前から言っていることだし、教育の分野ではイリイチやフレイレが半世紀以上前に理論化しているし、あるいは80年前の「近代の超克」論だって参照できる。著者の主張が新しいのは、この「近代の終焉」にテクノロジーが結びついている点だ。著者は「限界費用」の低下による「民主化」と言っている。ただ問題は、はたして本当にテクノロジーと民主化が予定調和できるかどうかという点だ。一般的には、テクノロジーによって民主化が促進されるのではなく、実際には文化資本による格差が拡大するだけではないかと危惧されている。著者に言わせれば、その格差拡大を食い止めることこそテクノロジーの仕事ということになるのだろうが、その論理が現実的にうまく作動するかどうかというところが問題だ。まあ、教育に関わる者として他人事の話ではないので、私もテクノロジーが「民主化」を促進するように努力しなければならないのだが。

あるいは著者は「僕が興味をもっているのが明治時代における教育、さらにこの時代にできた価値観や言葉の定義をどう捉えてどう常識を疑うかです。」(103頁)と言うが、ここはまさに私の専門領域と関心にドンピシャでジャストミートするところなのだった。特に私は「人格」と「個性」という言葉に焦点を当てて研究を続けている。どちらの言葉も、日本が資本主義の離陸期に入る明治20年代半ばに産み落とされたことに、おそらく大きな意味がある。私が長年の研究の積み重ねで得た知見は、おそらく著者の問題関心に大きく貢献するはずだ。が、私の知見を彼に届けるには、やはり「論文」を書かなければならないのだった。ここで「お作法」の意味が出てくる。ああ、仕事しないとなあ。

ちなみに明治教育史専門家として、福沢諭吉に関する記述(99頁)が誤っていることにすぐ気がついてしまった。「明六社」を設立したのは福沢諭吉ではなく、森有礼だ。まあ、著者の主張には何の影響も与えない、Google検索すれば分かるような些細な事実ではあるが、論文でこの類の間違いをやったら確実に死ぬ。

最後に、「自然体でいながら、自分がやりたいことをできている時、「今この瞬間が確かにある」と自覚することができます。その瞬間、瞬間は時の流れが美しく、それでいて幸福に満ちあふれている。」(86頁)という言葉は、本当に美しい。禿同禿同。これは、かつてソクラテスが示したのと同じ知見だ。ソクラテスが言うには、他人の価値観に従って行動している人は、外面的にどれほど裕福であろうと本当に幸せだとは言えない。ソクラテスが言う「ほんものの幸せ」とは、「常にわたしがわたしであること」であった。そういう意味で、落合陽一は「現代の魔法使い」でもいいのだが、「現代の賢者」だと言ったほうがしっくり来る。ひろゆきも、また同じく「現代の賢者」だろう。また私もそうありたいところだが、「世間のしがらみ」というものを振り払うのは、なかなか大変ではあるのだった。

落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる―学ぶ人と育てる人のための教科書』小学館、2018年

【要約と感想】中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』

【要約】実際にSTEM教育を実践してみて、これからの時代には、子どもの興味に即して個性を伸ばすために、豊富な体験に基づいた「探求」型学習が極めて有効であると確信しました。しかし公教育だけでは理想の教育は実現できないそうもないので、民間企業の協力が不可欠です。

【感想】これからの教育の在り方が具体的によく分かる、とてもいい本だと思った。民間教育企業としての経験、公立学校での授業経験、父親としての経験という3つの経験を踏まえた話というところでも、たいへん説得力を感じる。公立学校と民間企業の提携という点でも、実際に東京都と大阪市の教育委員会から委嘱を受けている企業なので、具体的な在り方がとても参考になる。

【今後の研究のための備忘録】
そんなわけで、「社会に開かれた教育課程」に関して大きな示唆を受ける文章があったので、引用する。

それは、「社会に開かれた教育課程」という方針に基づく、民間との連携です。
いままでの学習指導要領にはなかった「前文」が新設され、改訂全体の方針を示すなかでこのことは強調され言及されています。
つまり、社会の変化に合わせて最適な教育を子どもたちに提供するには、学校だけでは困難なので、民間企業やNPOなどが一部を担い、社会全体で公教育をつくっていこうということです。閉ざされた学校から脱却し、民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意の表れだと思います。(173頁)

著者は「社会に開かれた教育課程」の中身が実質的には民間開放であると確信している。しかし実際に学習指導要領を読んでみても、そうは読めない。また文科省の役人が民間開放について触れることはない。教育課程に関する教科書も、「社会に開かれた教育課程」について語るとき、民間企業への開放について触れることなど、一切ない。
が、まあ、著者の言うとおり、実質的に民間開放に繋がっているのは間違いないだろう。いわゆる「既存の教育コミュニティ」の中の人々が、現実から目を背け、無視しているというだけのことだ。
1984年の臨時教育審議会以降、2002年の小泉純一郎「聖域なき構造改革」でブーストがかかり、地方教育行政の絶え間ない改革によって教育委員会の役割が大きく変化した現状において、いよいよ「公教育の民間への開放」が現実的な日程に挙がってきたというわけだ。
「社会に開かれた教育課程」という合い言葉が実質的に「民間開放」を指しているかどうか、従来の教育コミュニティ関係者が固く口を閉ざして知らんぷりを決め込んでいる一方で、しがらみに縛られない著者によって、あっけらかんと「民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意」として語られるのであった。
これがいかにものすごいことであることか、現場がまったくピンと来ていない現状を見続けている私としては、背筋に寒いものが走るのであった。「社会に開かれた教育課程」の現実を示す証拠として、本書に示されたこの一文は重宝したいと思う。

それから気になったのは、著者が「成績評価をしなくてはならないという法的な拘束もありません。」(181頁)と書いているところだ。これは微妙な物言いだ。学校教育法施行令には「それぞれ当該学校に在学し、又はこれを卒業した者の学習及び健康の状況を記録した書類を保存しなければならない」とあり、「指導要録」はこれを根拠として「学習の状況」を記録する文書だ。この「学習の状況」の記録が、実質的には「評価」となる。教育学的な観点からいっても、「評価」をなくした指導など考えられない。「評価」には法的根拠がある。おそらく著者は、181頁に続く文章を読む限り、「評価」と「成績評価」は違うと主張したいのかもしれないが、本文の書き方だと「評価」そのものに法的根拠がないと言っているように読めなくもない。そもそも「成績って何だ?」という定義が必要になる。(「指導要録」とは違って、いわゆる「通知表」には法的根拠がないが、そのことだろうか?)
まあ、著者の主張とはあまり関係のない脇筋の話ではあるが、私の本業に関わるところなので気になった、ということで。

中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』CCCメディアハウス、2018年

STEMON

【紹介と感想】山﨑保寿『「社会に開かれた教育課程」のカリキュラム・マネジメント―学力向上を図る教育環境の構築』

【紹介】2017年改訂学習指導要領が目指す「社会に開かれた教育課程」を実現するために「カリキュラム・マネジメント」を遂行する必要がありますが、そのためには「校内研究体制」を充実させたり「学校管理職の役割」を明確化するなど「学校の組織力」を高めていくと効果が上がります。

【感想】実際にカリキュラムをデザインしたりマネジメントしたりするときに役立つ本というより、タイトルどおり、その前提となる「教育環境の構築」に関わる本で、具体的な中身は「学校経営」だ。著者が実際に関わった学校の事例が具体的な根拠となっていて、そのあたりは説得力がある。今時改訂を「校内研修体制」の充実によって乗り切ろうという姿勢は、従来の日本の学校の良さを土台にして分かりやすいものではあるが、「コミュニティ・スクール」とか「チーム学校」という観点から見た時には多少の物足りなさはなくはない。まあ本書内でも、学校の自立性の強化に伴ってカリキュラム開発力が要求されるように変化してきていることに対しては、再三注意しているところではある。

山﨑保寿『「社会に開かれた教育課程」のカリキュラム・マネジメント―学力向上を図る教育環境の構築』学事出版、2018年