【要約と感想】鈴木鎮一『愛に生きる―才能は生まれつきではない』

【要約】才能は生まれながらに決まっているのではなく、正しい方法で以て育てるものです。才能がないように見えるとしたら、正しい方法で鍛えていなかっただけです。人間にもともと備わっている生命力を信頼して、親を中心として良い環境を整え、母語を学ぶのと同じように、外から教え込むのではなく内側から育てれば、必ず才能は伸びます。一言で大事なことを言えば、「愛」です。長年の音楽教育実践の成果がそれを証明しています。

【感想】予想外に感動的な本ではあった。アインシュタインなど意外な人物も登場して、著書の自伝としてもおもしろく読めた。まずは心を育てるという方針や、実際に体を使った技能の習得から入るところなど、3H(Heart・Hand・Head)を唱えたペスタロッチーの教育論を彷彿とさせるところがある。「環境」に注目するところなど、モンテッソーリや倉橋惣三の知見とも響き合う。「生命活動」を中核とした人間理解は、ディルタイやシュプランガー、ボルノウをも思い出す(ひょっとしたら著者はいい時期にドイツにいたかもしれない)。理論から演繹したのではなく、具体的実践の数々から帰納された教育論に、説得力を感じたのだった。やはり実際に行動した人は、尊敬せざるを得ない。言うだけの人とは何もかもが違う。

とはいえ現代的視点から評価が難しいのは、結局のところ本書で推奨されている手法が単に早期英才教育のバリエーションに過ぎないのではないかという危惧が伴うからかもしれない。確かに本書では人格とか人間性の成長が伴って初めて技術がついてくることを強調してはおり、単に外面的な英才教育とは異なるようには読める。職業としての音楽家を育てるのではなく、音楽を通じて人間性を育成することを強調してもいる。しかし現代的感覚から見ると、トレーニングの渦中にある子どもたちは「素朴な子どもらしさ」を失っているようにも見えなくはない。あるいは西洋的価値観に無批判に染まってしまって、「植民地化」という言葉も思い浮かぶところではある。またあるいは子どもの可能性を狭めてしまい、ひょっとしらた絵描きや演劇家や野球選手やオリンピック選手やマンガ家や将棋指しやアイドルやノーベル賞学者になっていたかもしれない才能を「クラシック」という極めて限られた世界に閉じ込めているということはないのかどうか。音楽をやるとして、琴や三味線ではいけないのか。あまりにも早期から可能性を限定してしまい、「子ども本来の個性や自己実現の過程」は無視されていないか。
まあ、「素朴な子どもらしさ」とか「子ども本来の個性や自己実現の過程」という観念のほうが実は植民地化された不自然な近代的産物なのかもしれない。著者の主張するように、本当に人間の可能性が平等で無限であるとすれば、むしろ「素朴な子どもらしさ」を掲げることは子どもの可能性を潰す愚かな行為ということになる。われわれが「母語」を選べないように、子どもも自分の「個性」を選べず、既存の文化や家庭環境から決定されるだけということかもしれない。琴や三味線でやりたいなら、やりたい人が自由にやればいいだけのことではあって、クラシックで活動している著者を非難するいわれもない。それが「文化」というものなんだろう。
何を以て「子どもの幸せ」とするのか、教育技術の話を超えて、著者自信が言うように「いかに生きるか」そのものについてしっかり考えなくては決着がつかない領域の話になる。

【個人的研究のためのメモ】
「生命への教育」に関する言及は、ディルタイを彷彿とさせる。著者がドイツ滞在中に「生命主義」から有形無形の影響を受けたことも考えられる。

「人間の心も、感覚も、知恵も、行動も、内臓や神経の活動も、いっさいが、生きようとする力の働きの一部にすぎない。人間の知恵がなにをさぐり、なにを発見するにしても、すべては一つの力――生命活動を中心とする統括体として、人間を理解することを忘れてはならないのです。
こうして、わたしの才能教育は、生命への教育であり、生きようとする生命への教育法でなければならなかったのです。」(171頁)

鈴木鎮一『愛に生きる―才能は生まれつきではない』講談社現代新書、1966年