「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】服部雄一『ひきこもりと家族トラウマ』

【要約】精神科医として具体的な症例を検討した結果、ひきこもりとは、家族と学校が原因となって発生する病気です。クライアントの甘えや怠慢なんかではありません。そして家族と学校がひきこもりを大量生産してしまうのは、日本文化そのものが自由を抑圧しているせいです。ひきこもりは、日本の共依存社会が引き起した文化病です。ひきこもりの人々が恐れているのは、自我を喪失して世間に迎合する感情のない日本人どもです。外国にはひきこもりは存在しないし、ひきこもりの日本人も日本から出ると治ります。「和の精神」という全体主義の下で日本文化は個人を抑圧し、潜在的なひきこもりが増加しています。このままでは恋愛不能の若者によって少子化が進行し、日本は滅びるでしょう。日本は、躾と教育の失敗によって滅びる最初の国になるのです。

【感想】最終的に壮大な日本文化論と政府批判、さらには日本滅亡の予言に帰着するとは、予想しなかった。いやはや。まあ、150年ほど前の福沢諭吉から繰り返し何度も登場する、「日本の集団主義は最悪、西洋の個人主義を見習おう!」という内容だ。だがしかし、アメリカでも世をはかなんだ若者による銃乱射事件が大量発生していることを考えれば、そんなに単純なものでもなかろうことはすぐに分かる。しかし著者はそういう都合の悪い事実には一切目もくれないのだった。おそらくアメリカの教育関係者が日本の教育を絶賛している事実などもご存知ないのだろう。教育に関する議論(特に体罰)は、かなり雑だ。伝統的ジェンダー観の古くささも気にかかる。

とはいえ学ぶところは、なくはない。著者は「本当の自分/偽りの自分」の二重人格システム理論によってひきこもりを理解するのだが、彼が言う「本当の自分」とは「(1)感情(生きる力、願望、自発性)がある。(2)決断力がある。(3)人と関わる能力がある。(4)成長する能力がある。」(63-64頁)となる。これは、私が「人格」と呼んでいるものの機能と被ってくる。著者がなんらかの理論から演繹したのではなく、具体的なクライアントとの接触から帰納的に得た結論として、なかなか尊い。

服部雄一『ひきこもりと家族トラウマ』NHK出版生活人新書、2005年

【要約と感想】大友良英『学校で教えてくれない音楽』

【要約】私たちが「音楽」と聞いて思い浮かべる音楽は、広い音楽のうちのごくごく一部に過ぎません。学校で教えられているのは、西洋由来のクラシック文法に則った音楽だけです。音楽を音楽だけで取り出すのではなく、音楽を成立させている「場」に目を向けると、学校では教えてくれない様々なことが見えてきます。例えば、音痴はありません。音楽とは個人的な技術に終始するものではなく、複数の人間が「場」をシェアしたり、関係性を作っていくものかもしれません。

【感想】とても良い読後感だった。グルーヴ感に満ち、即興の魅力が溢れる本だった。

本書で示された興味深いアイデアや実践の数々は、もっと広い概念、自己表現の文脈から捉えると面白いかもと思った。そうすると隣接する演劇表現の話とも繋がってくる。ステージに上がって拍手をもらうと子どもたちの顔色が変わるという話も、表現行為という文脈から捉え直すとエキサイティングな話に派生するかもしれない。豊かな可能性が埋蔵されている実践だと思った。

とはいえ、いろいろ「?」と思うところも、なくはない。同じような方向を目指したような実践は、実は世界中各地で行なわれていたりする。例えばカール・オルフという名は音楽教育の世界では基礎教養ではあるのだが、本書はこれをどう位置づけるか。あるいはモンテッソーリとかシュタイナーの実践をどう理解するか。無手勝流が悪いというわけではないけれども、先行する実践をいくつかフォローして損をすることがあるのだろうか?

そういう意味では、先行研究(?)として田中克彦『ことばと国家』の名前が挙がったのは、唐突で意外でもあったが、落ち着いてみれば非常に良く分かる話でもある。ことばを分割する力がことばの本質に根ざすものでなく単に政治的であるのと同様、音楽を分割する力もおそらく音楽の本質とは無関係な政治的なものにすぎない。現在われわれが常識と思っている音楽の分断線を、もっと本質的で原始的なところから無化していく試みは、とても尊い。そういう観点から実践と論理を展開しようとするなら、確かにオルフとかシュタイナーは敢えて無視するほうがいいのかもしれないのだった。

その一方で、音楽の本質的で原始的なところ、本書が言う「場」を作る力が、実は恐ろしいパワーを秘めていることも忘れてはならないかもしれない。
【参考】上尾信也『音楽のヨーロッパ史』

【個人的な研究のためのメモ】
音楽の本質を「個人」ではなく「集団」とか「関係性」に置くことは、いろいろな興味を引き起す。

「音楽っていうものは、個人的な表現みたいなものより以前に、複数の人間が音を使って場をシェアするような、あるいは関係性の「場」をつくるような要素を、もともと持っているんだと思います。」(35頁)

この部分、個人的には、なにか凄いことを言いあてているような気がするのだ。が、論理的に展開してみろと言われると、よくわからなかったりする。今後の課題だ。

それから、「教育」の文脈で、とても貴重な言質を得た。

「子どもに「自由にやってくれ」っていうことの難しさもあるけれど、子どもにとっては「自由」っていうことばは、あまり機能しないんじゃないか。不自由な状態にある人が、それを押しのけて自由にやるっていうことが、大人にはありますよね。会社員が毎日上司の厳しい評価を受けて自由にできないけれど、違うところに行けば自由にできる、とか。でも子どもの場合、「自由を求めている」んじゃなくて、「社会のなかで自分がどう位置づけられているか」を求めていて、そうだとすると、むしろ「押し付けられること」を求めているようでもあって、オレはそれをどうしていいか分からない。」(166頁)

教育の本質に関わる「自由を強制する」という論点と響き合うことばだ。しかももともと教育に関心のなかった人から素直に出てきたことばとして、とても尊い。教育学では従来から「型をつくる」ところから「型やぶり」が可能になるという論理を語ってきたが、実は「型をつくる」のではなく「社会の中で自分がどう位置づけられるか」のほうが本質ではないか。
そして著者は続けてこう言う。

「オレは教育に携わる気なんか一ミリもなかったわけだけど、でも、子どもと関わると、そういうことにも関わらざるを得ないでしょ。さすがに考えちゃいます。」(167頁)

「教育」とか「大人になること」とか「子どもと大人の区別」とか、様々なテーマを想起させる、とても痺れる言葉だと思う。頭で捻り出したのではなく、実践の過程で素直に滲み出てきた言葉であるところが、とても尊い。

大友良英『学校で教えてくれない音楽』岩波新書、2014年

【要約と感想】小池一夫『人生の結論』

【要約】人生で得た結論は、判断に迷った時は人として美しい方を選べ、です。つまり、人は格好いい大人になるべきなのです。

【感想】うん、格好いいね。こういう爺さんになりたいね。
まあ、言っていること自体は極めて常識的で普通ではある。奇をてらったような表現は全くない。あるいは、どこかで聞いたような教訓ばかりでもある。同じようなことはアドラー心理学者や精神科医が盛んに言っている。自己肯定感が大事だとか、幼少期の愛情が大事とか、行動力が大事とか。似たようなことを言っている自己啓発本はいくらでもある。あるいは私が大学の講義で学生たちに日頃から伝えていることでもある。
しかしそれらの自己啓発や心理学と決定的に異なるのは、著者の価値判断の根底にあるのが「美」ということだ。判断に迷ったら「格好いいほうを選ぶ」という美的な生き方を実践したことだ。たとえば『葉隠』は、「迷ったら死にやすいほうを選べ」と主張した。あるいは小野寺浩二は「迷ったら自分を追い詰めるほうを選べ」と主張した。これも根底にあるのは「美」の意識だ。おそらく私が著書の言葉に説得力を感じるのは、この「美」への感覚を共有しているからなのだろう。そして私が信じるところでは、この美意識は人類に普遍的なものだ。仮に具体的な美の表現形は文化や時代によって違いがあったとしても、きっと「美意識」は普遍的なものだ。本書は、その普遍に触れてきているように思うのだ。
いや本当に、人生おつかれさまでした。

【個人的な研究のためのメモ】
意外ではあったが、「アイデンティティ」とか「自己実現」とか「大人になること」など、私が個人的に研究対象にしている諸概念の対してなかなか興味深い表現サンプルを与えてくれる本だった。
たとえば「大人になること」について。

「僕の世代は、大人にならなければ生きてはいけない時代でした。大人が子どもの感覚で生きていけるというのは今の時代のある種の豊かさなのかもしれません。」(4頁)

「大人は、子どものために大人になる義務があるのです。」(205頁)

「大人の世界は自由度が高いからこそ、自分を律する必要があるのです。」(182頁)

「「成熟した大人」とは、自分が成熟していないニセモノの大人であると自覚している大人のことなのです。そして、少しでもホンモノになろうと考えることができる大人のことなのです。」(5頁)

ソクラテスの「エロス的主体」とかカントの人格論を想起させて、なかなか興味深い文章だ。「子ども/大人」の区別をどう考えるかについて、近代とはどういう時代かも含めて、なかなかおもしろい示唆を与えてくれるものでもある。
またあるいは「自己実現」について。

「自己を実現しているかどうかということは、なりたい自分になれているかということです。」(234頁)

「自己実現とは、自分が自分を守るということです。自分を大切に扱うということです。他人が自分を雑にあしらうことがあっても、自分は、自分を守るのです。」(247頁)

「自分は、何か偉業を為し得ることはないかもしれない、しかし、いい人生であったと思うことができればこれ以上の幸福はありません。
それこそが、自己実現なのです。」(250頁)

他人や社会からどう見られるかではなく、「本来の己」をrealizeできているかどうかという観点がしっかり打ち出されている。「夢を叶える」ことと「自己実現」の違いを考える上でも、おもしろい示唆だと思う。
またあるいは「アイデンティティ」について。

「自分の核となるアイデンティティを持つということは、人生に起こる様々な困難に自分が潰されないということです。(中略)
それは、自分の拠りどころとするものが、他人や物ではいけないということです、あくまでも、己に立脚した自分自身でなくてはならないのです。(中略)
頑丈なアイデンティティは揺らぐことがありません。
どんな肩書きであろうが、地位や名誉がなくなろうが、何歳であろうが、自分が自分でいられるのが成熟した大人なのです。」(236-237頁)

アイデンティティが「述語」を拠り所にするものではなく「主語」に立脚するものであることが明確に示されている。私の講義でも論理的に説明しているところではある。

小池一夫『人生の結論』朝日新書、2018年

【要約と感想】岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール』

【要約】保育や教育で最も重要なことは「いのち」の教育です。しかし日本では経済的効率が優先され、いのちの教育がないがしろにされています。「いのち」とは、単なる生物学的な生命ではなく、もっと大きなもの(宇宙など)と繋がった根元的なものです。いじめをなくすために決定的に重要なのは「いのち」を大切にする心であり、それを育む愛です。自分のいのちを愛し、同様に他人のいのちも愛せることこそ、教育基本法が目指す「人格の完成」の中身です。

【感想】本文中では出てこない固有名詞だが、「いのち」の教育というと、やはりディルタイとかシュプランガーといった「生の哲学」とか、あるいは大正生命主義を想起してしまうのであった。この「いのち」という概念に著者が相対する態度は、私が「人格」概念に相対する際に見習うべきものだと思った。

【個人的研究のためのメモ】
教育基本法や「人格」に関する言及があって、私の関心と響き合うものがある。

「「教育基本法」第1条には教育の目的が次のように書かれています。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。」
まずここで考えたいことがあります。ここには、教育の目的が「人格の完成を目指す」と記されています。このことはとても大切です。教育の目的は、知識の取得や高学歴を得ることとは書かれてはいません。就職のためとも書かれていません。「人格の完成を目指す」と書かれているのです。そこでですが、この「人格の完成を目指す」とはどういうことなのでしょうか。ここでいう人格は、人間としての倫理的な在り方を指します。もっとわかりやすくいうと人間として善い人を目指す、ということです。
そこで、善い人間とはどういう人のことをいうのでしょうか。わたしは「自分を愛するように、人をも愛する人」のことだと考えます。「自分のいのちを愛し、人のいのちをも愛する人」のことだと考えます。教育はこのような人間になることを目指して行なわれなければならないのです。」(11-12頁)

「ここに記されている人格の内容は倫理学的な内容です。つまり人格は変化しないのではなく、完成に向かって高まっていく内容として考えられています。そしてこの人格の中心を私は「愛」だと思っています。愛自体の定義は多くあります。私は私なりに「愛とは、生きとし生けるものの幸せを願うところの絶対無償の受容であり、その受容に基づいていのちを捨てることである。」と考えています。」(29頁)

「そして「いのち」は人を人として支える大本、大きな宇宙的な支えといってよいでしょう。」(75頁)

「人格」の中心に「愛」があることの確信など、聞くべきものは多い。そして「いのち」という概念は、ほぼほぼ「人格」という概念と重なってくる。

「まず「いのちとは何なのか」ということについて考えましょう。先にもいったように、私たちは誰もがいのちをもっていると普通考えます。あたり前のこととしてそう考えます。しかし、いのちとは誰もが「これがいのちです」と答えられるものなのでしょうか。まずいのちは見えるのでしょうか。触ることができるのでしょうか。そして、いのちがなくなると人間はどうなるのでしょうか。
見えるいのち、触ることが可能ないのちはどこにあるのでしょうか。そしていのちは誰にも共通してあるものなのでしょうか。違いや位、高さ低さなどはかんがえられるのでしょうか。
こう考えてくると何かしら、いのちが何であるかということはそう簡単ではないように思えてきます。」(58-59頁)

ここで著者が展開している「いのちとは何なのか」という問いは、私が10年前から大学の講義で語っている「人格とは何か」という問いとほぼ重なる。ほぼ同じことを考えている人がいるということを知り、感慨深いというか、「そりゃそうだろ」というか、意を強くしたのであった。

岡本富郎『子どものいじめと「いのち」のルール―いのちから子育て・保育・教育を考える―』創成社新書、2009年

【要約と感想】鈴木鎮一『愛に生きる―才能は生まれつきではない』

【要約】才能は生まれながらに決まっているのではなく、正しい方法で以て育てるものです。才能がないように見えるとしたら、正しい方法で鍛えていなかっただけです。人間にもともと備わっている生命力を信頼して、親を中心として良い環境を整え、母語を学ぶのと同じように、外から教え込むのではなく内側から育てれば、必ず才能は伸びます。一言で大事なことを言えば、「愛」です。長年の音楽教育実践の成果がそれを証明しています。

【感想】予想外に感動的な本ではあった。アインシュタインなど意外な人物も登場して、著書の自伝としてもおもしろく読めた。まずは心を育てるという方針や、実際に体を使った技能の習得から入るところなど、3H(Heart・Hand・Head)を唱えたペスタロッチーの教育論を彷彿とさせるところがある。「環境」に注目するところなど、モンテッソーリや倉橋惣三の知見とも響き合う。「生命活動」を中核とした人間理解は、ディルタイやシュプランガー、ボルノウをも思い出す(ひょっとしたら著者はいい時期にドイツにいたかもしれない)。理論から演繹したのではなく、具体的実践の数々から帰納された教育論に、説得力を感じたのだった。やはり実際に行動した人は、尊敬せざるを得ない。言うだけの人とは何もかもが違う。

とはいえ現代的視点から評価が難しいのは、結局のところ本書で推奨されている手法が単に早期英才教育のバリエーションに過ぎないのではないかという危惧が伴うからかもしれない。確かに本書では人格とか人間性の成長が伴って初めて技術がついてくることを強調してはおり、単に外面的な英才教育とは異なるようには読める。職業としての音楽家を育てるのではなく、音楽を通じて人間性を育成することを強調してもいる。しかし現代的感覚から見ると、トレーニングの渦中にある子どもたちは「素朴な子どもらしさ」を失っているようにも見えなくはない。あるいは西洋的価値観に無批判に染まってしまって、「植民地化」という言葉も思い浮かぶところではある。またあるいは子どもの可能性を狭めてしまい、ひょっとしらた絵描きや演劇家や野球選手やオリンピック選手やマンガ家や将棋指しやアイドルやノーベル賞学者になっていたかもしれない才能を「クラシック」という極めて限られた世界に閉じ込めているということはないのかどうか。音楽をやるとして、琴や三味線ではいけないのか。あまりにも早期から可能性を限定してしまい、「子ども本来の個性や自己実現の過程」は無視されていないか。
まあ、「素朴な子どもらしさ」とか「子ども本来の個性や自己実現の過程」という観念のほうが実は植民地化された不自然な近代的産物なのかもしれない。著者の主張するように、本当に人間の可能性が平等で無限であるとすれば、むしろ「素朴な子どもらしさ」を掲げることは子どもの可能性を潰す愚かな行為ということになる。われわれが「母語」を選べないように、子どもも自分の「個性」を選べず、既存の文化や家庭環境から決定されるだけということかもしれない。琴や三味線でやりたいなら、やりたい人が自由にやればいいだけのことではあって、クラシックで活動している著者を非難するいわれもない。それが「文化」というものなんだろう。
何を以て「子どもの幸せ」とするのか、教育技術の話を超えて、著者自信が言うように「いかに生きるか」そのものについてしっかり考えなくては決着がつかない領域の話になる。

【個人的研究のためのメモ】
「生命への教育」に関する言及は、ディルタイを彷彿とさせる。著者がドイツ滞在中に「生命主義」から有形無形の影響を受けたことも考えられる。

「人間の心も、感覚も、知恵も、行動も、内臓や神経の活動も、いっさいが、生きようとする力の働きの一部にすぎない。人間の知恵がなにをさぐり、なにを発見するにしても、すべては一つの力――生命活動を中心とする統括体として、人間を理解することを忘れてはならないのです。
こうして、わたしの才能教育は、生命への教育であり、生きようとする生命への教育法でなければならなかったのです。」(171頁)

鈴木鎮一『愛に生きる―才能は生まれつきではない』講談社現代新書、1966年